人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月23日~25日/ウィリアム・A・ウェルマン (1896-1975)監督作品(5)

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 フランソワ・トリフォーはアルフレッド・ヒッチコックの映画を論じて、D・W・グリフィスが'10年代に基礎を建て、ジョン・フォードハワード・ホークスが'40年代までの作品で達成した映画のカット割り/編集による映像方法を「古典的モンタージュ」としてそれを同軸上の遠近法的統一と定義した上で、ヒッチコック作品に見られオーソン・ウェルズの映画ではさらに複雑化された映像手法を「斜めの(視点)演出」と名づけて区別し、人物の切り返しを含む主観ショット(一人称ショット)も「古典的モンタージュ」と「斜めの(視点)演出」では異なる効果を持つことを指摘しましたが、ウィリアム・A・ウェルマンの映画はトリフォーの見方で言えばグリフィス直系の「古典的モンタージュ」であり、フォードやホークスと同じ方法によるものになるでしょう。第二次世界大戦前にキャリアを築いた映画監督はほとんどが「古典的モンタージュ」派であり、戦後映画からは「斜めの(視点)演出」が徐々に映画の主流となっていきますが、今回観直したウェルマンの戦争映画の名作『戦場』'49はそうした見方で観るとすれば途方もない規模で「古典的モンタージュ」の可能性を究めつくした作品で、大ロングの俯瞰ショットを遠近法の最大拡大とすれば、人間の目線の位置でとらえられるショットはすべてひとつの小隊に属する兵士たちの無数の主観ショットから構成されており、どの兵士の主観ショットか明確なものもあれば混戦状態で特定できないものも渾然となって小隊所属の兵士たちの動き、兵士たちによる観察を統合しており、主観ショットがあまりに徹底的かつ細分化されて細胞単位と言えるほど分割されているために、明らかに一人称視点を狙って特殊効果が施されたショットもわずかに1か所ありますが、主観ショットによる切り返しや遠近法を意識する間もなく映像全体が小隊1隊の兵士たちの塊りのような集団的二人称ショットの様相を呈しており、おそらく「古典的モンタージュ」による作例としては、ショットごとに分析すれば遠近法、切り返し、主観ショットの混淆が極点にまで複雑化しており、観客に与える映像体験としては「古典的モンタージュ」の域を超えて凄まじい効果を達成した作品となっています。しかも実験性や難解さはまったく感じさせない直接的な訴求力に溢れた映画であることで手法と内容は完全に均衡が取れており、個性的で血の通った個々の兵士たちを共感を持って描いた群像劇という基本的なテーマから生まれてきた大胆な映像・話法であることも映画自体の自然な出来と焦点の明確な高い完成度から観客に深い満足感を与えるもので、文句なしにウェルマンより格上の巨匠映画監督であるフォード、ホークスのヘヴィー級の大手腕に較べるとウェルマンはライト級チャンピオンといったところですが、その代わりフォードにもホークスにも名作中の名作『戦場』のような、実力以上の突出した作品を作ってしまった例はないでしょう。今回の感想文の他2作もそれぞれ面白く安心して楽しめるウェルマン映画ですが『戦場』は驚異的な作品で、モンタージュの複雑な構造ではアラン・レネの極度に方法的な『二十四時間の情事』'59、『去年マリエンバートで』'61、『ミュリエル』'63以上のもので、途方もない傑作です。内容が渋いので本当に良さがわかるには戦争経験者かそれに匹敵する人生経験、せめて'40代後半~'50代以上の人生経験を経た観客でないと真価はわからないかもしれませんが、観直すと案外小ぶりなウェルマン作品の中で『戦場』は観れば観るほどすごみがわかる映画で、未見の方には『牛泥棒』'43と『戦場』だけは(それと『西部の王者』'44は)一度なりともご覧いただきたい20世紀中葉のアメリカ映画の金字塔で、観ていないと観ているでは映画観すら変えてしまう力があります。めんどくさそうな前書きになってしまいましたが映画は明快で、言葉にするとややこしそうですが観れば技巧にも気づかずに入っていける作品です。地味そうな戦争映画となれば何となく見逃している方も多いかと思いますが、もし少しでも興味を持たれましたら、ぜひご覧ください。

