人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年2月26日~27日/溝口健二(1898-1956)のトーキー作品(6)敗戦後の模索期1

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 溝口健二の戦後最初の作品は新藤兼人小津安二郎専属脚本家の野田高梧の共作オリジナル・シナリオによる女権主張・民主主義促進映画『女性の勝利』(松竹、昭和21年4月18日公開)で、「自由主義者の評論家山岡(徳大寺伸)は終戦で釈放され、かつての恋人で弁護士の細川ひろ子(田中絹代)に温かく迎えられる。二人の恋愛を最も恐れていたのはひろ子の姉みち子(桑野通子)とその良人で牢固たる封建思想の持主河野検事であった。ひろ子は女学生時代の友朝倉もと(三浦光子)が夫を失い、精神錯乱の中で愛児を死に至らしめた事件に弁護士として立ったが、図らずも河野検事と対決、女性の男性従属よりの覚醒を主張する。この裁判中、山岡がひろ子の勝利を祈りつつ死んだという悲報が入るが、それにもめげず女性解放のため朝倉もとの第二公判に献身するのであった」(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)というものでした。黒澤明の戦後第1作『わが青春に悔なし』(東宝、昭和21年10月29日公開)が連想されますが、日本の映画監督の戦後第1作はだいたいこうした封建思想からの脱却を主張した民主主義促進のメッセージ映画でした。溝口の場合戦後第5作の『わが恋は燃えぬ』'49までこの傾向が続いてしまったのは国策翼賛作品を相当数作ってしまった埋め合わせだったのもあるでしょうが、それを言えば黒澤だって戦時下のデビュー作『姿三四郎』'43、第2作『一番美しく』'44、第3作『續姿三四郎』'44はいずれも国策翼賛作映画だったのです。
 ただし黒澤には理想主義的人物像を描く志向があり、戦後にはその理想が民主主義に取って代わっただけなので作風は一貫していたのですが、溝口が上手くいった映画はたいがい社会の仕組みに適応できない主人公、多くの場合ヒロインがひどい目にあう作品ばかりでした。溝口自身が民主主義的とは真っ向から対立する発想の人間で、溝口が描くことができるのは真っ向から反抗的な孤独な人物か、芸に打ち込んで芸にのみ居所を見つけるか、完全に敗北して破滅する人物です。そういう作風に戻った戦後第6作『雪夫人絵図』'50までの作品で比較的成功したのは芸道時代劇『歌麿をめぐる五人の女』と敗戦後の荒廃した世相で街娼たちの世界を描いた『夜の女たち』くらいで、『雪夫人絵図』からの『お遊さま』'51、『武蔵野夫人』'51の3作も舟橋聖一谷崎潤一郎大岡昇平の現代小説の映画化で、合わない民主主義路線よりはずっと安定した作風を示したにせよ、まだ戦後の新たな方向性をつかんだとは言えないものでした。溝口の創作力の爆発は『西鶴一代女』'52から始まり、同作から遺作『赤線地帯』'56までは名作傑作秀作佳作の連発になります。しかしそれも戦後数年の不調な時期を乗り越えたからこそと、この出来不出来の激しい巨匠の場合は見るべきなのかもしれません。

●2月26日(月)
歌麿をめぐる五人の女』(松竹京都撮影所/松竹'46)*95min(オリジナル106分), B/W; 昭和21年12月17日公開 : https://youtu.be/fiCbo9d1Q_4

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○製作・絲屋寿雄、原作・邦枝完二、脚本・依田義賢、撮影・三木滋人、音楽・大沢寿人、美術・本木勇
