人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年2月1日~5日 / ハンフリー・ボガート(1899-1957)主演作品

・ボギーの愛称で呼ばれ、本人もそれを好んだハンフリー・ボガートアメリカ映画中最大のスターとして知られ、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート=American Film Institute)の1999年のアンケートでは男性俳優No.1の座に輝いています。これがフランス人男性俳優ならジャン・ギャバンで決まりなのとはだいぶニュアンスが異なり、ジョン・ウェインでもゲーリー・クーパーでもなくボギーの1位は、女優の1位がキャサリン・ヘップバーンなのとも共に国際的な認知度に偏差があるように思えます。また1988年に設立されたアメリカ国立フィルム登録簿(National Film Registry)はアメリカの映像作品(劇映画、ドキュメンタリー、アニメーション、商業作品と非営利作品を問わず)から永久保存作品を選定した制度ですが、ボギー主演作品は『マルタの鷹』『カサブランカ』『三つ数えろ』『黄金』『孤独な場所で』『アフリカの女王』『悪魔をやっつけろ』『麗しのサブリナ』と主要作品(『悪魔を~』もか?)はほぼ入選し、監督単位ならジョン・フォードハワード・ホークスアルフレッド・ヒッチコックウィリアム・ワイラー、次いでビリー・ワイルダージョン・ヒューストンがこれに匹敵しますが、俳優単位で選出数がボギー主演作品と並ぶのはジョン・ウェインヘンリー・フォンダくらいになります。ウェインやフォンダが表通りのスターならボギーは裏通りのスターでしょう。アメリカ映画ではむしろ渡哲也のような俳優に思えますが、日本の下層階級の典型的な生まれ育ちの筆者でも物心ついた頃には何回目かの『カサブランカ』のテレビ放映を観ていたほどで、アメリカならなおのこと親しい存在なのでしょう。たぶんアメリカ人にとっても今や、ジョン・ウェインヘンリー・フォンダでは立派すぎるのです。

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2月1日(水)
ラオール・ウォルシュ(1987-1980)『ハイ・シェラ』(アメリカ'41)*100mins, B/W
・学生時代に観た上映会では字幕なしだった割には話が頭に入った。これはわかります。出所したプロの銀行強盗が早速仕事を依頼されるが絶体絶命のピンチに陥る話で、ボギー映画デビュー10年目にして初の主演作(42歳!)がこれ。出世作『マルタの鷹』の半年前、『カサブランカ』の前年にすぎないのに頬がこけて眼が鋭く見える。監督ウォルシュはサイレント時代からの大ヴェテランだし後に本作を西部劇に改作して傑作『死の谷』'49(ジョエル・マクリー主演)を撮っているくらいだから余裕の演出だがボギーは硬くて、そこがいい。西部劇は無線も車もないから後半の逃走劇のスリルは『死の谷』圧勝だが(そのためのリメイクだろう)本作のヒロインのアイダ・ルピノは『死の谷』のヴァージニア・メイヨに劣らない好演。本作のシナリオ担当のジョン・ヒューストン(ボギーより7歳年下)初監督作『マルタの鷹』が即座に次回作になったのも、この初主演作がワーナー社内でも撮影中から高評価だったと推察される。映画評サイトでは前半余計なエピソードが目立って冗長な凡作と難癖つける人も見かけたが、中年俳優の初主演作なんだから見せ場を作りたかったんで余計でも凡作でもない(怒)。

2月2日(木)
ゾルタン・コルダ(1895-1961)『サハラ戦車隊』(アメリカ'43)*97mins, B/W
・監督はハンガリー出身でイギリス映画界の重鎮アレクサンダー・コルダの弟。『カサブランカ』'42製作中には参戦していなかったヨーロッパ戦線にアメリカも参戦して1年経った。これは砂漠地帯のアフリカ戦線でアメリカ人軍曹(ボギー)率いるたった9人の英米混合部隊がM3中戦車(『ガールズ&パンツァー』ではウサギさんチーム乗用)に箱乗りし、味方部隊の到着を待ちながら最前線を横断して次々襲う困難(水不足、疲労、発病、仲間割れetc.)を乗り越えつつ、クライマックスでは500人(笑)のドイツ軍部隊を迎え撃つ話で、どこかで観たと思うまでもなく『七人の侍』と同じ展開になっていく。つまりほんの数人で大群を迎え撃ち、一人ずつ減っていく。途中で同盟国部隊からはぐれたイタリア人俘虜が加わり、この俘虜が同盟国なのにナチス嫌いのドイツ嫌いなので部隊の10人目になっていくのも菊千代みたいでいい。調べたら日本公開昭和26年(1951年)4月で『七人の侍』は昭和29年だから参考作品かもしれないが、大枠はまったく違うので問題はない。本作撮影中はまだ戦時中で、本当に砂漠で実物の戦車を使ってほぼオールロケなのを思うと、この一本にどれだけの手間がかかった娯楽映画なのか気が遠くなる。映画全編砂塵がビュービュー眼も開けられないくらい吹いていてキャストもスタッフも下着の中まで砂だらけだったろう。ロサンゼルスのロック・バンドにジョ・ジョ・ガンというのがいたが、本作のボギーの役名ジョー・ガンが由来なのだろうか?

