人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年1月24日・25日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(26)

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 前作『マーニー』はヒッチコック作品としては少々焼き直しの印象もあるものでしたが、意外なショーン・コネリーの好演もあって『白い恐怖』と『めまい』の焼き直し風とはいえ見応えのある作品でした。しかし『マーニー』から2年を置いた『引き裂かれたカーテン』は東西冷戦という'50年代末からの戦後情勢を取り入れた時局的なスパイ・サスペンス作品を狙ってヒッチコックらしいフィクション性と題材のリアリティが上手くかみ合っているとは言えず、またヒッチコック'50年代以来の黄金時代を支えた撮影のロバート・バークスが前作『マーニー』で最後になり、音楽のバーナード・ハーマンヒッチコックとの衝突から本作の製作中に降板したのも『引き裂かれたカーテン』ではまだ大きくは響きませんでしたが、さらに3年後の次作『トパーズ』はベストセラー作家レオン・ユリス(『栄光への脱出』)原作の映画化という企画先行の作品で、まるで『ウィンナー・ワルツ』'33以前の戦前のイギリスの映画会社の社員監督時代に戻ったかのようです。『引き裂かれた~』の東ベルリンに対して舞台はパリに移りましたが前作に較べても舞台設定が生かせているとは言えず、現行映像ソフト(DVD)の特典映像に収録されている通り公開作品とは別のエンディングが他に3ヴァージョンも作られていたのが判明したくらいシナリオにも演出にも最後まで迷いがあった作品で、それが映画の出来にそのまま露呈してしまい、『引き裂かれたカーテン』と『トパーズ』はともに観客動員でも批評でも芳しくなく、特に『トパーズ』では惨敗と言って良く、ヒッチコックの映画でもこれほど楽しみの少ない作品はないでしょう。3年後の次作『フレンジー』'72でヒッチコックは再び往年の冴えを取り戻し、最後の監督作品になった『ファミリー・プロット』'76も『フレンジー』と並ぶ若手監督の感覚にも負けない現代的な傑作になったのですが、'70年代の最晩年の2作の傑作が撮られず『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』でヒッチコックの監督歴が終わっていたらこの2作は晩年の汚点として切り捨てられてしまったかもしれません。感想文を書くのも気が進まないくらいですが、この2作もやはり無視できないので何とか書いてみようと思います。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

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●1月24日(水)
『引き裂かれたカーテン』Torn Curtain (米ユニヴァーサル'66)*128min, Technicolor; 日本公開昭和41年(1966年)10月22日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) ヒッチコック監督の50本記念作品。ブライアン・ムーアが自分の原作を脚色、「マーニー」のヒッチコックが演出したスパイ推理ドラマ。撮影をジョン・F・ウォレン、音楽はジョン・アディソンが担当している。主演は、「動く標的」のポール・ニューマンと「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュース。彼等をめぐり「その男ゾルバ」のリラ・ケドロワ、「栄光への脱出」のルドウィヒ・ドナート、バレリーナのタマラ・トゥマノヴァが絡んでいる。製作も、ヒッチコックが兼ねている。