●5月23日(水)
廃墟の群盗』Yellow Sky (20世紀フォックス'48)*99min, B/W; 日本公開昭和26年(1951年)8月14日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) W・R・バアネットの原作から「剃刀の刄」のラマア・トロッティが脚色し製作した1948年度西部劇で、監督は「戦場」のウィリアム・ウェルマン、撮影は「荒野の決闘」のジョウ・マクドナルド、音楽はフォックスの大作を常に担当するアルフレッド・ニューマン。「頭上の敵機」のグレゴリー・ペック「熱砂の秘密」のアン・バクスター、「海の男」のリチャード・ウィドマークを中心に、ロバート・アーサー、ヘンリー・モーガンジョン・ラッセル、ジェイムズ・バアトンらが共演。
○あらすじ(同上) レメイヴィルの銀行を襲撃して軍隊に追われた無法者の一団が70里にわたる熱砂の荒地を落ちのびていった。一行はストレッチ(グレゴリー・ペック)を頭にいただくデュウド(リチャード・ウィドマアク)らの7人組で、数日間の苦難の旅を経てイエロウ・スカイと呼ばれる死の街に辿りついた。町には旅人に水や食物を与える老人(ジェームズ・バートン)と孫娘のマイク(アン・バクスター)が住んでいるだけ、しかもマイクは一行を嫌って彼女の家には彼らを泊まらせなかった。その夜彼女を襲ったストレッチは、かえって彼女に傷つけられた。老人とマイクが山で金採掘を行っているのを嗅ぎつけたデュウドは仲間を語らって2人を丘に追いつめ老人の足を撃ってマイクを降参させた上、5万ドルの金を強奪した。マイクとストレッチの仲が近づくのをみたデュウドは折からアパッチの一隊がマイクの家に来た時、ストレッチがアパッチをそそのかし皆を亡きものにしようとしていると仲間にふれまわった。そしてストレッチが老人にはまだ金の権利が残っていることを仲間に忠告するに及び彼とデュウドの仲は決裂し、ストレッチは烈しい射撃戦の後ついにデュウドを撃ち倒した。数週間後、再びレメイヴィルの銀行を襲ったストレッチの一行は、今度は逆に以前盗んだ金をそっくり返却して引き揚げて来た。彼方の丘の上ではマイクと老人が一行の帰りを待ちわびていた。

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 いかにも西部劇調のマーチをバックに「Gregory Peck Anne Baxter//Richard Widmark」「in Yellow Sky」「Screenplay by/Lamar Trotti//Based The Novel by W. R. Burnett」「Directed by William A. Wellman」次に撮影、音楽、プロダクション・タイトルが1枚タイトルにまとまって出て、最後に1枚タイトルで「Produced by Lamar Trotti」そして「Western 1867」(つまり南北戦争直後、リンカーン暗殺2年後)とペックが率いるくたびれた7人の男たちが荒野を進んでくるショットで始まります。脚本・製作ラマー・トロッティ、監督ウィリアム・A・ウェルマンと言えば衝撃的傑作『牛泥棒』'43以来の組み合わせ、原作は『犯罪王リコ』や『ハイ・シェラ』のW・R・バーネット、それに今回はグレゴリー・ペックアン・バクスターリチャード・ウィドマーク仏頂面が浮かんでくるような組み合わせ。ペックがリーダーだが逃走に疲れて今にもウィドマークを筆頭に内紛一触即発の強盗団というのがすぐにわかります。そして腹を空かせて疲労しきった強盗団はライフルを手放さないアン・バクスターと好々爺のジェームズ・バートンが住んでいる荒野の一軒家にたどり着きます。バクスターは家の傍の湧き水は仕方なく使わせるが決して男たちを家に入れない。ウィドマークは押し入ろうとしペックは制止します。