人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年10月16日~18日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(6)

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 黙って観て、話はそれからと言えるほど映画の中の映画と目せる映画はあるもので、ホークスには全46作の監督作品中にそういう作品が10作はあるでしょう。1938年~1940年の『赤ちゃん教育』『コンドル』『ヒズ・ガール・フライデー』もそうですが、今回の1944年~1948年の『脱出』『三つ数えろ』『赤い河』の3作もそうです。さらに今回の3作で言えば、いずれもホークス作品らしい作風と特色は確かなものの同じ系統の作品が他にはない、という点でも極めつけであって、その意味でも絶対外せない作品になっています。またくり返し観てもその都度新たに楽しめる作品でもあります。では、今回も例によって作品紹介はキネマ旬報の「近着外国映画紹介」をお借りしました。

●10月16日(月)
『脱出』To Have and Have Not (ワーナー'44)*100min, B/W; 日本公開昭和22年(1947年)11月

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ジャンル ドラマ
製作国 アメリ
製作会社 ワーナー・ブラザース映画
配給 ワーナー・ブラザース日本支社
[ 解説 ] 「カサブランカ」のハンフリー・ボガートが主演する映画で、アーネスト・ヘミングウェイの小説を「コンドル」「支那海」のジュール・ファースマンが一流作家ウィリアム・フォークナーの協力を得て脚色し、「暗黒街の顔役」のハワード・ホークスが監督したもの。助演は「荒野の決闘」のウォルター・ブレナン、これが初出演の新スタアでローレン・バコール、新人ドロレス・モラン及びホギー・カーマイケル、「永遠の処女」のマッセル・ダリオ、ウォルター・サンド等で、撮影は「我が心の歌」のシド・ヒコックスが指揮している。
[ あらすじ ] フランスがヒットラーに屈服した頃、フランス領マルチニク群島でのことである。 アメリカ人のハリー・モーガン(ハンフリー・ボガート)はエディー(ウォルター・ブレナン)を運転手として、大型モーターボートの賃貸をしていた。釣りに行ったジョンソン(ウォルター・サンド)を乗せて帰港すると、ホテルの亭主ジェラール(マルセル・ダリオ)が同志救出に力を貸してくれと申し込まれた。ジェラールはドゴール派のこの地方での指導者だった。不偏不党のモーガンはそれを拒絶した。モーガンがジョンソンと共にトリニダッドから飛行機で来たアメリカ美人マリー(ローレン・バコール)と食事をしていると、ヴィシー政府の警視ルナール(ダン・シーモア)が取り調べにきた。ジョンソンは流れ弾にあたって死に、モーガンは所持の金品の仮差し押えをされた。しかもルナールはマリーのほほをなぐるという乱暴さであった。これにはモーガンも憤慨しないではいられず、ジェラールに協力を申し出た。そしてモーガンはマリーがアメリカに帰る飛行機を工面して彼女に与え、近くの小島からポール・ドワ・ビュルサック(ウォルター・モルナー)とその妻エレーヌ(ドロレス・モラン)を救いだす。ところがヴィシー側の警備艇に見咎められ、モーガンはその警備艇の照明燈を射ったが、ポールが肩を負傷した。モーガンはホテルの地下室でポールの肩から銃弾を抜き取る手術をしてやる。一方マリーは飛行機で帰らず、ホテルのクリケット(ホギー・カーマイケル)のピアノ伴奏で歌をうたっていたが、モーガンは危機が迫っているのを感じ、マリーとエディーに旅立つ準備を急がせる。手術をすませた後エディーが行方不明になっていたが、ルナールの口ぶりで彼が人質になっていることがわかる。ルナールはポール夫妻の所在を知らせろと言うのだった。モーガンはルナールの用心棒を倒して、ルナールにエディーの放免状を書かせる。そしてマリー、ポール夫婦を客として、モーガンの船はマルチニックを脱出することができたのである。

