人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年8月20日・21日/キング・ヴィダー(1894-1982)の'30年代ヒット作(後)

 キング・ヴィダー(1894-1982)は、サイレント時代すでにアメリカ映画最高の映画監督でした。第1長編『涙の船唄』'20は父子もの(孤児を育てる孤独な男ですが)の古典といえる作品ですし、サイレント映画史上第3位の大ヒットを記録した第1次世界大戦が背景の戦争ロマンスの大作『ビッグ・パレード』'25は似た題材の戯曲から明らかにヴィダー作品を意識したヒット作『栄光』'26(ラオール・ウォルシュ作品、ジョン・フォード『栄光何するものぞ』'52はウォルシュ作品のリメイク)、さらに『栄光』を下敷きにしたハワード・ホークス出世作『港々に女あり』'28を生み出し、『ラ・ボエーム』'26はオペラのサイレント映画化という困難を完全にオペラ的要素を払底して『風』'28(ヴィクトル・シェーストレム作品)とともにヒロイン役リリアン・ギッシュのグリフィス作品以降最高の作品になったメロドラマで、『群衆』'28はあえて無名キャストを起用し翌年のアメリカの大恐慌を予見したかのような平凡な核家族の悲劇を描いた恐るべきホームドラマで興行的に大失敗した作品でしたが早くから名作と再評価されました。サイレント映画の監督、俳優が映画のトーキー化に適応できず多くは生彩を失った中でヴィダーの好調はトーキー化以降の'30年代にも続き、今回観直した4作程度では足らず'30年代作品はどれもヴィダーの代表作と言えるものばかりです。'40年代になるとアメリカ映画は戦争映画と犯罪映画のブームになってしまうので、ヴィダーはアメリカ映画のもっとも健康な時代に本領を発揮した映画監督と言えます。観直した4作のうち『テキサス決死隊』と『チャンプ』は必見レベルの名作(この順)、『ビリー・ザ・キッド』は名作ながらやや上級者(30分あれば記憶だけで「アメリカ映画名作ベスト100」を監督名と製作年度つきで書ける程度)向け、『麦秋』はなおかつ作品自体の外圧的瑕瑾を許容できて歴史的背景についての理解もある愛好家向けと、名作なりにも差違はややあります。戦前の日本の映画批評文献を読むと日本でもっとも批評家と観客両方に愛された外国映画の監督はフランスのルネ・クレールとともにアメリカ映画ではキング・ヴィダーであり、この戦前の日本人映画批評家・観客の見識は誇っていいのではないでしょうか。

