人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年10月7日~9日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(3)

 ハリウッド黄金時代の映画監督は得意不得意こそあれジャンルを問わず何でも作る監督が多かったのですが、ホークスの場合も前回のスクリューボール・コメディ作品『二十世紀特急』'35に続く作品が暗黒街西部劇の『バーバリー・コースト』、その次が航空映画の『無限の青空』Ceiling Zero('36)、続いて第1次世界大戦映画の『永遠の戦場』、さらに親子二代に渡る僻地開発映画の『大自然の凱歌』と来ますから多岐に渡る題材に取り組む姿勢は実にエネルギッシュなものでした。しかもホークスの場合はフリーの自己のプロダクションで作品製作をメジャー映画会社から請け負っていたので、映画会社からの企画が社内の専属監督に振られるのが一般的だった当時、ホークス自身が映画会社に売り込んだ企画を実現させていたのです。後にはもっとホークスは得意分野の作品に企画を絞るようになりますが、この時期はとにかく何でも撮ってやろうというチャレンジ精神が旺盛だったのでしょう。多少狙いが外れた作品でも不出来というほどではなく、一作一作が趣向を変えて楽しませてくれる点ではどの作品も見所があるのがホークスの映画です。今回の3本は代表作とはまず言えない、題材の扱いと出来ばえともに難のあるものですが、それでも「映画を観たなあ」と満足感を与えてくれるだけの見応えがあります。ホークス作品中でも後回しにされがちな作品ですが、むしろこうした作品の存在にホークス映画の奥行きがあるというのはこじつけに過ぎるでしょうか。

●10月7日(土)
バーバリー・コースト』Barbary Coast (ユナイト'35)*90mins, B/W; 日本公開昭和11年9月(1936/9)

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ジャンル ドラマ
製作会社 ユナイテッド・アーチスツ映画
配給 ユナイテッド・アーチスツ映画
[ 解説 ] 「虚栄の市(1935)」「世界一の金持ち娘」のミリアム・ホプキンスサミュエル・ゴールドウィン・プロにおける第1回主演作品で、「俺は善人だ」「笑う巨人」のエドワード・G・ロビンソンと「白い友情」「世界一の金持ち娘」のジョエル・マクリーが共演する。監督は「特急二十世紀」「今日限りの命」のハワード・ホークスが任じ、脚本は「生きているモレア」「情熱なき犯罪」のベン・ヘクトチャールズ・マッカーサーが協力して書き卸したもの。撮影は「台風」「宝島(1934)」のレイ・ジューンの担当。助演者は「Gウーマン」のブライアン・ドンレヴィ、劇作家・俳優のフランク・クレイヴン、「暁の爆撃」のクライド・クック、「轟く大地」のハリー・ケイリー、ウォルター・ブレナン等である。
[ あらすじ ] 1849年、カリフォルニア黄金狂時代の事である。メアリー・ラトレッジ(ミリアム・ホプキンス)は金を掘り当てた成金のダン・モーガンと結婚する為に、遥々ニューヨークから船でサンフランシスコにやってきた。上陸第一歩、彼女はダンが暗黒街バーバリー・コーストの賭博場ベラドンナで全財産を失い、場主のルイ・シャマリ(エドワード・G・ロビンソン)に殺された事を聞いた。新聞社を始めるために彼女と同船して来たコブ大佐(フランク・クレイヴン)は、ニューヨークへ帰る旅費を貸そうと言ったが、メアリーはそれを断った。そしてシャマリと契約してベラドンナのインチキ仕掛の賭博台の1つを受け持つ事となった。彼女の美貌と嬌笑は砂金の袋を持つ男達を吸い寄せて無一文にさせた。コブ大佐はバーバリー・コーストの悪徳シャマリの暴虐を攻撃する記事を載せた新聞「クラリオン」の第1号を印刷した。即座にシャマリは乾分と共に印刷機破壊にやってきたが、駆けつけたメアリーの願いで印刷機だけは無事なるを得た。