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 本作と次作の『三つ数えろ』はホークスの映画という以上にハンフリー・ボガートローレン・バコールの映画で、ボガートあっての企画でありバコール(本作がデビュー作)を売り出した二段ロケットのような作品でもあります。本作についてはホークス得意のホラ話で友人ヘミングウェイと映画と文学の論議になり、映画と文学は別物だからどんな愚作だって優れた映画にできる、君の一番の凡作でもとホークスが持論を述べ、ヘミングウェイが俺の一番の凡作って何だよ、と言うので『To Have and Have Not (持つと持たぬと)』'37だよ、とホークスが即答し映画化することにした、とホークス本人があちこちで吹聴しています。ホークスの発言にはヘミングウェイのベストセラーで映画化もヒット作品になった『武器よさらば』'32(ボーゼージ)や『誰が為に鐘は鳴る』'42(サム・ウッド)が念頭に(発言年代からするとヘンリー・キングの『キリマンジャロの雪』52'も)あったかもしれません。実際に自作の映画化作品のヒットを原作の出来によると自負するヘミングウェイを諫めたことが本当にあったとしてもホークスの発言ほど露骨に挑発的だったとは思えないので、映画の成功後に面白おかしく誇張したホラ話でしょうが、原作の設定(キューバが舞台)に忠実なファースマンの初稿脚本がキューバとの国交上で検閲に引っかかり、第2稿で架空の舞台に置き換えたフォークナー脚本が『永遠の戦場』'36で起用された時とは別人のように練れており、例によってホークスが手を加えたとは思いますが制約の少ない、撮影現場での自由度の高い脚本なのが緩い構成から伝わってきます。映画序盤の釣り客ジョンソンなどボガートとブレナンの釣り船稼業を描くためだけに出てくる人物ですし、ヒロインのバコールも本来いてもいなくても物語の本筋に関わりない(原作にもいない)ヒロインで、さらに本作はつい2年前のボガートの大ヒット作『カサブランカ』'42(マイケル・カーティス)のパロディでもあります。ボガートはラオール・ウォルシュの『彼奴は顔役だ!』'39の準主演の後ウォルシュの『ハイ・シェラ』'41で初主演し、同作の脚本家ジョン・ヒューストンの監督第1作『マルタの鷹』'41の大ヒットでスター俳優になり、ヒューストンとは『黄金』'48、『キー・ラーゴ』'48、『アフリカの女王』'51、『悪魔をやっつけろ』'53と名高い作品が続きますが、『マルタの鷹』に続いてボガートを国民的スターにしたのが『カサブランカ』でした。ウォルシュ、ヒューストン、カーティスとも当時ワーナー専属だったのですが、独立プロの監督のホークスがワーナーで作った作品が堂々ワーナーの大ヒット作『カサブランカ』のパロディだったというのは人を食ったもので、ヘミングウェイの原作小説とはまったく結末も変えてありますし原作小説では主人公は密輸業者です。フォークナーには拍子抜けするようなユーモア作家の側面もありますから、本作はフォークナーとホークスが『持つと持たぬと』と『カサブランカ』をダシに作った一見シリアスな喜劇映画であり、ボガートとバコールをいかしたスター俳優に見せるための映画でヘミングウェイ原作と謳わなければオリジナル脚本で通じる作品ですが、原作者のネーム・ヴァリューは宣伝材料に残しておいた、というところでしょう。映画は中盤まで反ナチのレジスタンス活動家夫婦をノンポリの主人公が助けるか否か、と『カサブランカ』そのままのプロットで進みますが、ブレナンならではの役の相棒の酔っ払い老船乗りとボガート、さらに登場する必然性がまったくないヒロインのナイト・クラブ歌手役のバコールとメイン・プロットと関係ない人物(バコールがボギーに言う「用がある時は口笛を吹いてね」はアメリカ映画名台詞ベスト5入選だそうです)の比重の方がはるかに大きく、そういう性格の映画なのは序盤の主要人物があっさりとばっちりで死んで何のフォローもなく早々と観客を呆気にとらせることでも明らかですが、それでも結末の肩すかしのハッピーエンドまで気が抜けない映画になっており、再見して初めてこの映画のすっとぼけた作りに気づく仕掛けになっています。本作の出演時点でボギーは45歳ですがデビュー作のバコールは18歳で、こんな18歳は反則ではないかというほど貫禄があり、当時のアメリカ映画ですからバコールは酒も煙草も堂々と喫っています。撮影中にボギーとバコールがいい中になっていくのを監督ホークスは嫉妬していたそうですが、これほど決まったカップルはそうありませんしモデル上がりの新人女優の映画初出演作でこれほど輝かしい作品はないでしょう。けっこう命がけの事件に関わっているのに主人公たちが悲壮感とも哀愁ともまるで無縁なのがよろしく、映画の首尾としては破綻ぎりぎりですが本作は名作で、続けてボギー&バコールの主演作が決まったのも当然と言える出来です。そしてゆるゆるの『脱出』に続く『三つ数えろ』は人物関係の複雑さ、プロットの難解さで『脱出』とは対照的な作品になります。

