人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(xi)

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年(1930年)12月20日刊(外箱)

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      三好達治揮毫色紙

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 三好達治逝去のちょうど2年前に刊行された『定本三好達治全詩集』(昭和37年=1962年3月・筑摩書房刊)の編成は以下のようになっており、歌集・句集を含む全既刊詩集を網羅(詩集『捷報いたる』昭和17年=1942年7月刊を除く)して詩集未収録詩編を既刊詩集刊行時の拾遺詩編として採録するとともに、表記の統一と意に満たない詩編(主に戦中作品)を割愛し、新詩集として『百たびののち』を加えたものになっています。これによって『三好達治全詩集』刊行から逝去までの2年間の新作約20編は没後の『三好達治全集』では「百たびののち以後」と位置づけられることになります。

 詩集『定本三好達治全詩集』石原八束編
 筑摩書房、昭和37年(1962年)3月30日刊

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測量船(昭和5年12月刊)・測量船拾遺、南窗集(昭和7年8月刊)、間花集(昭9和年7月刊)・間花集拾遺、山果集(昭和10年11月刊)・山果集拾遺、霾(昭和14年4月刊『春の岬』より)拾遺、短歌集「日まはり」(昭和9年6月刊)・短歌拾遺、艸千里(昭和14年7月刊)・艸千里拾遺、一點鐘(昭和16年10月刊)・一点鐘拾遺、覇旅十歳(昭和17年6月刊)抄、朝菜集(昭和18年6月刊)抄、寒析(昭和18年12月刊)抄、干戈永言(昭和20年6月刊)抄、花筐(昭和19年6月刊)・花筐拾遺、路上百句(『定本三好達治全詩集』にて新編)、故郷の花(昭和21年4月刊)・故郷の花拾遺、砂の砦(昭和21年7月刊),日光月光集(上下巻、昭和22年5月・10月刊)抄・日光月光集拾遺、駱駝の瘤にまたがつて(昭和27年3月刊)・駱駝の瘤にまたがって拾遺、百たびののち(『定本三好達治全詩集』にて新編)、三好達治年譜(石原八束編)

 この『定本三好達治全詩集』は600ページの大冊ですが、それでも没後の『三好達治全集』で集成された全詩編の7割弱ですし、同人誌発表は第4詩集『山果集』の頃までですから(三好は翌昭和11年に結婚し、文筆専業で生計を立てていくようになります)、昭和10年代からは三好は商業誌の求めに応じて各段に多作になっていきます。戦争翼賛詩の詩作が多いのも三好が数少ないプロの詩人だったからですが、ここでは三好の戦争翼賛詩集三部作(『捷報いたる』『寒拆』『千戈千言』)をあげつらうのは止めましょう。それらは高村光太郎の戦争翼賛詩集三部作(『大いなる日に』昭和17年4月刊、『をぢさんの詩』昭和18年11月刊、『記録』昭和19年3月刊)や佐藤春夫の戦争詩集五部作(『戦争詩集』昭和14年2月刊、『日本頌歌』昭和17年5月刊、『小杯余瀝集』昭和17年9月刊、『大東亜戦争昭和18年2月刊、『奉公詩集』昭和19年3月刊)と並んで当時の国民感情を伝えるもので、高橋新吉にすら『神社参拝』(昭和17年9月刊)『大和島根』(昭和18年10月刊)の2冊の戦争詩集があるほど(『神社参拝』は島崎藤村高村光太郎の書き下ろし序文つき)です。高橋の場合は統合失調症治療のために受けた禅寺入院から神道への傾倒が生じ、またダダイスト詩人として危険視されていたことから身の安全を図らなければならなかったのでパトロン佐藤春夫や僚友の草野心平を通じて藤村・高村が後見人になり身元を保証した、という詩人の友情による戦争翼賛詩集企画だった高橋ならではの特殊な事情がありました。
 戦争詩はさておいて、前2回では三好の最良と思われる作品を上げてきました。その前には第2詩集『南窗集』を現代詩最悪の詩集としましたが、今回は三好の詩業でも、汚点でこそあれとうてい三好の詩人としてのキャリアの名誉にはならない、出来の悪い詩を上げてみようと思います。これらは素晴らしい第1詩集『測量船』の美点からもっとも離れたもので、『南窗集』が『測量船』の悪しき純粋化だったとすれば『測量船』の詩人の面影がほとんど霧散してしまった作品群でしょう。まず戦後の詩集表題作で一般的には名高いものですが、師の萩原朔太郎の「青猫以後」期の作風を文体ごと模倣して無惨な失敗に終わった長詩の、こけおどしめいた滑稽さを嘆きつつ眺めてみます。


 えたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
 おれは地球のむかふからやつてきた旅人だ
 病気あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
 そんな天幕(てんと)の間からおれはふらふらやつてきた仲間の一人だ
 何といふ目あてもなしに
 ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし児(ご)だ
 ててなし児だ
 合鍵つくりをふり出しに
 抜き取り騙(かた)り掻払(かつぱら)ひ樽ころがしまでやつてきた
 おれの素姓はいつてみれば
 幕あひなしのいつぽん道 影絵芝居のやうだつた
 もとよりおれはそれだからこんな年まで行先なしの宿なしで
 国籍不明の札つきだ
 けれどもおれの思想なら
 時には朝の雄鳥(をんどり)だ 時には正午の日まはりだ
 また笛の音だ 噴水だ
 おれの思想はにぎやかな祭のやうに華やかで派手で陽気で無鉄砲で
 断っておく 哲学はかいもく無学だ
 その代り駆引もある 曲もある 種も仕掛けも
 覆面(ふくめん)も 麻薬も 鑢(やすり)も 匕首(あひくち)も 七つ道具はそろつてゐる
 しんばり棒はない方で
 いづれカルタの城だから 築くに早く崩れるに早い
 月夜の晩の縄梯子(なはばしご)
 朝には手錠といふわけだ
 いづこも楽な棲みかぢやない
 東西南北 世界は一つさ
 ああいやだ いやになつた
 それがまたざまを見ろ 何を望みで吹くことか
 からつ風の寒ぞらに無邪気ならつばを吹きながらおれはどこまでゆくのだらう
 駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて
 かうしてはるばるやつてきた遠い地方の国々で
 いつたいおれは何を見てきたことだらう
 ああそのじぶんおれは元気な働き手で
 いつもどこかの場末から顔を洗つて駆けつけて乗合馬車にとび乗つた
 工場街ぢや幅ききで ハンマーだつて軽かつた
 こざつぱりした菜つ葉服 眉間(みけん)の疵(きず)も刺青(いれずみ)もいつぱし伊達で通つたものだ
 財布は骰ころ酒場のマノン……
 いきな小唄でかよつたが
 ぞつこんおれは首つたけ惚れこむたちの性分だから
 魔法使ひが灰にする水晶の煙のやうな 薔薇のやうなキッスもしたさ
 それでも世間は寒かつた
 何しろそこらの四辻は不景気風の吹きつさらし
 石炭がらのごろごろする酸つぱいいんきな界隈だつた
 あらうことか抜目のない 奴らは奴らではしつこい根曲り竹の臍(へそ)曲り
 そんな下界の天上で
 星のとぶ 束の間は
 無理もない若かつた
 あとの祭はとにもあれ
 間抜けな驢馬が夢を見た
 ああいやだ いやにもなるさ
 ――それからずつと稼業は落ち目だ
 煙突くぐり棟渡り 空巣狙ひも籠抜けも牛泥棒も腕がなまつた
 気象がくじけた
 かうなると不覚な話だ
 思ふに無学のせゐだらう
 今ぢやもうここらの国の大臣ほどの能もない
 いつさいがつさいこんな始末だ
 ――さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
 諸君の前でまたしてもかうして捕縄はうたれたが
 幕は下りてもあとはある 毎度のへまだ騒ぐまい
 喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性――けふ日のはやりでかう申す
 おれにしたつてなんのまだ 料簡もある 覚えもある
 とつくの昔その昔 すてた残りの誇りもある
 今晩星のふるじぶん
 諸君にだけはいつておかう
 やくざな毛布にくるまつて
 この人物はまたしても
 世間の奴らがあてにする顰めつつらの掟づら 鉄の格子の間から
 牢屋の窓からふらふらと
 あばよさばよさよならよ
 駱駝の瘤にまたがつて抜け出すくらゐの智慧はある
 ――さて新しい朝がきて 第七幕の幕があく
 さらばまたどこかで会はう……
  (「駱駝の瘤にまたがつて」全行・昭和24年=1949年2月「新潮」、詩集『駱駝の瘤にまたがつて』昭和27年=1952年3月刊収録)