ペックの命令と監視で不機嫌に野宿する男たち、一夜明けるとバクスターとじいさんが一軒家を拠点に金鉱を掘っていると嗅ぎつけたウィドマークを中心にペックに謀叛する派とペック派に男たちは割れていて、バクスターは好々爺バートンを連れ出してペック派もウィドマーク派も追い出しにかかり、三つ巴の銃撃戦が始まるが、多勢に無勢で家は一時対立を止めたペック派・ウィドマーク派両方の男たちに乗っ取られます。じりじりと男たちの緊張関係は高まっていく、と、手下の男たち(ロバート・アーサー、ジョン・ラッセル、ヘンリー・モーガン、チャールズ・ケンパー、チャールズ・ケンパー、ロバート・アドラー)の顔ぶれもいいですが、ペックとバクスターの無愛想さ、ウィドマークの不穏さがはまり役で、ほとんど舞台はオープン・セットで荒涼とした荒野がまたいい。バートンじいさんは近隣のインディアンに信望がありアパッチの集団が訪れると男たちは手を出せない。アパッチに自分たちを攻撃させないバートンじいさんをペックは信用することにし、金塊はバートン家に半分残すことを主張し男たちを全員敵にまわし、ペックはバクスター、バートンじいさんの側につきバクスターの援護で7人を相手に立ち向かう。ウィドマーク派も金塊だけを奪えばいいウィドマーク派とバクスターも奪っていこうとするラングレー(ジョン・ラッセル)やウォーラス(チャールズ・ケンパー)派に割れている。しかし結局はペック以下の男たちは混乱に乗じて他の全員を殺し自分ひとりが金塊を奪う魂胆でいる。そして深夜の銃撃戦が始まる……。エンド・タイトルは『デス・ヴァレーでの撮影を許可してくれた/米国国務省に捧げる』と締められます。英語版ウィキペディアに本作をシェイクスピアの『テンペスト』を下敷きにした作品とありますが、言われれば結末のペックの行動がそれに当たるのかもしれませんが、各種の映画感想投稿サイトを見ると、本作の結末は賛否両論の非の方が多いようです。
 非とする感想は取ってつけたような結末と見る意見からですが、逆にそこがユーモアをかもしだしていて面白いとも言えるので、本作のような映画の場合こういうとぼけた終わり方もなかなか良いんじゃないかという見方もあるでしょう。バーネット原作の映画はたいがい面白くて、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』や『倍額保険(深夜の告白)』『深夜の銃声(ミルドレッド・ピアース)』のJ・M・ケインと同じように、絶対文学性は高くないけれど映画にすると俄然生きてくるような、たぶん映画向けの作風のツボをついたセンスのある大衆作家なのだろうと思います。グレゴリー・ペックアン・バクスター主演でウェルマン監督の西部劇というとそれだけで'40~'50年代ハリウッド映画が好きな人は映画好きほど食指が動かないんじゃないかと心配になる組み合わせで、ペックといいバクスターといい美男美女には違いなく大スターと言える俳優なのですが何となく大味なイメージがついてまわり、ペックはプロデューサー指名で起用したがミスキャストだったと何かと映画監督に言われたり抑えた演技で大根役者呼ばわりされることが多く、バクスターは演技派ですが良家出身もうなずける水商売的な色気に欠ける女優という感じがあります。しかしヘンリー・キングのようにペックを生かした監督、バクスターの場合ならワイルダーの『熱砂の秘密』'42やフリッツ・ラングの『青いガーディニア』'53のような作品を見るとペックやバクスターも自然な色気があって、それはペックやバクスターがミスキャストとか色気に欠けると言われる作品もよく見るとちゃんとあり、ペックだからバクスターだからこそという名作佳作もしっかり残されていますからさすがに名優とされるだけの資質はあり、生かすも生かし損ねるも監督次第でしょう。ヒッチコックが『私は告白する』'53で生かせなかったバクスターが上記の初期ワイルダー、後期ラング作品では魅力的であり、またヒッチコックが『白い恐怖』'45、『パラダイン夫人の恋』'47と二度に渡って生かせなかったペックがヘンリー・ハサウェイの小傑作『狙われた駅馬車』'50、キングの名作中の名作『拳銃王』'50では光り輝いているように、監督が無欲恬淡に使った時に存在感が光る俳優と言え、本作のウェルマンはヒッチコックよりもキングやハサウェイに近い監督ですからペックとバクスターがとても良く、先入観抜きにさりげなく観ておっ、と感心するような味のある佳作になっているのはさすが歴史的名作『牛泥棒』を生んだトロッティ製作・脚本、ウェルマン監督のコンビでしょう。こういう大作でも何でもなく普通に良い映画が普通に作られていた時代があったのは実にうらやましく、テレビのハイヴィジョン化前には誰でも何となく観られる地上波放映もされていたのは、古い映画が媒体区分でマニア向けにされてしまった現在では何ともうらめしい気がします。