○あらすじ 水茶屋難波屋おきた(田中絹代)は歌麿(坂東簑助)のモデルとなって、一躍江戸中の評判となる。勝気なおきたは紙問屋の息子庄三郎に恋い焦れていたが、彼はおいらんの多賀袖(飯塚敏子)とかけ落ちする。おきたは口惜しさのあまり歌麿門下の勢之助(坂東好之助)とその婚約者雪江との仲を嫉妬、あげくは歌麿にまで当たり散らし歌麿の筆は荒んでしまう。だが松平家邸の池で裸女に鯉をつかみどりさせた絵「美人鯉取りの図」で彼はようやく調子をとり戻した。しかし彼は以前描いた絵がお上の怒りにふれ奉行所にひかれていく……。邦枝完二の原作から浮世絵師をめぐる時代の風俗を描こうとした溝口戦後初の時代劇映画である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第73作。ここから遺作となった第88作『赤線地帯』(大映、昭和31年3月18日公開。溝口逝去は同年8月24日)までは手元に映像ソフトも揃っているので連続して観直していきます。本作は『残菊物語』'39から『名刀美女丸』'45まで溝口映画の本流になっていた芸道(職人)ものの戦後では初めての、これ以降は作られなくなる種類の作品で、役者や刀匠、浮世絵師と同様に剣術士をとらえて『宮本武蔵』'44が作られたとしたら、封建時代の地方藩家老を描いた『元禄忠臣蔵』'41/'42の系譜にかろうじて王朝時代の終焉期にあって武家の興隆を描いた『新・平家物語』'55が政治家ものとして上げられる程度です。溝口という映画監督は18歳から職を転々とし、22歳で映画会社に入ってからはようやく仕事に打ちこみ、3年目の24歳で監督デビューした人で、私生活では26歳の時に内縁の女性に剃刀で斬りつけられる事件があり、またその後結婚した夫人とも溝口が家庭をかえりみないため不和が絶えず『元禄忠臣蔵』撮影開始直後に夫人が重度の精神疾患を発症しています。映画監督としての腕前はデビュー後すぐに認められましたが狷介な人柄で、上には弱く下には傲慢勝手で、人間的にはスタッフ、キャストから嫌われており、友人といえる仲間もなく仕事の上だけのつきあいでした。そんな人ですから男性主人公を描いた映画では男はなべて職業人、職人としての生き方がすべてであるようにしか発想できなかったので、溝口映画の男性主人公は職業関係以外に家庭生活もない(つまり夫として、父親としての感情体験がない)、親兄弟もない、職業を離れた友人すらいない孤独な人間ばかりです。実は小津安二郎成瀬巳喜男といった映画監督も非常に孤独な私生活を送った映画監督でした。しかし小津や成瀬は妻や子、親兄弟や友人との細やかな感情を理解し映画に表現できた監督です。溝口の場合はせいぜい仕事仲間しか描けない。本作で言えば歌麿の弟子の竹麿(富本民平)と勢之助(坂東好太郎)ですが、他の芸道(職人)ものでも主人公に師匠がいればひたすら偉く、弟子はただただ未熟で主人公への公私に渡る奉公が当然という描き方です。また本作の「五人の女」とはおきた(田中絹代)、多賀袖(飯塚敏子)、雪江(大原英子)、おしん(白妙公子)、お蘭(川崎弘子)ですが、タイトルから歌麿と五人の女たちとの関係がオムニバス映画のように一人ひとり描かれているか、あるいは平行して描かれているかと予想すると大はずれで、田中絹代が人間関係をひっかきまわすのと歌麿の浮世絵師のキャリアの受難(弟子がモデルに惚れてしまう、不敬罪で50日間の手鎖懲戒処分を受ける、などなど)がエピソード単位で連なっていて、中心となるプロットが浮かび上がってきません。
 日本映画は創生期から現代ものは東京近郊の撮影所、時代物は京都の撮影所で撮られてきた伝統があるのを再認識させられるほど徳川時代の江戸のムードの再現は非常に見事で、喜多川歌麿(1753-1806)の生きていた時代は江戸時代といっても18世紀末ですから京都のように1000年の歴史を誇る都では少し昔の日本でしかなく、敗戦後2年目でもこのくらいはお手のものだったと思うと美術の再現度と俳優の存在感には現代映画ではたち打ちできない迫真性を感じます。