 あの輝かしい『測量船』の詩人が書いたとは思えないような惨憺たる作品ですが、三好は石川淳坂口安吾の親友でもあり、石川や坂口は長い下積み生活の後に戦後に奔放な発想の作風で初めて脚光を浴びたので、これには彼ら(いわゆる)「無頼派」小説家からの悪影響が萩原の中期の文体を援用することで正当化されています。その兆しは、萩原への追悼詩で戦時中にすでに表れていたものでした。これも萩原=三好の師弟関係だけで有名な作品ですが、空疎な措辞を散漫な文体で連ねただけの悪作です。


 幽愁の鬱塊
 懐疑と厭世との 思索と彷徨との
 あなたのあの懐かしい人格は
 なま温かい溶岩(ラヴア)のやうな
 不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体――
 あああの灰色の誰人の手にも捉へるすべのない影
 ああ実に あなたはその影のように飄々(へうへう)として
 いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる
 あなたはいつもいつもあなたのその人格の解きほごしのやうなまどはし深い音楽に聴き耽りながら
 ああその幻聴のやうな一つの音楽を心に拍子とりながら
 あなたはまた時として孤独者の突拍子もない思ひつきと諧謔にみち溢れて
 ――酔つ払つて
 灯ともし頃の遽(あわた)だしい自転車の行きすがふ間をゆかれる
 ああそのあなたの心理風景を想像してみる者もない
 都会の雑沓の中にまぎれて
 (文学者どもの中にまぎれてさ)
 あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
 恐怖し 戦慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覚し
 飄々として影のやうに裏町をゆかれる
 いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
 旅行嫌ひの漂泊者
 夢遊病者(ソムナンビユール)
 零(ゼロ)の零(ゼロ)

 そしてあなたはこの聖代に実に地上に存在した無二の詩人
 かけがへのない 二人目のない唯一最上の詩人でした
 あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに混ぜものなしに歌ひ上げる
 作文者どもの掛け値のない そのままの値段で歌ひ上げる
 不思議な言葉を 不思議な技術を 不思議な知慧をもつてゐた
 あなたは詩語のコンパスで あなたの航海地図の上に
 精密な 貴重な 生彩ある人生の最近似値を われらのアメリカ大陸を発見した
 あなたこそはまさしく詩界のコロンブス
 あなたの前で喰(くは)せ物の臆面もない木偶(でく)どもが
 お弟子を集めて横行する(これが世間といふものだ
 文人墨客 蚤の市 出性の知れた奴はない)
 黒いリボンに飾られた 先夜はあなたの写真の前でしばらく涙が流れたが
 思ふにあなたの人生は 夜天をつたふ星のやうに
 単純に 率直に
 高く 遙かに
 燦欄(さんらん)として
 われらの頭上を飛び過ぎた
 師よ
 誰があなたの孤独を嘆くか
  (「師よ 萩原朔太郎」全行・昭和17年=1942年9月「四季」、詩集『朝菜集』昭和18年=1943年6月刊収録)


 悪作ばかりを上げてもつまらないので、多少はましな詩を見てみましょう。「師よ~」はタイトル通り師である詩人の萩原に捧げた(捧げられた方が迷惑な)詩でしたが、次の詩は三好より30歳あまり若い詩人(1931年生まれ)の第1詩集の序詩に書かれたもので、三好は上下関係に敏感な資質だったらしく年長詩人には後輩らしく、また若い詩人には親分肌を見せたがる面が同人誌「四季」主宰の頃からありました。30歳も若い詩人というと三好にとっては息子の世代で、大学の先輩の哲学者・谷川徹三(1895-1989)令息のよしみで閲覧を依頼され出版を強く推したのは三好自身でしたから、これはほとんど父親目線で息子の社会人デビューを送るような詩でもあります。そこがこの詩をツメの甘く、機会詩にとどめている原因でもありますが、父兄代表が卒業式の答辞で詠むような詩を上手く書くのもひとつの才能です。


 この若者は
 意外に遠くからやつてきた
 してその遠いどこやらから
 彼は昨日発つてきた
 十年よりさらにながい
 一日を彼は旅してきた
 千里の靴を借りもせず
 彼の踵で踏んできた路のりを何ではからう
 またその暦を何ではからう
 けれども思へ
 霜のきびしい冬の朝
 突忽と微笑をたたへて
 我らに来るものがある
 この若者のノートから滑り落ちる星でもあらうか
 ああかの水仙花は……
 薫りも寒くほろにがく
 風にもゆらぐ孤独をささへて
 誇りかにつつましく
 折から彼はやつてきた
 一九五一年
 穴ぼこだらけの東京に
 若者らしく哀切に
 悲哀に於て快活に
 ――げに快活に思ひあまつた嘆息に
 ときに嚏を放つのだこの若者は
 ああこの若者は
 冬のさなかに長らく待たれたものとして
 突忽とはるかな国からやつてきた
  (「はるかな国から――詩集『二十億光年の孤独』序」全行・昭和27年=1952年6月「谷川俊太郎詩集『二十億光年の孤独』」序詩、詩集『定本三好達治全詩集』内「『駱駝の瘤にまたがつて』拾遺」昭和37年3月刊収録)


