人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年7月19日~21日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'50年代作品(3)

(『第七の封印』日本封切りポスター)

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(『第七の封印』西ドイツ封切りポスター)

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(『野いちご』日本封切りポスター)

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(『女はそれを待っている』英語圏封切り広告)

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 第16作『夏の夜は三たび微笑む』'56で思いもよらず1956年度カンヌ国際映画祭詩的ユーモア賞受賞を受賞したベルイマンは映画会社に対する発言権を強め、古巣スヴェンスク・フィルムから長年映画化を構想していた中世スウェーデンを舞台にした第17作『第七の封印』'57(カンヌ国際映画祭審査員特別賞)の映画化実現に続く第18作『野いちご』'57(ベルリン国際映画祭金熊賞=グランプリ)で巨匠の地位を確立し、第19作『女はそれを待っている』'58もカンヌ国際映画祭監督賞と主演女優賞を獲得します。ベルイマンの'50年代の作風は続く3作『魔術師』'58、『処女の泉』'60、『悪魔の眼』'60まで続き、'60年代の作風は『鏡の中にある如く』'61、『冬の光』'62、『沈黙』'63の通称「神の沈黙」三部作から始まりますが、異色作『魔術師』『悪魔の眼』を含むとは言え後のベルイマン作品の広く知られたイメージは『第七の封印』に始まるこの時期によるものが大きく、特に『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』はベルイマン終生の名作と名高いものです。ベルイマン作品への本質的な批判も『第七の封印』からのこの時期に始まっており、初期作品よりもむしろこの時期のベルイマン作品こそ必見とされた上で未だに論議に決着がついていないものと言えるのではないでしょうか。

●7月19日(水)
『第七の封印』Det Sjunde inseglet (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'57)*92min, B/W, Standard

