人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年2月28日~3月1日/溝口健二(1898-1956)のトーキー作品(7)敗戦後の模索期2

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 前回までで12作、今回さらに2作を観てようやくトーキー以降の溝口健二監督作品26作連続視聴の折り返し地点ですが、実は今回もまだちょっと苦しい二本立てで、激しくどぎつい売春婦映画の『夜の女たち』'48と、明治の社会運動家で婦人解放運動の先駆者であり「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた景山(福田)英子(1865-1927)の自伝『妾の半生涯』'01(明治34年)の映画化作品『わが恋は燃えぬ』'49の2作です。『夜の女たち』は溝口映画で戦後初のキネマ旬報ベストテン入り作品になり(第3位)、一方『わが恋は燃えぬ』は『女優須磨子の恋』のヒットと同作での田中絹代の女優賞受賞が後押しになった企画と思われる伝記映画路線の作品でした。この時期の田中絹代の入魂の演技のすごみを味わえる点では、溝口映画も徐々に落ち着きを取り戻した'50年代作品より、映画の出来以上に主演女優の力演が際立っている『女優須磨子~』や今回の2作の方が圧倒的かもしれませんが、『夜の女たち』も『わが恋は燃えぬ』も出来の良し悪し以前にまだ戦後の映画状況で作風を模索している観があり、『夜の女たち』は溝口の戦後初の傑作と言える作品になりましたが同じ作風で続けていくには時事的に過ぎる内容ですし、『わが恋は燃えぬ』もタイトルに反して地味で真面目な伝記映画でこれもまた溝口の本領とは言えない題材のものでした。溝口は実際小津安二郎より5歳年長、黒澤明より12歳年長でしたが実年齢よりずっと過去の大監督と見られていた節があり、戦後に充実期に入っても旬を過ぎた巨匠の力作程度の評価だったのではないかと思われます。
 戦後の溝口作品の評価を目安としてキネマ旬報ベストテンを参考にすると、黒澤明の'49年までの戦後最初の4作は『わが青春に悔なし』'46(キネマ旬報ベストテン第2位)、『素晴らしき日曜日』'47(第6位)、『醉ひどれ天使』'48(第1位)、『静かなる決闘』'49(第7位)、遅れて復員した小津安二郎の'49年までの戦後最初の3作は『長屋紳士録』'47(キネマ旬報ベストテン第4位)、『風の中の牝鶏』'48(第7位)、『晩春』'49(第1位)で、小津・黒澤と較べるとなかなか批評家の票が集まりませんでした。さらにたどると、戦後第4作『夜の女たち』の3位から飛んで戦後第9作『西鶴一代女』'52(ヴェネツィア国際映画祭監督賞受賞)が第9位、第10作『雨月物語』'53(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞)が第3位、第11作『祇園囃子』'53が第9位、第12作『山椒大夫』'54(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞)が第9位、第14作『近松物語』'54が第5位で、晩年2年の戦後第15作『楊貴妃』'55、第16作『新・平家物語』'55、第17作で溝口の最高傑作のひとつに上げられる遺作『赤線地帯』'56すらランクインしていません。ベストテン第1位作品もないのです。しかしもともと溝口映画には安定感のある小津や黒澤に較べて、評価の揺れが生じやすい性格があったように思えます。今回の2作の対照的題材とお手並みからも溝口の成功作は失敗作と紙一重で、すっきり整った成功作はひと握り、しかも溝口の名作は成功失敗の区別では測れない、やっかいな尺度で成立しているとも見えるのです。

●2月28日(水)
『夜の女たち』(松竹京都撮影所/松竹'48)*73min(オリジナル105分), B/W; 昭和23年5月28日公開

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○製作・絲屋寿雄、原作・久坂栄二郎、脚本・依田義賢、撮影・杉山公平、音楽・大沢寿人、美術・本木勇