○あらすじ(同上) アメリカからデンマークへ向かう1隻の客船。この船には、コペンハーゲンで開催される科学者国際会議に出席するため米宇宙委員会のマイケル(ポール・ニューマン)と婚約者で秘書のセーラ(ジュリー・アンドリュース)が乗っていた。そして目的地へ着く直前の日、マイケルの所へ秘密の連絡文が届いた。発信地は東ベルリンだった。コペンハーゲンへ行くのを止めて、東ベルリンへ行くといいだしたマイケルに、不安になったセーラは事の真相を糺したが、心配する必要はない、2、3日コペンハーゲンで待っているようにと笑うだけだった。何か重大なことがあると直感したセーラは、マイケルを追って東ベルリンへ向かった。空港にたったマイケルは秘密諜報員のグロメク(ウォルフガング・キーリング)の案内で東ベルリン秘密諜報機関長のゲルハルト(ハンショルク・フェルミー)に紹介された。マイケルは東ベルリン亡命を決意していたのだった。これは、アメリカで開発の進んだ核兵器、ガンマ5の秘密の共産圏漏洩の意味を持っていた。驚いたセーラはマイケルを売国奴となじったが、心底から彼を愛しているゆえ東ベルリンを去ることはできなかった。そうしたある日、田舎へ出かけ1人の農婦(モート・ミルス)にあった。農婦はアメリカ諜報員で、マイケルはスパイ活動のため東ベルリンへ亡命のかたちをとり潜入していたのだ。アメリカのガンマ5研究も、東ベルリンのリント博士(ルドウィヒ・ドナート)の研究がないと完成しなかったのだった。つまりガンマ5については高度の科学的知識が必要であり、マイケル送りこみを計画したのだ。しかし農婦との出会いを、尾行してきたグロメクに見つかったからたまらない。マイケルは彼を殺し農地へ埋める破目になった。着々と進んでいた計画の破綻。早急にリントの研究を盗み東ベルリンを離れないと計画も水の泡だ。リントにうまくとりいり研究をメモし終えた時、ゲルハルトの追及の手が伸びはじめた。マイケルとセーラの必死の逃亡生活が展開された。ゲルハルトの作戦は綿密で執拗だった。新聞は連日写真入りで事件を報道、2人は夜だけしか動くことができなかった。海岸に追いつめられた2人、逮捕は時間の問題と思われた時、危機一髪、フェリーボートが近づいた。アメリ諜報機関の秘密船だった。九死に一生、2人はスウェーデン行きの船にまぎれこむことができた。―甲板では、いまこそ結婚できると、愛を確かめあうマイケルとセーラの熱い抱擁の姿があった。

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 この感想文を書いている時点でヒッチコック作品は遺作『ファミリー・プロット』まで観(直し)終えていますからまだしも最後にヒッチコックは調子を取り戻すとわかっているのですが、本作から『ファミリー・プロット』までの4作はテレビ放映でまだ昭和の時代に観たきりでしたから記憶も薄れていて、『マーニー』の後では何か嫌な予感がしてDVDで観るのが怖いような気もありました。全作品観るんだぞと決めていなければテレビで観た時何だかよくわからなかった『引き裂かれた~』『トパーズ』を飛ばして、テレビで観ても面白かった印象がある『フレンジー』『ファミリー・プロット』にさっさと進んでいたかもしれません。とにかく観ると決めたからには観始めるといきなりベッドでいちゃいちゃしているポール・ニューマンジュリー・アンドリュースに当惑します。ヒッチコックはフリーの監督になり自分のプロダクションを設立した『ロープ』以来すべての自作に企画・キャスティングの決定権を持っていたはずですがそれでもメジャーの配給会社の意向で結末を変更することもあり(『私は告白する』もっとあるでしょう)、ニューマンとアンドリューズの起用はユニヴァーサル側の条件だったらしい。この時期ならニューマンは『ハスラー』'61で本作と同年に『動く標的』'66、アンドリュースは『サウンド・オブ・ミュージック』'65の大ヒット中で、このカップルがアメリカきっての物理学者なのもまさかよという感じなら大事なサミットを控えて熱々の婚約者同士というのも映画冒頭のつかみとしても居心地が悪くなります。ヒッチコック贔屓の和田誠さんが新鮮(『ヒッチコックに進路を取れ』)と言っても贔屓の引き倒しではないでしょうか。企画自体はヒッチコックにイニシアチブがあったようで、(1)ニューマンが東ベルリンに婚約者に黙って謎の潜入をしてアンドリュースが追いかける、(2)ニューマンの真の目的が明らかになりアンドリュースも協力して任務を遂行せんと奮闘する、(3)ニューマンの目的がバレて東ベルリンのコミュニスト組織の追及の手から命からからがら脱出する、と3段構えの構成だ、とヒッチコックが語れば「それはわかりますが、映画が面白くなるのは前半1/3を過ぎてからじゃありませんか」とフランソワ・トリュフォーも遠慮がない(『映画術』)。つまりヒロインが主人公の不審な行動に疑問を持つようには観客はニューマンが何か隠密指令を受けて共産圏に行くんだな、と観客には予想がついてしまうので、婚約者が売国奴になったと騒ぎ立てて連れ戻しに追いかけていくヒロインより観客の方がからくりに気づいてしまう。さすが映画監督にして一流批評家でもあるトリュフォーらしい指摘ですが、実際は一応この後の展開に期待があるので前半1/3もそれほどつまらなくはありません。ヒッチコック発言が問題なのは監督自身が明確な構想があった以上本作はキャスティングはともかくまぎれもなくヒッチコックの企画だったということです。
