人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2月21日~25日・サイレント時代の成瀬巳喜男(1905-1969)

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 どこの国でも自国の映画ほど外国映画に較べて粗末に扱われるというか(例外はアメリカ、イタリア、ロシア=旧ソヴィエトくらいでしょう)、他国では長く名作として愛されているのに本国では骨董品扱いという例が多くあります。戦前のフランス映画をもっとも大切にしているのは日本ではないでしょうか。また日本人の日本映画蔑視も昔からあって、堀辰雄(1904-1953)の書簡集を読んでいたら晩年の書簡に自作の映画化を打診されたがレベルの低い日本の映画界に映画化権など渡すものか、と豪語しており、堀の作家活動は1930年代~没年の昭和28年と思いあわせると今では世界に誇る傑作が次々と生み出されていた時期で、少なくとも堀辰雄の小説より日本映画の水準ははるかに高いものでした。しかし過去の映画遺産が気軽に廉価でいつでも観られてかつての日本映画の価値が共有されるには、簡便で生産コストが安く耐久性のあるDVD普及後にも偏りがあり、戦後作品ですら満遍なく復刻されているどころか戦前作品は溝口、小津ら国際的評価・人気とも高い大家を除くと限られた作品が散発的にディスク化されているにすぎません。松竹が版権確保している村田実の『路上の霊魂』、日本近代美術館フィルムセンターが修復リプリントした衣笠貞之助の『狂つた一頁』(インディー作品なので版権は遺族にあるはず)ですら市販ソフトになっていません。今回と次回で取り上げる成瀬巳喜男のサイレント期の作品と清水宏の戦前~戦中作品も、世界の古典映画の最上ソース発掘と高画質レストアで定評あるアメリカのクライティリオン(Criterion)社の廉価版ボックス・セット「Eclipse Series」(新作1枚程度の価格で3~4枚組、4~6作品収録)からの『Silent Naruse』2011、『Travels with Hiroshi Shimizu』2008として発売されたもので、『Silent Naruse』収録作品は今なお日本盤未発売、『Travels with Hiroshi Shimizu』は日本盤も『清水宏監督作品1・山あいの風景』としてアメリカ盤から1か月遅れで同内容のボックス・セットが出ましたが価格はアメリカ盤の3倍相当で、収録作品4作品中3作は単品発売もされましたがサイレント作品『港の日本娘』はボックスの特典ディスク扱いで単品発売されない等、成瀬巳喜男清水宏ともに欧米では日本映画の古典として評価を高めつつあるのに日本盤ソフトでは出ていない、出ていても新作並みに高価な上にセット販売でなおさら高価、とまるで売る気が見られません。つまり好事家向きのマニア作品としか見ていないので、観る機会がなければ作品は忘れられていく一方です。成瀬巳喜男のトーキー初期の名作『妻よ薔薇のやうに』もVHS時代にはかろうじてホームヴィデオ化されていましたが、一向にDVD化される様子がありません。成瀬作品の絶頂期が円熟した晩年作品にあるにしても、晩年から逆算した10本程度しか国内ソフトが流通していないのは明らかな偏りがあります。