○あらすじ 敗戦直後、大和田房子(田中絹代)は夫が戦場から帰らずきびしい生活を強いられ、結核の息子を死なせてしまい、やむなく闇屋上りの栗山(永田光男)の囲い者となる。しかし房子の妹夏子(高杉早苗)までが栗山の毒牙にかかったのを知った房子は、夜の女になって男に復讐する決心をした。家出した姉を探していた夏子は夜の女の一斉検束にかかり特殊病院に入れられ、栗山の子を宿し、性病を伝染させられていたことが判る。その病院で夏子は荒んだ房子と再会した。再び夜の街に出た房子は、亡き夫の妹久美子(角田富江)がパンパンたちにリンチを加えられているのを目撃するのであった……。久坂栄二郎の「女性祭」の映画化。キネマ旬報ベストテン第3位。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第75作。戦後作品にしてはずいぶん記録に残されているオリジナルの尺数から短縮されてしまっていますが、これは完成試写版と在米駐留軍検閲後の公開版の差で、年代からしてもフィルム散佚によるものではないと思われます。検閲前のオリジナル版が発見されたら幻のディレクターズ・カット版として大発見になると思いますが、敗戦時の物資不足もありオリジナル版を保存せず直接検閲に引っかかった箇所をカットして公開版に再編集したのでしょう。全編から3割あまりがカットされたのは残念ですが、結果的に70分そこそこの尺数が本作では良い結果に働いている面もあります。くどいシーンが短くされ、またシーンごとカットされた箇所もあったでしょう、テンポが良く直接説明的なシーンもカットされたために観客の想像力をかき立てるような飛躍が暗示的な効果をもたらすような仕上がりになったとも言えます。前回の前作『女優須磨子の恋』の感想文に溝口の専属脚本家、依田義賢氏の回想録から「さて、『女優須磨子の恋』は興行的には成功しましたが、作品の出来栄えでは東宝の『女優』の方が、清新で近代感覚で貫かれてすぐれていました。シナリオで、全くこれは負けた、依田の奴ではもうこれはいかん、そういう感じで、女房にお暇が出たというところでしょう。次回作品の『夜の女たち』の企画がのぼった時は、『女優』のシナリオを書かれた久坂栄二郎さんに、シナリオを頼むことになったのです」と引用しましたが、松竹プロデューサーで依田氏の古くからの友人の絲屋寿雄と溝口本人がその用件を伝えに依田氏宅を訪ねてきた時、これはとうとうお払い箱かと依田氏は大変悲しんだそうですが、話をよく聞くとそうではなくて、オリジナル脚本の『大曾根家の朝』'46(木下恵介キネマ旬報ベストテン第1位)と『わが青春に悔なし』'46(黒澤明、第2位)、ヒットした溝口版『女優須磨子~』よりさらにヒットした『女優』'47(衣笠貞之助、第5位)の脚本家で波に乗っていた新劇畑の劇作家、久坂栄二郎に昭和22年の大ベストセラー小説(120万部)で舞台劇でも大ヒットし、マキノ正博監督で新東宝で映画化が進んでいた田村泰次郎(1911-1983)の「肉体の門」(雑誌発表'47年3月)のパクリ作品というか、敗戦後の都市圏で問題化していた街娼たちの生態を描いた映画の企画を持ちかけて快諾を得たまでは良いのですが、溝口が意図したのは紹介されたばかりのイタリアのネオ・レアリズモ映画『無防備都市』'45のような容赦のないリアリズム作品でした。ところが絲屋プロデューサーを交えた打ち合わせで久坂氏の構想しているのは同じ街娼映画でも情緒綿々たるメロドラマらしいのがわかった。溝口は親しくなるとまったく遠慮がないが初対面の相手だと人見知りが激しく久坂氏に要望を伝えられない。結局絲屋氏と溝口は久坂氏には初稿シナリオの原作まで手がけてもらっていつも通り依田氏のシナリオで納得いくまで直しながら撮影した方がよかろう、ということになったそうです。これはさすがに依田氏もあきれ、久坂氏と絲屋プロデューサーももめたようですが、とにかく久坂栄二郎原作・依田義賢脚本で例によって取材から脚本の果てしない改訂、撮影現場立ち会いの調子で撮影が行われました。ロケのシーンが多いので撮影現場は街娼やヒモ、失業浮浪者や警官が集まってきて大変だったようです。また本作は三木滋人が東映に移ったので『元禄忠臣蔵』以来の松竹京都の杉山公平カメラマンですが、ドキュメンタリー調で撮ってくれという溝口と真っ向からベテラン同士の喧嘩腰の衝突をくり返し、溝口逝去後に杉山氏は依田氏に本作の撮影を振り返って「あの頃は荒れていたからなあ」と懐述していたそうです。