 ヒッチコック映画がこれまでスパイ・サスペンスも多かったとはいえ『三十九夜』から『知りすぎていた男』『北北西に進路を取れ』まで具体的にはどこの国の何のための陰謀かよくわからなかったように、基本はサスペンス映画であってもスパイそのものをドキュメンタリー的に描いた映画ではなかったのは明らかで、やや例外的なのは『間諜最後の日』くらいでしょう。しかし'60年代になり東西冷戦情況がより切迫してくると『寒い国から帰ってきたスパイ』『ベルリンの葬送』のようなスパイの活動に国際政治情勢を凝縮させたような作品のみならず、007シリーズに代表されるようなエンタテインメントのスパイ映画にも時局的なリアリティが求められるようになってきた。『サイコ』『鳥』『マーニー』と異色作が続いてきたこともあり、ユニヴァーサル側から「十八番のスパイ・サスペンスでどうですか」と要望があったかもしれません。しかしヒッチコック流のスパイ・サスペンスは現代の観客の嗜好に合ったスパイ映画にはならないぞ、とシナリオ段階でヒッチコックも気づく。それが映画の前半1/3のまどろっこしい情況説明で、トリュフォーの論難にヒッチコックは観客はジュリー・アンドリュースの視点からポール・ニューマンに疑惑を持つからあれでいいんだよ、と弁明していますが観客はとっくに先を読んでいる、というトリュフォーの指摘への回答にはなっていません。とにかくこれまでの映画なら第1次世界大戦、第2次世界大戦があってあっさり絡めればよかったものを、東西分裂都市の象徴ベルリンに舞台を特定しなければならなかったのが思い切った手段とはいえヒッチコックの流儀に合わないことになりました。東ベルリンらしさは映画によく出ていますし、それをドラマに関連させているのも何とかなっていてほっとしますが、以前のヒッチコックなら東ベルリンなど具体的に設定せずとも映画の中で実在感のある架空の異国を作り出すか、『間諜最後の日』ならスイス、『海外特派員』ならオランダとロンドンでやったように舞台設定は話を面白くするための背景に過ぎませんでした。
 本作の見所は巧みに老物理学者から重要機密を聞き出した(この場面も面白いですが)ニューマンが、追ってきた殺し屋を返り討ちにする農家の場面のえんえん長い格闘で、殺し屋グロメクを演じたヴォルフガング・キーリングをヒッチコックが「いい俳優だった」と言う通り、これはニューマンよりもキーリングとキーリング殺しを手伝う頼りになる西側スパイの農夫の妻キャロリン・コンウェルの活躍で持っている場面です。アンドリュースと合流したニューマンが東ベルリンの協力者組織の運営する偽の路線バスで逃走するシークエンスも「こんな奴ら助ける必要あるの!?」とヒステリーを起こすおばさんがいたり、本物の路線バスと間違えておばあちゃんが乗ってきたり、本物のバスに追いつかれそうになったりとよく考えればヒステリーおばさんの言う通り本当に危険を侵しているのは東ベルリンの西側協力者組織なので、ここでも主人公とヒロインはむしろ受け身で助けられているだけなのが、面白いシークエンスですが主人公たちを魅力的に見せているとはお世辞にも言えないことになります。追われた主人公たちはバレエ公演中の劇場に飛び込み、東側スパイでもあるバレリーナがカッと見栄を切るとストップモーションで主人公たちを凝視する、ニューマンは「火事だ!」と叫んで逃げるというのもどちらもヒッチコックの旧作にあった手で、アメリカ便への貨物船に密航する最後のシークエンスもそれなりに利いていますがこれもまた東ベルリンの協力者の機転が功を奏した具合です。面白いシーンもたくさんあってそれらはヒッチコックらしさがちゃんとある演出で、殺し屋殺害の5分以上になる格闘は『サイコ』以来のグロテスク趣味が出たな、ベッドシーンで始まる映画も『サイコ』以来だが主人公カップルでは事件の発端(犯罪の伏線)にならないので今回のはただの観客サーヴィスだなと思うと、結局サスペンス映画として面白い場面はほとんどニューマンもアンドリュースも活躍していないことになります。「鉄のカーテン」ものとしては及第点にはなっているにしても主人公たちを積極的に動かせなかったのはヒッチコック得意の虚構化が徹底できず、リアリティに顧慮するあまり主人公たちが本当にサスペンス映画らしい見せ場では単に周囲の協力で助けられるだけの存在になってしまったからで、『映画術』ではそこまで突っ込んでいませんがこれはトリュフォーも指摘したくなく、指摘されてもヒッチコックとしては開き直るしかなかったことでしょう。ヒッチコックの映画にはなっているのに狙いが外れてしまった映画、そういう作品に見えます。しかしそれが次作『トパーズ』では暗澹たることになるのです。

