人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(18); 八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年刊(xvi)『秋の瞳』収録詩編の分類(5)

[ 八木重吉(1898-1927)大正13年1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]

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 前数回で八木重吉の第1詩集『秋の瞳』を読み返し、その全117編の収録詩編を、

●(a)詩的表現が断片的に過ぎ、生活報告や心境告白に留まるもの……「序」+40編
●(b)詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの……41編
●(c)一編の詩として自律性の高い、独立した短詩と見なせるもの……36編

 ――と、分けてきました。より簡単には、

●(a)生活詩・心境詩……39編
●(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩)……42編
●(c)純粋詩……36編

 ―― となりますが、詩集『秋の瞳』のうちもっとも問題になり、八木の詩の特異な性格を表すのは(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩=内容が断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)で、前回はその(b)群を取り出して見てみました。『秋の瞳』の中でも印象的な詩編


 えんぜるになりたい
 花になりたい
  (「花になりたい」全行)


 無造作な くも、
 あのくものあたりへ 死にたい
  (「無造作な 雲」全行)


 このかなしみを
 ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか
  (「かなしみ」全行)


 死 と 珠 と
 また おもふべき 今日が きた
  (「死と珠(たま)」全行)


 わたしは
 玉に ならうかしら

 わたしには
 何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ
  (「玉(たま)」全行)


 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん
  (「人を 殺さば」全行)


 この しのだけ
 ほそく のびた

 なぜ ほそい
 ほそいから わたしのむねが 痛い
  (「しのだけ」全行)


 すずめが とぶ
 いちじるしい あやうさ

 はれわたりたる
 この あさの あやうさ
  (「朝の あやうさ」全行)


 あき空を はとが とぶ、
 それでよい
 それで いいのだ
  (「鳩が飛ぶ」全行)


 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
  (「草に すわる」全行)


 くらげ くらげ
 くものかかつた 思ひきつた よるの月
  (「夜の 空の くらげ」全行)


 巨人が 生まれたならば
 人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
  (「人間」全行)


 花が 咲いた
 秋の日の
 こころのなかに 花がさいた
  (「秋の日の こころ」全行)


 赤い 松の幹は 感傷
  (「感傷」全行)


 春も おそく
 どこともないが
 大空に 水が わくのか

 水が ながれるのか
 なんとはなく
 まともにはみられぬ こころだ

 大空に わくのは
 おもたい水なのか
  (「春も 晩く」全行)


 かへるべきである ともおもわれる
  (「おもひ」全行)


 このひごろ
 あまりには
 ひとを 憎まず
 すきとほりゆく
 郷愁
 ひえびえと ながる
  (「郷愁」全行)


 ひとつの
 ながれ
 あるごとし、
 いづくにか 空にかかりてか
 る、る、と
 ながるらしき
  (「ひとつの ながれ」全行)


 宇宙の良心―耶蘇
  (「宇宙の 良心」全行)


 彫(きざ)まれたる
 空よ
 光よ
  (「空 と 光」)


 これらは分類するとすればいずれも(b)警喩詩・思想詩・断章詩(詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)に分けられるものです。これらは1編の詩としては明らかに不足していて、いわば詩の書き出しだけを切り取ってきたようなものであり、八木以外の詩人なら通常はさらに数連を足して1編の詩に仕上げると考えられるものです。しかし八木の詩は断章のまま読者に差し出されているので、読者は自発的に意味を補足した上で読むことを強いられます。これらは八木の詩集から少し遅れて、昭和初期の若手詩人たちから起こったモダニズム詩の「実験的短詩運動」の、


    馬       北川冬彦

 軍港を内臓してゐる。
  (「馬」全行/詩集『戦争』昭和4年より)


 ――や、北川の盟友の、


    春       安西冬衛

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
  (「春」全行/詩集『軍艦茉莉』昭和4年より)