 三好自身は比較的晩婚で、正月に結婚し(花嫁は佐藤春夫の姪令嬢)晩秋に令息を授かったのは34歳、昭和9年(1934年)のことでした。3年後には令嬢にも恵まれますが、昭和19年(1944年)には佐藤惣之助未亡人となった萩原朔太郎の妹アイと結婚するため離婚、しかしアイとは半年も経たずに破綻、独身の身で居を転々としつつ別れた妻子に養育費を送るのが戦争末期の三好の生活状態でした。令嬢が(たぶん夫人と)琴のお稽古している情景への心情を戦争詩に昇華した絶唱「ことのねたつな」(詩集『寒拆』収録)は前回ご紹介しましたが、令息を詠んだ詩には次の佳編があります。ただしここでは詩がそれ自体現実とは別の世界を形づくる『測量船』で三好が達成したものがほとんど放棄されている。誰でもわかりやすく、しみじみする詩に落としこんでいるのが問題です。


 息子が学校へ上るので
 親父は毎日詩(うた)を書いた
 詩は帽子やランドセルや
 教科書やクレイヨン
 小さな蝙蝠傘になつた
 四月一日
 桜の花の咲く町を
 息子は母親に連れられて
 古いお城の中にある
 国民学校第一年の
 入学式に出かけていつた
 静かになつた家の中で
 親父は年とつた女中と二人
 久しぶりできくやうに
 鵯(ひよ)どりのなくのをきいてゐた
 海の鳴るのをきいてゐた
  (「家庭」全行・初出不詳、詩集『一點鐘』昭和16年=1941年10月刊収録)


 この「家庭」と同じ詩集に収められた詩で名作とされるのは次の作品がありますが、文体が萩原の「愛憐詩編」や室生犀星の『純情小曲集』に倣っているのは一目瞭然でしょう。これもしみじみする良い詩ですが良いのは文体だけで、文体が良くてそれがすべてなのは悪いことではありませんが、三好自身のつちかってきた文体ではなく「愛憐詩編」の文体、『純情小曲集』の文体であることに難があります。


 こころざしおとろへし日は
 いかにせましな
 手にふるき筆をとりもち
 あたらしき紙をくりのべ
 とほき日のうたのひとふし
 情感のうせしなきがら
 したためつかつは誦しつ
 かかる日の日のくるるまで

 こころざしおとろへし日は
 いかにせましな
 冬の日の黄なるやちまた
 つつましく人住む小路(こうぢ)
 ゆきゆきてふと海を見つ
 波のこゑひびかふ卓に
 甘からぬ酒をふふみつ
 かかる日の日のくるるまで
  (「志おとろへし日は」全行・昭和16年=1941年7月「婦人公論」、詩集『一點鐘』収録)


 再び戦後の三好の詩に戻ると、次の詩も詩集『駱駝の瘤にまたがつて』中の代表作とされる1編です。まるでジョン・レノンの『神(God)』(『ジョンの魂(John Lennon/Plastic Ono Band)』収録)のような詩ですが、こうした詩はアイディアだけで他には何もないわけです。名詞が任意のどんな名詞にも交換可能では詩としては安易で次元が低いとしか言いようがない。しかも今日、多くの読者にはイメージが結ばない古い世相を詠みこんでいるためにますます詩としての重みを失っています。ちなみに「平澤画伯」でわからなければウィキペディアで「帝銀事件」を調べてみてください。


