人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年11月4日~6日/ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh, 1887-1980)の活劇映画(2)

 前回の3作『リゼネレーション(更正)』'15、『バグダッドの盗賊』'24、『ビッグ・トレイル』'30はいずれもアメリカ国立フィルム登録簿登録作品、つまり国定保存映画作品として永久保存の価値が認められた作品でした。しかしそれらが歴史的価値と内容的価値の両方で認められたとしても、映画として面白くてたまらない作品というならラオール・ウォルシュにはもっと後年に純粋に娯楽映画として監督した楽しい作品が山ほどあります。『ビッグ・トレイル』の完成度はトーキーが実用化されてわずか2年ほどの作品ながら同時代の初期トーキー映画の水準を思うとずば抜けたもので、サイレント映画を15年以上撮ってきた監督が映画のトーキー化にすんなり移行できた例としては驚くべきものでした。同世代の多くの監督がトーキーに手こずる中でウォルシュがなぜ突出していたかは映画史の研究者に解明していただきたい話題ですが、サイレント時代にヒットメーカーだったウォルシュはトーキー以降も順調に監督作を送り出します。監督デビュー1913年、引退作品1964年、全監督作品138本という多作な監督ですしサイレント時代の作品にはフィルムが現存していないものもあり、全貌を知るのは不可能ながら、おおよそウォルシュ作品がもっとも充実していた時期は1930年前後~1950年代半ばのほぼ25年間(!)と思われます。今回からはその時期のウォルシュ作品を観ていきます。

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●11月4日(土)
『彼奴(きやつ)は顔役だ!』The Roaring Twenties (ワーナー'39)*107min, B/W; 日本公開1955年(昭和30年)6月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「裸の街」のプロデューサー、故マーク・ヘリンジャーの原作を「機動部隊」のジェリー・ウォルド、ロバート・ロッセン、それにリチャード・マコーレイの3人が共同脚色し「愛欲と戦場」のラウール・ウォルシュが監督、「カーニバルの女」のアーネスト・ホーラーが撮影を担当した。主なる出演者は「追われる男」のジェームズ・キャグニー、「裸足の伯爵夫人」のハンフリー・ボガート、「毒薬と老嬢」のプリシラ・レーン、「探偵物語」のグラディス・ジョージ、「三人の妻への手紙」のジェフリー・リン、「猿人ジョー・ヤング」のフランク・マクヒュー、など、音楽はレオ・F・フォーブステインの担当。1939年作品。
[ あらすじ ] 第一次大戦も終局に近いフランス戦線で、3人のアメリカ兵が帰還後の方針を語り合っていた。再びガレージで自動車の整備工として返り咲こうというエディ(ジェームズ・キャグニー)、酒場に戻るジョージ(ハンフリー・ボガート)、弁護士になりたいと遠大な希望を抱くロイド(ジェフリー・リン)がそれだ。中でもエディは、いつも慰問文をよこすジーンという女性に会えると思うと胸がときめいた。しかし、エディの後釜には他の男が雇われており、復職できぬ傷心の彼が慰問文の主ジーン(プリシラ・レーン)を訪ねると、彼女はまだ10代の高校生だった。その後、旧友のタクシー運転手ダニー(フランク・マクヒュー)から運転手の口にありついたエディはナイトクラブの経営者パナマ・スミス(グラディス・ジョージ)への密造酒の配達から一時刑務所入りするが、彼女は出所したエディを手先に使い、たちまち一財産を作り上げる。3年が経ち、エディはかつての戦友ロイドを迎え、美しく成長してショーガールになっていたジーンをパナマのナイトクラブへ世話する。エディはジーンに想いをよせるが、彼女はエディの法律顧問のロイドに夢中だった。敵対するボス、ブラウン(ポール・ケリー)の配下になっていたジョージを相棒かつブラウン側の内通者にして金持ちになったエディもブラウンとの抗争からダニーを殺され、報復にブラウンを暗殺した事からジョージと喧嘩別れして落目となり、再び無一文になった。それから5年。 堅気になったロイドと結婚しているジーンの前に、今は顔役のジョージの子分がロイドの担当する案件について脅迫に現れる。思い余ってジーンはエディに救いを求めた。昔の愛人の幸福のためエディはジョージを倒すが、路上でハリーの子分から背後にピストルを射込まれ、駆けつけたパナマの腕の中で息絶える。

