萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。
萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)
詩集『氷島』本体表紙
萩原朔太郎の詩集で初めての文語詩集は大正14年(1925年)8月刊の『純情小曲集』でした。同書は前半に萩原の第1詩集『月に吠える』(大正6年=1917年2月刊)の収録詩編(大正3年=1914年8月~2月発表作品)に先立つ大正2年(1913年)5月~大正3年5月発表の初期詩編18編をまとめた「愛憐詩篇」、後半に大正12年1月~大正15年5月発表の最新作から郷里を詠った文語詩をまとめた「郷土望景詩」10編からなる変則的な編集の詩集です。萩原は遅咲きの詩人で、ようやく短歌や自由詩を創作発表し始めたのは27歳の大正2年(1913年)4月からでした。萩原と同年の明治19年(1886年)生まれの石川啄木は前年の明治45年(大正元年・1912年)4月に数え年27歳で夭逝しており、萩原は与謝野鉄幹・晶子夫妻の詩誌「明星」に依る北原白秋(1885-1934)、啄木に傾倒していましたから(「明星」同人でも高村光太郎<1883-1956>には敬意を払いつつ反発していましたが)、啄木生前の歌集『一握の砂』(明治43年=1910年12月刊)、病床で編集が完了しており急逝により追悼出版になった『悲しき玩具』(明治45年6月刊)、啄木の親友で前2歌集の編集・刊行の協力者だった土岐哀果が編集し、啄木生前唯一の詩集『あこがれ』(明治38年=1905年5月刊)以降の自由詩(最晩年の未完詩集「呼子と口笛」を含む)と批評を集成した『啄木遺稿』(大正2年=1913年5月刊)のうち『悲しき玩具』と『啄木遺稿』はベストセラーになりましたし、萩原も熱心な愛読者だったと思われます(昭和3年刊の長編詩論『詩の原理』で萩原が「真の詩人」として上げる日本の詩人は芭蕉と啄木です)。啄木の死と入れ替わるように萩原は詩を書き始めたわけですが、萩原の処女作と言える詩編は北原白秋主宰の詩誌「朱樂」大正2年5月号に一挙掲載された自由詩の短詩6編で、いずれも「愛憐詩篇」に収録されますが、これがデビュー作となる詩人の作品としては驚異的に完成されたものです。6編中でも著名な2編を上げてみます。「夜汽車」は「愛憐詩篇」の巻頭詩でもあります。次の「旅上」ともイメージ上の「旅情」をテーマにした作品であることに注目してください。
有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
(「愛憐詩篇」より「夜汽車」全行・大正2年=1913年5月「朱樂」)
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
(「愛憐詩篇」より「旅上」全行・大正2年=1913年5月「朱樂」)
27歳と十分な年齢ではありながら詩作を始めたばかりの詩人の作品とは思えません。大正2年5月「朱樂」発表の6編全編がこの水準にあり、また大正3年5月発表までの「愛憐詩篇」18編の全編についてもそう言えるのです。口語自由詩の詩集である第1詩集『月に吠える』収録詩編は大正3年8月に始まりますから、萩原は1年間に充実した瑞々しい文語抒情詩の作詩期間を過ごしていたことになります。「夜汽車」は萩原自身が愛していた夭逝の人妻をイメージしたものというのが定説ですが、そうした伝記的背景を抜きにして読んでも、
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
――という甘美な描写から転調して、
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
――と結ぶ後半にいたる構成は絶妙です。萩原自身の自画像とも言える「旅上」のたった9行で「ふらんす」と日本の片田舎を重ねあわせる軽やかな腕前もつい数年前まで難解な象徴詩、または社会的な問題詩が最先端だった日本の詩の思潮から飛躍した奇想天外な発想で、しかも明治詩と大正詩の境目に登場した北原白秋、三木露風(1889-1964)とも異なり日本語の詩として画期的にこなれた作品でした。しかし白秋、露風には今日あまり顧みられないながらも膨大な詩集がありますが、萩原の詩集はすべて合わせても白秋や露風の1/10にも満たないでしょう。1編ごとに彫拓を重ねたというよりも、文語と口語の折衷と多作の利くルフラン形式に乗っ取っていた白秋や露風とは違い、萩原の詩は最初期の文語抒情詩すら1編ごとに形式の異なる発明でした。まず形式ありきではなく、詩想に応じて作品の形式が生まれたのです。こうした詩人には多産な時期ですら限界があり、平均して多作は望めません。「愛憐詩篇」18編は質の高さでは驚異的ですが、短いものでは「靜物」の4行、長いものでも「緑蔭」の16行で総数208行ですから1編平均11.5行となり、1年間の作品としては多い分量とは言えないのです。初期の萩原には文語抒情詩は1年間の執筆・発表からなる「愛憐詩篇」18編でやり尽くした気持があったでしょう。