●5月25日(木)
『戦場』Battleground (MGM'49)*118min, B/W; 日本公開昭和25年(1950年)10月6日・アカデミー賞作品賞/助演男優賞/監督賞/編集賞ノミネート、アカデミー賞脚本賞/撮影賞(白黒)受賞・ゴールデングローブ賞助演男優賞/脚本賞受賞

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) MGMの製作部長となったドーリー・シャーリーが自ら製作に当り「鉄のカーテン」のウィリアム・A・ウェルマンが監督した1949年度作品。共同製作者のロバート・ピロッシュが脚本を書き撮影はポール・C・ヴォーゲル、音楽はレニー・ヘイトンと新進気鋭のスタッフを揃えているほか、出演者も「ママは大学一年生」のヴァン・ジョンソン、「帰郷」のジョン・ホディアク、「芸人ホテル」のジョージ・マーフィー以下、リカルド・モンタルバン、マーシャル・トンプソン、ジェローム・コートランド、ドン・テイラーデニーズ・ダーセル等の新人が起用されている。
○あらすじ(同上) 1944年のクリスマスも間近の頃。米国第百一空挺師団のI大隊の兵隊は、ベルギーのバストーニュで優勢なドイツ群の包囲をうけ苦戦していた。ジャーヴィス(ジョン・ホディアク)、ホーリー(ヴァン・ジョンソン)、ロドリゲス(リカルド・モンタルバン)、「ポップ」(ジョージ・マーフィー)、レイトン(マーシャル・トンプソン)、アブナー(ジェローム・コートランド)たちは、ウォルウィッツ曹長(ブルース・コーリング)の指揮する同じ小隊の仲間だった。クリスマスの1週間前この小隊は秘密命令の中にバストーニュに着き、ドニーズ(デニーズ・ダーセル)と呼ぶ娘のいる一家に宿営した。ホーリーは直ぐにドニーズと仲良くなったが、翌朝は更に前進命令を受けて砲弾を浴びながら森の敵陣のすぐ前に塹壕を構築しはじめた。雪と寒気の中での仕事は思うようにはかどらず、しかも濃霧のたちこめるバストーニュ付近は味方の飛行機の援護も受けられなかった。彼等は味気のない携帯口糧で腹を満たし、敵の攻勢を支えていた。しかし夜中秘かに味方陣地内に降下した独軍の落下傘部隊の撹乱戦術のため、何人かの兵隊が斃された。砲弾の唸音に精神錯乱状態に堕って壕より飛び出したベッツ(リチャード・ジャッケル)が死んだ。ロドリゲスも敵戦車に両足を轢かれた。ウォルウィッツ曹長も貫通銃創を受けて後退し、小隊はホーリーが指揮をとることとなった。霧は依然として晴れなかった。兵隊たちは絶対的な気持ちに襲われながらも応戦を続けた。翌朝は更に猛烈な独軍の攻撃が加えられたが、小隊の手榴弾による反撃により独軍の小部隊を捕虜とした。その代りアブナーを失った彼等は交替の部隊に陣地をゆずってバストーニュに引きあげた。兵隊たちはドニィズと再会して歓び合ったが、一夜の休養の後前線に引きかえさなければならなかった。戦闘は依然はげしく続いた。百一空挺師団の兵隊の疲労はその極に達しているものの如くだった。独軍の軍使が降伏を勧告に来たが、もちろん交渉は物別れに終わった。独軍は包囲の鉄環をじりじりと狭めはじめた。彼等の総攻撃は火蓋を切って放たれたその時、霧の裂け目から機影が見えたかと思う暇もなく、独軍の陣地に機銃掃射を行なった。待ちに待った米空軍の出動だった。炎上する独軍戦車を見ながら空挺師団は総員奮い立った。救急物資が輸送機から投下され、地上増援軍も相ついで到着した。1週間にわたる苦戦はいま、ところをかえて、独軍が最後力をふりしぼったルントシュテット攻勢はここに挫折の止むなきに至ったのだった。苦戦を終えたホーリージャーヴィスたちは生涯に忘れることのできないクリスマスをバストーニュの街でむかえたのだった。