シャマリの求愛を退けるのにくさくさしたメアリーはある日ひとり遠乗りにでて、雨に遭い、雨宿りしてジェームズ・カーマイケル(ジョエル・マクリー)という青年に逢った。彼は彼女と同郷のニューヨークっ子で、砂金袋を幾つか持って故郷へ帰る途中だった。霧で船が出帆せぬのでカーマイケルはその夜ベラドンナに立ち寄った。牧場に寄付していると言ったメアリーが賭博台の客引きであると知った彼は失望した。そして麻睡薬入りの酒を飲まされイカサマ賭博で所持金をことごとく巻き上げられた。翌日から彼はベラドンナの下男となってニューヨークへ帰る旅費を稼ぐ事となった。メアリーはシャマリがメアリーが雨宿りした時一緒になった男を探して殺すと言っているので、カーマイケルに今一度勝負を挑み、彼に数万金を勝たせた。彼女を愛している彼は彼女を連れて、小船に乗って逃れようとしたが、シャマリ等に捕らえられ傷ついた。メアリーはカーマイケルを無事にニューヨークへ帰してくれれば、すべてを捧げると泣いてシャマリに訴えた。シャマリはメアリーの嘆願を容れた一方コブ大佐がシャマリの輩下に殺された事から、シャマリ逮捕の自警団が組織され、一行は波止場までシャマリを追ってきた。賭博師のシャマリは自己の運命を悟りメアリーをカーマイケルの元へ追い返し、潔く自警団に引き立てられて行ったのである。

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 テーマ曲が「おおスザンナ」の変奏、設定が19世紀中葉のカリフォルニアからも本作はジャンルとしては西部劇に入るでしょう。ただし野山や騎馬シーン、保安官や先住民などは全然出てこない、ゴールドラッシュに沸く港町バーバリー・コーストとサンフランシスコの港が舞台なので、時代物に偽装した暗黒街映画なのが本作の実態です。いかさま賭博場の酒場で金鉱採掘者から砂金を巻き上げる暗黒街のボスがエドワード・G・ロビンソン、ロビンソンに婚約者を殺され賭博場のディーラーになって復讐の機会をうかがうヒロインがミリアム・ホプキンズ、そこに現れる純朴な流れ者の青年が新人時代のジョエル・マクリーとなればキャスティングは万全で、脚本はベン・ヘクトチャールズ・マッカーサー、脇をウォルター・ブレナン、フランク・クレイヴン、ブライアン・ドンレヴィハリー・ケリー、ドナルド・ミークら渋い面々が固めるとなればまず一定水準以上の作品だろうと予想はつきます。これがワーナー作品ならラオール・ウォルシュマイケル・カーティス、MGMならヘンリー・キングキング・ヴィダー、フォックスならジョン・フォードパラマウントならヘンリー・ハサウェイに振られそうな内容ですが、例によってハワード・ホークス・プロダクション作品ですのでホークスがユナイテッド・アーティスツと折衝して実現した企画になるわけで、企画段階から映画全般の実権を握る製作体制を取っていたホークスは当時の映画監督では珍しい存在だったわけです。この作品が映画会社企画だったらウォルシュなら上手くはまりそうですし、次いでハサウェイというところですが1935年のハサウェイではまだ手に余る企画だったでしょう。ホークスとしてはベン・ヘクトに脚本を発注してロビンソン主演の暗黒街映画が作りたい、しかし前年'34年のヘイズ・コード施行であからさまに暗黒街映画になっていてはまずい、だったら西部劇にしてしまえばどうだろう、という具合にアイディアがまとまったと思われます。ヒロインがサンフランシスコに到着する前に婚約者は殺されている、作中の殺人シーンも前後の様子しか描かれない、など『暗黒街の顔役』ではじゃんじゃん殺人シーンが描かれていましたが、本作では間接的にしか描かれないのも規制をはばかってのことでしょう。それでも無法の暗黒街ムードは周到なので、間接的な描き方でも効果は十分強烈です。