口語自由詩に転じた萩原が発表した詩集は、第1詩集『月に吠える』(大正3年=1914年8月~大正6年=1917年2月発表作品を収録、全56編・大正6年2月刊)、第2詩集『青猫』(大正6年2月~大正11年=1922年7月発表作品を収録、全55編・大正12年=1923年1月刊)と続き、第3詩集『蝶を夢む』は大正4年3月~大正12年5月発表作品60編(うち詩集初収録44編)を前篇「蝶を夢む」(『青猫』拾遺)と後篇「松葉に光る」(『月に吠える』拾遺)に分けて収録した変則的拾遺詩集で、次に編まれたのが第4詩集『純情小曲集』(大正14年=1925年8月刊)がでした。詩集前半の大正2年5月~大正3年5月発表の初期詩編18編「愛憐詩篇」はともかく、後半の最新作「郷土望景詩」10編は大正12年1月~大正15年5月発表作品ですが、「郷土望景詩」と同時期には後に第5詩集である全詩集『萩原朔太郎詩集』(昭和3年=1928年3月刊)で「青猫以後」としてまとめられた20編の口語自由詩も発表されています。『萩原朔太郎詩集』では昭和2年までの新作を含み、「郷土望景詩」は「監獄林の裏」1編が増補され全11編になりました。また昭和11年3月の改訂版詩集で第7詩集『定本青猫』では『青猫』「蝶を夢む」「青猫以後」が合本され、「青猫以後」の時期に昭和2年までの2編が増補されます。大正12年~昭和2年の萩原は口語自由詩「青猫以後」と文語抒情詩「郷土望景詩」を書き分けていたということです。第6詩集『氷島』(大正12年1月からの「郷土望景詩」の再録4編に大正15年4月~昭和8年6月発表作品21編を収録、昭和9年=1934年6月刊)がいかに難産の詩集だったかが作品数と詩集成立の年数から伝わってきます。「郷土望景詩」は郷里・前橋への様々な思いを詠った静謐な作品が多いのですが、かろうじて「旅情」というテーマでつながる詩を拾ってみましょう。
野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に來りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰はまむとして賣る店を見ず
ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の莖は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋(きし)りつつ來るを知れり。
(「郷土望景詩」より「新前橋驛」全行・大正14年6月「日本詩人」)
ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直ちよくとして前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて齒を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往ゆくものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
(「郷土望景詩」より「大渡橋」・大正14年6月「日本詩人」)