 ぽつぽつ桜もふくらんだ
 旅立たうわれらの仲間
 名にしおふ都どり
 追風だ 北をさせ
 さやうなら吾妻橋
 言問(こととひ) 白鬚
 さやうなら日本東京
 さやうなら闇市
 さやうなら鳩の街
 新宿上野のお嬢さん
 一万人の靴磨き
 さやうなら日本東京
 さやうならカストリ屋台
 さやうなら平澤画伯……
 さやうならさやうなら
 二十の扉 のど自慢
 さやうならJOAK
 八木節と森の石松
 さやうなら日本東京
 さやうならエノケン
 さやうならバンツマ
 ……さやうなら元気でゐたまへ
 丸の内お濠(ほり)の松
 さやうなら象徴さん
 さやうならその御夫人
 数寄屋(すきや)橋畔(けうはん)アルバイト
 南京豆と宝くじ
 インフルエンザとストライキ
 さやうなら日本東京
 ポンポン蒸気の煙の輪
 なつかしい隅田川
 さやうなら日本東京
  (「さやうなら日本東京」全行・昭和24年=1949年10月「人間」、詩集『駱駝の瘤にまたがつて』収録)


 しかしまだしも「さやうなら日本東京」などましな方で、いや、むしろ戦後の三好に一貫性がないのは「さやうなら~」のつい3年前には次のような空々しい詩を平気で書いていることで、戦後日本への愛想づかしの「さやうなら日本東京」が本気ならつい3年前に次の詩が三好にとってどれほど本気だったのか、詩作態度すらうさんくさくなるようなものです。


 みんなで希望をとりもどして涙をぬぐつて働かう
 忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておかう
 苦しい心はそのままに
 けれどもその心を今日は一たび寛がう
 みんなで元気をとりもどして淚をぬぐつて働かう

 最も悪い運命の颱風の眼は過ぎ去つた
 最も悪い熱病の時は過ぎ去つた
 すべての悪い時は今日もう彼方に去つた
 楽しい春の日はなほ地平に遠く
 冬の日は暗い谷間をうなだれて步みつづける
 今日はまだわれらの曆は快適の季節に遠く
 小鳥の歌は氷のかげに沈黙し
 田野も霜にうら枯れて
 空にはさびしい風の声が叫んでゐる

 けれどもすでに
 すべての悪い時は今日はもう彼方に去つた
 かたい小さな草花の蕾は
 地面の底のくら闇からしづかに生れ出ようとする
 かたくとざされた死と沈黙の氷の底から
 希望は一心に働く者の呼声にこたへて
 それは新しい帆布をかかげて
 明日の水平線にあらはれる

 ああその遠くからしづかに来るものを信じよう
 みんなで一心につつましく心をあつめて信じよう
 みんなで希望をとりもどして涙をぬぐつて働かう
 今年のはじめのこの苦しい日を
 今年の終りのもつとよい日に置き代へよう
  (「涙をぬぐつて働かう――丙戊歲首に」全行・初出不詳、詩集『砂の砦』昭和21年=1946年7月刊収録)


 調子が良いことこの上ないのは、「涙を~」では「みんなで一心につつましく」とか「みんなで希望をとりもどして」とか言っておきながらちょっと世間で何かあると皮肉屋の態度をちらつかせることで、「さやうなら日本東京」と同時に発表されて話題になった嫌みな詩(しかも嫌みなだけ)が代表作とされる詩集『駱駝の瘤にまたがつて』は戦後の三好の最高の詩集とされますが、世間ずれした詩人の向こう受けをねらった産物にすら見えてきます。


 颱風が来て水が出た
 日本東京に秋が来て
 ちつぽけな象がやつて来た
 誕生二年六ケ月
 百貫でぶだが赤んぼだ

 象は可愛い動物だ
 赤ん坊ならなほさらだ
 貨車の臥藁(ねわら)にねそべつて
 お薩(さつ)やバナナをたべながら
 昼寝をしながらやつて来た

 ちつぽけな象がやつて来た
 牙のないのは牝だから*
 即ちエレファス・マキシムス
 もちろんそれや象だから
 鼻で握手もするだろう

 バンコックから神戸まで
 八重の潮路のつれづれに
 無邪気な鼻をゆりながら
 なにを夢みて来ただらう
 ちつぽけな象がやつて来た

 ちつぽけな象がやつて来た
 いただきものといふからは
 軽いつづらもよけれども
 それかあらぬか身にしみる
 日本東京秋の風
 ちつぽけな象がやつて来た
  *アジア象とて、この種のものには牝に牙がない。去る年泰(タイ)国商賈(しやうこ)某氏上野動物園に贈り来るもの即ちこれなり。因にいふ、そのバンコックを発するや日日新聞紙上に報道あり、その都門に入るや銀座街頭に行進して満都の歓呼を浴ぶ。今の同園の「花子さん」即ちこれなり。
  (「ちつぽけな象がやつて来た」全行・昭和24年=1949年10月「人間」、昭和26年=1951年10月「婦人公論」、詩集『駱駝の瘤にまたがつて』収録)