●10月17日(火)
三つ数えろ』The Big Sleep (ワーナー'45/'46)*116/113min, B/W; 昭和30年(1955年)4月/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(1997年度)

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ジャンル ドラマ
製作国 アメリ
製作会社 WB映画
配給 ワーナー・ブラザース日本支社
[ 解説 ] 「紳士は金髪がお好き」のハワード・ホークスが1946年に製作・監督に当った推理映画で、「深夜の告白」のレイモンド・チャンドラーの処女作を「脱出」のウィリアム・フォークナーリー・ブラケット、「北京超特急」のジュールス・ファースマンが脚色した。撮影は「暴力に挑む男」のシド・ヒコックス、音楽は「欲望の谷」のマックス・スタイナー。「裸足の伯爵夫人」のハンフリー・ボガート、「百万長者と結婚する方法」のローレン・バコール、「腰抜けM・P」のジョン・リッジリー、「地獄から来た男」のマーサ・ヴィッカーズ、「殺人者はバッジをつけていた」のドロシー・マローン、「銅の谷」のペギー・ヌードセン、レジス・トゥーミーらが出演する。
[ あらすじ ] 私立探偵フィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガート)は両肢不随の老将軍スタンウッド(チャールズ・ウォルドロン)の妹娘で抑欝症気味のカーメン(マーサ・ヴィッカーズ)が古本屋アーサー・ガイガー(セオドア・フォン・エルツ)から恐喝状をつきつけられたことについて調査依頼をうけた。将軍は同時に姉娘ヴィヴィアン(ローレン・バコール)の夫リーガンが行方不明になったことも心配していた。ガイガー家を探りに行ったマーロウはあられもない格好でガイガーの死体の傍らに佇むカーメンを発見し、家へ送りかえした。彼女はここで秘密写真を撮られていた。翌日彼は地方検事局のバーニー・オールズ(レジス・トゥーミー)から、将軍家の自動車が暴走して前にカーメンと駈け落ちしかけたことのある運転手テイラーが死んだニューズを知らされた。ヴィヴィアンはマーロウの事務所を訪れるうち彼に恋心を抱くようになった。マーロウは恐喝の張本人がいかさまギャングのジョー(ルイス・ジーン・ハイト)であることをつきとめたが、ジョーは彼をガイガー殺しの犯人と思いこんでいるガイガーの身内に殺された。しかし真犯人は死んだテイラーであった。リーガンと関係のあったモナ(ペギー・ヌードセン)という女の夫で暗黒街の大物エディ・マース(ジョン・リッジリー)がリーガン事件に関係あると睨んだマーロウは、リーガンの仲間ハリー(エライシャ・クック・ジュニア)に当たって見ようとしたが、一足おそくハリーはエディの手下カニノ(ボブ・スティール)に毒殺された。マーローはカニノの後を追ったが、計略にかかって捕えられ、危いところを居合せたヴィヴィアンに救われた。ガイガーの家に行ったマーロウは電話でエディを呼びつけ、彼からリーガンがカーメンに殺された事実を聞き出した。ガイガーの家を取り囲んだエディの手下たちはマーロウの策にかかって誤って発砲し親分エディを殺してしまった。マーロウは検事局のバーニーにリーガン殺しはエディであったと告げた。