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2月21日(火)
『生さぬ仲』(松竹蒲田'32)*79mins, B/W
・現在では忘れられた柳川春葉の通俗ベストセラー小説の映画化。ごった返す街中でスリ騒動が描かれる場面から始まる。疑われた男が盗品も財布を持っていないのがわかり人々が散りぢりになると、一人残って煙草をくゆらす伊達男がスーツの懐に隠した財布を確かめ、ニヤリと笑って煙草をもみ消す。ハリウッドで大成功した女優(岡田嘉子)の凱旋帰国を報じる新聞記事がクローズアップされ、このスリの二人組が港に出迎えにいくことから女優もまた裏社会と通じた姉御であることがわかる。場面が変わって上品で平和なブルジョワ家庭。優しい雰囲気の夫婦とあどけないおかっぱ頭の娘がいる。この家庭に女優帰国の知らせが入る。実は女優は娘を生んで6年前に夫と娘を捨ててハリウッドに渡り、現在の夫人は後妻なのだった。女優は娘の引き渡しを懇願し、夫婦は断固として譲らない。女優は遂に手下に娘を誘拐させるが、娘本人も生みの母が女優だと理解しても育ての母をえらび、手下の妨害を振り切って夫人が迎えに来ると女優も真の母子愛に負けて、かつて夫と娘を捨てた代償に得た成功にも虚しさを覚えながらハリウッドに戻っていくのだった。岡田嘉子は本作以前にも不倫・失踪事件でスキャンダルを起こした女優であり、本作後の昭和12年(1937年)には本当にソヴィエトに亡命してしまった人。岡田嘉子の洋装ファッションとモダニズムを感じる街や港の風景、いかにも昭和初期の上流家庭を感じさせるブルジョワ家庭の最新の洋館、それとは対照的ながら当時はそうなんだろうなと思わせる後妻夫人の上品な和服姿など、ストーリーが自然に導き出す背景や登場人物のたたずまいに風情がある。また今回ご紹介する時期の成瀬巳喜男サイレント作品に特徴的だが、クローズアップにカットを割らずカメラの急接近によるトラックアップで劇的場面の人物をとらえる技法があり、ズームはまだ発明前の時代になるので、本番撮影前にもっとも接近して停止した状態でピントが合うように設定してからカメラを引いてから撮影スタートする手間がかかっていると思われ、この技法はドイツの表現主義映画で稀に使われたが成瀬のように映画全編で固有の文体となっている例は即座に思い当たらない。トーキーでは音声がクローズアップの補助効果を持つのでサイレントならではの技法だが、ちょっと驚かされる技法ではある。話術と演出は非常に巧みで、観終えるとサイレントだった気がしない。登場人物の話し声まで聞こえていたような気がする。

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2月22日(水)
『君と別れて』(松竹蒲田'33)*60mins, B/W
・トーキー映画の実用化は1928年、アメリカでは1929年には新作のほとんどがトーキーになったが英仏独伊露では1~2年遅れ、日本や中国では1935年まではトーキーは少なくサイレント時代がつづく。西洋映画でサイレントが絶頂に達した後も日本ではサイレント技法に磨きをかけていたわけで、溝口、小津、成瀬らの'30年代サイレント作品は'20年代末で終わった西洋サイレント作品よりも磨きがかかっていると言ってよい。原案・脚本ともに成瀬のオリジナルの本作は芸者で生計を立てながら息子を高等学校に通わせる母子家庭(吉川満子・磯野秋雄)の気持のすれ違いと不良仲間に引き入れられる気の弱い息子を更生させようとする妹分の少女芸者(水久保澄子)の献身的な愛情、そして息子と少女の別れまでがあくまでリアリズムから離れず抒情的に描かれて見事な出来。戦前小津作品の常連年増役でおなじみ吉川満子の生活感溢れる哀愁、小津のサイレント作品の傑作『非常線の女』'33のヒロイン役だけでも忘れがたい水久保澄子の清純な美貌など、『生さぬ仲』でも視点人物は岡田嘉子と若い後妻の筑波雪子だったが本作も吉川満子演じる母と水久保澄子演じる恋人とも妹ともいえる少女こそが視点を担っており、純粋な女性映画としては溝口健二より早く、かつ感性的な同化も徹底していると思える(溝口は成瀬について「上手いは上手いが、この人にキンタマはあるのかね」と発言している)。アメリカ作品に限ればサイレント映画は'27年~'28年にかけてのキング・ヴィダー『群衆』、ムルナウサンライズ』、シューストレム『風』あたりが究極かつサイレント時代の終焉だったが、成瀬の本作はその上を行く出来で、トーキーの成果を参照しながらサイレントの表現力を拡張し得た、全面トーキー化の遅れた国(トーキー作品上映の機材がなかなか普及しなかったため)だからこそ達した完成度ではないか。これは完全にトーキー化が進んだ後に作られたサイレント作品が企画自体を目的化しているのとは事情がまったく異なる。なお本作は成瀬の出世作となりキネマ旬報日本映画'33年度ベストテン4位を獲得。'30年(25歳)の監督デビューから着実な進展を示した。

