人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(12); 北村透谷『楚囚之詩』(iiiii)

北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治26年=1893年夏(24歳)、前年6月生の長女・英子と。

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 これまでは『楚囚之詩』全16章から4章ずつご紹介してきましたが、巻末に当たる第十三章~第十六章の4章は必ずしも順を追わず、2~3回に渡って読んでいきたいと思います。前回では透谷の時代の直前に位置する江戸時代後期(徳川時代)の小説と比較して『楚囚之詩』(明治22年=1889年刊)がどこまで江戸文学から地続きで、どこから革新が認められるかを考えてみました。末期徳川時代と透谷の時代は50年と離れていません。代表的な小説家の曲亭馬琴は1847年歿、柳亭種彦為永春水は明治改元まで25年に迫った1843年歿で未完に終わった晩年の遺作もあります。『楚囚之詩』から現在までは130年近い年月が経っているわけで、馬琴の未完の大長編『近世説美少年録』(~1847)が現在からは170年前の小説なのと時代的にはそう大差がないとも言えるのです。
 馬琴と透谷の間の40年間を隔てているのは明治維新と開国開化ですが、文学の上で徳川文学と違う現代文学といえるものが現れるようになったのはようやく明治20年前後であり、幕末と明治初期は不安定な時代思潮が文学のスタイル確立を許さない過渡期でした。まさに明治元年生まれの透谷は既成の日本文学に頼ることはできなかったので、もっとも学びやすい環境にあったイギリス文学、具体的にはロマン主義詩人のバイロンから学び(『楚囚之詩』や長編劇詩『蓬莱曲』にはバイロンの「シオンの囚人」『マンフレッド』からの影響が指摘されます)、またエマソンやソローらアメリカの思想家に学びました。イギリスの思想家には奇人変人を競って喜ぶ伝統的な独特の韜晦癖があり、また主な英語学校の役割を担っていたキリスト教会の大半がアメリカのプロテスタント系で、芸術文学はイギリス文学としても教養的にはアメリカ思想家の実践的な思想が奨励されたからです。これらが日本に一度に流れ込んでまだわずか20年足らず、そこで根本から新しい文学の創出が二十歳そこそこの文学青年に課されるにはあまりに困難な事業と言わざるを得ません。

 透谷の時代にまだ標準的な口語の日本語文体が確立していなかったのは、口語体で書かれた『楚囚之詩』の「自序」や第十二章の挿絵の注意書きの文体の通りで、句読点の用法や副詞節、語尾など子供の作文か自動翻訳のように文体と語感の統一がありません。明治20年(1887年)の二葉亭四迷(1864-1909)『浮雲』は奇跡的に一気に口語体(言文一致)小説をなしとげた心理小説でしたがその改革は後に続かず、明治30年代にようやくジャーナリズムや教育機関による「言文一致」浸透から口語体の文学作品も一般的になったのです。『楚囚之詩』刊行の明治22年(1889年)というと前年に映画フィルムが発明されたばかり、短編映画の登場は1903年、当然ハリウッドはまだないので(1910年代開発)ロサンゼルスは大都会になっておらず、ガソリン自動車の実用化、レントゲン写真開発は透谷の歿年明治27年(1894年)の翌年です。
 もちろん透谷の時代にあって現在では姿を消してしまったものも新しく現れたものと同じくらい多いのですが、現代の読者が置かれている教養機関や生活環境は透谷の時代から一新されたもので、書字能力ひとつ取っても難読文字や故事成語を大量に含む和文体文語文、漢文体文語文を自在に書けるのが明治の教養人には普通で古典の素養は桁違いだったわけです。それは自然に身についた教養なので、義務教育の国語が新字・新かな(略字・表音かなづかい)に切り替わった以降に小~中学校教育を受けた人で、旧字・旧かな(正字・歴史的かなづかい)で得意気に文章を書く人(「まつたくもつて」「戯れ言」を多用するのも特徴)を見かけると浅薄な自己顕示欲に恥ずかしい気がします。歴史的かなづかいで育った世代はおよそ昭和15年=1940年生まれまでが限度でしょう。ネット上の「~でせうか」「~と思ひます」が滑稽なのは日常思考言語との乖離が漫才のようだからですが(誰も漫才のようには日常言語を使いません)、明治20年代の文学者は思考言語は和文体と漢文体にもかかわらず生活言語は口語体、と思考言語と生活言語が分離しており、「言文一致」とは生活言語によって思考言語の内容を表現する、口語体をベースにした新しい口語調文語(書き言葉)体の試みでした。『楚囚之詩』も文体としては従来の和文体、漢文体とは言えない、非常に実験的で変則的な日本語で書かれています。一応文語自由詩とは言えますが、文体の密度と韻律のために文語を採用しているとはいえ自由詩形式によってほとんど文語でなければならない必然性はなくなっている、とも言えます。とはいえ『楚囚之詩』の鋭さは文語による長編自由詩ならではの軋むような捩れた感覚にあり、それがこの作品を日本最初の現代詩と呼べるものにしています。

『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。

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   第十三
恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
 若き昔時(むかし)……其の楽しき故郷(ふるさと)!
暗(く)らき中にも、回想の眼はいと明るく、
 画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を戴きし冬の山、霞をこめし渓(たに)の水、
 よも変らじ其美くしさは、昨日と今日、
 ――我身独りの行末が……如何に
   浮世と共に変り果てんとも!
嗚呼蒼天! なほ其処に鷲は舞ふや?
嗚呼深淵! なほ其処に魚は躍るや?
  春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存るや?
曽(か)つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴きし渓(たに)の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
  有る――無し――の答は無用なり、
  常に余が想像には現然たり、
   羽あらば帰りたし、も一度
   貧しく平和なる昔のいほり。

[ 第十三 ]
・全20行=6行(1行+5行)+4行(2行+2行)+7行(1行+5行+1行)+3行と、非常に破調ぎりぎりの文体が目立つ、不可遡的韻律構造を持つ章。第十二章で迷い込んで来た蝙蝠を逃がしてやったのを受けて、再び一人きりになった獄舎で故郷に思いを馳せ、自問自答しつつも自分の記憶の中では故郷は確かに今もあるのだ、と納得しようとしますが、むしろ故郷と断絶された状態での錯乱の方が印象に残ります。文体では破調と見えるほど複雑とはいえ韻律構造への注意は周到で、意図的に語り手の錯乱寸前の精神状態を反映させた韻律なら成功はしていますが、『楚囚之詩』中でも平均的な長さの章ながら内容は断片的で、前後の章がないと意味をなさない中継ぎのような章でもあるでしょう。全16章中残りあと4章で語られるには貧弱で、これまでの章との内容的重複も物足りなく感じます。クライマックスまで引き延ばすためにあえて弛緩した章を入れたか、この第十三章の位置には十分な内容を思いつかないまま韻律構造の実験だけで次の章に繋いだ、ということでしょうか。『楚囚之詩』第十三章~第十六章(最終章)は第十三章・第十四~第十五章・第十六章と三部構成になっており、第十三章を巻末4章の序章として第十四章~第十五章に新たなエピソードがあり、そのエピソードの終わりと共に第十六章で大団円を迎える、という構成になっているのです。ですので第十四章以降は次回で読んでいくことにします。