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 映画も時おり観直すといろいろ発見があるなあと思うのはウェルマンの本作は第二次世界大戦映画の名作『G・I・ジョウ』'45と続けて観るとなおさら感銘が深いのと、意欲的名物プロデューサーのドア・シャーリーのRKOからMGMに復帰、しかも製作主任待遇の第1作だったんだと昔観た時には大して興味なかったことに気づき、戦後製作の第二次世界大戦映画でキャストもスター級の俳優はおらず映画の調子もいたって地味な本作がアカデミー賞主要7部門ノミネートでうち2部門受賞と業界内評価の高い話題作になったのは映画が名作なのもありますが大会社MGMの新任製作主任自信の意欲作であり(その分広くプロモーションもされたでしょう)、ウェルマンはこれまでもアメリカ映画の良心みたいな監督でしたが一見地味な本作はその地味さで観客の心をとらえた、という実感です。本作は大人の映画で、現在の日本なら50代以上の人生経験のある人でないと真価はわからないような映画かもしれません。本作はクレジット・タイトルがひと通り終わって、冒頭「これはバストーニュの戦いで/ドイツ47師団を撃退した男たちの物語である。彼らはこう呼ばれた――バストーニュで叩きのめされた男たち、と」と本編が始まります。そして行軍訓練を終えて寝しなのテントの中でとりとめのない雑談に興じる男たちが描かれますが、消灯されるや場面はすぐに翌朝の移動に移ります。バストーニュに着くと早速ドイツ軍用機がビラを撒いてくる。「ようこそ百一空挺師団」ドイツ軍に筒抜けか、占領4年にもなればスパイくらいいるさ、と兵士たち。小隊は話がつけてあった民家に宿を提供されるも翌朝からすぐに塹壕掘りの任務で移動し、延々塹壕を掘るが完成しないうちに戦況変化で別の目的地の塹壕掘りに移動命令が下る。雪が降り始める。小隊は偵察隊として留まる命令が下る。塹壕で爆撃に耐え、予測のつかない攻撃を仕掛けてくるドイツ小隊と応戦する。「新聞社では世界中のニュースが真っ先に知れた」と新聞記者出身の兵士、「今はこの小隊のことしかわからない」。負傷者が帰され行方不明者は戦死して見つかる。ドイツ軍に野戦病院が占拠されて負傷者の処刑の報が届く。やがて犠牲者を出しつつドイツ軍小隊と戦闘し捕虜を連れてバストーニュに戻り、再び前線に出た小隊はドイツ軍将校を捕獲し、掃討爆撃予告とアメリカ軍の投降の勧めを聞くが一蹴し、バストーニュ爆撃対空砲撃を準備する。戦闘開始直前に1曲だけ、とラジオの音楽番組をかけると「I Surrender Dear」が流れる。夜間から爆撃が始まる。夜が明け、援軍輸送機から食糧と弾薬の補給パラシュートが降りそそぐ。そして戦勝して腰を下ろした小隊に再び隊長が合流し、一同に緊張が走るが、隊長は小隊に号令をかけ、交替部隊の間を通って任務を終えた小隊は帰ってゆき、兵士ひとりひとりの本編からの抜粋映像にキャスティング・タイトルが出て映画は終わります。
 本作は日本の占領軍本部(GHQ)がよく本国公開からすぐ日本公開を許したな、というくらい本格的な戦争映画で、軍事民間問わず戦争経験者の日本人にはまだ刺激の強かったような作品ですが、内容はフランス戦線のアメリカ小隊とドイツ軍の戦闘なので、北アフリカ(チュニジア)~イタリア(イタリアは敗戦後の対ドイツ)戦線を描いた『G・I・ジョウ』'45が沖縄戦線で戦死した従軍記者アーニー・パイルのルポの実名映画であるため占領軍撤退後の昭和28年(1953年)日本公開になったのに早々『戦場』が日本公開されたのは控えめな調子ながら第二次世界大戦アメリカの大義を主張した映画であり、たぶんGHQの映画検閲担当者さえも感動し日本人への教育的効果を認めたのでしょう。直接日本軍との戦闘を描いた当時の作品はほぼ完全に未公開作品(検閲不認可作品)に終わっています。