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 前回の『ビッグ・トレイル』'30から一気に本作に飛んで無念ですが、'30年代のウォルシュ作品はなぜか映像ソフト化が遅れていて再見できず割愛せざるを得ません。ご了承ください。さて、フィルム・ノワール時代(~オーソン・ウェルズ黒い罠』'58までが全盛期とされます)の幕開けとされるハンフリー・ボガート主演作『マルタの鷹』'41(ジョン・ヒューストン)に先立つプレ・ノワール作品と名高い本作ですが、やはりウォルシュ'49年の傑作『白熱』のラストシーンを観てゴダールの『気狂いピエロ』'65を連想しない方が無理なように、本作のラストシーンを観てやはりゴダールの『勝手にしやがれ』'60を思い出さない人はいないのではないでしょうか。これでコーモリ傘でも風に吹かれたら大和屋竺の『裏切りの季節』'66のようです。ウォルシュとゴダールの両作が一方はジェームズ・キャグニー主演、他方はジャン=ポール・ベルモンド主演で、ウォルシュとゴダール双方ともこれを一対の作品として制作していることでも両者は共通します。原題『The Roaring Twenties』は第1次世界大戦の復員兵が溢れて雇用環境の悪化が進む一方ではバブル景気が訪れ、禁酒法によってますます治安の乱れた「狂乱の'20年代」という慣用句ですが、邦題の『彼奴(きやつ)は顔役だ!』はばっちり決まっており、戦前の外国映画興行のセンスの良さが端的に表れています。スタンダード「My Melancholy Baby」の変奏が全編に流れ、プリシラ・レーンのオーディション・シーンでも歌われます。流行歌を作中に使うのは当時の娯楽映画の慣習とはいえ、本作のような犯罪映画では皮肉な効果を上げています。ボギーは『化石の森』'36(マーヴィン・ルロイ)で悪役俳優として注目されたものの以後のキャリアは横ばいでしたから、ジェームズ・キャグニープリシラ・レーンに続いてキャスト3人目の本作は大抜擢と言うべきでした。プロデューサーのヘリンジャーは早逝した映画人ですが本作はヘリンジャー自身の原案を映画化しており、共同脚本にはロバート・ロッセンも参加しています。本作が監督デビュー26年、第1長編から24年の当時の映画監督では最古参の大ヴェテランの作品と思うと企画の斬新さ、作風の若々しさには驚嘆します。フレッド・ニブロシュトロハイムらサイレント時代にキャリアを終えた映画監督と同世代ながら、ヒューストンやビリー・ワイルダーら20歳あまり若い20世紀生まれの新進監督たちと競えるほどの清新さがウォルシュにはあったのです。本作が第1次世界大戦から始まって組織化されたギャングが幅を利かす'20年代に舞台を置いているのは、ノワール作品ではありませんがウォルシュ自身の次のキャグニー主演作『いちごブロンド』'41、キャグニーがアカデミー賞主演男優賞を穫った『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』'42(マイケル・カーティス)の先駆となるノスタルジア作品(アメリカ映画では周期的に流行する現象です)の側面もありますし、ホークスの『ヨーク軍曹』'41なども同じ傾向と言えます。その点でも本作は早く、やはりワーナー作品でキャグニー主演、ボギー助演のヒット作『汚れた顔の天使』'38(カーティス)の続編的な企画でもあるでしょう。『ヤンキー・ドゥードゥル~』同様に芸能界ものもノスタルジア作品ははまりやすく、そうするとウェルマンの『スタア誕生』'37もあって、カーティスやウェルマンはホークスと並んでウォルシュと何かとかぶる人で本作の企画が誰に行ってもおかしくなかったかもしれませんが、作品の仕上がりを観るとウォルシュ以外に考えられないのは類型化されたキャラクターを配置しながら人物関係の微妙な距離感、それに連れてキャラクターが類型から変化して個性化して行く過程を描く手腕でしょう。