●8月20日(日)
麦秋』Our Daily Bread (アメリカ/ユナイト'34)*74min, B/W, Standard

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・ヴィダーが新聞報道から着想し経済恐慌後の農地開拓運動に材を取った作品で、非商業的題材のため独立プロダクションを設立し無名キャストで製作(配給はメジャーのユナイテッド・アーティスツ)、多くの評で年間ベスト10に上げられる意欲作になった作品。ヴィダー夫人エリザベス・ヒルとの共同オリジナル脚本で台詞監修はジョセフ・マンキウィッツ(!)。レオス・カラックスサイレント映画のフェヴァリットに上げる恐慌前夜のリストラされたサラリーマンの悲哀を描いた傑作『群衆』'28の続編的内容でもある。失職した元サラリーマンのジョン(トム・キーン)とメリー(カレン・モーリー)のシムス夫妻は貯蓄も底を尽き、アパートも追い立てを迫られる。来訪した伯父は、ジョンに都会を離れ田舎に行くことを勧める。無価値に近い担保の荒れ地を開拓する仕事だが、ジョンは喜んで伯父の命に従う。土地は荒れ果てていたが、ジョンは懸命に耕作を試みる。しかし都会生活に慣れたジョンの腕前では耕作は一向に進まない。運良くジョンは畑を取り上げられ当てもなく移住しようとしている農民クリス(ジョン・クオウルン)一家に出会い助力を求める。クリスの指導で翌日からようやく耕作は進む。ジョンはクリスと計画し、「耕作人募集」の立て札で大勢の労働者が集まり、いよいよ大々的に耕作が開始された。人々はコミューンとなり、収穫も等分に分配される。やがて芽が生え人々は歓喜する。そこに土地が州によって競売されることになったが、全員の示し合わせで1ドル50セントで落札を成功させる。雨の夜、都会の女サリー(バーバラ・ペッパー)が病気の父親を自動車に乗せて村に紛れ込んできた。父はすでに死亡しており、サリーは人々の親切でこの村に止まることになったが、村の一員ルイ(アディスン・リチャーズ)はサリーを警戒する。その内ジョンがサリーに心を引かれ始める。麦は収穫が近づいたが村の食料は次第に欠乏し、まだ収穫のない村は窮乏する。ルイは自分をサリーに警察へ連行させて懸賞金を取らせた。ルイは重罪犯で懸賞付お尋ね者だった。ルイの犠牲により食料危機からは脱したが、日照りが続き麦は日増しに弱っていく。絶望したジョンはサリーを連れて村を捨てようと自動車を走らせたが、村から2マイル離れた水力発電所の稼働に気づきサリーを振り切って一散に村に帰る。ジョンは川から水を引くために村人を集め、人々は夢中になってつるはしを振り上げた。ついに溝は麦畑まで続き、川から水は麦畑に流れ込む。シムス夫妻は寄り添い、歓喜する村人たちを見つめる。映画冒頭、主人公がクリスマスのチキンを肉屋でウクレレと物々交換して手に入れるシーンがユーモラスでわびしい(肉屋は一度丸々としたチキンを手にしてから思い直して痩せたチキンを主人公に渡し、主人公が去った後ウクレレをつまらなそうにはじく)。開墾農地アルカディアにジョンとメリーのシムズ夫婦が移住するがこれまたわびしく寂びれはてているのが、このアルカディアという地名の命名は笑えないギャグの名人マンキウィッツの仕業か。農夫クリフ夫妻を始めにコミューンが出来上がってきてからがドラマの本番だがシムズ夫妻だけで話が進んでいく序盤はルノワール亡命時代のアメリカ映画『南部の人』'45の先駆作的趣きもある。財政危機をボギー似の脱獄囚ルイの自首と懸賞金が救うのもルイの人物像に十分な伏線が張ってあるから納得と意外性の両方を満たし、本作でもユーモラスで余裕のある画面がしっかり細部を豊かにしている。ただし干魃の予兆が出てくる4巻末~5巻冒頭(映画50分頃)でおそらく1巻分弱のカットがあり、5巻目では流れ者のフラッパー、サリーとジョンにすでに関係があったことになっている。米IMDB(Internet Movie Database)のデータでは本作は全長版80分となっているのでヴィダー自身か配給のユナイテッド・アーティスツか公開当時のヘイズ・コード(1934年施行、1968年廃止のアメリカ国内の映画倫理基準)によってカットされたのかもしれない。本作は一般的な好評の一方で社会主義的という批判と評価もあったとされるので、社会主義的として評価する観点からも浮気が原因で事業を投げ出しかけるエピソードは好ましくなかっただろうと想像される。駆け落ち未遂から水力発電所の稼働に気づき、2マイルの水路を掘って畑に川水を引き、というラストまでの流れは感動的なだけにその直前の唐突な飛躍は瑕瑾ではあるが気にかかる。それにしてもフリッツ・ラングアメリカ映画第1作『激怒』(MGM'36)のプロデューサーだったのもつい先日知って驚いたが、ヴィダーの本作もマンキウィッツがらみの作品だったというのは面白い。2年後の『激怒』のような構成の捻りは本作は稀薄だが、開拓村の愛すべき変人たちのキャラクターにはマンキウィッツのダイアローグ監修の比重の高さを感じる。