●1月25日(木)
『トパーズ』Topaz (米ユニヴァーサル'69)*126min, Technicolor; 日本公開昭和45年(1970年)6月19日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) サスペンス映画の巨匠ヒッチコックが「引き裂かれたカーテン」以来3年ぶりにメガホンをとった作品。62年のキューバ危機、緊迫化する東西両陣営の背後で暗躍するスパイを描いた作品。製作・監督はアルフレッド・ヒッチコック、共同製作はハーバート・コールマン。レオン・ユーリスの同名小説をサム・テイラーが脚色。撮影はジャック・ヒルドヤード、音楽はモーリス・ジャール、編集はウィリアムス・H・ジーグラーがそれぞれ担当。出演は「アルデンヌの戦い」のフレデリック・スタフォード、「渚のデイト」のダニー・ロバン、「冷血」のジョン・フォーサイス、「夕陽に向って走れ」のジョン・ヴァーノン、「007は二度死ぬ」のカリン・ドール、「昼顔」のミシェル・ピコリ、「夜霧の恋人たち」のクロード・ジャド、その他フィリップ・ノワレ、ミシェル・シュボールなど。
○あらすじ(同上) 1962年のある日、政府の製作に批判的だったソ連の高官クセノフが、CIAアメリカ中央情報局)のノルドストロム(ジョン・フォーサイス)の協力により妻と娘を伴いアメリカに亡命した。この情報は、ある情報組織の長であるアンドレ(フレデリック・スタフォード)にも伝わった。彼はただちに親友であるノルドストロムに会い、互いの情報を交換しあった。クセノフの話すところによると、ソ連キューバに補給している軍需品の覚書は、国連のキューバ主席代表が所持している、とのことだった。アンドレは、妻のニコール(ダニー・ロバン)、娘のミシェル(クロード・ジャド)、その夫フランソワ(ミシェル・シュボール)を伴ってニューヨークに行き、再度ノルドストロムに会った。その時、彼から依頼された通商条約書を、アンドレは首尾よくキューバ主席代表パラ(ジョン・ヴァーノン)から写しとった。その後キューバにおもむいたアンドレは、愛人である地下運動の美人指導者ファニタ(カリン・ドール)を訪ね、仕事を依頼した。彼女は現在、パラによって身の安全を保障されている存在だったが、その仕事を承諾した。彼女の仲間から情報は次々と集まってきたが、仲間の1人がついに逮捕された。やがて帰国の途につくことになったアンドレは、危険になったファニタに亡命をすすめたが、彼女は涙をうかべそれを拒んだ。その彼女には、すぐ後にパラの拳銃をあびる運命が待っていた。そのころ機上では、彼女が詩集の表紙の裏にはりつけたミサイル基地などのフィルムをみて、アンドレが彼女への愛に胸をしめつけられていた。その後、彼とノルドストロムはクセノフから重大な情報を聞いた。それは、ソ連のためにスパイ活動をしているフランス人の組織「トパーズ」のことだった。首領は暗号名をコランバインという謎の人物で、副首領はアンリー(フィリップ・ノワレ)という男だった。この話を聞いて少なからず動揺したアンドレは、仲間のジャック(ミシェル・ピコリ)らに頼み、旧友達を集め昼食会を開いてもらった。その中には、アンリーも加わっていた。しかし事件は意外な方向に進み、アンリーは殺されてしまった。そして、彼を襲った男の1人がもらした電話番号がアンドレの親友ジャックのものだった。さらにアンドレは、妻がジャックと愛し合っていたことを知った。翌日、米仏会談に出席を拒否され、ひとりセーヌの家に帰ったジャックの部屋で、1発の銃声が、鳴り響いた。自殺したのか、殺されたのか?翌朝の新聞はキューバソ連ミサイルが撤去されたことを、大々的に報道していた。

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 前作『引き裂かれたカーテン』はポール・ニューマンジュリー・アンドリュースをユニヴァーサルの意向でキャスティングしたとは言え企画自体はヒッチコック自身のプロダクションによるものでした。しかし本作はベストセラー作家レオン・ユリスの新作ベストセラー小説の映画化権を買ったユニヴァーサルがヒッチコックに依頼して製作した作品です。