助演では艀のボート漕ぎで元強盗、今でも隙あらば客から強盗するのを止めないウォルター・ブレナンが快演ですが、ホークス作品にしては脇役たちの見せ場が少ない観はあり、ロビンソンの子分たち、ギャンブルで巻き上げられる砂金掘りたち、コブ大佐の新聞社、自警団の結成と街の粛正など不足はないのですがその辺を強調すると暗黒街映画色が強くなるのであっさり目になったのかもしれません。ベン・ヘクトはホークス作品常連脚本家ですが、ホークスがノンクレジットながら毎回脚本を手直してしまう癖には慣れていたのでしょう、オリジナル脚本ではもっと直接に数々のシーンが書かれていたのではないかと思われる節があります。ジョエル・マクリーが登場すると俄かに西部劇ムードが高まり、マクリー自身はクリーンでスマートな二枚目俳優なのですが、その格好良さが西部劇という虚構の中でしか生まれてこないようなものなので、現代劇でも通じるエドワード・G・ロビンソンの暗黒街のボスの存在感と対照をなしているのが面白くもあり、どこか映画全体の中途半端な印象にもつながっています。結局ラストではマクリーは散々な目に遭ったままでヒロインがロビンソンに命乞いを哀願し、その最中に自警団に子分を一掃され自分も追い詰められたことを悟ったロビンソンが投降する、というなしくずしの結末を迎えます。このラスト・シーンは『望郷』『霧の波止場』『カサブランカ』『脱出』のどれにも少しずつ似ていて、かつ決まったのか決まり損ねたようなもどかしさがあり、焦点が定まらなかったというより狙いが分散してしまった印象を受けます。ヒロイン、ロビンソン、マクリーの三者を結びつける描写が弱く、この3人はばらばらに個性を主張していて、ドラマが一つに収斂していくというよりあちらを描けばこちらを描きという具合に、ある意味公平であるためにかえって主要人物各自の関係が切り離されてしまい、ヒロインとマクリーのロマンスに話は向かいながらエンディングでは悪党ロビンソンの潔い破滅を描くのに力点が置かれています。俳優の格からしてもロビンソンを主役にした暗黒街映画を作りたいのが本作の元々のホークスの企画だったと思われ、しかしアメリカの映倫規制で4年前の『暗黒街の顔役』のようには作れないことから本作のような設定と、ヒロインを中心としたプロットにしてみたのでしょう。それでもやはりホークスはロビンソン演じる悪党を描くのにもっとも力を注いでいて、見応えのある面白い映画にはなっているもののどこか釈然としない作品になってしまったように見えます。普通の基準なら十分に佳作で通る作品ですがホークスの映画としては水準作に留まる出来、それでも一本調子でユーモアの稀薄な『暗黒街の顔役』よりも本作の余裕のある語り口の方が好ましく、人情味や愛嬌の点でも本作の方にホークスらしさを感じる見方もあるでしょう。ただし作劇・演出・映像のインパクトの強さでは圧倒的に映倫規制前の『暗黒街の顔役』に軍配が上がるのは致し方ないところです。

●10月8日(日)
『永遠の戦場』The Road to Glory (フォックス'36)*101mins, B/W; 日本公開昭和12年1月(1937/1)

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ジャンル ドラマ
製作会社 20世紀フォックス映画
配給 20世紀フォックス
[ 解説 ] 「噫無情」「アンナ・カレニナ」のフレドリック・マーチ、「虎鮫島脱獄」「ロビンフッドの復讐」のワーナー・バクスター、「噫初戀」「小連隊長」のライオネル・バリモアが主演する映画で、「愛の弾丸」のジョエル・セイヤーと「暴風の処女」の原作者ウィリアム・フォークナーとが協力して書き卸した脚本により「無限の青空」「バーバリー・コースト」のハワード・ホークスが監督に當たり、「この三人」「當り屋勘太」のグレッド・トーランドが撮影した。助演者は「空飛ぶ音楽」「極楽槍騎兵」のジューン・ラングを初め、「二国旗の下に」のグレゴリー・ラトフ、「五ツ児誕生」のジョン・クェーレン「何が彼をそうさせたか」のポール・スタントン、「意気な紐育っ子」のヴィクター・キリアン等という顔ぶれである。