2月23日(木)
『夜ごとの夢』(松竹蒲田'33)*65mins, B/W
・本作も成瀬自身の原案、ただし脚色は池田忠雄による。幼い息子(小島照子。少女が演じている)を抱えて安酒場で働くヒロイン(栗島すみ子)の元に3年前に家出した亭主(斎藤達雄)が帰ってきてヨリを戻そうと乞う。ヒロインは拒絶するが子供が実の父の帰宅に喜び、甘えてよくなつくので(女の子の子役を使った成果がよくでている)何となくヨリが戻ってしまう。亭主はいつまで経っても職が決まらない。そのうち子供が交通事故で大怪我をおってしまう。ヒロインは客を取って金策しようとするが亭主は制止し、どこからか大金を盗んできてしまう。もちろんヒロインはすぐ感づいて金ごと亭主を追い返す。川べりの夜道を歩いていく亭主。翌朝、亭主の溺死の知らせが届く。「弱虫!意地気無し!ばか!」とヒロインがひとり亡き亭主の霊を罵倒する姿で映画は終わり。キネマ旬報日本映画'33年度ベストテン3位と、『君と別れて』と並んで3位・4位をつけた。この年に成瀬は28歳だから日本映画は若く、映画人たちも若かった。本作は前記アメリカのサイレント傑作群に並ぶスタンバーグの『紐育の波止場』'28の翻案ではないかと指摘されてきたが、『紐育の波止場』は入水自殺しようとする夜の女を船乗りの男が思いとどまらせる。酒場にくり出して常連の仲間や酒場女たちに結婚を宣言し、牧師を呼んできて酒場で挙式すると明け方までどんちゃん騒ぎの披露宴をする。朝帰りして昼近い目覚め。女は先に起きていて質素な服に着替え、良い奥さんになるわ、と切り出すが、男は何言ってるんだ、俺は船に戻るんだ、結婚なんて飲んで大騒ぎするための冗談さ、とうそぶく。ここまでで映画の半分で、後半は前半を裏返した展開になるのは『サンライズ』からの影響をもろに受けていると思われるが、少なくとも『夜ごとの夢』とは全然似ていない。そもそも『夜ごとの夢』ほど二の句の告げないバッドエンドというか、アンハッピーエンドが堂々まかり通った昭和8年の娯楽映画概念というのがすごい。主要人物の死で終わる映画がなかったわけではないが、勧善懲悪で魅力的な悪党が死ぬか、自己犠牲的に使命を果たしたヒーローが力尽きるか、そのヴァリエーションだが充実した生涯を終えて死ぬかで、本作のようにうだつの上がらないままポックリ死ぬとはヒロインでなくても「ばか!意地気無し!」と言いたくなる。だが一種の不条理劇と思えば何の前ぶれもなく人が死んでいく『男性・女性』(ゴダール、'66年)のようなものではないか。『君と別れて』より僅差で高評価を得たのはロシア文学的題材のシリアスさによるだろうか。

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2月24日(金)
『限りなき舗道』(松竹蒲田'34)*88mins, B/W
・3枚組DVD『Silent Naruse』は'31年~'34年の成瀬の松竹作品5作を収めるが、成瀬は監督デビューの'30年に5作、'31年に6作、'32年に6作(うち1作は明治製菓のPR映画。『チョコレート・ガール』という作品もある。『君と別れて』にも明治の板チョコをおやつにするシーンがあり、松竹とスポンサー契約していた模様)、『君と別れて』『夜ごとの夢』でブレイクする'33年には5作(うち1作は松竹のPR映画『謹賀新年』)、'34年には4月公開の『限りなき舗道』1作でPCL撮影所に移籍し、翌'35年にPCLから成瀬初のトーキー作品を5作手がけることになる。松竹の成瀬作品の掉尾を飾る『限りなき舗道』は前年の『君と別れて』『夜ごとの夢』成功に後押しされた形で88分の本格的長編になったが、社内の待遇はメイン作品(本編)作品監督ではなく併映(添え物)作品監督に据え置かれたため、PCLからの本編監督勧誘の交渉に乗ったものらしい。サイレントの88分は大作なので渋谷實、山本薩夫が助監督についている。銀座の高級喫茶店のウェイトレス杉子(忍節子)は失恋中に交通事故にあい運転者の上流階級の青年に見初められて結婚するが姑と小姑にいびられ弟との二人暮らしに戻る。妻の家出に酒に溺れて青年は飲酒運転で瀕死の重傷を負い、駆けつけた杉子は青年の家族を痛烈に非難する。一方、杉子の同僚の袈裟子(香取千代子)は映画女優への道が開けるが才能がなく芽が出ない。結局女優を断念してかねてから昵懇の画家(日守新一)の妻になり、裕福でも華やかでもないが幸福な家庭を築く。当時の流行作家・北村小松原作で世相映画としては昭和8年の銀座の雰囲気をたっぷり味わえるし、当時の画家は今で言えば同人マンガ家のような職業だったのもわかる。ただしドラマとしての奥行きは『君と別れて』『夜ごとの夢』から後退し、二人のヒロインの対照が生きなかった。ヒロインのキャスティングもこれまでの作品より弱く、松竹が最後の成瀬作品に優れた女優を出し惜しみしたとしか思えない。構成力は2年前の『生さぬ仲』から格段に上がっており、すぐにでもトーキーへ移行できる演出が堪能できる。これで水久保澄子や井上雪子(端役で出ている。もったいない)クラスの女優を主演キャストにできたらお釣りのくる力作になっただろうが、水準以上とはいえ力作にとどまった。しかしサイレントとしてはこれが限界だったとも言える。