この柔軟な人間性の把握はキャラクターの一貫性によってドラマを組み立て、強いインパクトを狙う演出方法とは微妙に異なるもので、仮に前記の監督たちが本作を演出したらキャグニー、ボギー、ジェフリー・リンの3人の元兵士(この設定はジョン・ドス=パソスの長編小説『三人の兵士』'21に着想を得たものかもしれません)の性格設定はもっと固定されたもので、フォークナーの『兵士の報酬』'26やヘミングウェイの『日はまた昇る』'26のような第1次大戦復員兵の適応障害から来るドラマに集中した作品になっていたかもしれません。その見方で言えば本作はキャラクターがぶれぶれで、映画の序盤と中盤、結末ではどの主要人物も中途半端に性格が変化しており、明確にドラマチックならフランスの「詩的リアリズム」映画のようにもなるのですが本作のキャグニーもボギーも実に格好悪い末路を迎えます。特にボギー演じる悪党の中途半端さったらなく、格好悪いを通り越して情けないことこの上ありません。『望郷』'37(デュヴィヴィエ)や『霧の波止場』'38(カルネ)のジャン・ギャバンのような哀愁の漂う悲劇的アンチ・ヒーローと本作のキャグニーやボギーの性格造型は一見似通っていますが実際はまるで対照的なもので、さすがにボギーが初主演作品になった『ハイ・シェラ』ではここまで情けない悪党ではありませんが、喰えない主人公を描いて成功するのは普通映画では難しいはずです。ノスタルジア作品の意匠はおそらく、舞台背景を現代にしたギャング映画は'30年代半ば以降の映画の倫理規制強化をパスするためのやむを得ない事情で、アメリカの世相史・年代記的な構成が効果を上げている面と、作品の興味を拡散させているマイナス面の両方があります。組合犯罪組織ではなくノワール作品が個人の強盗犯・殺人犯に題材を移行させるのはそうした理由があったからで、本作が過渡期のノワール作品という印象なのは、古いタイプのギャング映画と個人犯罪者の運命劇の両方の性格を持つ橋渡し的な内容にも依っています。プリシラ・レーンはヒッチコックの『逃走迷路』'41のヒロインで、プロデューサー指名による起用でヒッチコックとトリフォーの『映画術』で「平凡で品のない……」(トリフォー)、「そうなんだよ。がっくりきた」(ヒッチコック)とクサされている女優ですが、スタイリッシュなヒッチコック作品ではともかく本作のレーンはこんな鈍くさい女を巡って男の友情に亀裂が生じるかなあ、ともどかしくなる皮肉な役には適役であり、本作の真のヒロインは控えめな酒場のマダムで酸いも甘いも噛み分けたキャグニーの一番の理解者グラディス・ジョージで、女性キャラクターは男と違って状況がどうあろうと性格が一貫しているのにはリアリティがあります。ウォルシュの男性理解、女性理解は的確で現実的で、即物的なムードは素晴らしく説得力に富み、型にはまらない融通無碍な態度があります。水商売に生まれつき世間知に長けて自らをわきまえた大人の女ジョージよりも、キャグニーが憧れるのはまるで市民社会の象徴のような可愛いだけの平凡で世帯臭い鈍重なレーンであり、レーンにとっては退役してカタギの職にも就けないキャグニーは利用価値以外に取り柄のある男ではない。そういう身も蓋もない人間の両義性に基づくリアリティは一般的にはドラマ的な方向性を拡散させてしまうので映画には不向きなのに、本作はごく自然にこうした人間模様を作品に昇華しています。50歳を越えて本作ほどの自在な境地を迎えたウォルシュを職人監督で片づけるのはとうてい正当な評価ではないでしょいう。また本作があってこそ'40年代~'50年代初頭の、ウォルシュのもっとも多作で実り多い作品群への道が開けたと言えるとも思えます。

●11月5日(日)
『暗黒の命令』Dark Command (リパブリック'40)*93min, B/W; 日本公開1952年(昭和27年)4月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「潜航決戦隊」のW・R・バーネットの原作小説に基づき、「海洋児」のグローヴァー・ジョーンズ、「令嬢画伯」のライオネル・ハウザー、「われら自身のもの」のF・ヒュー・ハーバートの3人が共同脚色し、「大雷雨」のラウール・ウォルシュが監督した1939年度作品。撮影は「ダコタ高原」のジャック・マータ、音楽監督ヴィクター・ヤング。主演は「キー・ラーゴ」のクレア・トレヴァーと「リオ・グランデの砦」のジョン・ウェインで、「赤きダニューブ」のウォルター・ピジョン、「愛馬トリッガー」のロイ・ロジャース、ジョージ・ギャビー・ヘイス、ポーター・ホール、マージョリー・メインらが助演している。