[ あらすじ ] ポール・ラ・ロォシュ大尉(ワーナー・バクスター)にはモニク(ジューン・ラング)という恋人があり、2人は世界大戦が済むまで婚約していた。しかし運命の神の戯れから大尉の部下デネェ中尉(フレドリック・マーチ)は、ふとした機会で相知ったモニクを、大尉の婚約者と知らず恋をしていた。やがて世界大戦の運命を決すべき一大決戦が近づいた。討死の覚悟を決めた大尉はデネェ中尉にモニクの写真を渡し、自分が死んだら形見として彼女に渡すよう依頼した。大尉とモニクの仲を知ったデネェは、恋を断念しようと決心した。やがて彼等の属する第5中隊の補充兵は陸續として到着した。その中に白髪を染めたモラン(ライオネル・バリモア)と名乗る一老ラッパ手がいた。彼はラ・ロォシュ大尉の父親であった。大尉はこの老兵を不合格として後方に送還しようとしたが、老兵士はあくまで伜と行を共にせんと言い張った。激しい戦いの野に大尉の率いる第5中隊は、最前線に立って奮闘し多くの勇士は國の為に次々と死んで行った。デネェ中尉はモラン老兵士その他数名を率いて敵前で観測所に電話架設の決死的冒険を敢行した。その時モランは中尉をドイツ兵と錯覚し手榴弾で負傷を負わせた。このためモランは遂に後方へ送還される事となった。中尉も腕の負傷で病院へ送られそこでモニクに再会した。モニクは心の中を中尉に訴えている時、ラ・ロォシュ大尉はモランに手をひかれて這入って来た。激戦の果て、大尉は目が見えなくなったのだ。そこへ司令部から伝令が到着した。中尉は代わってそれを読んだ。「砲兵の援護砲火の着弾距離を通知せよ」モランは大尉の手を取って立った。「よし、俺がお前の眼になってやるぞ」かくてラ・ロォシュ親子は敵の猛射を潜って観測所に至り、味方の着弾距離を報告し完全に任務を遂行した。モランは最後の名残に進軍喇叭を吹かしてくれと大尉に頼んだ。やがて戦場に勇ましく響き渡ったが、その刹那巨弾は観測所に命中し、ラ・ロォシュ父子は潔く戦場の花と散ったのである。

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 キネマ旬報はこれもドラマでかたづけていますが、第1次世界大戦下の戦争ロマンスです。あらすじからもほとんど『今日限りの命』'33とおなじで失明した将校が恋人を譲って仲間とともに自己犠牲になるのも同じ、違いは本作はヒロインが魅力に乏しくロマンスの比重が後退したことと、最後の突撃に出向くコンビが軍人親子という点で、それまで役立たずだった老軍人に扮するライオネル・バリモア(ジョン・バリモアの兄)の名演がかもし出す哀感が本作の要でしょう。さて、映画監督には決まったカメラマンと組むタイプと作品毎にカメラマンを変えるタイプがありますが、ホークスはいろんなカメラマンと試して長所を引き出すのに長けていたようで、本作はジョン・フォード『果てなき船路』と『怒りの葡萄』'40やウィリアム・ワイラー嵐が丘』'39や『西部の男』'40と『偽りの花園』'41、オーソン・ウェルズ市民ケーン』'41のカメラマンになる名手グレッド・トーランドが起用されています(次作のホークスとワイラーの共同監督作品『大自然の凱歌』'38でワイラーと接点ができたのでしょう)。本作もハワード・ホークス・プロダクション作品ですがプロデューサーには名脚本家ナナリー・ジョンソンを迎えており、ナナリーというと名前の語呂が似ていて関わった監督が重なるのもありついダドリー・ニコルズと混同してしまいますが(しませんか?)、ヘンリー・キング西部劇の2大傑作『地獄への道』'39と『拳銃王』'50、フォードの『怒りの葡萄』と『タバコ・ロード』'41、フリッツ・ラングの傑作『飾窓の女』'44と並みいる傑作の脚本を手がけていますが、『飾窓~』の姉妹作『スカーレット・ストリート』'45やフォードの『果てなき船路』はダドリー・ニコルズだからややこしい。