旅情というよりは旅立てない詩人の諦観を感じさせる内容ですが、意に反して帰郷して蟄居せざるを得ない環境にある語り手が旅心を抱えて鬱屈している様子はよく描かれており、ここではまだ「愛憐詩篇」の詩人が現実に直面した落差が感じられます。文体面では一見して漢語が増えて文面が黒っぽくなり、行末表現が連用詞や体言止めでなだらかに水平的な流れがあった「愛憐詩篇」と違って「たり」「けり」「~や」「~かな」「~とす」と俳諧で言う漢文脈の「切れ字」が多用されているのが目につきます。吉田兼好以来の日本語の基礎的な「和漢混交文」には違いないのですが、「愛憐詩篇」の文体が短歌的な水平性を目指し、さらに口語自由詩転向後の『月に吠える』『青猫』ではより柔軟かつ複雑に水平的な文体が追究されたのに較べると、「郷土望景詩」は文語抒情詩への回帰ではなく俳句的な垂直的文体への転向だったと見るべきでしょう。つまり同じ文語抒情詩でも和文脈の「愛憐詩篇」を裏返した詩想と漢文脈の文体に自然に変化したのが「郷土望景詩」であり、追放(疎外)された詩人というのは西洋のロマン派でも象徴主義の詩でも典型的なテーマですから「郷土望景詩」の語り手はフィクションの詩人でもよく、その点では自由にフィクションとして成立している「愛憐詩篇」と変わりありません。ところが『氷島』の「旅」の詩編では「愛憐詩篇」の詩人の面影もない無惨な心境が詩的なフィクションのフィルターをかけず直截に作品化されています。
わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ來て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇氣おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。
(『氷島』より「歸郷」、題辞「昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る」全行・昭和6年=1931年3月「詩・現實」)
汽車は出發せんと欲し
汽罐(かま)に石炭は積まれたり。
いま遠き信號燈(しぐなる)と鐵路の向うへ
汽車は國境を越え行かんとす。
人のいかなる愛着もて
かくも機關車の火力されたる
烈しき熱情をなだめ得んや。
驛路に見送る人人よ
悲しみの底に齒がみしつつ
告別の傷みに破る勿れ。
汽車は出發せんと欲して
すさまじく蒸氣を噴き出し
裂けたる如くに吠え叫び
汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。
(『氷島』より「告別」全行・昭和5年=1930年2月「ニヒル」)
これら『氷島』の作品は「郷土望景詩」と一見似ていながらさらに漢語の比率が増加し字面が黒く一行が短く、また詩の語り手=詩人が萩原であり、かつ題材が詩人自身の実体験という前提がなければ詩としてのリアリティを失ってしまう、という弱点があります。詩のリアリティは必ずしも現実的背景の面でのリアリティを必要とせず、むしろフィクションとして自律性を備えた詩ほど純粋で高度なので、『月に吠える』や『青猫』の「おれ」や「わたし」「わたくし」は萩原自身ではなく作中人物の一人称であり、三人称の作品ですら客観的語り手は詩人自身ではなく作品ごとの語り手として仮構されたものです。その姿勢は「愛憐詩篇」『月に吠える』『青猫』から「郷土望景詩」までは貫かれており、ただし「郷土望景詩」では詩人自身とその境遇、その背景をモデルとしてフィクションとしてはぎりぎりのところまで告白詩に近づいていました。萩原もその際どさには気づいていたはずです。「郷土望景詩」と平行して書かれた「青猫以後」の詩編は『青猫』以上にフィクションやファンタジーの度合いの強い、作品ごとに異なるペルソナを仮構した作中人物の語りによるものです。萩原生前最後の詩集となった自選抒情詩・散文詩選集『宿命』(昭和14年=1939年9月刊)の抒情詩68編は『氷島』の25編から19編(「郷土望景詩」との重複4編を含む)、「郷土望景詩」の10編から8編、『定本青猫』の69編から45編(この順で配列)が選ばれており、『定本青猫』からは後半の「青猫後期」「青猫以後」に当たる部から選ばれていますから、晩年の萩原が自作の抒情詩では『定本青猫』後半(大正10年~)、「郷土望景詩」、『氷島』(~昭和8年)に至る時期を絶頂期と見ていたことがわかります。また完全な新作詩集としては最後の作品になった『氷島』を最大の力作と自負していたことも『宿命』収録への収録比率と配列からうかがえます。しかし『氷島』は一人称の詩編はもとより三人称の詩編すらも語り手を常に萩原自身として読まれるのを前提とした詩集であり、それまでの萩原の詩に溢れていた自由なフィクションやファンタジーの感覚を捨て去った例外的な詩集でした。『宿命』の前半を占める「散文詩」集は萩原が「情調哲学」「アフォリズム」と呼んだエッセイの断章集『新しき欲情』(大正11年4月刊)、『虚妄の正義』(昭和4年10月刊)、『絶望の闘争』(昭和10年10月刊)から67編の断章を選んで散文詩とし、新作を6編加えたもので、これらは元来エッセイですから萩原自身が語り手であってもおかしくはありません。