[ あらすじ ] 19世紀、南北戦争の起こる前のこと。ボブ(ジョン・ウェイン)はグランチ(ジョージ・ギャビー・ヘイス)と共に、新天地を求めてカンサスに来た。ボブはフレッチ(ロイ・ロジャース)と知り合い、その姉メアリー(クレア・トレヴァー)に惹かれて結婚を申し込んだが、にべもなく断られる。町に保安官の選挙があり、メアリーの恋人の学校教師クアントリル(ウォルター・ピジョン)が立候補していることを知ったボブは自らも立候補して文盲にもかかわらず当選し、クアントリルは憤って母(マージョリー・メイン)の制止も聞かず夜盗の親玉になり街を荒らし始める。その頃、南北戦争が勃発する。フレッチの父マクラウド(ポーター・ホール)は銀行家だが、私腹を肥やしているという噂のためにフレッチは父を侮辱した市民ヘイル(トレヴァー・バーデット)に激怒して銃殺し、クアントリルの民衆を煽動する弁論がかえってフレッチを無罪にするが、クアントリルの夜盗団はますます活動を激化して町を不安に陥れ、市民の怒りは銀行家マクラウドに向かい、マクラウドは暴徒の殺到の中、暗殺される。フレッチはすべてボブの仕業だと思い、仇討ちを決意してクアントリルの一味に加わる。メアリーはクアントリルと結婚したが、彼女が苦境に立った時、助けてくれたのはボブだった。クアントリルは、ボブを幽閉する。それを知ったフレッチはボブの潔白を知り、彼を救い出して脱出する。クアントリルは籠城し、ボブとスレッチは包囲するが、クアントリルの母はメアリーを逃がしてクアントリルを射殺しようとしてライフルの暴発で死亡し、追い詰められたクアントリルはボブとの一騎打ちで斃れる。かくしてメアリーとボブはフレッチとともに、新しい生活を求めてテキサスに旅立つ。

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 一介の大衆作家ながらJ・M・ケイン(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『深夜の告白』『ミルドレッド・ピアース』)や本作の原作者W・R・バーネットは映画への貢献は偉大な人で、ウォルシュで言えば本作の他にも『ハイ・シェラ』『死の谷』という不朽の作品の原作者でもあります。本作は大平洋戦争開戦直前で外国映画の輸入規制が始まった頃の作品のため戦後公開になったジョン・ウェイン主演の西部劇。初主演作品『ビッグ・トレイル』からちょうど10年、見違えるように誰もが知るジョン・ウェイン(『赤い河』'48で中年の貫禄がつく前の、若いウェインですが)になっています。ヒロインのクレア・トレヴァーは『駅馬車』'39でも主演女優で、『駅馬車』同様本作でもキャストのトップはトレヴァー、次いでウェインとなっています。トレヴァーはのちボギーとバコール主演、ウォルター・ヒューストンとE・G・ロビンソン助演の『キー・ラーゴ』'48(ヒューストン)でアカデミー賞助演女優賞を受けてブーイングを浴びますが、本作『暗黒の命令』でも『駅馬車』同様別にトレヴァーでなくてもいい役。二人の男に挟まれるだけの役ですし出番も大してあるわけでもなく、たまに出演シーンがあっても筋書きの進行上出てくるだけのつまらない役で、フォードにしてもウォルシュにしてもトレヴァーから何の魅力も引き出そうとしていないのは明らかです。本作は成長したウェインを主演に真っ当な西部劇を撮ろう、という企画で、派手なアクションも凝ったプロットもない古いタイプの作品ですがこうした作品はムードを楽しむべきものでしょう。ウォルター・ピジョン演じる悪党には流れ者で文盲(なのに知的で紳士的)なウェインに当確だったはずの保安官立候補を横取りされたばかりか婚約者にまで言い寄られる、と逆切れして夜盗強盗団に走るというそれなりの事情があり、マージョリー・メイン演じるその老母との関係が結末への伏線になっているのもオーソドックスですが、うまい手です。本作くらいの作品ならヘンリー・ハサウェイが撮っても十分かもしれませんがハサウェイならもっとヒロインに見せ場を作ってしまうのではないか。ただしこうしたオーソドックスなタイプの西部劇の場合、あえて感情移入しようとする観客を突き放すような作りにする点ではウォルシュとハサウェイには似た指向があり(ウォルシュはエモーショナルな作品ではとことんエモーショナルな演出をすることもある監督ですが)、それが筋書きの一応の勧善懲悪的要素を臭味のないものにしています。本作は出世したウェインの恩人ウォルシュへの恩返し作品だったのか、ウォルシュからのウェイン出世おめでとうの祝賀作品だったのかわかりませんが、西部劇らしい凄惨なドラマもほどほどにくつろいだ軽い娯楽映画を狙って意図通りの出来になったものでしょう。後味も爽やかで、こういう映画を観た晩はすっきりした気持でよく眠れる、そういうタイプの映画です。