ダドリーはフォードの傑作『ハリケーン』'37と『駅馬車』'39の間にホークスの『赤ちゃん教育』'38の脚本も手がけている、という具合に縄張りがかぶりまくっており、ナナリー脚本とダドリー脚本はまぎらわしいのです。さらにナナリー製作のもと脚本は後のホークスの『脱出』『三つ数えろ』『ピラミッド』も手がけるノーベル文学賞受賞者のウィリアム・フォークナーが参加していますが、フォークナーは大作家ですが脚本家の仕事はビジネスと割り切っていた人でもあり、一方ホークスはフォークナーを優遇し尊重していたので本作では得意の改作もあまりしなかったのではないか、と思われる節があります。『脱出』や『三つ数えろ』ではハンフリー・ボガートローレン・バコールに惚れ込んでいたので撮影中に脚本をがんがん書き変えたようですし、『ピラミッド』は古代エジプトを再現したSF映画みたいなものだったので脚本から大きく膨らませることができた、しかし第1次世界大戦ものとなるとフォークナーの文学的センスに頼ってしまったのではないか。まずユーモアの欠如とキャラクターの魅力のなさ、見せ場のなさが俳優の力量ともに決定的に貧しく、ライオネル・バリモア一人が気を吐いているありさまです。トーランド、脚本家としてのナナリーとフォークナーとも頭角を現すのは少しだけ後になってのことで、20世紀フォックスからの本作はジョン・フォードでも撮りそうな真面目な作風が狙いだったのかな、と思われる作品です。'30年代のホークスの戦争映画では1930年の『暁の偵察』がもっとも優れており、一段落ちて『今日限りの命』'33、さらに落ちて本作という印象が否めないのも『今日限りの~』と本作は『暁の偵察』の二番煎じ、三番煎じと言えるくらい同工異曲の設定とプロットによるものなので、単独では『今日限りの~』も本作もそれなりに見応えのある作品です。ただし意図的に類似したプロットで連作を試みたのならともかく同じような作品を3年ずつの間を置いて3作、というのはどう見たらいいものか、『暁の偵察』はリチャード・バーセルメスの主演とともに上乗としても『今日限りの命』はジョーン・クロフォードゲイリー・クーパーのスター映画とすれば、フレデリック・マーチを筆頭にした本作のキャストは老練なライオネル・バリモアが光るとは言え華に欠けるのではないか。マーチとヒロインのジューン・ラングが愛を語りあっている所に忽然と戦地帰りのヒロインの婚約者の大尉が現れ、マーチとヒロインが大尉に事実を告白すると大尉の父バリモアが「失明したんだ」というあたりのスリリングな哀切さなど名場面もあるにはあるのですが、全体にメリハリに欠け、女性の登場人物はヒロインしかいない(しかも魅力に欠ける)のでマーチも手近な女に入れ込むだけの軽薄なキャラクターにしか見えません。キャストが地味なので渋い映画にしたのかもしれませんし、戦況は優位ではあっても「兵士は順番に死ぬだけ」(本作の台詞)という悲惨なムードは3作中もっとも強くこの悲劇的センスはフォークナーの脚本由来のものかと思いますが、ホークスは悲劇的シチュエーションでも悲劇に偏さず真剣な人間ドラマからも喜劇を生み出すような監督なので本作のような悲劇は向いていないというか、ホークスの一面しか現れていない作品になっていて、こうした題材に詩情を込めるのは先輩フォードや後輩ワイラーの方が断然上手く、早い話湿っぽい噺にはホークスは向いていないのです。見所は逆光の映像を多用した撮影にあり、ここまで逆光だらけの映画はホークスには他にないので、ホークスの興味はトーランドとの映像実験にあったようにも思われます。このコントラストの強い特異な映像に集中して楽しむのが本作の真っ当な鑑賞方法かもしれません。

●10月9日(月)
大自然の凱歌』Come and Get It (共同監督ウィリアム・ワイラー) (ユナイト'36)*99min, B/W; 日本公開昭和13年5月(1938/5/5)・アカデミー賞助演男優賞受賞(ウォルター・ブレナン)