『宿命』という変則的な構成の選集だからこそ『氷島』に重きを置いた抒情詩の選択がなされたのかもしれませんが、萩原にとって『氷島』がたとえ詩的後退であってものっぴきならない到達点という意識があった(萩原自身が三好達治からの批判にそう答えています)ゆえんは、昭和年代に入って批評とエッセイの執筆が盛んになった萩原が長編詩論『詩の原理』(昭和3年12月)の執筆をきっかけに日本の古典詩歌の方法への関心を深め、万葉集から新古今集までを対象とした『恋愛名歌集』(昭和6年5月刊)、また『郷愁の詩人与謝蕪村』(昭和11年3月刊)の2冊の古典詩歌鑑賞があり、前者は『氷島』収録詩編創作と平行しており、後者は『氷島』を仕上げにかかった時期から書き始められた、という背景があります。『氷島』が巻頭詩「漂泊者の歌」の前に、一句、
我が心また新しく泣かんとす
冬 日 暮 れ ぬ 思 ひ 起 せ や 岩 に 牡 蠣
――と自作の俳句(!)を詩集の題辞に置いているのもその証拠で、萩原の出発点は元々短歌でした。萩原が師事した北原白秋、傾倒した石川啄木も自由詩と短歌では短歌の方が多産な詩人でしたし、白秋、啄木とも与謝野鉄幹・晶子夫妻の詩誌「明星」出身で、鉄幹・晶子とも自由詩は余技で本領は短歌です。総論的な詩学の『詩の原理』の執筆は萩原を日本の古典詩歌の検証に向かわせ、まず『恋愛名歌集』が成り、また萩原は芭蕉を最大の俳句の詩人と見なしていましたが芭蕉の偉大さは広く認められているので与謝蕪村の再評価を試みました。この2冊はそれぞれ専門歌人・俳人にも好評で萩原の批評的著作でも例外的に今日でも親しまれており、短歌また俳句の実作者・専門的読者には独断や的外れ、勘違いが目立つ鑑賞なのですが、萩原が本気で取り組んで堂々と自説を披露している力作なのがかえって爽快な好著と定評あるものです。詩集『氷島』は萩原が日本の古典詩歌との連続性を初めて意識して書いた詩集と見ることができ、萩原は『氷島』を古典俳諧からの延長にある詩集と考えていたのが牡蠣の俳句から想定することができます。俳句はその表現の圧縮性から短歌(和歌)のメロディアスな朗詠調の和文脈を採ることが難しく、必然的に漢文脈の断言調に傾くことになります。否定も肯定も疑問も和文脈より強く響きます。またフィクションとしての仮構性を一旦排して語り手=作者の前提に立たなければ圧縮した表現が成立しないので大規模な連作全体でフィクションを組み立てることはできても一句単位で仮構性を表現するのは困難です。芭蕉の遺作で連作俳句を含む長編紀行文『おくのほそ道』は今日入念なフィクションであることが解明されており、芭蕉の大半の俳句がフィクションなのも判明しましたが、萩原生前の時代には芭蕉の俳句は実景を詠んだリアリズム作品と考えられていました。萩原が一見して明らかに虚構性の高い蕪村の俳句の再評価を訴えながら、詩境の高さでは芭蕉を最大の俳句の詩人と考えていたことも思いあわせるべきでしょう。『郷愁の詩人与謝蕪村』の序文には「かつて芥川龍之介君と俳句を論じた時、芥川君は芭蕉をあげて蕪村を貶した。その蕪村を好まぬ理由は、蕪村が技巧的の作家であり、單なる印象派の作家であって、芭蕉に見るやうな人生觀や、主觀の強いポエジイが無いからだと言ふことだった。」そして芥川の蕪村評が現在の蕪村への「定評」になっている、と指摘しています。芥川には大正12年~13年雑誌発表の作家論「芭蕉雑記」があり、単行本にまとめるために昭和2年には「続芭蕉雑記」「芭蕉雑記補遺」を書いて7月末に自殺、「続芭蕉雑記」は没後翌月の発表になりましたから晩年の陰惨で内省的な作風に移行した時期に芭蕉論が書かれたことがわかります。おそらく萩原と俳句談義があったのはその時期でしょう。萩原には芥川への畢生の追悼文が数編あり、萩原のエッセイ中白眉のものですが、「郷土望景詩」の詩編を発表した時に芥川が興奮して「どうしても君と語りたくなった」と訪ねてきた、と回想されています。「郷土望景詩」最初の作品は大正12年1月発表の「中學の校庭」ですがしばらく「青猫以後」の作品が続き、帰郷時の作品「公園の椅子」が大正13年1月に発表されますが掲載誌が地方紙の「上州新報」ですから芥川の目に触れたとは思えず、次に大正14年6月の「日本詩人」に「小出街道」「新前橋驛」「大渡端」の3編が一挙発表されますから、芥川が興奮して訪ねて来たのはこの時でしょう。