しかし戦後3作品で一応の成功作やそこそこのヒット作はものしていても会心作と言えるものはなかった溝口もまた、本作ではそろそろ業界内の玄人筋まで唸らせる作品をものさなければと焦っていたのでしょう。結果、本作はトーキー以降の作品では(依田氏はサイレント時代の『しかも彼等は行く』'31を本作の原点にある自然主義的作品として上げていますが、同作はフィルム散佚によって観ることができないので)『浪華悲歌』'36、『祇園の姉妹』'36、『愛怨峡』'37、『祇園囃子』'53、『噂の女』'54、遺作『赤線地帯』'56の系譜にあるリアリズム作品です。『浪華悲歌』と『愛怨峡』は娼婦ものではなく、『噂の女』は祇園を背景にした母と娘のメロドラマで、『赤線地帯』は吉原が舞台ですから、街娼たちの世界を描いた溝口映画は本作だけで、激しい怒りのこめられた作品としては『浪華悲歌』『赤線地帯』と並ぶものになっています。また上記作品中田中絹代の出演作は本作と『噂の女』だけで、『噂の女』では元芸伎とはいえ祇園置屋の女将になっている役ですから戦後の溝口映画最大のヒロイン田中絹代が街娼を演じた映画としても溝口が勝負に出た作品と言えるでしょう。年間ベストテンに黒澤の『醉ひどれ天使』(1位)、稲垣浩伊丹万作の遺作シナリオを映画化した『手をつなぐ子等』(2位)が上位に入ったものの第3位というのは『元禄忠臣蔵』'42(第7位)以来のベストテン入りで、サイレント時代でも'26年~'29年、'33年~'34年は毎年ベストテン入り作品を発表し、トーキー以降も'36年~'42年はほぼ毎年のベストテン入り作品を送り出していたのですから、敗戦末期~戦後直後の混乱期を挟んだとはいえ評価の低迷を意識せずにはいられなかったでしょう。
 今回発表年順に観直して、戦後第1作『女性の勝利』'46は観直すことができなかったのですが、ずっと縦書きだったクレジット・ロールが『女優須磨子の恋』『夜の女たち』『わが恋は燃えぬ』では大ロングでゆっくりと流れていく背景ショットを地にしながら横書きで下から上に上がっていく体裁になっているのに気づきました。実はもう遺作『赤線地帯』まで観直し終えたのですが、横書きの上活字クレジットの『わが恋~』の次作『雪夫人絵図』'50から再びタイトル地の縦書きデザイン書体に戻ります。『武蔵野夫人』'51では縦書きながら地は大ロングの背景ショットが地で、『西鶴一代女』'52~『新・平家物語』'55まではタイトル地の縦書きデザイン書体、遺作『赤線地帯』'56が再び市街地の大ロングの背景ショットを地にした横書きデザイン書体です。『赤線地帯』では『夜の女たち』が意識されているようで、吉原といってもかつてのおいらん遊びの文化からほど遠い、私娼窟と大差ないものになっているのが強調されています。『夜の女たち』はアメリ進駐軍の米兵たちのために日本政府が私娼たちを募集し慰安施設を公認していた時期と性病の蔓延から街娼たちの取り締まりが強化されていた時期の過渡期に当たり、進駐軍撤退後の『赤線地帯』の時期になると私娼・街娼は厳しく取り締まられて全国都市圏の特区に制限され、さらに売春禁止法案が議会ごとに持ち上がっていた時期です(法案成立・施行は'58年で、『赤線地帯』の2年後、つまり溝口歿後でした)。アメリカ軍占領下では政府が売春を奨励し(『夜の女たち』)、進駐軍撤退後には娼婦たちを失業に追いこんで何の保障もなかったのですから(『赤線地帯』)、溝口の怒りははっきり日本社会に向かっていて、この怒りだけはトーキー専念第1作『マリアのお雪』'35から一貫していたものです。上記の現代劇作品を古典の題材に求めたのが『西鶴一代女』'52で、こんなに怒りを創作の原動力としていた映画監督は珍しい。溝口の場合社会正義といった世直し的な理屈でもないのです。