2月3日(金)
ジョン・クロムウェル(1887-1979)『大いなる別れ』(アメリカ'47)*100mins, B/W
・原題『DEAD RECKONING』。致命的誤認、という意味らしい。『サハラ戦車隊』の前作が『カサブランカ』、一本飛んで次作が『脱出』、戦後に『三つ数えろ』ときて本作となれば、なるほどなあと腑に落ちることがある。ボギーは何を着て誰を演じてもボギーで、要するに全然俳優らしくなく俳優としたら大根なのだ。そこがボギーを世紀のスターたらしめた。本作は『痴人の愛』『君去りし後』の巨匠ジョン・クロムウェルが柄にもなく手がけた犯罪映画で、失踪した戦友の行方を訪ねた復員兵が謎めいた戦友の夫人を通して犯罪組織に関わる事件に巻き込まれる話。その夫人がこの手の映画に不可欠の、どこまで信用していいかわからない魔性の女の設定だが、同じシナリオでもウォルシュやホークス、ヒューストンが撮ったらまだしもだったろう。『恐怖のまわり道』のエドガー・G・ウルマーならぐだぐだ具合が味になったかもしれない。クロムウェルは良いシナリオで上手い俳優を演出すると腰の据わった的確な手際が光る巨匠だがボギーや本作のヒロイン、リザベス(エリザベスではない)・スコットなど演技力よりまず存在感の役者相手では困った顔が目に見えるようで、これではボギーがまるっきりうすのろにしか見えず悪女役のスコットもぼんくらにしか見えない。ホークスのように強引に撮るかウルマーのように適当に撮るかきっぱり割り切れば悪いばかりのシナリオではなかったろう。正攻法の巨匠監督クロムウェルと大根役者ボギーの相性が悪かった。結末なんか意外性があると言えば褒め言葉みたいだがもうただただ機械的にどんでん返しをしてみましたという印象しかなく、唖然としているうちに終わってしまう。突っ込み所満載の犯罪スリラー/ハードボイルド映画だが失敗作と寛容に観れば監督クロムウェル、俳優ボギーについて一歩理解が深まる(気がする)映画でもある。

2月4日(土)
ジョン・ヒューストン(1906-1987)『キー・ラーゴ』(アメリカ'48)*100mins, B/W
・これと『黄金』が同年作なのだからヒューストンとボギーは乗りに乗っていた。日本では『黄金』は翌年公開、『キー・ラーゴ』は3年後公開で『黄金』の圧倒的好評に本作は及ばなかったらしいが、ハリケーンに襲われたホテルでギャングの一味と閉じ込められた一夜の室内劇の作りの本作もすこぶる上出来ではないか。ヒロインはローレン・バコールでホテルのオーナーを演じるライオネル・バリモアの戦死した息子の嫁の役、ボギーは復員兵でバコールの夫の兵役時の上官、キー・ラーゴ群島からの国外密航を計ってホテルに集合したギャング一味の親分がE・G・ロビンソンと、千両役者揃い踏みの感がある。ボギーはいつものボギーのままでも名優揃いの共演陣、歯切れの良い演出に囲まれているから心理的・肉体的暴力と脅迫に抵抗しながら反撃の機会をうかがい試みる復員兵役を演技しなくても体現できる。いったい褒めているのか茶化しているのか誤解を招きそうなので強調したいが、『キー・ラーゴ』のボギー役を同年代の他の俳優が演じたらどうなるか。ジョセフ・コットン、ジェームズ・スチュワートヘンリー・フォンダケーリー・グラントジョン・ウェイン、誰が演ってもこうはならない。ボギーのような素の説得力ではない。『キー・ラーゴ』に限らず、『ハイ・シェラ』はまだ焦点が甘く『サハラ戦車隊』はちょっと例外かもしれないが、ボギーの主演作はボギー以外のキャスティングがまず考えられないようになっている。なんでこんなスターのオーラが漂う俳優になってしまったのか、本人もよくわからなかったに違いない。『キー・ラーゴ』はラストのついにハリケーンが去ってからのシークエンスが実にお見事。フォードやホークス、ヒッチコックに較べてヒューストンやワイラー、ワイルダーらを二流三流呼ばわりする風潮はヒューストンらを見る目もないに違いない。