大正14年の芥川は1月に「大導寺信輔の半生」、9月に「海のほとり」「死後」がありますが創作ペースが落ち、2月に萩原が近所に越してきて交際が深まりましたが、同月から半年をかけて精魂をつくし編集した全5巻の文学全集『近代日本文藝讀本』が版元の不手際から無断収録・印税配分の問題を生じて文壇中の非難の的となり芥川は精神的打撃を受けます。また媒酌した親友と親友の妹の結婚が離婚に至ったのも悩みとなり、翌年には不眠症の悪化で睡眠薬の摂取量が増え、義弟の長期の重態の闘病も心労になり、ストレス性の胃腸炎と前年の事件に因る関係妄想から統合失調様症状が言動に現れます。昭和2年には自宅が全焼した義兄が保険金詐取目的の放火容疑がかけられて自殺し、高利の借金があったために芥川が後始末に奔走することになりました。前年からの経済的切迫のために無理に創作は増え、作品は1月に「玄鶴山房」、3月に「河童」、6月に「歯車」が代表的なもので、7月末に自殺を明言した遺書である遺稿「或旧友へ送る手記」を残して自殺しました。没後発表の作品も用意してあり、自伝的作品「或阿呆の一生」、「続芭蕉雑記」、キリスト評伝「西方の人」の完結編「続西方の人」が主な没後発表の遺稿です。
いささか芥川についての言及が長くなりましたが、同時期の萩原はどうしていたかというと、実家からの仕送りや夫人の健康の事情から大正14年末には転居、さらに翌年転居し、芥川の自殺の翌年(昭和3年)にはダンスを習い始め大正8年に結婚した13歳年下の夫人に社交教育を思い立ってダンスホールやバーへの夜間外出を奨励、結果翌年には萩原夫人はバーの従業員と駆け落ちして家を出てしまいます。昭和4年7月末に協議離婚が成立して二女の親権は萩原家が持つことになり、長女は後に文筆家となる萩原葉子ですが、次女は知的障害児でした。同月に二女を連れて帰郷した経験を詠んだ詩が「昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る」と題辞のある「歸郷」です。この離婚前後から離婚後の生活が詩集『氷島』の背景になっており、文学者に限らず歴史的人物の伝記研究には書簡は第1級資料ですが、萩原の書簡は手紙の相手に甘えた精神的未成熟さが生涯に渡っており、離婚問題でもっとも相談役になった親友・室生犀星宛ての書簡ではわざと自嘲してみせる以上に夫人や二人の女児、実家の家族についても責任や思いやりを欠いた内容で、40代半ばの家庭を持つ男の文章と思うと軽薄さに嫌悪感すら催されるようなものです。芥川のように繊細で責任感が強かったためにストレスに押しつぶされて自殺に追い込まれた性格とはまるで異なり、創作家として倫理的にも自由なのは構いませんが生活者として萩原のようなあり方は困ったものでしょう。『氷島』の悲壮さが一面ひとりよがりでいい気にも映るのは漢文脈から感じられる気取りと自惚ればかりではなく、採用された文体の作為性で表現内容の貧しさを塗装している弱点がほぼ確実にあるからで、三好達治からの『氷島』批判に『氷島』の背後には「自殺の危機すらあつた」と萩原は弁明していますが、萩原の秘書を務めた弟子の三好には「郷土望景詩」「青猫以後」までの萩原は作品の自律性に意を払っていた、それが『氷島』では詩の告白的性格を詩的リアリティを保証するという錯覚から逆に告白性を強調する無理な文体の選択になってしまった、という事情に見えたのだと思われます。では『氷島』の文体実験には萩原の弁明以上のものはなかったのか、マイナスの成果しかなかったのか、『氷島』にはそれ自体が完結した魅力がまったく認められないのかが疑問になってきます。少なくとも『氷島』には10編の小詩集「郷土望景詩」にはないスケールの大きさがあり、真に萩原の残したオリジナル詩集として『月に吠える』『青猫』と並ぶ詩集と言える風格があります(「愛憐詩篇」「郷土望景詩」からなる『純情小曲集』、また「青猫以後」は序曲・間奏曲的詩集とします)。萩原の伝記的背景を知らずとも『氷島』に尋常ならざるインパクトを受ける読者も十分に考えられます。その場合、三好の論難は欠点ではなくこの詩集の魔力を示すものとなるでしょう。読み返すたびに印象が変わり、評価の揺れる点では『氷島』は『月に吠える』『青猫』より手ごわく謎めいた詩集でもあります。それはやはり、『氷島』のあからさまに作為的な文体によるものなのも認めずにはいられません。
(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)