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ジャンル ドラマ
製作会社 ユナイテッド・アーチスツ映画
配給 ユナイテッド・アーチスツ
[ 解説 ] 「黄金(1936)」「罪と罰」のエドワード・アーノルドが主演する映画で、エドナ・ファーバー作の小説を「支那海」のジュールス・ファースマンが「乙女よ嘆くな」のジェーン・マーフィンと協力して脚色し、「バーバリー・コースト」「永遠の職場」のハワード・ホークスと「この三人」「お人好しの仙女」のウィリアム・ワイラーが半々宛監督したものである。助演者は「この三人」のジョエル・マクリー、「愉快なリズム」のフランセス・ファーマー、「バーバリー・コースト」のウォーター・プレナン、庭球選手だったフランク・シーリズ、ゴールド・ウインの新星アンドリア・リーズ、「黒騎士」のマディー・クリスチャンス、「学生怪死事件」のメアリー・ナッシュ等で、撮影は「この三人」のグレッグ・トーランド及び「リリオム」のルドルフ・マテが担当した。
[ あらすじ ] 雪深いカナダ国境近くのウィスコンシンの木材伐採場で、荒くれ男たちの賄いをしていた母親が死ぬと、幼いバーニイ少年は孤児となってしまった。しかし幸いにも伐採場主ヒュウィット(チャールズ・ハルトン)の情で、少年は他の場所にある製紙工場の事務所で働くようになった。それから20年の歳月が流れた。頑強な若者に成長したバーニイ(エドワード・アーノルド)は、親友スワン(ウォルター・ブレナン)を訪問し、また材木伐出しを監督するため、懐かしい元の伐採場に帰って行った。伐出しが無事に終わった祝いに、彼はスワンと一緒にある酒場へ行ったが。そこの美しい歌姫ロッタ(フランセス・ファーマー)に会い、2人は恋する仲となった。しかしバーニイは父母の遺言でかねて婚約のあったヒュウィットの一人娘エミイ・ルイズ(メアリー・ナッシュ)と結婚した。これはまた彼の将来にとっても有利な結婚だったのである。それを聞くとロッタは同じ日にスワンと結婚した。こうして更に25年が経過した1907年、バーニイはヒュウィットの死後その後を継ぎ、広大な木材伐採場と大製紙工場の所有主となり、その地方きっての富豪となった。妻との間に2人の子があり、兄をリチャード(ジョエル・マクリー)と呼び、妹をエヴィー(アンドリア・リーズ)といった。ある時バーニイは山林へ猟に行き、親友スワンとレストランで働くその姪のケイリー(マディ・クリスチャンス)及び彼の娘ロッタ(フランセス・ファーマー、二役)に会った。娘ロッタは母親ロッタに生き写しの乙女で、バーニイは彼女を見ると昔の思いでをかき立てられ、スワン一家を連れ帰って様々親切に世話をしてやるのであった。何時となくバーニイがロッタを囲っているという噂が人に口に上がるようになり、妻のエミイ・ルイズは心を悩ましていた。しかしロッタは彼を親切な小父さんと思うだけで彼女の心はリチャードのものとなっていた。また一方娘エヴィーは母親の決めた男との結婚を拒み、兄のとりなしで愛するトニイ(フランク・シーリズ)と夫婦になることになった。いろんな噂がバーニイ一家を不幸にするのを見て、スワンは家族を連れ再びもとの住居に帰ろうとする。これを知ったバーニイは妻を離婚してもロッタを引き止めようとしたが、貞淑な妻の涙を見てはさすがに心も折れるのであった。エヴィーとトニイの婚礼の夜、バーニイはロッタとリチャードの恋を知り、父と子は1人の女を争って向かい会ったが、ロッタが息子に老人をいたわるように頼むのを聞くと、今更のごとく自分の年を考え、妻や子供たちの幸福を祈る心に帰ったのである。