本作は「死」をめったに直接描かないウェルマン映画(『G・I・ジョウ』ですら最低限、強盗団内部の殺しあいの話『廃墟の群盗』ですらそうです)でも例外的に、敵兵のみならず(『G・I・ジョウ』は敵兵の戦死は容赦なく描いていました)アメリカ小隊の兵士たちも次々に戦死、または負傷していきます。しかも集団の死ではなく個人の死として克明に描かれているため非常に痛切で、また塹壕掘りや野営の様子が延々描かれ、ジャン・ルノワールになかなかスポンサーがつかない『大いなる幻影』のシナリオを君なら売れっ子だから撮らないか、と提供されたジュリアン・デュヴィヴィエがこんな兵隊だらけの映画なんか撮れるか、と一蹴したというのは先月『大いなる幻影』を観直した感想文を書いた際に初めて知ったエピソードですが、アメリカ映画はサイレント時代から兵隊だらけの映画の伝統、野郎ばかりの西部劇の伝統があった国ですが本作はヒロイシズム一切抜きでいち小隊のタコ部屋的な任務に次ぐ任務を描いた映画です。兵役経験者の戦線帰還者、また兵役戦死者の遺族にはどれほど身につまされる映画だったでしょうか。本作と同年にリアリズムでドイツ空爆に従事するアメリカ空軍を描いた第二次世界大戦映画のこれもすごい名作、ヘンリー・キンググレゴリー・ペック主演作『頭上の敵機』'49(アカデミー賞監督賞助演男優賞受賞)がありますが、あれは戦線でも特殊な作戦部隊を描いた作品で作戦司令官のペックはストレスに次ぐストレスから強迫性精神障害を来してしまう壮絶な特殊状況映画でした。本作も壮絶といえば壮絶なのですがごくありふれた任務を課された地上部隊の小隊にとっては任務はほとんど日常になっていて、ひたすら辛くていざ戦闘になればちょっとした偶然で負傷で済めばまだ良し、生き死にすら日常的な出来事です。『頭上の敵機』はダリル・F・ザナック製作による20世紀フォックス作品でフォックス社はウェルマンの古巣でもあり戦争映画の伝統がありましたが、MGMはむしろスター主義の華やかな映画やミュージカル、メロドラマの会社です。ウェルマンよりほぼ10歳年長のキングはもともとメロドラマに長けていましたがドラマの集中的構成が巧みな監督で、ウェルマンにも『牛泥棒』のような凝縮度の高い作品がありますが、本作ほどの非求心的な群像劇は類例は戦争映画以外の他ジャンルにはほとんどなく、戦争映画ですらめったに成立しない手法です。『G・I・ジョウ』では従軍記者の視点を前提としたことで枠物語的な群像劇に準じたものになっていましたが、本作では統一的な一人称的視点はなく、小隊全体の集合二人称的な視点になっているのが『G・I・ジョウ』以上に兵卒ひとり一人の集団的個性に迫る映像・話法構成になっている。それがどれほどの成果と言えるものかは、今回の前書きで書いた通りです。

●5月25日(金)
ミズーリ横断』Across the Wide Missouri (MGM'51)*78min, Technicolor; 日本公開昭和27年(1952年)11月18日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「故郷の丘」のロバート・シスクが製作した1951年色彩西部劇で「北西への道」のタルボット・ジェニングスと「我が道を往く」のフランク・キャヴェットが共作した原案から、ジェニングスが脚色した。監督は「女群西部へ!」のウィリアム・ウェルマンである。撮影は「悲しみの恋」のデイヴィッド・ラクシンが担当する。主演は「風と共にさりぬ」のクラーク・ゲーブル、「闘牛の女王」のリカルド・モンタルバン、「アパッチ族の最後」のジョン・ホディアクで、以下「スピード王」のアドルフ・マンジュウ、マリア・エリナ・マルケス、「アニーよ銃をとれ」のJ・キャロル・マイシュ、ジャック・ホルトらが助演する。