●11月6日(月)
『ハイ・シェラ』High Sierra (ワーナー'41)*100min, B/W; 日本公開1988年(昭和63年)12月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 心の底で汚れない愛と自由を求めたヒューマンな犯罪者の姿を描く。エグゼクティヴ・プロデューサーはハル・B・ウォリス、監督はラウール・ウォルシュ、原作・脚本はW・R・バーネット、共同脚本はジョン・ヒューストン、撮影はトニー・ゴーディオ、音楽はアドルフ・ドイッチェが担当。出演はハンフリー・ボガートアイダ・ルピノほか。
[ あらすじ ] インディアンの農家の息子から凶悪な銀行強盗犯となったロイ・アール(ハンフリー・ボガート)は、8年ぶりに特赦で出所し、仲間のビッグ・マック(ドナルド・マクブライド)がお膳立てしているロスの高級リゾート・ホテルの強盗の片棒を担ごうとしていた。若い手下のベイブ・コサック(アラン・カーティス)とレッド・ハタリー(アーサー・ケネディ)の待つキャンプ場へ到着したロイは、彼らが一緒に連れて来た娘マリー・ガーソン(アイダ・ルピノ)が邪魔で仕方ない。また強盗の手引きをするフロント係のメンドーサ(コーネル・ワイルド)が怖気づいている様子も気にかかる。そんなロイだったが、道中のガンリンスタンドで出会ったグッドヒュー老夫婦(ヘンリー・マクヒュー、エリザベス・リスドン)の孫娘ヴェルマ(ジョーン・レスリー)に愛情を抱き、足の悪い彼女の手術代の捻出を申し出る。果たして強盗決行、ロイはパトロール中の警官を射殺、逃亡の際にベイブとレッドは運転をあやまり事故死し、ビッグ・マックも心臓発作で死亡、襲ってきた部下のジェイク(バートン・マクレイン)をロイは射殺、彼も傷を負いながらマリーと逃亡する。ロイは「狂犬ロイ・アール」として指名手配される。その途中、全快したヴェルマのもとを訪れたロイは、彼女から婚約者を紹介されてヴェルマへの愛を断ち切り、かねてから彼に寄せられていたマリーの愛情に応える。マリーをバスに乗せ彼女と別れたロイは、車で逃走中強盗で資金稼ぎをし警察の非常線にかかってしまう。ハイ・シェラに追いつめられたロイは、報を知り駆けつけたマリーの見守る中、狙撃手に撃たれ息絶える。

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 42歳にしてハンフリー・ボガート初主演作品ですが、タイトル上ではアイダ・ルピノハンフリー・ボガートの序列でwithアラン・カーティスアーサー・ケネディ、ジョーン・レスリーと続きます。ジョン・ウェイン同様主演とはいえヒロイン女優の方がまだ知名度が高かったということです。しかし本作のアイダ・ルピノは『暗黒の命令』のクレア・トレヴァーのように単なる筋立て上の役割以上の存在感があり、『彼奴は顔役だ!』のプリシラ・レーンのような皮肉な使われ方でもなく映画が進めば進むほどヒロインの風格を放つような大役を与えられています。映画の冒頭10分は特赦で出所してきた前科者の伝説的強盗犯を演じるボギーの一人舞台で、本作は1949年にウォルシュ自身によって西部劇『死の谷』にリメイクされますが(原作小説は同一、脚本家は一新。『ハイ・シェラ』は原作者W・R・バーネットジョン・ヒューストンの共同脚本)、アイダ・ルピノとボギーなら『死の谷』のヴァージニア・メイヨとジョエル・マクリーに圧勝と思いきや、両方観ると『死の谷』に軍配を上げる人も多いのではないでしょうか。男たちの犯罪ドラマにヒロインを絡ませた効果が『ハイ・シェラ』ではまだ試行段階で、『死の谷』の方が壮絶かつ鮮烈な印象を残します。その一因は脚に障害を持った少女の治療費、とボギーの強盗計画参加の動機に情を作ってしまった中途半端さで、ドラマに曲折を与えてはいますがせっかくのルピノの起用が役不足になっています。