それに応えた田中絹代ロッセリーニ映画のアンナ・マニャーニにタメを張る体を張った演技で、本作の白眉に性病検査のために街娼たちが一斉検挙され病院に収容されて、田中絹代が脱走するシーンがありますが、逃げてきてたどりついた3メートルあまりの高さのコンクリート壁を中庭に捨ててあった柵を梯子代わりによじ登り、壁の上に張られた鉄条網を素手で押し分けて何とか体がくぐれる広さにして、ベルトを外して鉄条網の柵に結びつける(ここまで病院側からの1カット、カメラ切り返して外の道から田中絹代を写す)、壁の天辺に膝をついて鉄条網の隙間をくぐり、柵に結んだベルトを道側に垂らしてつかんでぶらさがり、ベルトぎりぎりまでずるずると降りて飛び下り、ひと息ついてすたすたと道を去って行く(ここまでも道側からの1カット)。これは何回リハーサルした後に何テイク撮ったかわかりませんし、道側からのカットは壁の向こう側にしっかりと足場を立てて降りてくるカットを撮ったと思いますが本作は溝口50歳、田中絹代39歳の作品です。依田氏回想録でもこのシーンのロケは街娼たちがわんさか集まってきて「あんなトウシロウのパン助みたいなもん、にげたかてあらへんで」「わてら田中絹代みたいに逃げられてベッピンサンやったらいうことないねんけどな」「どあほ、あないべっぴんやったらパンパンせんかてもっとごついの、ものにできるわいな」「そうやろな、わいらカムオン、タダ、オーケーや」「ノー、ビョウキ、テークケヤ、オーマイファーザー」「アイム・ソーリー」と大いに湧いたそうです。そして『肉体の門』が戦後初の大ベストセラーになったように、本作もまた控えめな依田氏の回想録ですらも「戦後はじめての異様な大入りを見せました」と書かれています。原作者の久坂氏は「こんなタッチのものを描くのでよいのなら苦労しませんでしたよ」と慨嘆し、公開前の仮題は『貞操地帯』ともされていたそうです。
 冷静な依田氏は率直に本作のヒットは「田村泰次郎氏作の『肉体の門』によってはじまったパンパン物のブームに乗ったもの」と認め、「戦後の荒廃の中の野性、ワイルド、露出、そうした官能、生々しく口を開けた戦争による傷口、それを見る傷ましさ、センセーショナルな社会現象、占領軍に対する無力な者のせいいっぱいの抵抗、そうしたものがこのブームの中に熱くこもっていたと思います。溝さんはそれを本来持ち合わせていた自然主義的な手法に帰って(『しかも彼等は行く』の頃の手法)描いたのでありました」としています。一方依田氏は「しかし、この戦後の新たな、官能の持つエネルギッシュな苛烈さは、凝縮して出ていましたけれども、その断層の持つ新しい風俗的な感覚(開かれた民族の、あるいは国際的な凌辱の)は描き出されていなかったと思います。むしろ古風な視点に立っていたといわなければならないでしょう。非情な精神を持って見つめようとして家族分解の悲劇を取り上げながら、人情っぽい、義姉妹の愛情の相剋などに低迷したのは、わたしのシナリオのせいでもありますが、溝さんも戦後のヒューマニズムのあり方について、確信を持った洞察ができていなかったからです」と自己批判しています。また続けて「ラストの場面で、リンチを受ける女主人公の姿に、キリストの受難像を描き出そうとしたと言っていたところなどにも模索が見られました。そのような追求ははじめからされていなかったのです」と興味深い裏話が出てきます。新東宝マキノ正博が監督した(以降1988年の五社英雄版まで映画化5回、2008年のテレビ・スペシャル版1回を数える、初の映像化)『肉体の門』'48は教会、十字架、マリア像がてんこ盛りの異色作だったという批評が残っています。また杉山カメラマンとの確執は「あんたは老いぼれだよ」「じゃあ青二才にでも撮らせろよ」「時代に取り残されてんだよ」「おれは40年もルーペ覗いてきてるんだ」と罵りあいから撮影中断にまで発展し、松竹重役の取りなしでようやく撮影再開というほどスタッフ間の空気もぎしぎししていたそうですから、時代の要請と作品の意義は認めながらも嫌な映画を無理して撮っている感じは現場全体に漂っていたようです。依田氏の回想録の「『夜の女たち』と『わが恋は燃えぬ』」の章は大半が『夜の女たち』に割かれていて、『わが恋~』については脚本段階での製作裏話が数ページ語られているだけです。どうも溝口はロケを含んで苦労しそうな作品ほど依田氏を撮影に立ち会わせ、割り切ってセット内でさっさと撮影を済ませた作品には立ち会い不要としていたようです。