ユリスは多くの流行作家と同じく現在読む人はまったくいませんが、当時にあっては『栄光への脱出』の原作者として大人気の作家であり、本作も脚本家がクレジットされてはいますが原作者ユリスの意向が絶対という脚色で、登場人物がやたらと多いばかりか人間関係が入り組んでいてドラマの進行に連れて事件の行方も中心人物も次々と替わっていく、というと凝ったプロットの作品のようですが、トリュフォーによれば原作小説は「ベストセラーではあったものの、ドゴール大統領の側近にコミュニストのスパイがいたという実話に基づいて書かれたということだけがメリットになっているスパイ小説であり、あまりにも多くの場所と人物が複雑に絡みあうプロットにかてて加えて、さらに不幸なことには、この重苦しく冗長な小説の作者本人が映画用の台本を書くという契約だった」そうですから、時事的な興味を狙ってすぐに古臭くなり忘れ去られるような通俗エンタテインメント小説の典型みたいなものだったのでしょう。ストーリーを推進させていくための視点人物が次々にリレー式に入れ替わっていく上に太いプロットが見えてこないので映画がどこまで進んだのかわからない。同じところをぐるぐる回っているだけにすら見えてきます。
 主人公アンドレ(フレデリック・スタフォード)の愛人のスパイ、ファニタを演じるカリン・ドールは魅力的ですが主人公に機密情報を写したマイクロフィルムを隠した本を託した後で途中で殺されてしまうし(主人公が本の表紙の見返しからマイクロフィルムを発見する無言のシーンはなかなかですが)、アンドレの妻ニコールが実は黒幕である人物と通じていたというのも結末近くで明かされるのはあまりにも都合良く、これが前半から伏線が張ってあるか、妻ニコールの視点からも描かれていればいつ露見するかというサスペンスになったかもしれませんが(これまでヒッチコックがよく使った手です)、そういう秘密を抱えた人物からの視点はないので決定的にサスペンスが不足しています。ヒッチコックらしいスリリングな場面は主人公の娘婿のジャーナリストが主人公に代わって黒幕への情報提供者であることがわかったフィリップ・ノワレの自宅に取材名目で会いに行き、消息が途絶えてどうなったか娘のクロード・ジャドが半狂乱になり、主人公が現場に駆けつけるとそこには……と意外な展開を絶妙なカット割りで見せてくれるシークエンスですが、これが映画の真髄となるシーンかというと入り組んだストーリーと人間関係の中では突然すぎで、そういやそんな娘婿がいたっけなと忘れた頃に出てくるので観ているうちに主要人物も脇役も区別がつかなくなってくる。別に共感とまでいかずとも映画が誰の視点から語られているか、完全に1視点からでなくても良いにせよシーンごとに明確な視点人物がいて、プロットを運んでいくストーリーも主要人物の視点によって統一されているのが望ましいのは特にサスペンス映画のように観客の集中度が高いほど効果があがる場合はなおさらでしょう。今回ヒッチコックの全作品を観て途中で眠ってしまったのは52本中『舞台恐怖症』と本作です。少し際どかったのは『ウィンナー・ワルツ』ですが『舞台~』と本作は本当に眠ってしまい記憶にある場所に戻ってなんとか全編観たので、『舞台~』は眠気を払えば面白く観終えましたが『トパーズ』はわざわざ律儀に戻して観たのが悔しくなるようなものでした。
 本作はどうも現行DVDと公開当時の試写では結末のヴァージョンが違うようで、キネマ旬報のあらすじの結末は現行映像ソフト(DVD)の特典映像に収録されている別のエンディングが他に3ヴァージョンあるうちのひとつになっています。公開当時にもまだ結末の処理に混乱があったということになり、では現行DVDで採用されている結末と別ヴァージョンの結末3通りのどれが良いかというと全部良くない。走馬灯のように映画本編の各場面が次々オーヴァーラップしてくるという陳腐な映像処理はどのヴァージョンでも共通しており、『映画術』でトリュフォーがどうでもいい企画は適当に済ませるというのが『ウィンナー・ワルツ』や『スミス夫妻』だったのでしょうか、とヒッチコックに訊いて「その通り」と言わせていますが、『トパーズ』は明らかに『ウィンナー・ワルツ』や『スミス夫妻』以下の映画です。働き盛りの30代や40代ならばともかく70歳を迎えたヒッチコックの作品がやっつけ仕事並みの出来に終わったのはいっそ酸鼻な無惨さすら感じますが、『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』の2作はもはやスパイ・サスペンスでは現役感のある作品は作れない、という厳しい認識をヒッチコックに突きつけたでしょうし、『三十九夜』から『北北西に進路を取れ』までの輝かしいスパイ・サスペンスを作り出してきたヒッチコックにいまさら他人が何を言えるでしょうか。