20年と置かずに大震災と空襲に見まわれた東京では作りようのなかった、京都の撮影所ならではの映画を溝口はずっと作ってきたわけです('23年2月の監督デビューは東京の日活向島撮影所でしたが、デビュー年の9月に向島撮影所は関東大震災で壊滅したので他のスタッフともども京都の日活大将軍撮影所に転勤し、以来フリー、第一映画社、新興キネマ、松竹京都に至るまでずっと京都の映画監督でした)。松竹蒲田~松竹大船の映画監督であり続けた5歳年下の小津安二郎とは同じ日本の映画監督でもまったく異なる文化圏の監督だったことはもっと留意されていいことです。そうしたことを考えさせられるのも本作が1946年という製作年度にあって商業映画では珍しい自己言及的作品になっているからで、美人画に打ちこむ歌麿は女性映画で鳴らした映画監督溝口健二の自画像のように見える仕掛けになっています。これはヌーヴェル・ヴァーグ以降には頻繁に行われるようになり、ヌーヴェル・ヴァーグに先立ってスウェーデンベルイマンなども'50年代初頭からメタ構造的作品を作っていましたが、ベルイマンの場合は映画監督以上に舞台演出家・脚本家のキャリアが大きいので、舞台演出家が自作の映画シナリオを映画作品に監督するとなると自画像的映画、映画製作過程のメタファーであるような映画といった表れ方をしたと思われます。溝口の専属脚本家、依田義賢氏の回想録によると戦後すぐ溝口は松竹から労務委員長職に請われ、というのは生粋の松竹監督は松竹の戦時方針で小津安二郎始め外国の植民地の映画部役職に派遣していて、そうした国策貢献(実際は誰のためにもなりませんでしたが)によって松竹は戦時下の映画会社統合令から免れたのですが、いざ敗戦となるとベテラン監督の多くが引き揚げに手間取っていて、しかも戦後の民主主義体制ということで雇用者側に労務委員長職を設けなければならない。松竹は敗戦間近い'44年~'45年にはマキノ正博をプロデューサーにしていたほど自社監督・スタッフを軍務に回していたので、労務委員長となると会社側の意向に沿ってストライキなど起こさずキャリアから見ても雇用者側に説得力のあるベテランがいい、となり溝口に声がかかった。溝口の就任初の労務委員会での口上は「僕が委員長になりましたから、諸君に命令します」だったそうです。まわり道しましたが本作は松竹側の企画で、敗戦直後に現代劇を作っても世相がパッとしないから映画にならない。やはり時代劇がいいが剣戟場面を売りにしたアクション映画は好戦的として進駐軍に禁止されている。そうなると時代劇でも人情劇かメロドラマしかなかろう、と松竹プロデューサーが原作小説の映画化権を買ってきたものでした。
 そうした経緯を知ると、依田氏もが「お仕着せ企画」だったと書いているこの題材をここまで溝口自身が自分の芸道路線に引きつけて(依田氏も認めていますが)監督の自画像的映画に仕上げてしまったのはいつも強引な溝口映画でも今回は普通に見せかけて強引な例に上げられます。原作小説は知りませんが映画はごちゃごちゃしたストーリーの割に明確なプロットがなく、歌麿の芸道追究と江戸情緒の描出のための周辺人物たちの色恋沙汰のどちらも焦点を欠いている。この歌麿はあまりに現代的な意味での芸術家でありすぎて、映画全体の江戸のムードから浮いているのです。実際には歌麿の依った天明時代以降の蔦屋重三郎の木版出版社では織物屋の山東京伝のような商人が本職の町人の作家も、太田南畝のような役所勤めが本職の武士階級の作家も同等に遊興文学のサークルつき合いをしていて、江戸時代といっても元禄時代のような武家社会のしきたりは崩れており、町人でも商業や芸能では武家以上に勢力を誇ることができるようになっていたのが山口剛ら近世文学の研究者によって昭和初期には定説になっていましたから、本作のプライドの高い芸術家然とした歌麿像にはそう見当違いはないでしょう。一方現代人のイメージする江戸時代の封建制度下の世相風俗も大きく間違ってはいないので、18世紀後半以降の江戸時代とはもともとそういう矛盾を抱えた中途半端に独自の鎖国近代化した都市文化を生んでいたとも言えます。