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ベルイマン原案の単独オリジナル脚本で、新約聖書の『ヨハネによる黙示録』がクライマックスの晩餐シーンで朗読され、タイトルもそこから採られている。カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作。撮影グンナル・フィッシェル、音楽エーリック・ノードグレーン、美術P・A・ルンドグレーンら今回も常連スタッフが集い、キャストには本作での初起用以来常連キャストになるマックス・フォン・シードウを始め常連キャストのグンナル・ビョーンストランド、ビビ・アンディションに加えて、舞台俳優ベンクト・エーケロートが死神役、コメディアンのニルス・ポッペが旅芸人役で出演する。十字軍の遠征を終えた騎士アントーニウス(M・フォン・シードウ)は従者ヨンス(G・ビョーンストランド)を従えて、十年もの苦戦と長旅に憔悴していた。疲労したアントーニウスの前に死神(B・エーケロート)が現れる。騎士は自分の死期を悟るが死神にチェスの試合を挑み、勝負がつくまで生命の猶予を請願する。村々の荒廃の中を旅する先々には、疫病が蔓延し、邪教が跳染していた。騎士は神の顕在と啓示を求めたが、祭壇にひざまずく度に死神が現れる。帰途に就く騎士と従者は旅役者スカート(エーリック・ストランドマルク)と手品師の若夫婦ヨフ(N・ポッペ)とミア(ビビ・アンデショーン)に出会い、アントーニウスはヨフたちの素朴さの中に生への希望を見る。アントーニウスと旅芸人たちはアントーニウスの邸宅で疫病が治まるのを待とうと決めてともに同行することになる。途中アントーニウスは魔女(モード・ハンソン)の処刑を目撃し、またしても懐疑的になる。そして死神が「悪」に対して「善」よりも残酷に積極性を示すのを知り、ようやく生と死の意味を知る。一行は死者から追い剥ぎしようとする男から聾唖者の娘を助け、追い剥ぎがアントーニウスとヨンスを10年前に十字軍に引き入れた男だと気づく。彼らも加わった一行は途中の村で一休みし、旅役者と手品師夫婦は出し物をするが稼げず、旅役者は村のきこりの女房を誘惑して逃げる。一行には妻の行方を探すきこりも加わり、ついに旅役者を追い詰めたきこりは妻を連れて一行に戻るが、きこりが去るまで木に登って隠れていた旅役者は死神が木にのこぎりを入れているのに気づく。「役者に特例はないのか?」と懇願する旅役者に死神は「ない」と答えて大木は倒れる。森のはずれで騎士と死神とのチェスの試合は続く。死神が手品師夫婦の命を狙うのを知った騎士は駒を乱して死神の気をそらして助けたが、勝負の敗北を招いてしまう。ヨフ夫婦は一行から離れ、夜道は嵐になり、すさまじい風の唸りととも影が通りすぎて、一行はアントーニウスの家にたどり着きアントーニウスの妻カーリン(インガ・ラングドレー)に迎えられてささやかな食卓を囲み、祈りを始める。カーリンがヨハネ黙示録を朗読する。その時、全員が無言で食堂のドアに顔を向けて凍りつく。死神に導かれて手をつなぎ踊りながら丘を昇っていく騎士達の姿をヨフは眼のあたりに見た、と妻に告げるが、妻ミアは赤ん坊を抱いて夫の言葉を一笑に伏す。本作は何と言ってもエーケロートの白塗りの死神と騎士役のフォン・シードウのキャスティングが決定的な成功。エーケロートは夭逝したが俳優としても監督としても逸材だったとベルイマンからも惜しまれている。ただしフリッツ・ラングの古典『死滅の谷』'21の死神に較べると、とはあえて言うまい。フォン・シードウは'60年代作品からはベルイマンの自画像的なキャラクターを担うことになる。スチール写真は印象的なシーンだが、映画全体ではロングの構図のショットに較べてバストアップより寄ったショットの構図がうまくいっていない印象を残す。中世のコスチュームがアップになるとすっきりせず絵面が汚く、これは今までのベルイマン作品には感じなかった。キメのカットとドラマの進行上こなしていくカットの質的落差が激しい。ユーモアのセンスの後退も著しく、従者ヨンスの露悪的言動(「男の幸福は淫売の股倉でさあ」)や登った木を死神に切り倒されて「役者に特例はないのか?」「ない」のくだり(新潮社『ベルイマン自伝』でも自負するシーンに上げている)もシリアスな基調にアクセントを添える作為性を感じてあまり可笑しくない。有名な丘を死神が死者を率いて去る逆光のロングショットはスチール写真は裏焼きで、映画では死神は下手(左)に向かって進むのだが、人数も合わないのは今回各種サイトを調べて初めて指摘に気づいた。中世を舞台にした歴史劇だから仕方ないが、騎士の神の遍在への疑問は18世紀後半以降の思潮だから歴史劇としても現代劇的なテーマが混在して不調和な印象を受ける。登場人物の意識の次元が現代人なので作品世界が実は中世でも何でもなく、核戦争後のスウェーデンに時代と舞台を採っても何ら変わらないのは設定の必然性とリアリティを稀薄にしている。第11作『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』あたりからキャスティングもベルイマン一家のレギュラー俳優が揃ってきたのは楽しいが、前作『夏の夜は~』で奏功していたコメディならではの図式化が一転してシリアスな本作では図式的人物配置ならではの柔軟な楽しみが大きく減退して遊びの要素も一気に薄れた。何だかんだ言ってもインパクトの強い商業映画ぎりぎりのアート・ムーヴィーなのは否定できず、作りたいものを実現した会心作なのは強力に迫ってくる。同年早くもさらに意欲作『野いちご』を完成させた勢いには作品への評価は置いても感服を禁じ得ない。しかしここで「神の顕在、または不在への疑問」を怪奇映画の表向きのテーマに打ち出したのが、のちのち観客が期待するベルイマン像を固定化してしまう遠因になる。

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●7月20日(木)
『野いちご』Smultronstallet (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'57)*87min, B/W, Standard