●8月21日(月)
『テキサス決死隊』The Texas Rangers (アメリカ/パラマウント'36)*98min, B/W, Standard

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テキサス州創生100年祭を祝う一環として製作されヴィダー原案、ヴィダーと夫人エリザベス・ヒルの共同オリジナル脚本。18世紀末、中西部を荒らし回りテキサスに流れついた3人組の無法者のうち2人がひょんな事からテキサス・レンジャーズとなり、元仲間の1人が率いる強盗団と対決することになる。1940年に続編(後述)、1949年にリメイクも作られて今でも人気の作品。ある夜、役人に不意を襲われた強盗3人は何とか逃れたが、ジム(フレッド・マクマレイ)とワフウ(ジャック・オーキー)は仲間のサム(ロイド・ノーラン)とはぐれてしまう。2人はサムが情婦の家へ隠れたと目星をつけテキサスへやって来る。当時テキサスは未開の地で、インディアンは絶えず白人を襲撃し、家畜泥棒、銀行や汽車を襲う強盗が横行し、入植者の殺害が相次いだ。半官半民で結成された自警団「テキサス決死隊」が命がけで治安を維持しており、さすがのジムもワフウも決死隊を恐れてテキサスでは仕事ができない。金は無くなり腹は減る。遂に2人は警備隊に志願して採用される。就任早々出動した2人は偶然家畜泥棒になったサムに会い、ジムとワフウは決死隊の情報を漏らして彼を助ける約束をする。隊へ帰る途中2人はインディアンに襲われ両親を殺された少年デイヴィッド(ベニー・バートレット)を救う。インディアンの叛乱はますます激化し、隊長(フランク・シャノン)は討伐する計画を立てて決死隊総員が出動した。しかし数倍の大軍を相手に決死の奮闘も虚しく、決死隊は隊長、ジム、ワフウ、その他数人を残して全滅し、援軍を待つばかりになる。ジムはインディアンの包囲を突破し急を援軍に告げ残った決死隊隊員を救い、インディアンを奥地に撃退する。さらにキンボール地方にヒギンスというボスがいて住民を苦しめているという報せが舞い込む。ジムは選ばれて討伐に向かうことになったが、ジムはヒギンスを追い払った後へサムを呼んでその地方の利権を独占する計画を立てる。しかしワフウはインディアン討伐以来決死隊の勇敢な行動に感激して悪事から足を洗う決心をしており、ジムに賛成しなかい。単身キンボールに向かったジムの活躍はめざましく、ヒギンスを投獄し住民から感謝されジムの心は動揺する。彼はサムと手を切り、恋仲になった隊長の娘アマンダ(ジーン・パーカー)と平和に暮らすことを楽しみに隊へ帰る。ところがヒギンス無き後サムは「水玉(ポルカドッツ)の怪賊」として無法地帯にますます悪事を重ねる。ジムの前身を知る隊長は、再びサム討伐の命がジムに下してジムの本心を試す。ジムは旧友を討つに忍びず命令を辞退して投獄される。彼の代わりにワフウはサムの討伐を志願し、同行をせがむデイヴィッドを連れてサムの隠れ家に向かう。ワフウはサムを欺きデイヴィッドに手紙を持たせて警備隊を呼ぼうとしたが、デイヴィッドはサムの配下に捕らえられワフウはサムに殺される。ワフウの死体は馬に乗せられて警備隊に届けられ、ジムは奮然として隊長に願い出獄を許され、単身サムの隠れ家に乗り込みワフウの仇を討ち、同時にテキサス決死隊の誓いを新たにする。本当にヴィダーは人情劇(『涙の船唄』『チャンプ』)をやらせても戦争映画でも(『ビッグ・パレード』)社会派ドラマでも(『群衆』『麦秋』)西部劇でも見事なものだな、と惚れぼれする。西部劇でも『ビリー・ザ・キッド』と本作ではテイストはかなり違う。本作はマクマレイ、オーキー、ノーランの主役3人の悪漢が顔を並べただけで絵に描いたようなはまり方で、キャストに合わせて原案を思いつき脚本を書き下ろしたとしか思えない。ジム(主役)、サム(ライヴァル)、ワフウ(お人好し)とニックネームまで決まっている。女性を描いても上手いヴィダーにしては本作は男の映画だが、女性を描くのがとことん苦手な黒澤明が男を描くと上下関係の構図に収めてしまう重たさがヴィダーの男映画にはつきまとわず、垂直的な人間関係はドラマにしやすいが本作の3人のような水平的な関係はどうしたらドラマになるか。この『テキサス決死隊』は一種の模範解答のような見事さで、決死隊の隊長が出てきて男の覚悟を説いても黒澤映画の志村喬のようには描かれない。隊長も入植者たちも平等な人間として描かれており、だからこそ志願者が組織されて無法の略奪者と闘う。農民に雇われて野盗集団と戦う七人の侍のようにヒロイズムのために闘っているのではない。黒澤映画で言うならむしろ『影武者』ではないかと異論が出そうだがあれも武将の影武者だからこそ出てくる発想で、テキサス決死隊は隊長さえも全員雑兵に過ぎないのに一人一殺の覚悟で闘う。アメリカ人の開拓者精神がここにある。それを体現するマクマレイとノーランももちろん素晴らしい西部劇の顔なのだが、『チャップリンの独裁者』'40でチャップリンを喰う怪演を観せたジャック・オーキー(ムッソリーニをモデルにしたイタリア首相ナパロニ役)が素晴らしい。マクマレイとノーランは代役が利いたかもしれないがオーキーのワフウは代役が利かない。オーキーだけ関西人みたいでもある。『独裁者』もオーキーがあまりに面白いのでチャップリンが喰われてみせたに違いなく、製作年を考えればチャップリンがオーキーに目をつけたのは本作だったのかも(キャリアや映画人としての姿勢の親近からチャップリンがヴィダーを注目していたのは十分ある)しれない。

『続・テキサス決死隊』The Texas Rangers Again (アメリカ/パラマウント'40)*68min, B/W, Standard
(なぜかポスターでは題名が……?)

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・監督ジェームズ・ホーガン、同じパラマウント映画で原題も『The Texas Rangers Again』なのに『テキサス決死隊』とは縁もゆかりもない現代コメディ西部劇。テキサスの牧場で牛が大量盗難に遭う。牧場関係者に犯人の目星がつけられ、2人の捜査官が数々の妨害にあいながら事件の真相に迫る。主演エレン・ドリュー(ヒロイン)、ジョン・ハワード(主役)はともかくとして脇役をアキム・タムロフ、メイ・ロブソン、ブロデリック・クロフォードと芸達者で一癖あるキャストが固めているのに壊滅的に面白くない。68分という短さが唯一の救いだが、こういう詐称作品みたいなものさえあるから西部劇の世界は底なしに深い。前々から存在は知っていたがあらゆる期待や予想を捨ててもいかんともし難いつまらなさで、功徳があるとすればこれほどの凡作を観るとその分映画経験値が上がったような気がしてくることくらいで、名作を観て名作たるゆえんを判別するより自信を持って凡作を凡作と断言する蛮勇は山ほど凡作を観ないと身につかない。それだって喰わず嫌いでなく映画を観る楽しみではないか。