江戸時代の元号の変遷は煩瑣ですが上方文化の盛んだった江戸時代初期を元禄、遅れて江戸の町人文化が栄えた江戸時代後期を天明に代表させれば、庶民全般の生活意識では元禄も天明もそう大差はないが文化的には天明は都市圏の近代化が進んでいましたが、明治以降生まれの世代が文化の担い手になった明治30年代後半~大正時代以降には美術、芸能、文学では江戸時代の類型化が行われて元禄文化天明文化を意図的に混同させた創作が行われるようになった。その典型的なものが時代小説や時代劇、時代劇映画で、矛盾の多い江戸時代を作品に描くには260年あまりの幕藩文化を現代的解釈で統一しないでは手におえなかった事情があります。だからマキノ映画が剣戟映画で一世を風靡していた一方、国文学者は実際の江戸時代の文化の変遷を解明していったのですが(その結果、津田左右吉のように封建制度下の天皇制解明の仮説を立てたことから共産主義的と弾圧を受ける研究者までいました)、溝口はさんざん注文をつけて依田脚本を完成させた結果、近松の世話物と西鶴の町人物を混ぜて舞台を江戸に移したような世相人情メロドラマに、津田や山口ら昭和の国文学者が解明したような職能家意識の進んだ時代の歌麿を描いていて、明治後半の二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』よりよっぽど近代的な芸術家の歌麿になっています。時代劇人情メロドラマとしても江戸情緒はたっぷりながら歌麿以外の登場人物たちも『残菊物語』の登場人物たちよりずっと自由に生きていて、なるほど国策翼賛要素からは自由な戦後映画の時代になったんだなと思わせる。その代わり新しい民主主義体制下の映画でなければならないという、戦前の制約よりもある意味やっかいな時代の要請に応えようとしたのがあれもこれもと盛りこんだような構成になり、意欲的で一応は成功してはいるがどこか気合の入れ方が溝口の資質と合っていない感じがする出来になってしまったように見えます。溝口の場合ストイックではあってもナルシシズムはほとんど皆無なので、偶然自画像的になってしまった歌麿にはこれまで描いてきた尾上菊之助大石内蔵助宮本武蔵ほどにも、またさまざまな淪落の女たちのようには入れこんで描くことができなかったのではないかと思われます。成功作だし面白い、意欲作でもある。なのにどこか足りなくて率直に言って感動がない。自画像的になった分かえって作者と作品に距離感ができてしまったような映画のような気がするのです。

●2月27日(火)
『女優須磨子の恋』(松竹京都撮影所/松竹'47)*96min, B/W; 昭和22年8月16日公開

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○製作・絲屋寿雄、原作・長田秀雄、脚本・依田義賢、撮影・三木滋人、音楽・大沢寿人、美術・本木勇
○あらすじ 坪内逍遥(東野英治郎)を中心とした研究所では試演場舞台開きの演目に「人形の家」を決定したが、島村抱月(山村聡)はその主役に松井須磨子(田中絹代)を抜擢した。「人形の家」は好評裡に終り、二人の間に恋が芽生えた。抱月の恋は研究所、学校、逍遥らに大きな反響を呼んだが、抱月は冷たい家庭をすて、学校をやめて自由に生きる決心をした。彼は須磨子と芸術座を組織し旅公演に出るが、二人に対する風当りは強く多くの困難にあう。再び東京で公演がひらかれたが幸いにも好評を博し連日大入りとなった。しかし皮肉にも抱月は風邪がもとで急逝してしまい、愛する人を失った須磨子は抱月の命日に舞台で自殺するのであった。長田秀雄の原作「カルメン逝きぬ」の映画化。東宝の『女優』と競作になった。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第74作。同じ原作小説からの東宝の『女優』は山田五十鈴主演、久坂栄二郎脚本の衣笠貞之助監督作品で、興行的には本作も成功しましたが評価・興行収入とも『女優』にはおよびませんでした。