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・老医師の夢と現実を一種の回想形式で描く作品で、ベルイマン原案の単独オリジナル脚本により、撮影グンナル・フィッシェル、音楽エーリック・ノードグレーンの常連スタッフによる。主演に当時78歳(!これだけでも画期的!)で第8作『歓喜に向かって』'50に指揮者役で出演していたサイレント時代からのスウェーデン映画界の重鎮監督兼俳優ヴィクトル・シェーストレム(1879-1960)を迎え、ビビ・アンディションが二役を演じる他、舞台出身でのちにハリウッドにも進出したイングリッド・テュリーンが主人公の義娘役で出演。、アルゼンチンのマル・デル・プラタ国際映画祭グランプリ、ベルリン国際映画祭金熊賞=グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭国際批評家協会賞、イギリス映画批評家大賞、アメリカン・ナショナル・ボード・オブ・レヴュー最優秀外国映画賞を受賞。76歳の老医師イーサクこと私(V・シェーストレム)は手記を書き始めた動機を語る。他人との交渉を好まず、もっぱら書斎にひきこもっていたイーサクは数日前の6月1日、数々の出来事と夢と思索に自分の過去の全生涯を惨めに思い知ることになった、と語る。その日の早朝イーサクは奇妙な町に迷い込み、針のない時計、顔のなく砂に化して崩れる亡霊、倒れた棺の中の自分の死体に出会う悪夢を見る。その日イーサクは50年間の医学への貢献により名誉博士の称号をうけるルンドでの式典に出席することになっていた。後から飛行機で落ち合う40年来の老家政婦アグダ(ユッラン・スンダール)に送り出され、滞在していた息子エーヴァルド(グンナル・ビョーンストランド)の妻マリアン(イングリッド・チューリン)が同乗する車はルンドへ向う。喫煙しようとするマリアンとの会話でイーサクは女性蔑視的な物言いをし、マリアンに夫エーヴァルドともども父子ともがエゴイストだと反論する。イーサクは旅程で青年時代を過した邸に立ち寄り、野いちごの草叢に若かった日の情景を思い出す。野いちごを摘む従姉妹サーラ(ビビ・アンディション)はイーサクのフィアンセだったがイーサクの厳粛さに距離を感じ、大胆なイーサクの弟シーグフリドがサーラを奪って結婚した。傷ついたイーサクの心は未だに癒えない。邸を出たイーサクはヒッチハイカーの少女サーラ(ビビ・アンディション)とそのボーイフレンド二人を乗せた。若い彼らの無邪気さに接して、イーサクはいまさらのように無為に過ごした年月が悔まれる。曲り角ですれ違う車とあやうく衝突しかけて、相手の車は転覆して故障する。乗っていた二人を同乗させたが、彼らは喧嘩が絶えない中年夫婦(グンナル・シューベルイ、グンネル・ブローストレム)だった。車中でも口論を続け、罵りあい、しまいには叩きあう。若い人たちと同乗しているんですから、とマリアンは夫婦を降ろす。廻り道をしてイーサクは96歳の老母(ナイマ・ヴィーウストランド)を訪ねる。老母は自他ともに厳しく、親族も誰も寄りつこうとしない。死さえも母を避けているようだ、とイーサクは感じて、野いちごの草叢の中でサーラに鏡をつきつけられて老いを思い知らされ、弟シーグフリドと結婚すると宣告され、さらに先ほどの中年夫婦が試験官と検体になりボーイフレンドたちとサーラが見学する前で医学試験を受けさせられてしどろもどろになる幻想を見る。出発した車中でまたしてもまどろんだイーサクは暗い森の中に迷い込み、妻カーリン(イェートルド・フリード)とその愛人(オーケ・フリデル)の密会を見る。それはかつてイーサクが目撃した光景そのままだった。目覚めたイーサクは、妻の告白をきいて以来自分の人生はずっと死を生きていたと気づく。マリアンはエーヴァルドも死を望んでいるのだと話す。だが今彼女は妊娠して、新しい生命の誕生を待ち望んでいるとイーサクに告げる。車はルンドに着き、老家政婦アグダと合流して、ファンファーレと鐘の音に包まれて式典は荘重に行われた。