また依田氏の回想中で「戦後の新たな、官能の持つエネルギッシュな苛烈さは、凝縮して出ていましたけれども、その断層の持つ新しい風俗的な感覚(開かれた民族の、あるいは国際的な凌辱の)は描き出されていなかった」というのは鋭利な指摘ですが、『溝口健二の人と芸術』の刊行された東京オリンピック開催年の'64年だからこその意見とも思えますし、特に()内の「国際的な凌辱」は駐留軍による占領下の日本を指していますが、日本が大東亜戦争中にアジアの近隣諸国に行ったのもまた「国際的な凌辱」であったことに触れないのは、実質的に徴兵忌避者だった依田氏の弱みが表れているようにも感じられます。敗戦による荒廃を招いたのは日本人自身であるという視点はまだ本作の時点では時期尚早で、溝口の怒りも敗戦を招いた戦争よりも目の前の荒廃にとどまっている射程の短さがあり、これは一連の歴史映画、『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』の時期まで待たなければならないテーマになりました。『元禄忠臣蔵』で時代的制約下の中行った歴史的想像力はまだ敗戦後の新たな時代的制約に拘束されていたので、占領解放の年'52年に『西鶴一代女』が作られた必然があったように『夜の女たち』も'48年にはこの形でしか作りようがなかったでしょうし、あまりに一回性が強いので前後の作品からは浮いて見え、本作の充実がそのまま以降の作品の復調につながらなかったのも仕方がなかったと思えます。

●3月1日(木)
『わが恋は燃えぬ』(松竹京都撮影所/松竹'49)*84min(オリジナル96分), B/W; 昭和24年2月23日公開

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○製作・絲屋寿雄、原作・景山英子、脚本・依田義賢/新藤兼人、撮影・杉山公平、音楽・伊藤宣二、美術・水谷浩
○あらすじ 自由民権思想に強く憧れた平山英子(田中絹代)は、恋人の自由党員早瀬(小沢栄太郎)とともに岡山から東京へ出た。だが早瀬は藩閥政府のスパイであった。失望した英子は自由党の重要人重井憲太郎(菅井一郎)と結ばれる。秩父の製糸工場でストライキが起り、重井と英子は応援にかけつけた。工場に放火した女の千代(水戸光子)はかつて岡山の英子の家の小作人の娘であった。やがて憲法発布の大赦で出獄した三人は大阪に出て新生活に入ったが、重井は千代と関係を結ぶ。英子は重井の暴君ぶりに改めて女の無力を感じた。重井が国会議員に当選した日、英子は新しい女性の本当の自由と権利を求めるため重井に別れを告げるのであった。女性解放の先駆者、景山英子の自伝「妾の半生涯」の映画化。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第76作。せっかく前作でようやく戦後初の冷酷無惨な溝口映画が復活したのにと思ったらまたこれか、と誰もが思う『女優須磨子の恋』に続く実録映画路線。そこが松竹らしいというか、どこの映画会社も二匹目のドジョウを狙うというか、これが作られたのですから『女優須磨子~』は思いのほか興行的には良い成績をおさめたのでしょう。また『夜の女たち』路線もそうやすやすとアイディアが出てくるものではないし、松竹の社風を思えば一種の際物だったとも言えます。さらに田中絹代は『女優須磨子~』と『結婚』『不死鳥』の3作で第2回毎日映画コンクール女優演技賞を受賞しており(後者2作は木下恵介の第7作、第8作でやはり松竹作品)、映画青年しか読まないキネマ旬報ベストテンと大新聞社主催の映画賞のどちらが広告効果が大きいかを松竹が測った結果が今回は明治の自由民権運動の女性活動家の自伝の映画化になったのでしょう。確かにヒロイン映画ではありますが、『女優須磨子の恋』『夜の女たち』から『わが恋は燃えぬ』(このタイトルはよくもまあ白々しいものです)と来ると、田中絹代の振られた役は拒まずの女優根性はすごい。まるでグレタ・ガルボイングリッド・バーグマンからリヴ・ウルマンにいたるスウェーデン出身女優、ここ30~40年のハリウッド女優ならメリル・ストリープあたりがようやく肩を並べるほどすごいものです。