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 1945年3月公開予定で製作されましたが、終戦後に話題作として公開する方針への変更から、更に磨きをかけるために(主に捜査場面を削ってバコールの出演場面を増やし)追加撮影・再編集されて1946年8月末日に本国公開されました。原作者レイモンド・チャンドラー(1888-1959)は探偵フィリップ・マーロウを長身としていたため小柄なボギーの配役に難色を示したそうですが、作中でボギーが言われる「ずいぶん背が高いのね」という台詞は「ずいぶん小柄なのね」と変えられ、小柄でも顔の大きいボギーは違和感ないどころか実に映画の私立探偵役にはまっているので、これはヒューストン作品『マルタの鷹』の(チャンドラーが心酔する)ダシール・ハメット(1994-1961)原作の私立探偵サム・スペードを見事にこなしたのが観客の印象に強いのを利用したとも言える企画でしょう。意外ですがホークスの探偵映画はサイレント最終作『トレント大事件』'29以来です。アメリカ商業映画史上もっとも複雑なプロットを持ち、何回観てもよくわからないがムードと勢いで観せてしまうと定評ある作品ですが、これは実は原作準拠でチャンドラー自身が既発表短編小説3編から長編にまとめたのが原作の『The Big Sleep (大いなる眠り)』'39で(チャンドラーは生涯5作の長編しか書かなかったハメット同様文学者タイプの作家で、44歳で作家デビューし25年余に7作の長編しか書かず、長編はまず部分的に短編小説を試作してから組み立てていました)、登場人物はやたら多い上に関係が入り組んでいるわ、複数のプロットが同時進行しているわ、叙述の時制が相前後してすんなり頭にはいってこないわ、あまりにたくさんの事件が起こるので事件と事件の関連もとりあえず保留で話が進むわ、結末に至っても解明されていない謎がまだ残っているわという調子で、『大いなる眠り』は第1長編ですからチャンドラー長編中つぎはぎ感がいちばん目立つ作品です。直接に殺人場面が描かれる箇所はなく関係者を通して知る、またはボギーのマーロウ自身が殺人現場を発見するという具合に本作は少なくとも5件の殺人事件が起こりますが、同一犯による連続殺人ではなく事件の犯人は全員別の登場人物か、犯人不明の殺人すらあります。撮影開始後に現場で「そういえばここで会話に出てくる殺人の犯人は結局誰なんだ」とスタッフとキャストの間で議論になり(脅迫者ガイガー殺しの犯人の運転手テイラーを殺した犯人)3人合作の脚本のミスかもしれないし原作者に訊こうじゃないかとチャンドラーに電話するとチャンドラーも「考えてなかった」と答えたそうですから(ボギーもファンからいつも訊かれるので閉口していたそうです)、これは探偵映画ではあってもうさんくさい登場人物が殺しあうのを探偵が決着まで見届ける映画で、推理的要素はほとんどない。ボギーのハードボイルド探偵マーロウがあちらを調べこちらに立ち寄り、足で稼いで図書館の女性司書やガイガー古書店の女店員、ガイガーを見張るために正面の女主人の店を使わせてもらったり、追跡なら任せてという女性タクシー運転手の車を拾ったりと、翻訳(双葉十三郎訳でした)を読んだのは学生時代だったので覚えていませんがこんなにマーロウの行く先々でワンポイントの女性キャラクター(後半事件の鍵を握る人物もいますが)は出てこなかったと思います。映画を面白くするためのホークスの工夫かつ趣味なのでしょうが、ヒューストンの『マルタの鷹』(これもピーター・ローレの怪演は嬉しくなりますが)には稀薄でホークスの本作に豊かなのはその点で、『マルタの鷹』のボギーのサム・スペードはオフィスに押しかけてくる悪党たちとの打々発止がほとんどで『三つ数えろ』のマーロウの一割も行動的ではないのです。依頼人で蘭の温室に住む全身不随の老将軍スタンウッド(チャールズ・ウォルドロン)、クールな未亡人の姉娘ヴィヴィアン(ローレン・バコール)、色情狂気味で危ない夜遊び好きの妹娘カーメン(マーサ・ヴィッカーズ)の一家の頽廃的ムードも魅力的ですが、バコールを引き立たせるためにボギーの協力者的存在に持っていった後半部はやや前半と調子が変わるように見えます。先に触れたように本作は'45年3月公開予定で一旦完成されたものを、終戦を見越して戦後公開の方がヒットを狙えると部分的に再編集・追加撮影されて'46年8月に正式公開されたもので、現行DVD(ワーナー正規ライセンス版)には'45年版と'46年版の両方のヴァージョンと、相違点を解説した特典映像が収録されています(パブリック・ドメイン版には'46年公開版のみ収録)。