ヒッチハイカーのサーラたちは別の車を見つけて花束と歌でイーサクに謝礼し、サーラの「大好きよ」との言葉にイーサクには感激する。イーサクはアグダにもう40年あまりのつきあいだから名前で呼びあおう、と持ちかけて「今さらできませんよ」と苦笑される。マリアンと和解したエーヴァルドの家にくつろいだイーサクはベッドに横たわるとまたしても夢の世界に入る。野いちごの森からサーラが現れてイーサクを入江に連れて行った。父は静かに釣糸をたれ、傍には本を開く母がいる。イーサクの穏やかな寝顔で映画は終わる。イーサクの亡妻カーリン役のイェートルド・フリードは第2作『インド行きの船』'47のヒロイン役以来、また96歳の老母役ナイマ・ヴィーウストランドは第16作『夏の夜は三たび微笑む』'56でエーヴァ・ダールベック演じる女優デジレーの老母役で怪演を見せたサイレント時代からの大女優。シューストレムの風貌と名演がとにかく本作の説得力になっており、30歳も年下のベルイマンの演出に応えたスウェーデン映画の父と呼ばれた大家のビッグ・ハートには感動する。ただし本作当時38歳のベルイマンの作り上げた76歳の老境はやはり頭でこしらえた老境という観が否めず、『夏の遊び』や『愛のレッスン』で試みてきた回想によるフラッシュバックの時間軸のシャッフルに過去の人物と現在の主人公が同時に相対するトランジション・ショットをさらなる新手法として導入しているが、『不良少女モニカ』『道化師の夜』『夏の夜は三たび~』の直線的プロットの力強さには遥かに及ばない。巧みに技巧を凝らしてパズルのように主人公の過去を組み立て、現在進行中のドラマによって老いた現在から過去の意味を問いただしているが、映画冒頭のわかりやすすぎる悪夢(黒澤明の『醉ひどれ天使』'48で三船敏郎が見るドッペルゲンガーの悪夢からの影響が認められる。ベルイマンは『処女の泉』'60でも黒澤の『羅生門』'50からの影響を露骨に見せる)はあまりに理に落ちていて、この象徴的すぎて幼稚な冒頭がまず良くない。こういうのを潜在意識の映像化と感心する頭の悪い観客を増やしかねない。頻繁すぎるフラッシュバックは『夏の遊び』からの順当な発展で、やりすぎだった『愛のレッスン』よりは整理されているが、過去と現在が混在するトランジション・ショットはあざとく、単純な回想形式で十分だったのではないか。ベルイマンは講演集『ベルイマンは語る』(青土社)でシューストレムが当初1日あたりの撮影時間の限定を主張して譲らなかったことや撮影条件に頑固で手こずったことをずっと後になって後輩監督に対する反抗ではなく老齢による自信喪失の裏返しの自己防衛だったと気づいた、と語っているが、ずっと後ではなく『野いちご』撮影中に気づいていたら主人公イーサクの人物像を越えて老いと人生へのもっと普遍的な描出に迫れただろう。亡妻カーリンとの関係が一筆描き程度なのに較べてほとんど必然性のない医学試験の幻想に尺を割いてしまい、老母へのお見舞いのシーンでは主人公以上のリアリティのある老境が短いやりとりから強い印象を残して最高の見所だがイーサクの老境を描く上では焦点を拡散させてしまっている。またスヴェンスク・フィルム社作品ではレギュラーの名手グンナル・フィッシェルの撮影は一流なのだが前作『第七の封印』同様明解なコンテが存在すると思われるカットと主に切り返しカットによる対話シーンで落差が目立ち、'50年代半ばまでの作品では鏡を利用して切り返しショットなしで長い会話シーンの長回しのカットを成立させていた妙技が見られず、『第七~』同様流して撮った構図の汚さが目立つ。『第七~』にしろ本作にしろ高い水準を認めた上で優れたシーンとおざなりなシーンの混在が目立つので、シリアスといえば聞こえはいいが突然辛気臭くなった作風への違和感も伴って、こうして年代順にベルイマン作品を観直すと何だかなあ、これまで1作毎に思いがけなく、さらに自由な方向へ発展する可能性にベルイマン自身が縛りを設けつつあるような作為性を感じないではいられず、よく言われる完成度の高さも本当にそうかあ、という気にもなってくる。