企画段階から溝口も事あるごとに「これじゃ衣笠に負けてしまう」と方々に当たり散らしていたそうです。依田義賢氏の回想録『溝口健二の人と芸術』(昭和39年・映画芸術社刊)は詳細な製作裏話を優れた洞察力と自己省察、端正な文体でまとめ上げた、文学性の点でも古典の風格のある名著中の名著ですが、本作については1章を割いて詳しく成立事情が語られており、依田氏自身が成功した作品にならなかった理由を考察しています。「どうもシナリオがうまくいきませんでした。須磨子のような、エキセントリックな女を描くことは溝さんの得意とする所でありますが、私としても、この点にたいへん興味を持って、それを追いすすめてゆくつもりでいましたが、これには相手のあることであり、その相手が島村抱月というたいへんな思想家である点が難しく、その人間像をとらえることが十分にできなかったのが致命的でした。二人の恋がどんなものであったかということが明確に、あるいは、大人の思想で描き切れなかったということです」「抱月における思想と恋愛との一体化、その燃焼が描けてなかったのだと思います。そうしてそれは抱月が一人の女優を作り上げてゆくという過程を経てゆきますので、面白く構成出来るはずがどうもうまくゆきません。そこへ、新しい演劇の指導という問題も出て来ますし、帝劇を中心とした抱月等の劇の盛衰も描かねばなりません」「後で知ったところでは、東宝の久坂栄二郎さんの『女優』は、演劇運動の情勢が非常にうまく構成されていて、感心しました。私どもの方では、須磨子と抱月と抱月の家庭との関係などに焦点を求めて、須磨子と抱月の悩みを描こうとしたのです」。ところがやはり抱月の人間像がつかめない。特になぜ抱月が須磨子に惹かれたのか、家庭を捨ててまで恋の道に進んだ須磨子の魅力、また抱月が急逝した後の須磨子など、取材すればするほど実際の須磨子はとても共感、同情の持てるような女性ではなかったのが明らかで、依田氏は相当苦心したようです。シナリオは第3稿まで作られ、改稿のたびに改訂のための溝口の書き入れ稿が作成される習慣がこの作品から始まったそうで依田氏著書に部分部分の例が引用されていますが、ほとんど1行毎に溝口からの意見とも撮影の際の演技指導、演出プランまで書きこまれており、それまでも口頭でやってきたことではあったようですが、溝口と依田氏のような映画監督と脚本家の関係はここまでいくとビジネスを度外視した、他にあまり例のないものではないでしょうか。依田氏著書の次の章は「『夜の女たち』と『わが恋は燃えぬ』」ですが、冒頭から「さて、『女優須磨子の恋』は興行的には成功しましたが、作品の出来栄えでは東宝の『女優』の方が、清新で近代感覚で貫かれてすぐれていました。シナリオで、全くこれは負けた、依田の奴ではもうこれはいかん、そういう感じで、女房にお暇が出たというところでしょう。次回作品の『夜の女たち』の企画がのぼった時は、『女優』のシナリオを書かれた久坂栄二郎さんに、シナリオを頼むことになったのです」と恬淡と記しています。『夜の女たち』は次回で取り上げますが、本作についての依田氏の反省は作品の弱点を突いて正確で、前作『歌麿をめぐる五人の女』については依田氏の回想録は比較的あっさりとしたものですが、『歌麿~』と同様に本作の島村抱月も溝口の自画像的主人公になっている点を依田氏はあえて言及していません。章の終わりに、須磨子と抱月の舟での逢い引きのシーンの撮影で溝口が田中絹代に「この時の須磨子はアレが済んでおりますから」と小声で照れながら演技指導していたのが印象に残った、ちょうど溝口監督と田中絹代のロマンスのゴシップが新聞雑誌に流れ始めた頃だったが「私どもは何も知りません」とそれ以上は語っていません。むしろ溝口はこの時代でも脚本家を現場に待機させる監督だったことを驚嘆すべきで、実質的には秘書も同然の依田氏だったからこそとも言えますが、脚本家も撮影現場に立ち会わせる製作方法はサイレント映画の時代ならまだしもトーキー以降まで行っていたのは世界的にも溝口くらいでしょう。