『引き裂かれたカーテン』Torn Curtain (米ユニヴァーサル'66)*128min, Technicolor; 日本公開昭和41年(1966年)10月22日
○あらすじ(同上) アメリカからデンマークへ向かう1隻の客船。この船には、コペンハーゲンで開催される科学者国際会議に出席するため米宇宙委員会のマイケル(ポール・ニューマン)と婚約者で秘書のセーラ(ジュリー・アンドリュース)が乗っていた。そして目的地へ着く直前の日、マイケルの所へ秘密の連絡文が届いた。発信地は東ベルリンだった。コペンハーゲンへ行くのを止めて、東ベルリンへ行くといいだしたマイケルに、不安になったセーラは事の真相を糺したが、心配する必要はない、2、3日コペンハーゲンで待っているようにと笑うだけだった。何か重大なことがあると直感したセーラは、マイケルを追って東ベルリンへ向かった。空港にたったマイケルは秘密諜報員のグロメク(ウォルフガング・キーリング)の案内で東ベルリン秘密諜報機関長のゲルハルト(ハンショルク・フェルミー)に紹介された。マイケルは東ベルリン亡命を決意していたのだった。これは、アメリカで開発の進んだ核兵器、ガンマ5の秘密の共産圏漏洩の意味を持っていた。驚いたセーラはマイケルを売国奴となじったが、心底から彼を愛しているゆえ東ベルリンを去ることはできなかった。そうしたある日、田舎へ出かけ1人の農婦(モート・ミルス)にあった。農婦はアメリカ諜報員で、マイケルはスパイ活動のため東ベルリンへ亡命のかたちをとり潜入していたのだ。アメリカのガンマ5研究も、東ベルリンのリント博士(ルドウィヒ・ドナート)の研究がないと完成しなかったのだった。つまりガンマ5については高度の科学的知識が必要であり、マイケル送りこみを計画したのだ。しかし農婦との出会いを、尾行してきたグロメクに見つかったからたまらない。マイケルは彼を殺し農地へ埋める破目になった。着々と進んでいた計画の破綻。早急にリントの研究を盗み東ベルリンを離れないと計画も水の泡だ。リントにうまくとりいり研究をメモし終えた時、ゲルハルトの追及の手が伸びはじめた。マイケルとセーラの必死の逃亡生活が展開された。ゲルハルトの作戦は綿密で執拗だった。新聞は連日写真入りで事件を報道、2人は夜だけしか動くことができなかった。海岸に追いつめられた2人、逮捕は時間の問題と思われた時、危機一髪、フェリーボートが近づいた。アメリカ諜報機関の秘密船だった。九死に一生、2人はスウェーデン行きの船にまぎれこむことができた。―甲板では、いまこそ結婚できると、愛を確かめあうマイケルとセーラの熱い抱擁の姿があった。
ヒッチコック映画がこれまでスパイ・サスペンスも多かったとはいえ『三十九夜』から『知りすぎていた男』『北北西に進路を取れ』まで具体的にはどこの国の何のための陰謀かよくわからなかったように、基本はサスペンス映画であってもスパイそのものをドキュメンタリー的に描いた映画ではなかったのは明らかで、やや例外的なのは『間諜最後の日』くらいでしょう。しかし'60年代になり東西冷戦情況がより切迫してくると『寒い国から帰ってきたスパイ』『ベルリンの葬送』のようなスパイの活動に国際政治情勢を凝縮させたような作品のみならず、007シリーズに代表されるようなエンタテインメントのスパイ映画にも時局的なリアリティが求められるようになってきた。『サイコ』『鳥』『マーニー』と異色作が続いてきたこともあり、ユニヴァーサル側から「十八番のスパイ・サスペンスでどうですか」と要望があったかもしれません。しかしヒッチコック流のスパイ・サスペンスは現代の観客の嗜好に合ったスパイ映画にはならないぞ、とシナリオ段階でヒッチコックも気づく。それが映画の前半1/3のまどろっこしい情況説明で、トリュフォーの論難にヒッチコックは観客はジュリー・アンドリュースの視点からポール・ニューマンに疑惑を持つからあれでいいんだよ、と弁明していますが観客はとっくに先を読んでいる、というトリュフォーの指摘への回答にはなっていません。とにかくこれまでの映画なら第1次世界大戦、第2次世界大戦があってあっさり絡めればよかったものを、東西分裂都市の象徴ベルリンに舞台を特定しなければならなかったのが思い切った手段とはいえヒッチコックの流儀に合わないことになりました。東ベルリンらしさは映画によく出ていますし、それをドラマに関連させているのも何とかなっていてほっとしますが、以前のヒッチコックなら東ベルリンなど具体的に設定せずとも映画の中で実在感のある架空の異国を作り出すか、『間諜最後の日』ならスイス、『海外特派員』ならオランダとロンドンでやったように舞台設定は話を面白くするための背景に過ぎませんでした。