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 テーマ曲は「オーラ・リー」の変奏、この母娘二代のヒロインのテーマになる民謡は後に歌詞が改作されてプレスリーがヒットさせる「ラヴ・ミー・テンダー」の原曲です。本作は面白い製作過程をたどった作品で、例によってハワード・ホークス・プロダクションがユナイテッド・アーティスツ側の大プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンと提携して製作を開始しましたが、ゴールドウィンの条件は1935年の女流作家エドナ・ファーバーのベストセラー小説(映画原題と同題)に完全に忠実に、というものでした。ところがホークスはいつもの改作癖で映画後半の「25年後」、エドワード・アーノルドがフランシス・ファーマーの遺児で旧友ウォルター・ブレナンの娘(フランシス・ファーマー二役)に入れ込むあたりから撮影中にシナリオを変え始めた。激昂したゴールドウィンはホークスを更迭し後任監督にウィリアム・ワイラー(1902-1981)を迎えてシナリオ通りの結末に完成させます。ワイラーの担当分は映画終盤の2巻(約20分強)か1巻程度と思われ、ホークス・プロダクション製作作品なので更迭されても匿名作品にはならず、クレジット・タイトルには「Howard Hawks Production Inc. / Presents / Edna Ferber's "Come and Get It" / Directed by Howard Hawks and William Wyler」と記されています。ワイラーも当時すでに第一線の多忙な映画監督でアカデミー賞8部門ノミネート、美術賞受賞作『孔雀夫人』'36完成直後、『デッド・エンド』'37撮影直前でした。『孔雀夫人』『デッド・エンド』ともゴールドウィンのプロデュース作品ですのでスケジュール調整も利く手駒の実力派監督で、ホークスもワイラーならと頭を下げに行ったようです。ワイラーとしては先輩に恩も売れる上に長編映画のクライマックスだけ撮れるのは美味しい仕事だったでしょう。撮影のトーランドはホークスの前作『永遠の戦場』で起用されていますし、もう一人のルドルフ・マテは『孔雀夫人』のカメラマンですから結末のワイラー監督分の撮影がマテの担当と思われ、『デッド・エンド』'37からワイラーはトーランドを起用し始めて『黒蘭の女』'38、『嵐が丘』'39、『西部の男』'40、『偽りの花園』'41、数本跳んでアカデミー賞主要7部門受賞作『我等の生涯の最良の年』'46までトーランドと組みますから、トーランドとの出会いも本作の引き継ぎ監督のためにホークス撮影分をじっくり研究し、撮影の整合を測るためトーランドからマテへの引き継ぎを調整して次作からさっそくトーランドを起用したのでしょう。前記の諸作はワイラーの作品歴でも傑作と呼べるものばかりです。トーランドは『嵐が丘』でアカデミー賞撮影賞、ジョン・フォードと共同監督した1943年の長編ドキュメンタリー『真珠湾攻撃』の短縮版でアカデミー賞ドキュメンタリー短編賞も受賞しており、1948年に44歳の若さで脳血栓で急逝したのが惜しまれ、早逝していなければ戦後アメリカ映画の大カメラマンになっていた人です。本作はサイレント時代から性格俳優で鳴らしたエドワード・アーノルド、やはり異色の性格俳優ウォルター・ブレナン(『バーバリー・コースト』でも好演)を主演にした渋いドラマで、原作準拠という企画からこうなったのでしょう。映画オリジナル脚本だったらアーノルドとブレナンの主演作など実現しなかったはずです。ブレナンはアーノルドとは逆に30代になってから俳優になった人で、当初はまるでパッとしませんでしたが映画デビュー5年後の1932年、西部劇撮影中に馬に顔を蹴られてほとんどの歯を失い、台詞回しも顔立ちも一変して人気脇役俳優となり、本作を含め生涯にアカデミー賞助演男優賞を3回受賞しました(本作、『Kentucky』'38、『西部の男』'40)。これはアカデミー賞助演男優賞史上最多受賞記録です。本作が記憶されるのはフランシス・ファーマー(1913-1970)の数少ないヒロイン主演作品、しかも出世作だったことで、にも関わらずファーマーは後に映画『女優フランシス』'82で映画化されるように出演作品よりも悲惨な生涯で今日知られる女優になりました。