○あらすじ(同上) 1880年代のはじめ、猟人のフリント・ミッチェル(クラーク・ゲーブル)はロッキー山中にすばらしい海狸の棲息地を発見した。相棒のブレカン(ジョン・ホディアク)はこの地をインディアンに残しておくよう忠告したが彼は聞かず、そのためブラックフィート族の若者アイアンシャーツ(リカルド・モンタルバン)から攻撃を受けた。猟人たちは毎夏顔を合わせ、フリントは海狸地帯への同行者を募った。この時居合わせたインディアン娘カミア(マリア・エリナ・マルケス)はブラックフィートの酋長ベア・ゴースト(ジャック・ホルト)の孫であった。フリントはブラックフィートに好い感情を持たせるため結婚を約束して彼女を買い取った。2人は棲息地に出かける途中次第に親しさを増し、ついに男の子が生まれた。アイアンシャーツは依然として反抗的であったが、老酋長ベア・ゴーストはフリントを深く愛するようになったから彼も手が出せなかった。しかし子供の誕生祝いにカミアを訪ねたベア・ゴーストはかねてブラックフィートに恨みを持つ猟人に殺され、このためアイアンシャーツはインディアンを率いてフリントらを襲った。カミアも殺され愛児も奪いかけられたフリントはアイアンシャーツを倒して子供を取り返したのち、永久にこの開拓地の礎になろうとインディアンの唯中にとどまることになった。

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 美しいテクニカラー撮影でDVD画質も発色・解像度ともに良好な本作は、まず山脈と平野の風景に「これが私の故郷だ。6歳になるまで先住民と暮らした。そして彼が私の父だ」と馬にまたがったクラーク・ゲイブルが映り、「最後まで山の男として暮らした。私は父から、父のたくさんの友人の話を聞いて育った」と、ゲイブルの息子がゲイブル生前に聞かされた話を画面外のナレーションで語っていく形式で映画本編が始まります。ゲイブルはハンターでビーヴァー(キネマ旬報のデータで「海狸」というのがそれですが、昭和27年にはビーヴァーでは通じなかったというのは時代を感じます)の豊富な狩猟地としてこのロッキー山中のインディアン居住区に目をつけ、英語を解するブラックフット族のルッキング・グラス(J・キャロル・ナイシュ)を通訳兼交渉人に酋長(ジャック・ホルト)に紹介してもらいますが、J・キャロル・ナイシュは『ボー・ジェスト』に出ていましたし『戦場』で兵士役だったジョン・ホディアク、リカルド・モンタルバンなども重要な役で再登場しているのが面白い。ゲイブルの年長の相棒ハンター役でアドルフ・マンジュー(役目はピエール)が出ていて、インディアン西部劇のアドルフ・マンジューなどよくまあ出演したものです。時代背景は西部開拓の初期も初期で、「モンタナもアイダホもない荒野を父は進んだ」とナレーション。ゲイブル(1901-1960)はさすがに実年齢も50歳を超えているだけに老けて見えます。マンジュー(1890-1963)の老け具合も相当で、酋長の娘でヒロインのマリア・エレナ・マルケスはともかく主要キャストの平均年齢の高すぎる西部劇という観は否めず、キューブリックの『突撃』'57のマンジューの方が若く見えるのは役柄かB/W作品だからか。ゲイブルと同年生まれのゲイリー・クーパーも同年テクニカラー西部劇に主演していますが(ラオール・ウォルシュ『遠い太鼓』'51)、若々しさではクーパーに分があったように思います。78分といささかあっけない本作はインディアン部族内部の内紛がいささかごちゃごちゃしているためにすっきりした構図が見えてこない、単純な勧善懲悪西部劇なら後半はアクションでたたみかけて、アクション自体は豊富で見せ方も切れも良く観応えがありますが、親白人派インディアンと反白人派インディアンの描き分けが私怨レベルであるため主人公のインディアンに対する姿勢も明確でなく、これならインディアンもの西部劇ではなく無法者型西部劇にした方が良かったのではないか、というかインディアンもの西部劇の姿を借りて無法者退治型西部劇を作った結果二兎を追って、それなりに面白いけれど焦点の定まらない作品になってしまったような気がします。簡単に言うと本作のゲイブルは良いインディアンと友好関係を築き、悪いインディアンを征伐する主人公なので、白人とインディアンの関係というテーマがあまりに都合が良すぎる。流れ者が西部の町にやってきて弱気を助け強気をくじく話をインディアンもの西部劇でやってしまった、というのはそういう意味で、白人が白人社会でそれをやるのはいいが白人がインディアン社会にやってきてそれをやる(しかもインディアン同士がもめるきっかけになったのも白人の来訪のせい)となると一本筋が通っていないように見えます。ウェルマンの『西部の王者』がインディアンもの西部劇の名作になったのはそこらへんをしっかり納得いくように作っていたからで、バッファロー・ビルという人物像によってそれを描き出してみせましたが、本作は合戦場面は『西部の王者』よりさらにシャープな演出の巧さを見せながらテーマの不統一、都合の良さをアクション場面で帳消しにしようというようなものになっているきらいがあります。