監督が自作脚本で映画を撮る、または基本的に自己のプロダクションで映画製作するので監督が脚本を書き変えてしまうような例は思い当たりますが、通常専任脚本家が撮影現場にまで立ち会うことを要求される、それが当たり前という監督など溝口以外に聞いたことがありません。これは撮影中に脚本の改訂プランをすぐに脚本家と検討するためでもあったでしょうし、後にはスタッフとキャスト全員を集めて撮影初日前に勉強会を開くほどに発展します。溝口は自分が熱くなって怒鳴れば皆がついてくると思っている昔気質のガミガミ親父のような監督でしたが、それをこらえて溝口映画を潜ればスタッフも俳優も確かにキャリアの向上になるので嫌われながらも尊敬されていました。私生活までスタッフや俳優と親しくする監督ではなかったのも監督の威厳を保つためだったのでしょう。
 本作で元大学教授の舞台演出家で劇団主宰者である島村抱月(1871-1918)がやたらセンチメンタルなキャラクターになってしまったのは、溝口から見た舞台演劇人の世界の反映であるように思えます。抱月は溝口には父親の世代に当たる時代の人です。松井須磨子(1886-1919)は溝口からは叔母、または従姉妹の長姉あたりの年代の人でしょう。坪内逍遥主宰の早稲田大学の演劇研究所公演で抱月演出・須磨子主演の「人形の家」が大センセーションになったのが1911年(明治44年)で溝口13歳、芸術座がトルストイ原作の『復活』で劇中歌「カチューシャの唄」ともども大ヒットを飛ばしたのは1913年~1914年(大正2年~3年)、溝口15~16歳の時です。本作製作時には「カチューシャの唄」の作曲者中山晋平(1887-1952)もまだ存命で、生前の島村抱月松井須磨子を知る人も多かったのです。抱月の急逝はその年だけで全世界で30~40万人が死亡したと推定されるインフルエンザ(当時「スペイン風邪」)で、須磨子の自殺(舞台の物置部屋で縊死)は抱月急逝('18年11月5日)から2か月後の'19年(大正8年)1月5日でした。当時20歳だった溝口が日活映画社に入社するのは'20年ですから、非常に多感な年頃、10代のまるごとの間に抱月・須磨子の栄枯盛衰を見聞きしてきたことになります。映画人になってからも俳優には演劇畑のキャストと多く接してきたでしょうし、近くは『元禄忠臣蔵』では河原崎長十郎主宰の隠れコミュニスト劇団「前進座」を劇団ごとキャスティングしてもいますから、舞台演劇人の社会は公私とも非常に密接な人間関係がある一種のコミューンである事情はよく承知しており、先進的な劇団ほど経営形態はむしろ旅芸人一座に近い前近代的手弁当的なもので、映画会社のように大規模な設備投資から成り立つ企業経営組織とは対局的ですらあるゆえのやっかいな閉鎖性を抱えているのを『女優須磨子の恋』もちゃんと押さえています。衣笠貞之助監督作『女優』を未見なので比較はできませんが、依田氏が謙遜するほど本作は設定の甘さが目立つ作品ではなく、実在した演出家と女優を描いた映画という知識を持たずにこれを観ても明治末~大正の西洋演劇摂取の苦難という背景はよく描けていると思います。田中絹代が舞台劇に立つ松井須磨子として『人形の家』の一場面、『復活』の一場面を演じるのはやはり大したもので、そうなると衣笠監督作品では山田五十鈴松井須磨子を演じていて、衣笠貞之助は歌舞伎の女方出身で映画女優(!)として映画界に入った人ですから溝口の演出とは相当異なったものであるばかりか、この題材への取り組み方自体が違うのは容易に想像できることです。冒頭引いた依田氏の反省はシナリオに作品の弱点を引きつけすぎていて、男女の恋に理屈は不要でしょう。それが劇団主宰者の演出家と看板女優であることが小コミューンであるインディペンデント劇団では問題で、「劇団の維持が目的なのか、本当の演劇芸術をやるのが目的なのか」と抱月が劇団員に詰め寄られる場面が2回もありますが、零細劇団の主宰者である抱月は資金がなければ目的とする演劇芸術も実現できないから今はこらえてくれないか、と懇願するばかりです。