 それでも三好ほどの詩人となれば、詩的成果としてはほぼ死屍累々の観がある詩集『駱駝の瘤にまたがつて』にすら名作と呼べる作品はあります。これも『青猫』調ですが、ここで見られる萩原朔太郎中期の文体からの摂取はすっかり三好自身の文体に会得されており、萩原が描き得なかった世界を描いて見事に成功しています。この静謐な抒情はかつて萩原が見出して三好が激しく反発した伊東静雄(1906-1953)が後期の詩集(『春のいそぎ』昭和18年9月刊、『反響』昭和22年11月刊、『伊東静雄詩集』昭和28年刊)でたどり着いた作風、文体と酷似しており、三好と伊東に相互影響は考えられず、萩原を出発点とする以外に何の共通点もない両者が作品の上では歩みよったかたちになっているのは興味深く、ただし伊東は三好のような戦後の饒舌体の傾向の詩は書かず、三好の最良の部分は伊東に接近していたのが多作家な三好と寡作な伊東の違いであり、良かれ悪しかれ詩人としてのスケールの違いとも言えます。「一人の老人が……」とはじまり途中から「私」が登場して客体が主体に入れ替わるこの転換は萩原の詩の発明で、三好より先に伊東が『わが人に與ふる哀歌』(昭和10年10月刊)で換骨奪胎して萩原に絶讃された手法です。三好は伊東にヒントを得たのではなく三好自身の発想からこの詩を生み出したので、詩集『駱駝~』にあってほとんど唯一正統な『測量船』の詩人の発展が見られます。ここまで引いてきた数々の無惨な悪作群と、次の至純の名作を較べてみてください。


 けれども情緒は春のやうだ
 一人の老人がかう呟(つぶや)いた
 焼け野つ原の砌(みぎり)の上で
 孤独な膝をだいてゐる一つの運命がさう呟いた
 妻もなく家庭もなく隣人もなく
 名誉も希望も職業も 帰るべき故郷もなく
 貧しい襤褸(らんる)につつまれて 語られ終つたわびしい一つの物語り
 谿間(たにま)をへだてた向ふから呼びかへしてくる谺(こだま)のやうな 老人が さうつぶやいた
 かひがひしい妻 やさしい家族 暮しなれた習慣と隣人と
 そのささやかな幸福のすべてがかつてそこにあつた
 焼け野つ原の砌のうへで
 薄暮の雨に消えてゆく直線図形の掘割のむかふの方
 みづがね色の遠景に畸形(きけい)に歪んでおびえてゐる戦災ビルの肩を越えて
 病気の貧しい子供らが歌ひ始める唱歌のこゑ――
 それはまばらにさむざむと またたのしげに 瞬きはじめた都会の灯ひ
 ああその薔薇いろの瞳とほく輝きはじめた眼くばせが
 しかしいま私に何のかかはりがあらう
 そのまたずつとむかふの空に重たく暗く沈んでゆく山脈に
 けふの私の一日が遮ぎり断たれ つひには虚無にしまひこまれて消えていく黄昏時に
 いつまでもいつまでも
 空しく風にゆれてゐる柳のかげをたち去らぬこのおだやかな このつかれた この孤独な情緒は まるで春のやうだ……
 一人の老人が額をふせてさう呟いた
 けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ
 しのしのとのび放題に生ひ繁つた草つ原
 ――その枯れ枯れにうら枯れはてたそこらあたりに
 おもたく澱(よど)んだ掘割の水がくされてゐる
 そこらいちめん崩れかかった煉瓦塀の間から 雀の群れが飛びたつた
 気まぐれな思出のやうに 一つ一つ弱い翼を羽ばたいて
 巷の小鳥も飛び去ってゆく夕暮れだ
 霧のやうに降つてくるしめつぽい冬の雨の中で
 けれども情緒は 情緒はいまこの男に
 朧おぼろにかすんだ遠い日の桜日和を思はせた
 遠い沙漠の砂の上でひもじく飢ゑて死んでゆく蝗(いなご)のやうな感情にとぼしい光の落ちかかるうすぼんやりした内景から聴き手もなく老人はひとり呟いた
 けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ
  (「けれども情緒は」全行・昭和24年=1949年7月「文体」、詩集『駱駝の瘤にまたがつて』収録)


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)