前半からもっとルピノを生かすべきだったか、前半ほとんど空気だったルピノが後半めきめき精彩を放つ意外性ではどちらが良かったかが『死の谷』を観るともっと自然かつ効果的に解決されており、そちらではメイヨがインディアンの混血という設定がマクリーとの逃避行のアウトロー感をいや増していますがこれはメキシコ系の混血女優ルピノからさらに発展させた設定ですし、逃亡劇になる後半は車と無線通信がある現代劇の本作と馬と徒歩で砂漠や岩山を逃げるしかない『死の谷』ではやっぱり西部劇ならではのサスペンスが生まれてくる分後者に分があります。とはいえこれは『死の谷』でウォルシュが自家牢中の題材でリメイクに取り組んだ結果なので、本作もウォルシュが撮ったボギー初主演作として単独に観ればこれ以上望むのはバチが当たるほどの名作です。特にボギーとルピノが車で出ようというのにルピノに懐いた犬がついてきちゃうのがいいなあ、とあっても無くても支障のない場面に見える(しかも金庫強盗決行の晩にもついて来る)が実は結末までの伏線になっている巧妙さ、グッドヒュー老夫婦を演じる役者のいかにも田舎の好々爺然としたじいさんばあさんぶりなど、緊迫感とゆるい場面の対照にあざとさが微塵もなく、「逃亡の際にベイブとレッドは運転をあやまり事故死」分け前を届けるも「ビッグ・マックも心臓発作で死亡」とボギーひとりが強盗実行犯になってしまい、ルピノに呆れられながらグッドヒュー家を訪ねると手術後全快したヴェルマ(『彼奴は顔役だ!』のプリシラ・レーンの役柄の発展型だとここで判明する)はいかにも軽い彼氏と流行歌「I Get A Kick of You」(「私はすっかりあなたのもの」)のレコードをかけて踊っている、二人の女のにらみ合いになる、馴れ馴れしい態度の男にボギーは「お前は嫌いだ」とはっきり言いルピノに促されて去る、と観ていて目が離せません。『死の谷』はより純度の高い傑作と思いますが、だだっ広い西部のコロラドが舞台なのに景色の単調さに変化が乏しいためにかえって『ハイ・シェラ』の方が開放感を感じさせるのも適度に雑味があるからで、こういうのは一長一短にもなるでしょう。ラストの山頂の籠城は『ハイ・シェラ』も『死の谷』も同じですが、ライフルの弾の火薬で遺書を書くボギー、そして犬のバード(象徴的なネーミングです)が最後に果たす役割とボギーが射殺された後ルピノが保安官に「男にとって<抜け出す>ってどういうことなの?」「ああ、自由ってことじゃないかな」そして「Free...」と呟きながら歩き出すルピノを正面から撮ったラスト・カットは『死の谷』とは違った良さがあり(とはいえ訴求力は『死の谷』の結末の方が圧倒的でしょう)、この台詞にしても作品内容にしてもあまりに脚本を書いたヒューストン的で、ヒューストン自身の後年の監督作『アスファルト・ジャングル』'50の原型みたいなものですし、ボギーも本格的にブレイクするのは本作の次に主演したヒューストンの監督第1作『マルタの鷹』'41だったのは納得がいく気もします。本作では従来の犯罪者役のボギーのままの役柄ですから、本当にスター俳優の座に就くには『マルタの鷹』のハードボイルド私立探偵サム・スペード役を得たからこそで、犯罪者役専業のままでは性格俳優に留まっていたでしょう。ちなみにボギー版『マルタの鷹』は再映画化で初映画化はウィリアム・ディターレ監督作(未見)になるそうですし、映画の最後のボギーの台詞は原作小説にはなく脚本も書いたヒューストンの創作ですが、『ハイ・シェラ』のラストの対話同様いかにも名台詞で締めようとする臭みがないではありません。本作のラスト・カットが台詞の臭みを上手く中和しているのは歩き始めたルピノをバスト・アップの正面の構図で固定ショットのカメラをトラック・バック(後退移動)しながら撮影しているさり気なさで、前進運動を固定ショットで撮影するのにトラック・バックはよく使われる手法ですがほとんどカメラを見据えんばかりに人物を真正面から映し、しかも感覚的にも視覚効果としても移動ショットになっているにもかかわらずそれがラスト・カットで断ち切るように終わってしまう例はありそうであまりないのではないでしょうか。言葉で説明するとまるでアントニオーニの映画みたいに実験的なことをやっているような、こういう無技巧の技巧を本能的にやってしまうあたりにウォルシュの映画監督としての表現力の豊かさを感じます。そうしたウォルシュと較べると、ヒューストンは脚本は巧みに書ける監督ですが、脚本レベルではない映像自体の表現力には意外性が乏しく感じられ、サイレント生え抜きの監督とトーキー以降の監督の違いがあるように思わせられるのです。