 本作はひさびさのテクニカラー作品で画質も良好、西部劇は青空と緑、馬の栗毛が美しいのでカラー作品の画質だけでもずいぶん点を稼ぐジャンルですから、名作『西部の王者』の現行版DVDもこのくらいの画質だったらなあとマスター状態の差だけで格段に画質の差が出る(画質の良くない『スター誕生』'37と鮮明画質の『翼の人々』'38もそうでした)テクニカラーの長所と短所を痛感させられます。後発の単層式イーストマンカラーや現在のデジタル撮影ではテクニカラーの圧倒的な色彩感、特に青空の鮮やかさはとらえられず、原理的にはテクニカラーの感度と発色よりもイーストマンカラーやデジタル撮影の方が人の眼の視覚構造には近いはずなのですが、人間が青空の青に感じる圧倒的な色彩感を再現できるのはテクニカラー・フィルムの感度と発色システムという不思議があり、経済効率的理由でテクニカラーが淘汰された現在ではスタジオ・ジブリ京都アニメーションのアニメ作品がテクニカラーの青空を継承再現しているのは現代映画の情勢批判のためにもっと強調されていいと思われますが、ウェルマンはテクニカラー作品は明るく華やかで快活に、B/W作品はおおむね地味に撮る方で、『つばさ』'27はフィルム実用化が進んでいたらテクニカラーで撮りたかったような作品だったと思います。西部劇ではさらにそれが顕著でB/Wの『英雄を支えた女』『牛泥棒』『廃墟の群盗』とテクニカラーの『西部の王者』『ミズーリ横断』ではカメラの位置すら違う感じがあり、『牛泥棒』のラストは酒場の建つ四辻をヘンリー・フォンダと相棒がリンチ被害者遺族の家に訪ねにスクリーン奥に去って行くショットですが、フォンダと相棒の馬が遠ざかると手前の酒場前を上手から下手に野良犬がごく普通の歩幅で横切って酒場前で止まり、フォンダたちの姿がほぼ遠ざかりきってエンド・タイトルが出ます。翌年の『西部の王者』でもジョエル・マクリーが偶然犬を飼う羽目になるほどで、'40年代ハリウッド映画は名優犬を多数擁していましたから犬のあしらいは一種の趣向ですが、『牛泥棒』では無造作に現れた犬が『西部の王者』では計算された登場になっているように、B/W作品ではウェルマンは一見ぶっきらぼうな演出や話法が目立ち、テクニカラー作品では計算されたものになる傾向が本作『ミズーリ横断』でも感じられます。クライマックスの乗り手の母親が殺され赤ん坊を乗せた籠を提げたまま疾走する馬、それを馬で追うペック、さらにその後からペックを殺しに追う悪役インディアン役のリカルド・モンタルバンが等距離で一直線に並びながら荒野を疾走して森に突っこんで馬が止まり、木立の中を隠れながらペックとモンタルバンの一対一の対決になる場面は、その先に水場で休む白人と親白人派インディアンのペックたちが突然ペックの妻で赤ん坊の母親に矢が射られてモンタルバン率いる反・親白人派インディアンたちの襲撃と応戦の大合戦から続けざまに、集団戦の中から飛び出すように一騎打ちになだれ込む展開で、アクションとしては前述の通り『西部の王者』の見事な戦闘シーンのさらに上を行く優れたアイディアと演出が光るだけに、映画全体としてはインディアンものとしては主人公の姿勢、立場がはっきりしない作品なのがテーマの不消化感を抱かせて残念なものです。こうした難点は脚本にあり演出は隙がないもので、映画にはよくある出来事とも言えるでしょう。本作はまあ良くも悪くも凡作、せいぜい標準作止まりですが小品佳作『廃墟の群盗』とどっちが面白いかと言えばどちらが上でどちらが下とも言えず、美麗なテクニカラー映像の魅力だけでもほとんど夜のシーンばかりのB/W作品『廃墟の群盗』より分があるので、出来不出来がそのまま映画の楽しみの優劣を分けないのもまた映画にはよくあることです。