 もっとも明治10年代末(あらすじの最初の入獄は19歳~20歳の時です)からの女性社会活動家、景山(福田)英子(1865-1927)の自伝『妾の半生涯』'01(明治34年)に目をつけたのは絲屋プロデューサーでも溝口でもなく、『元禄忠臣蔵』の時に建築監督で溝口についた新藤兼人が脚本家として頭角を現してきて、第1稿を売りこんできたのでした。シナリオまで出来ているなら話は早いからこれでいこう、溝口映画だから依田氏が手を加えるがそれも結構と新藤兼人も快諾し、溝口の注文を依田氏が取り入れる形で二人の脚本家の共同執筆になりましたが、新藤のエネルギッシュさに依田氏はたじたじとなったそうです。新藤兼人としては明治の女性社会活動家像を書ければいいので別に景山英子でなくてもいい、というのが本音で、伝記映画の体裁にはこだわらなかったそうですが、プロデューサーと溝口は伝記映画にこだわったので、依田氏は景山英子の実際の伝記的事実との整合性を調整するような役目になりました。景山英子は女性解放運動提唱者としては平山雷鳥より20年早かった人ですが、「青鞜」が学校教育で中学生にも習わされるのに景山英子は習わないのは「青鞜」が文化啓蒙運動だったのに対して景山英子は(女学校も開きましたが)自由民権運動から無政府主義運動にまで進んだ政治活動家だったからです。英子は武家の生まれで娘時代から男装するような具合に自分を主張する女性でしたが、依田氏は映画に採り入れられなかった点を2点、惜しんでいます。まず第二次性徴期が非常に遅く、初潮を迎えたのが獄中にあった20歳の時だったことで、それ以前に男性経験があったことになり、映画には生々しくて採り入れられなかったが英子の性格形成に大きく影響はなかったか。さらに自由党の密命で爆弾テロのため朝鮮に渡る実行者になる計画があったことで(計画止まりでしたが)、これも駐留軍検閲を配慮して割愛せざるを得なかったものの、政治活動家以上に女闘士的な行動力のある女性ではなかったか。確かに依田氏の惜しむのはもっともで、本作は真面目な伝記映画ですがヒロインの人物像が迫ってくる感じに乏しく、田中絹代のいつもの力演が今回ばかりは空回りしているように見えるのです。
 今回は野外・室内ともに撮影所内のセットでまかなえるような場面構成になっており、ロケーション撮影は前回さんざんやった分今回はセットでやろうという了解があったのでしょう。日本映画得意の全体的に暗いトーンの映像に、今回は構図の反復を意図的に行ってその都度のヒロインの変化を示す手法が用いられています。溝口映画でこれほど丁寧でわかりやすく仕上げられた映画は珍しいくらいですが、面白いかというと明治20年代の風物再現以外にはほとんど面白みのない映画で、立派なヒロインの立派な半生記でしかないつまらない代物になっている。伝記映画を意識するあまりヒロインの内面にも踏みこまず、ヒロインの半生に関わった人物たちも通り一辺で人間関係から生まれるドラマもなぞってみただけ程度の印象しかなく、新藤兼人の言うような意味で景山英子でなくてもいいのではなく人権・政治意識に目覚めた明治の新しい女性という感じすらなくなってしまっています。男から男へ愛想をつかすたびに渡り歩く資産家の実家のお嬢さまにしか見えず、そういうヒロインでも面白い映画にすることはできるはずですが、伝記映画として淡々と半生をたどって行くだけで興味の持ちようがない作品になっています。やる気のない時の溝口がどれだけ気の入らない映画を作ってしまうかが適当な民主主義翼賛映画で間に合わせた例とも言えそうで、これに較べれば戦時下に国策戦争翼賛映画の条件を課せられながら苦しまぎれに絞り出していた『宮本武蔵』や『名刀美女丸』の方がどれだけ力がこもっていたことか。活字横組みのクレジット・ロールまで手抜きに見えてきます。事実本作で溝口と松竹の契約は終わり、依田氏は松竹の脚本家ではなく溝口の私設専属脚本家なので溝口がフリーになっても別の映画会社と専属契約してもついて行くことになりますが、溝口からは「松竹とうまくいかなくなった」としか聞かされなかったそうです。本作に依田氏の立ち会いを求めず、撮影所内だけでささっと撮ってしまったのもすでに契約満了のための消化作品だったからかもしれません。シーンごとに構図が妙に符合に合っているのも杉山カメラマン任せだったからかも知れず、だとしたら本作については美術と照明、撮影の見事さ、隙のない脚本、田中絹代を始めとする俳優たちの達者な演技以外に見所がなくても望む方が見当違いなのでしょう。つまりひと言で本作はかたづきます。――凡作(いいのか?)。