実は今回初めて'45年版を観てみました。大きな変更はありませんが、ボギーと警察のやりとりが'45年版では'46年版より短くされ、ボギーとバコールの絡みが増やしてある違いがあります。再編集したのにわかりやすい映画にしようとした様子がまるでないのはどうせ筋など解りっこないのだからムードと勢いだけの映画でもいいだろう、という割り切りが感じられます。殺人場面が描かれないのに緊迫感と躍動感があり、適度な緩急があるのはさすが15歳あまり年少のヒューストンでは及ばない巧みさがあります。ホークス作品中でもこの系列はプレ・ノワールの金字塔『暗黒街の顔役』に西部劇ノワールの『バーバリー・コースト』、戦時下ノワールの『脱出』があったきりなので、正統派のハードボイルド探偵ノワールの本作は決定打にして極めつけの作品であり、本当にすごい映画です。前作と本作の間に不仲だった夫人と離婚していたボギーが、年の差を気にしながらバコールの熱烈なラヴ・コールに結婚したのは本作撮影完了直後で、ホークスがボギー&バコールの共演作を以後作らなかったのもそのせいかもしれません(ヒューストンの『キー・ラーゴ』で再びボギーとバコールの共演が観られます)。ホークス作品としては男の友情のテーマが出てこないのが珍しい点ですが、本作のバコールはロマンスの相手というよりも男性的友情の相手と見ることができそうで、そうした面では『脱出』の方がロマンス要素を強調した作品だったとも言えます。

●10月18日(水)
『赤い河』Red River (ユナイト'48)*133min, B/W; 日本公開昭和27年(1952年)1月/アカデミー賞原案賞(ボーデン・チェイス)・編集賞(クリスチャン・ナイビー)ノミネート、アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(1990年度)

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ジャンル 戦争 / 西部劇
製作国 アメリ
製作会社 ユナイテッド・アーティスツ映画
配給 松竹映画
[ 解説 ] ユナイテッド・アーティスツ日本支社と松竹洋画部の提携による第1回公開作品。「僕は戦争花嫁」の監督者ハワード・ホークスが製作並びに監督にあたったモントレイ・プロ1948年映画で、「炎の街」のボーデン・チェイスが史実に基づいて書いた「チゾルム・トレイル」(サタデイ・イヴニング・ポスト所載)をチェイズ自身とチャールズ・シュニーが共同脚色し、撮影は「秘密警察」のラッセル・ハーラン、音楽はディミトリ・ティオムキン白昼の決闘」、編集は「物体」の監督クリスチャン・ナイビイ「秘密警察」の担当。主演は「黄色いリボン」のジョン・ウェインジョアン・ドルー、「女相続人」のモンゴメリイ・クリフトで、「彼女は二挺拳銃」のウォルター・ブレナン、「アリゾナの決闘」のコリーン・グレイ、故ハリイ・ケリイとその息子、ジョン・アイアランドらが助演する。
[ あらすじ ] 南北戦争の14年前。開拓者のダンスン(ジョン・ウェイン)とグルート(ウォルター・ブレナン)は、2人でテキサスの緑野に大農場を作る希望に燃え、レッド・リヴァに向かう途中、少年マシュウに会いダンスンは彼を養子とした。――南北戦争も終わって、ダンスンは広大な土地と莫大な家畜を持っていたが南部には牛肉を買う市場がなかった。今は成人したマシュウ(モンゴメリイ・クリフト)が戦争から帰って来たとき、ダンスンは北部や東部の市場へ鉄道の通っているミズーリへ家畜1万頭を移動させるという大胆な計画を打ち明けた。バスター(N・ビアリ・ジュニア)、チェリイ(ジョン・アイアランド)らの牧童たちが雇われ、大移動の旅が始まったが、旅程は非常に困難でダンスンは焦燥感が募ってあたり散らし酒に耽るようになった。レッド・リヴァ渡河の頃、3人の牧童が逃亡する事件があり、ダンスンがこれに対してとった無理解な態度に愛想をつかしたマシュウは、自ら雇人側に立って指揮をとったので、怒ったダンスンは何時かマシュウを殺すと公言した。マシュウはミズーリ行きの予定を新しく鉄道の敷かれたというカンサスに変更したので、旅程は短縮されたが道はやはり険しかった。一行は途中インディアンに襲われている馬車隊に出会い、一緒に戦って撃退したが、マシュウは馬車隊にいた美しいテス・ミレー(ジョーン・ドリュウ)と相愛の仲になった。マシュウ等は遂に鉄道のあるアビリーンの町に著き牛の大移動に成功したが、ダンスンの公言どおり彼とマシュウの大格闘が始まった。しかしテスの計いで2人は和解してダンスン農場を協同経営することになり、テスとマシュウも結ばれることになった。