2月5日(日)
ニコラス・レイ(1911-1979)『孤独な場所で』(アメリカ'50)*93mins, B/W
・原題『In a Lonely Place』。被害者の遺体が放置されていたひと気のない辻路傍を指しているのだが、日本では1996年まで未公開作品だったので直訳タイトルが定着していた。筆者が80年代半ばに観たのも非営利団体の上映会で、字幕スーパーなしだったから実はDVDで観て初めて真相がわかった(笑)。大筋は映像と片言の聞き取りでわかっても実は台詞でもっと込み入った内容に触れていた。邦題で『孤独な場所で』とすると何やら象徴的な意味が臭って、ボギー演じる大御所シナリオライターのエキセントリックな性格とそのための孤独を指していると思ってしまう。映画の内容はそう解しても見当違いではないようになっている。一応これは一種の快楽殺人犯の嫌疑がかかったボギーが目撃者証言でアリバイが判明し、目撃者の女性と数回会ううち恋愛関係に発展する。ところがボギーのエキセントリックで突発的に暴力的になる性格から再び殺人犯の嫌疑が浮かんでくる、という気味の悪い話で、原作小説に忠実な典型的犯罪サスペンスのシナリオをボギーと監督で撮影中にどんどん書き変えて謎や犯人まで変えてしまった。それが通ったのも本作がボギー自身の会社のサンタナ(ボギーの所有ヨット名が由来)・プロダクション製作で要するにボギー自身の製作総指揮、原作に目をつけ監督をニコラス・レイに依頼したのもボギー自身だった。ヒロイン役のグロリア・グレアムはレイ夫人でこの作品製作時には結婚生活は破局に向かっており、'52年には離婚が成立している。そんなことも改作内容には影を落としているらしい。実はボギー本人も意欲作だったこの映画を観ると俳優ボギーの魅力の核心部、うまくいけば『大いなる別れ』でも描けたかもしれないがジョン・クロムウェルにはできなかった面にニコラス・レイが斬り込んだことがわかる。ボギーは俳優としては大根だった、しかし大スターのオーラを発散していたということは、常にどこかうさんくささと脆さが見え隠れしていたわけでもある。そうした内面の葛藤が急激にバランスを崩せば、意図しない防御本能から先制攻撃が自制心の殻を破って突発的な暴力に噴出することもあるだろう。ボギー本人に潜在的に露悪的な自己表現の欲求があり、それが自虐的作風のレイを監督に招いて過剰に発露したのが公開当時はまったくの不評、現在ではフィルム・ノワール(暗黒映画)の古典的名作と目される本作だった。一見失敗作『大いなる別れ』と紙一重なのに大きく明暗を分けたのはその匙加減で、ボギー自身もひと回り年上の巨匠監督ウォルシュやクロムウェル、数歳違いだが映画界の名門家出身のコルダやヒューストンではなく、ひと回り年下の新鋭監督レイだからこそダークサイドが爆発した会心のキャラクターになった。現在の解釈では人格障害、当時なら変質者と見られて当然の人物像だが、アメリカ映画の性格造型としては男性俳優では画期的で、これがマーロン・ブランドなら狡猾に過ぎ、ロバート・ミッチャムでは優しさが隠せない。レイの映画はハッとするような鋭い映像感覚(本作では冒頭の自動車内からの外景ショット)と妙に不自然な演出(主にセット撮影シーン)が同居してムラがあり本作も例に洩れないが、今回は主人公自体が二面性に引き裂かれている映画なので成功している(レイの成功作はいつもそうだが)。一歩違えば後世の再評価もない悲惨な失敗作ぎりぎりで成り立った映画だが、『カサブランカ』の真逆を行く反メロドラマとも言えるこれがボギー自身が望んだ配役だったのはちょっとすごい。