2月25日(土)
『腰辯頑張れ』(松竹蒲田'31)*28mins, B/W
・英題『Flunky, Work Hard』。短編作品でこれは数回観たことがあるので最後にオマケ的に持ってきた。誰が観ても小津安二郎の『生まれてはみたけれど』'32を連想するが、サラリーマン(腰辯)の悲哀はもともと先輩の小津の作品傾向でもあった。『生まれてはみたけれど』は子供の世界と大人の世界を対比させ、大人の世界を子供の視点から描いて世界の映画でも画期的な作品になったが、『腰辯頑張れ』は子供の世界との対比を小津より先んじながら大人の世界からの視点で描いている分一歩踏み出せないでいる。短編作品だから仕方なかった気もする。喜劇的演出や軽やかさでは『生まれてはみたけれど』より軽快に描かれているが、それも短編だからこそで、このテーマを長編で展開すればさらに小津作品に近づいたかもしれないが、昭和9年(1934年)PCL撮影所(後の東宝)に勧誘され移籍したのも松竹社内では「小津は二人要らない」と冷遇されていたからだった。しかしそれは会社側から要請された路線で、成瀬の本領はメロドラマ路線の女性映画だったのも喜劇短編との比較でわかる(本作は本作で面白いが)。

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清水宏(1903-1966)『港の日本娘』(松竹蒲田'33)*71mins, B/W
・松竹の先輩監督でやはり松竹の小津安二郎と同年生まれの清水宏1924年に21歳で監督デビューした天才肌の才人(小津の監督デビューは1927年)。本作はサイレント期の清水作品で唯一ソフト化されているもの。横浜の現「港の見える丘公園」(昭和47年制定)が通学路の女学生ドラ(井上雪子)と砂子(及川道子)は大親友だったが、砂子の恋人ヘンリー(江川宇礼雄)が浮気したことから浮気相手の女(沢蘭子)を銃撃(!)してしまい、神戸、長崎と港々を渡り歩く夜の女になる。砂子は貧乏画家の三浦(斎藤達雄)と同棲するようになっていたが、横浜に戻ってくるとドラとヘンリーは結婚していた。かつての親友の友情は、そして幸福は……と、当時の小津安二郎と同様のアメリカ映画色の強い軽快さで描かれる青春ドラマで、わずかな年齢差だから年齢より資質だろうが(先輩監督の溝口健二の例もある)、成瀬巳喜男作品の情感とは対照的。『夜ごとの夢』では救いがたい貧乏臭さで陰気に溺死自殺してしまう斎藤達雄も小津作品や清水宏の本作では飄々とした三枚目で、特に本作はコメディ・リリーフとしておいしいところをさらう。二人のヒロインの対照を描いていく作りは成瀬の『限りなき舗道』同様で、成瀬作品も井上雪子及川道子主演だったら秀作になったろうと惜しまれるが、ヒロインたちを見舞う不幸の度合いも負けず劣らずなのに清水作品はまったく暗さを感じさせない。ハッピーエンドとも言えない微妙な結末にもかかわらず後味がさっぱり(爽やかとまではいかないが)なのも映画の空気が楽天的だからで、成瀬作品以上に字幕画面が少なく音声を入れればそのままトーキー作品で通じてしまうほどだが、成瀬と清水の根本的な映像感覚の相違はライティングによるトリミング効果や遠近法に特に大きく、サイレントによるトーキーへの接近でも映像はまるで違うのが面白い。
(次回は清水宏作品集です。)