●7月21日(金)
『女はそれを待っている』Nara livet (スウェーデン/ノーディスク・トーンフィルム'58)*82min, B/W, Standard

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・第12作『不良少女モニカ』'53以来のベルイマン以外の原作小説による第19作で、原作者の女流作家ウッラ・イーサクソンが脚本も担当し、ベルイマン(共作含む)以外による脚本作品はこれまで第7作『渇望』'49と本作の2本きりになる。カンヌ国際映画祭監督賞と異例の主演女優4人(ダールベック、テュリーン、アンディション、アヴ・オルネース)集団主演女優賞を得た。出産を通して、三人の女性の三様の姿が描かれる。撮影はマックス・ヴィレーンで独立プロのノーディスク・トーンフィルム作品。妊娠3か月のセシーリア(イングリッド・テュリーン)は突然の出血で大病院の急患待合室に夫アンデシュ(エールランド・ユーセフソン)に連れられてきた。担架に乗せられて去る前にセシーリアは看護婦長ブリータ(バルブロ・ヨート・アヴ・オルネース)に命を宿すのはこれが最後になるでしょう、と言い残す。流産したセシーリアは昏睡状態のまま二人の患者と同室に移される。同室になったのは肥って陽気なスティーナ(エーヴァ・ダールベック)と、まだ少女の面影のあるヨルディス(ビビ・アンディション)だった。セシーリアは高熱にうかされ、婦長ブリータに過去の夫との生活への不満、過去の流産、夫の愛への呪いを言い続ける。スティーナは痛みにもだえるセシーリアを優しく世話する。スティーナは間近に迫る出産を喜んでおり、見舞いに来た小市民的な夫ハリー(マックス・フォン・シードウ)と子供を育てる楽しみを夢見て話しあう。セシーリアは見舞いにきた夫アンデシュを冷たくあしらい、結婚したのが間違いだった、どうせ二人とも子供なんか欲しくなかった、離婚しても構わないと追い返す。ヨルディスは赤ん坊の泣き声や姿が嫌で自分で堕胎を試みすらしていた。恋人ターゲからの電話も出産にはおよび腰で、母からは私生児連れで帰って来るなと拒絶される。婦長は私生児のための施設があり、国が面倒を見るからと更生を勧めるがヨルディスは逆上して泣き出す。その夜、スティーナに陣痛が来る。スティーナが満足げに産室へ向った後、眠れないヨルディスはセシーリアと打ち明け話をし、ターゲの子供かも実はわからないと話す。セシーリアは自分と姑との不仲を思い出し、ヨルディスに母親とよく話すよう助言する。朝、スティーナは青白く、すべてを失った表情で帰ってくる。激しい陣痛で死産してしまったスティーナは差し出されたコップの水を叩き落としてしまう。ヨルディスはそんなスティーナを見て出産を決意して、婦長ブリータに励まされて母へ電話する。母はヨルディスを許して里帰り出産を勧める。ヨルディスはブリータの胸で泣く。セシーリアの許にも夫アンデシュの母が来てセシーリアにいたわりの言葉をかける。ヨルディスが病院を出る時、セシーリアにはアンデシュの妹グレータ(インガ・ラングドレー)が訪ねて、セシーリアももう一度夫と話しあうとグレータに告げる。映画は受付にあいさつして産院を出るヨルディスの姿で終わる。のちにベルイマン自身が「柔らかくて少し馬鹿らしいシチューみたいな映画だ。発表当時は好評だったが今観ると非現実的で古臭い。撮影には7週間かかり、女ばかりに囲まれていたので芸術であれ生活であれ、二度と女性と一緒には組むまいと決心したほどだ」と失敗作と認めた作品。映画の終わり近く出てくるセシーリアの夫アンデシュの妹グレータ役のインガ・ラングドレーは『第七の封印』でも最後に出てくる騎士の妻カーリン役で、本作はベルイマン一座の俳優陣に'60年代ベルイマン作品のヒロインとなるイングリッド・テュリーンが初めて大役を任された。庶民派エーヴァ・ダールベックと小娘ビビ・アンディションに対してテュリーンは冷たくインテリジェントな容貌で、言っては何だが精神的にも肉体的にも冷感症的・神経症的な近寄り難さがある。その後テュリーンはテュリーンに似てもっと肉感的なリヴ・ウルマンに取って替わられるのだが、『不良少女モニカ』のハリエット・アンディションを含めて歴代主演女優に一通り手をつけたベルイマンというのも何をか言わんやで、本作は独立プロ、ノーディスク社がベルイマン向きとして完成脚本ごと持ってきた機会で、ベルイマンもホイホイ引き受けたのだからベルイマンの女好きは業界内では周知の事実だったということだろう。あらすじからも一目瞭然で(1)夫婦仲が悪く子供が欲しいかわからなくなっているセシーリア(イングリッド・テュリーン)→流産する、(2)夫婦円満で子供の誕生が待ち遠しいスティーナ(エーヴァ・ダールベック)→死産、(3)周りの理解や協力もなく私生児を孕んで悩むズベ公ヨルディス(ビビ・アンディション)→母親に許され里帰り出産に旅立つ、と一見お話は大変図式的で、テュリーンが主役、ダールベックが引き立て役、アンディションが脇役に見えるが実際はセシーリアとスティーナの対照的な境遇と運命に立ち会って堕胎を考えていた小娘ヨルディスが私生児を産む決意をする物語になっている。実験的な野心作だった前2作に較べて小粒な作品ではあるがベルイマンが自虐的に語るほど取り柄のない作品ではなく、7週間は撮影期間5週間が標準的なスウェーデン映画では難産の大力作。女優たちはすべてノーメイク、産婦人科病院内のみでドラマが進行するため服装も白衣ばかりだし、これほど全編で白い映像の続く映画は商業映画では珍しい。B/W映画でもっとも強い色は黒ではなく白なので、ベルイマンはのち第27作の看病映画『仮面/ペルソナ』'66ではもっと徹底して白い画面に挑む。前2作よりぐっと身近な題材で構成・内容ともに比較的平易で明快な本作の弱点は単調で先が読め、あまり面白くないことだが、面白いばかりが映画の良さではない。この白い映像の連続には物語の平凡さを越えて画面に魅入らせる何かがある。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。