本作の見所は巧みに老物理学者から重要機密を聞き出した(この場面も面白いですが)ニューマンが、追ってきた殺し屋を返り討ちにする農家の場面のえんえん長い格闘で、殺し屋グロメクを演じたヴォルフガング・キーリングをヒッチコックが「いい俳優だった」と言う通り、これはニューマンよりもキーリングとキーリング殺しを手伝う頼りになる西側スパイの農夫の妻キャロリン・コンウェルの活躍で持っている場面です。アンドリュースと合流したニューマンが東ベルリンの協力者組織の運営する偽の路線バスで逃走するシークエンスも「こんな奴ら助ける必要あるの!?」とヒステリーを起こすおばさんがいたり、本物の路線バスと間違えておばあちゃんが乗ってきたり、本物のバスに追いつかれそうになったりとよく考えればヒステリーおばさんの言う通り本当に危険を侵しているのは東ベルリンの西側協力者組織なので、ここでも主人公とヒロインはむしろ受け身で助けられているだけなのが、面白いシークエンスですが主人公たちを魅力的に見せているとはお世辞にも言えないことになります。追われた主人公たちはバレエ公演中の劇場に飛び込み、東側スパイでもあるバレリーナがカッと見栄を切るとストップモーションで主人公たちを凝視する、ニューマンは「火事だ!」と叫んで逃げるというのもどちらもヒッチコックの旧作にあった手で、アメリカ便への貨物船に密航する最後のシークエンスもそれなりに利いていますがこれもまた東ベルリンの協力者の機転が功を奏した具合です。面白いシーンもたくさんあってそれらはヒッチコックらしさがちゃんとある演出で、殺し屋殺害の5分以上になる格闘は『サイコ』以来のグロテスク趣味が出たな、ベッドシーンで始まる映画も『サイコ』以来だが主人公カップルでは事件の発端(犯罪の伏線)にならないので今回のはただの観客サーヴィスだなと思うと、結局サスペンス映画として面白い場面はほとんどニューマンもアンドリュースも活躍していないことになります。「鉄のカーテン」ものとしては及第点にはなっているにしても主人公たちを積極的に動かせなかったのはヒッチコック得意の虚構化が徹底できず、リアリティに顧慮するあまり主人公たちが本当にサスペンス映画らしい見せ場では単に周囲の協力で助けられるだけの存在になってしまったからで、『映画術』ではそこまで突っ込んでいませんがこれはトリュフォーも指摘したくなく、指摘されてもヒッチコックとしては開き直るしかなかったことでしょう。ヒッチコックの映画にはなっているのに狙いが外れてしまった映画、そういう作品に見えます。しかしそれが次作『トパーズ』では暗澹たることになるのです。
●1月25日(木)
『トパーズ』Topaz (米ユニヴァーサル'69)*126min, Technicolor; 日本公開昭和45年(1970年)6月19日
○あらすじ(同上) 1962年のある日、政府の製作に批判的だったソ連の高官クセノフが、CIAアメリカ中央情報局)のノルドストロム(ジョン・フォーサイス)の協力により妻と娘を伴いアメリカに亡命した。この情報は、ある情報組織の長であるアンドレ(フレデリック・スタフォード)にも伝わった。彼はただちに親友であるノルドストロムに会い、互いの情報を交換しあった。クセノフの話すところによると、ソ連がキューバに補給している軍需品の覚書は、国連のキューバ主席代表が所持している、とのことだった。アンドレは、妻のニコール(ダニー・ロバン)、娘のミシェル(クロード・ジャド)、その夫フランソワ(ミシェル・シュボール)を伴ってニューヨークに行き、再度ノルドストロムに会った。その時、彼から依頼された通商条約書を、アンドレは首尾よくキューバ主席代表パラ(ジョン・ヴァーノン)から写しとった。その後キューバにおもむいたアンドレは、愛人である地下運動の美人指導者ファニタ(カリン・ドール)を訪ね、仕事を依頼した。彼女は現在、パラによって身の安全を保障されている存在だったが、その仕事を承諾した。彼女の仲間から情報は次々と集まってきたが、仲間の1人がついに逮捕された。やがて帰国の途につくことになったアンドレは、危険になったファニタに亡命をすすめたが、彼女は涙をうかべそれを拒んだ。その彼女には、すぐ後にパラの拳銃をあびる運命が待っていた。そのころ機上では、彼女が詩集の表紙の裏にはりつけたミサイル基地などのフィルムをみて、アンドレが彼女への愛に胸をしめつけられていた。