演出家と看板女優の関係を描いた映画であり、その点では『歌麿をめぐる五人の女』よりさらに自画像的な本作があまりそうは見えない。抱月が俳優たちに演技指導をしている場面もありますが、溝口映画に登場する芸術家ではいちばん最近の人でありながら本作は芸道ものの系譜には数えられないでしょうし、『愛怨峡』ほども旅公演の華やぎと切実さは伝わってきません。婿養子なので離婚できない抱月は行き詰まれば戻る家庭も教職もありますし、須磨子ほどの女傑なら他の商業演劇の世界に移るなり転職したって成功したでしょう。映画からはそう見えてしまうので、抱月の急逝も須磨子の後追い自殺も史実がそうなったから映画でもその通りにした以上の結末には見えず、フィクションよりも現実の方があまりに唐突だったとしか言えません。
 戦後映画らしい開放的な雰囲気はロケ、またはオープン・セットの明るい映像によく出ていて、大正時代はまだ人力車が市中を往来していた世相風俗の再現が観られます。旅公演先では旅館から会場まで「松井須磨子」や「島村抱月」と名前を大書きしたのぼりを立てた人力車で広告を兼ねて一座が乗りこみますが、原作者の長田秀雄役の人物も登場して本作製作時には存命しており、映画化に当たって助言していますからヴィジュアル的な時代考証は細部まで正確でしょう。大正時代の演劇運動を描いた映画としても恋愛メロドラマとしても筋の渋滞はなく観やすい映画ですが、やはり抱月の演劇運動と須磨子とのメロドラマが平行して描かれているだけで、依田氏のように演劇改革者としての抱月が思想的な何かで須磨子と恋愛関係になったと解明するのは無理があるように思えます。あえて言えば抱月には現代西洋演劇のヒロインのような近代的な女性を求めていて、一方須磨子は自分の高いプライドに見合うだけの地位にある男性を求めていたくらいのものに見えます。この二人の恋愛は周囲から反感を買う、というか抱月はえらい女に引っかかってしまったと気の毒がられ、増長するばかりの須磨子は(実際それだけの貢献があったのですが、謙虚さのかけらもなかったのでしょう)疎んじられ、庇護者だった抱月の急死後には須磨子の孤立はわずか2か月で後追い自殺に至らしめるほど厳しかった、と図式化するしかなさそうです。まるで趣向は違いますが、思想弾圧下の大杉栄伊藤野枝の恋愛を露骨なくらいにメタフィクション形式に再構成した吉田喜重の『エロス+虐殺』'69は極端にしても、抱月と須磨子の場合は恋愛と演劇改革が解離していった結果が破滅を招いたので、抱月と須磨子のどちらか一方の死が、現実では抱月が急死して須磨子が後を追ったわけですが、先に須磨子が急死していたとしても抱月は後追い自殺ではなくても演劇改革の方は挫折してしまっただろうというくらいの説得力がほしかった。抱月は演劇改革運動の前には自然主義文学の理論的養護批評家だったのです。しかし自然主義小説家の島崎藤村や岩野泡鳴のような大胆な自我肯定主義にはついて行けず、自然主義文学でも演劇の分野ならば演劇的形式の中で改革を行うことができると考えた人でした。そういう慎重な戦略的後退を選んでおきながら女優の色香に迷うとは困ったものですが、それだけ須磨子が熱烈に迫ったのでしょう。『復活』の大ヒットの最中に後世ならば商業演劇への転向を果たせる受け皿もあったでしょうが、改革者の名誉か不運か当時はそういう地盤も演劇界にも観客にもなく、芸術座にとって原動力だった抱月と須磨子は恋愛関係にあったからこそ強い指導力を発揮したが須磨子のエゴを増長させたびたび内部分裂を起こさせるような劇団内の不和ももたらしていた。この映画はそうした場面も描いていますが、溝口映画の常でカメラは常に主演の二人に寄り添っていて観客を他の劇団員からの視点に置くことがほとんどないまま抱月の急逝、須磨子の後追い自殺と性急に終わってしまう。本作の見所もまた溝口らしい奥行きのある映像なのですが、この映像は本作のテーマをかえってわかりづらくしてしまったのではないでしょうか。