本作から数本の出演作の後ファーマーはハリウッドの女優生活に嫌気がさしてニューヨークに出奔、舞台女優を目指しますが所属映画会社の逆鱗に触れてハリウッドに連れ戻されてしまいます。アルコールに溺れるようになったファーマーは1942年、交通取締まりの警官に反抗して逮捕され、映画会社によって翌年には精神医療施設に強制収容されて実験中のインシュリン投与法、電気ショック療法の被験者になり、1950年まで入院生活が続きます。退院後、1950年代後半からはようやくテレビ番組の司会やテレビドラマの出演がありますが、女優としてのキャリアは実質的に終わりを告げていました。しかし本作はホークスらしい豪快なタッチでアーノルドとブレナンの友情を描いて成功していますが、ファーマーが魅力的かというと大成しなくても仕方ないな、という程度の容姿と演技でしかないのです。酒場女という似たような役ですから『バーバリー・コースト』ではなく本作にミリアム・ホプキンズが出演していたらもっと良かったでしょうが、強いて言えば素人くさい垢抜けなさが初々しいとは言えます。その点ではファーマーに向いた役だったかもしれませんが、将来性が感じられるとはお世辞にも言えず、本作きりの女優で終わっても(実際は10数本の出演作がありますが)不思議ではありません。アーノルドとブレナンがファーマーと初めて出会って意気投合し、酒場のボスと従業員、常連客相手に酒場を全壊させる大喧嘩をして酒場女を辞めたファーマーを連れ帰る大立ち回りは痛快で、あっけなく25年後に跳んでファーマーは亡くなっており、やはりファーマー演じる二役の娘にアーノルドが執着しつつ旧友ブレナンとの友情に微妙なニュアンスが入り始める後半はスリリングで、モラルの上でも親友の娘への支配欲は不倫でもありますから二重にやばいのですが、アーノルドが真に求めているのは故人である母なのでネクロフィリア的な倒錯的欲望すら感じられます。おそらくホークスはそれを強調しようとしてあからさまに母の姿を娘に求める台詞やエピソード、例えばヒッチコックの『めまい』'58のように同じ服を着るのを強要するなどのシナリオ改変を行ってゴールドウィンに更迭されたと思われ、原作準拠というワイラー監督による結末は娘ファーマーと自分の息子のジョエル・マクリーとの恋を知ったアーノルドが息子を殴るがやり返そうとした息子に「やめて、お父さまはお年なのよ」それでアーノルドはガーンときて娘ファーマーへの老いらくの恋を諦める、とワイラーらしいヨーロッパ映画的なラストになっています。ワイラーの演出は上品ですからマクリーを殴るアーノルド、アーノルドにくってかかるマクリーがじゃれあっているようにしか見えません。ホークスだったら豪快に父子で拳で語りあうところですが、たぶんそうなったら老いを思い知った父アーノルドが息子マクリーにファーマーを譲る、というしんみりした結末にはならなかったでしょう。9割までがホークスの作品として佳作と言っていい作品だと思いますしワイラー担当分のクライマックスも違和感がありませんが、上手い具合に本作の締めくくり、老いとは徐々に進行していてある日突然痛烈に思い知らされる、という流れに監督分担分の区切りがはまったのだと思います。しかしこの邦題、ウィスコンシンの未開の森林伐採で出会った男二人の友情と二代に渡るメロドラマのタイトルとしてはいかがなものか。西部か南部を舞台にした冒険ドラマ、しかも合作名義ですし、一流監督の作品とはいえ安っぽい企画物映画に見えて敬遠する人も多いのではないでしょうか。こういう渋い佳作だとは思えない邦題が損をしていますが、いっそ結末部分担当のワイラーが匿名でホークス単独名義か、さもなければワイラー単独名義のホークス・プロダクション作品だった方が、今日でも異色の成立事情からも、もっと注目される作品になったのではないかと思われてきます。