その後、彼とノルドストロムはクセノフから重大な情報を聞いた。それは、ソ連のためにスパイ活動をしているフランス人の組織「トパーズ」のことだった。首領は暗号名をコランバインという謎の人物で、副首領はアンリー(フィリップ・ノワレ)という男だった。この話を聞いて少なからず動揺したアンドレは、仲間のジャック(ミシェル・ピコリ)らに頼み、旧友達を集め昼食会を開いてもらった。その中には、アンリーも加わっていた。しかし事件は意外な方向に進み、アンリーは殺されてしまった。そして、彼を襲った男の1人がもらした電話番号がアンドレの親友ジャックのものだった。さらにアンドレは、妻がジャックと愛し合っていたことを知った。翌日、米仏会談に出席を拒否され、ひとりセーヌの家に帰ったジャックの部屋で、1発の銃声が、鳴り響いた。自殺したのか、殺されたのか?翌朝の新聞はキューバのソ連ミサイルが撤去されたことを、大々的に報道していた。
主人公アンドレ(フレデリック・スタフォード)の愛人のスパイ、ファニタを演じるカリン・ドールは魅力的ですが主人公に機密情報を写したマイクロフィルムを隠した本を託した後で途中で殺されてしまうし(主人公が本の表紙の見返しからマイクロフィルムを発見する無言のシーンはなかなかですが)、アンドレの妻ニコールが実は黒幕である人物と通じていたというのも結末近くで明かされるのはあまりにも都合良く、これが前半から伏線が張ってあるか、妻ニコールの視点からも描かれていればいつ露見するかというサスペンスになったかもしれませんが(これまでヒッチコックがよく使った手です)、そういう秘密を抱えた人物からの視点はないので決定的にサスペンスが不足しています。ヒッチコックらしいスリリングな場面は主人公の娘婿のジャーナリストが主人公に代わって黒幕への情報提供者であることがわかったフィリップ・ノワレの自宅に取材名目で会いに行き、消息が途絶えてどうなったか娘のクロード・ジャドが半狂乱になり、主人公が現場に駆けつけるとそこには……と意外な展開を絶妙なカット割りで見せてくれるシークエンスですが、これが映画の真髄となるシーンかというと入り組んだストーリーと人間関係の中では突然すぎで、そういやそんな娘婿がいたっけなと忘れた頃に出てくるので観ているうちに主要人物も脇役も区別がつかなくなってくる。別に共感とまでいかずとも映画が誰の視点から語られているか、完全に1視点からでなくても良いにせよシーンごとに明確な視点人物がいて、プロットを運んでいくストーリーも主要人物の視点によって統一されているのが望ましいのは特にサスペンス映画のように観客の集中度が高いほど効果があがる場合はなおさらでしょう。今回ヒッチコックの全作品を観て途中で眠ってしまったのは52本中『舞台恐怖症』と本作です。少し際どかったのは『ウィンナー・ワルツ』ですが『舞台~』と本作は本当に眠ってしまい記憶にある場所に戻ってなんとか全編観たので、『舞台~』は眠気を払えば面白く観終えましたが『トパーズ』はわざわざ律儀に戻して観たのが悔しくなるようなものでした。
本作はどうも現行DVDと公開当時の試写では結末のヴァージョンが違うようで、キネマ旬報のあらすじの結末は現行映像ソフト(DVD)の特典映像に収録されている別のエンディングが他に3ヴァージョンあるうちのひとつになっています。公開当時にもまだ結末の処理に混乱があったということになり、では現行DVDで採用されている結末と別ヴァージョンの結末3通りのどれが良いかというと全部良くない。走馬灯のように映画本編の各場面が次々オーヴァーラップしてくるという陳腐な映像処理はどのヴァージョンでも共通しており、『映画術』でトリュフォーがどうでもいい企画は適当に済ませるというのが『ウィンナー・ワルツ』や『スミス夫妻』だったのでしょうか、とヒッチコックに訊いて「その通り」と言わせていますが、『トパーズ』は明らかに『ウィンナー・ワルツ』や『スミス夫妻』以下の映画です。働き盛りの30代や40代ならばともかく70歳を迎えたヒッチコックの作品がやっつけ仕事並みの出来に終わったのはいっそ酸鼻な無惨さすら感じますが、『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』の2作はもはやスパイ・サスペンスでは現役感のある作品は作れない、という厳しい認識をヒッチコックに突きつけたでしょうし、『三十九夜』から『北北西に進路を取れ』までの輝かしいスパイ・サスペンスを作り出してきたヒッチコックにいまさら他人が何を言えるでしょうか。