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 公開時の本国版ポスターに「25年間に3本かぎり、『幌馬車』『シマロン』そして今……ハワード・ホークスの『赤い河』」とあるのが面白いホークスの西部劇は、先に『奇傑パンチョ』'34(プロデューサーとのトラブルによりホークス匿名、助監督ジャック・コンウェイ監督名義)、『バーバリー・コースト』'35(プレ・フィルム・ノワール西部劇)、『大自然の凱歌』'36(北部が舞台の開拓劇、ホークス降板のため結末部を担当したウィリアム・ワイラーとの共同監督名義)、『ならず者』'43(途中降板、プロデューサーのハワード・ヒューズ監督名義)、後に『遊星からの物体X』'51(ホークス専属編集者クリスチャン・ナイビー監督名義でSF西部劇、ホークスはプロデュースと匿名部分演出担当)『果てしなき蒼空』'52、『リオ・ブラボー』'59、『エル・ドラド』'66、『リオ・ロボ』'70があり、そのうち『奇傑パンチョ』『バーバリー・コースト』『大自然の凱歌』『ならず者』『遊星からの物体X』はホークス監督作品、または西部劇と言えるのか疑問がつくところですが、メキシコ独立史の英雄の伝記映画『奇傑パンチョ』や暗黒街西部劇『バーバリー・コースト』などはむしろ『大自然の凱歌』や『遊星からの物体X』『果てしなき蒼空』より異色作で、『大自然の凱歌』は西部が舞台ではありませんが辺境開拓にまつわるドラマですし、SF映画遊星からの物体X』も基本は見えない敵襲を斥ける西部劇のパターンを踏襲した作品で、ミシシッピ川上流のインディアン部落との新規の毛皮取引開拓と既存の毛皮商人との攻防を描いた『果てしなき蒼空』も異色のテーマを扱った西部劇と言えます。正面切った西部劇には『ならず者』がなる筈だったのですが、プロデューサーが乗っ取ってホークスの名前も出なければ内容も変な作品にしてしまいました。普通ホークスの西部劇というといずれもジョン・ウェインを主役に迎えた『赤い河』『リオ・ブラボー』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』の4作が上がるでしょう。ホークス作品のウェイン主演作は他にアフリカの猛獣狩り映画『ハタリ!』'62がありますが、『赤い河』がホークス映画初出演とは意外な気もします。ウェインは初主演作の超大作『ビッグ・トレイル』'30(ラオール・ウォルシュ)の興行的惨敗からB級西部劇専門の約10年を経て『駅馬車』'39(ジョン・フォード)の出演でようやく芽が出た遅咲きの人で、'40年代は一枚看板の張れる西部劇スターとなり、'48年には『赤い河』とフォードの『アパッチ砦』『三人の名付け親』、エドワード・ラドウィッグの『怒涛の果て』の4本に出演しています。スター俳優になっても一流監督の大作だけでなくB級西部劇、B級戦争映画にマメに出演しており、エドウィン・L・マリンの『拳銃の町』'44やジェームズ・E・グラントの『拳銃無宿』'47などは戦前B級西部劇時代のマック・V・ライトやR・N・ブラッドベリらの監督による1時間映画の延長で面白い作品です。遅咲きとは言ってもウェインはハンフリー・ボガート(1899-1957)より8歳年下で(1907-1979)、ボギーの出世作『マルタの鷹』が'41年、ウェインの出世作駅馬車』が'39年ですから40男と30男の差があります。これまでのホークス作品でウェイン向けの映画を探せばせいぜい『ヨーク軍曹』くらいですが、あれはウェインよりスマートさと朴訥さがほど良いゲイリー・クーパーで良かったので、起用した俳優の多彩さで言えば根っからのアメリカ映画監督のウォルシュ(ヴィクター・マクラグレン、ウェイン、ボギーを世に送り、フェアバンクス・シニア、エロール・フリンジェームズ・キャグニーからジョエル・マクリーの代表作まで撮っている偉い人です)、フォード、ホークス、キャプラらは案外好みが狭く、イギリス出身の巨匠ヒッチコックだともう少し多彩になり、ドイツ出身のフリッツ・ラングとなるとキャスティングは担当者任せだったようで無茶苦茶です。それはさておき『赤い河』は初めてホークスが西部劇らしい西部劇を撮ったというか、テキサス州がまだスペイン領からアメリカに渡ったばかりで無人に近かった頃に牧場を開拓したウェインとブレナンのコンビが14年がかりで1万頭の牛の大牧場主となり、先に入植するも全滅し孤児になっていた所を引き取ったモンゴメリー・クリフト南北戦争従軍から帰ってきてから話は始まります。それまでも入植してからのウェインとブレナンが領地を主張するスペイン貴族の手下との抗争などプロローグ相当分の話がたっぷりあって、14年後のウェインが白髪の多い老けメイクなのと対照を見せています。じじい役者のブレナンが過去も現在も容貌が変わらないのとも良い対比になっており、ガンコ親父のウェインと柔軟なブレナンというキャラクターが容貌一発で表現されています。さて、ウェインの牧場にはせっかく1万頭の牛がいてもテキサスで動かないのでは買い手がいない。そこで1万頭の牛をサンタフェ・トレイルと呼ばれるミシシッピ川沿いの陸路を通って北米大陸をほぼ半分渡る、2000マイルもの距離を運ぶ(いわゆるキャトル・ドライヴ、またはキャトル・トレイル)計画が牧童助手(牧童といってもむさ苦しい西部浪人ばかりです)を多数雇って実行に移されます。ウェインの初主演作品『ビッグ・トレイル』を思わせる内容で、ウォルシュ作品は西部開拓団が北部から西部まで北米大陸を横断移住する話で、サイレント時代の開拓劇ヒット作『幌馬車』'23(ジェームズ・クルーズ)、『アイアン・ホース』'24(ジョン・フォード)の流れを汲むものでした。とにかく牛、牛、牛の大群がすごい。ロングの画面いっぱいに地平線から手前まで見渡すかぎり牛、牛、牛(と淀川さんになってしまうほど)で、映画撮影で実際は1万頭まではいかないでしょうが本物の牛の大群を、本当にアメリカ半周ではなくても野越え山越え大河を渡らせまでしているのですから、前作『三つ数えろ』から3年がかりの大作になるわけです。川を渡るシークエンスも圧倒されますが、夜中に牛の大群が疲労と気候、野生動物の遠吠えでナイーヴになり、砂糖を盗み食いしようとした牧童のひっくり返して食器の物音でスタンピード(大暴走)が起きるシークエンスはよくある展開とはいえ圧巻で、やがて暴君化してきたウェインと対立してクリフトが袂を分かち(旧友の相棒ブレナンもクリフトを支持し)9000頭あまりに減った大群をクリフトについた牧童たちと引き連れていくのですが、河渡りといいスタンピードといい、疑似父子であるウェインとクリフトの世代交代のテーマといい従来の西部劇でたびたび描かれてきた内容ですが、本作は数多い牛飼い西部劇の集大成の観があり、こんなカットよく撮れたなというくらいとんでもない映像がさりげなく次から次へとくり出されてくる作品で、監督デビュー20年を越えて満を持して本格西部劇の決定版を作ってやる、というホークスの気合いが伝わってきます。当初クリフトの役は『ならず者』でデビューするも鳴かずとばずだったビリー・ザ・キッド役のジャック・ビューテルが想定されていたそうですが、所属プロの売り込みでクリフトに決定したそうで、ビューテルには気の毒ですが本作が出世作になったクリフトのキャスティングも成功の鍵でした。クリフトは全編いいですが特にジョーン・ドリューとの絡みになる後半以降が良く、最後はウェインとクリフトの男と男の拳の語り合いになりますが、ドリューとクリフト、ドリューとウェインの関わりの伏線があるのでドリューを介したウェインとクリフトの和解も説得力に富むのです。「お前あの娘と結婚しろ」「まだ命令するのか」「これが最後さ」そして「新しい焼き印を作ろう。俺とお前、二人のイニシャルだ」とウェインが地面に描く牛の焼き印の絵で終わるラスト・カットは爽やかで胸に響き、アメリカ的題材を超えて放牧牧畜一般の開拓劇として人類規模のDNAに訴える感動があります。初めて観た時はスケールはでかいにしても大味で新味に欠け創意に乏しい作品に見えるかもしれませんが、これは『三つ数えろ』と並び、同作とは別の意味で観直すたびに良くなっていく作品です。一度観たきりという方にも再三のご視聴がお勧めできます。こういう国民的映画があるからアメリカ映画は磐石なのです。