 とはまったく異なる発想で成立しており、北川や安西の1行詩、正確には表題を入れて2行とすべきでしょうから引用もそうしましたが、この「実験的短詩運動」の代表作として大いに論議を呼んだ2編は「馬//軍港を内臓してゐる。」「春//てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」という具合に、表題と1行詩との照応で完結した詩的内容を提示しています。八木重吉の詩の断章的性格は山村暮鳥の『聖三綾玻璃』'15(大正4年)や『雲』'25(大正14年、成立前年)、高橋新吉ダダイスト新吉の詩』'23(大正12年)に先例、またはほぼ同時(『秋の瞳』収録詩編は大半が大正10年~13年執筆で、『ダダイスト新吉の詩』や『雲』の執筆時期と重なります)の例がわずかに見られる程度で、むしろ形式的にはアフォリズム(警句)やエピグラム(風諭)のスタイルに近いものでした。大正時代には宗教思想や宗教文学のブームがあり、学生時代の八木が心酔したという北村透谷や詩人的自覚を確立した頃から現代詩人でもっとも注目していたと推定される山村暮鳥プロテスタント教会の伝道師だった詩人であり、八木と同世代で八木より少し先に第1詩集を刊行していた宮澤賢治高橋新吉がやはり宗教的関心の高い詩人だったこと(宮澤は浄土真宗の熱心な信者でしたし、高橋の場合は神道禅宗でした)など、大正時代も100年を経た今日ではどこまでが時代性の反映で、どれだけがそれぞれの詩人固有の意識だったか判別し難い面もあります。

 大正時代には明治末年に逝去した石川啄木はすでに神格化された詩人でしたが、啄木は与謝野鉄幹・晶子夫妻の詩誌「明星」の盟友だった高村光太郎より年少で、また啄木と同年生まれの萩原朔太郎は啄木の夭逝の翌年から詩を書き始めて「明星」出身のスター詩人・北原白秋の詩誌「朱樂」に加わりましたが、白秋には大正期に宗教思想詩に傾いた時期があり、これは萩原の秘書出身の昭和詩人・三好達治が徹底的に批判しています。萩原は啄木には心酔し、高村には敬して近づきませんでしたが、啄木・高村とも宗教的性格は稀薄な詩人(それがかえって大東亜戦争・太平洋戦争中に高村をファッショ詩人に追いこむ一因ともなりましたが)だったのに対し、萩原には詩作を始める以前の時期にキリスト教信仰に傾倒するあまり抑圧的だった履歴が判明しており、第1詩集『月に吠える』'17(大正6年刊)収録作品中初期の創作にその痕跡がある、というのが現在では定説になっています。また北村透谷、山村暮鳥八木重吉らも晩年の病床ではキリスト教信仰への懐疑をあからさまにすることがあったという証言があり、透谷の場合は精神疾患の症状があったとはいえキリスト教信徒としては背教行為でもある自殺を遂げていますし、暮鳥の遺稿詩集『雲』には法華宗如来への親しみとともに「宗教などといふものはないのだ」と明白な詩句があり、八木の場合は歿後50年以上を経た'80年代に初の『八木重吉全集』刊行をも監修者になった、八木の遺稿を守ってきた未亡人自身が最晩年の八木の宗教的懐疑を証言しています。

 八木重吉の詩が長く愛されてきたのは、宮澤賢治と同様にその作品が高い宗教的品性を感じさせる人格的なムードによる面が大きいと思われますが、これは一般的に宗教教育の社会的慣習がなく、宮澤賢治八木重吉の詩の宗教性が一種の聖化・神秘化と憧憬を生んでいることに主な原因があると思われます。宮澤の児童教育・農林水産事業への啓蒙活動などは禁欲的なまでの献身性と熱意が神格化されていますが、宮澤家は大地主の豪農で裕福であり、その家の長男である賢治が小作農に児童教育や農業への啓蒙活動を行っていたことは生前には大きな反発や無視、無理解を返されたのも無理からぬことだったので、歿後の宮澤賢治の神格化は詩友たちの宮澤への追悼の意から発した真摯なものだったと思われますが、東京の詩友たちは宮澤家への小作農への反感を知りませんでしたし、歿後はむしろ宮澤を郷土の偉人とすることが岩手県の利益になったのです。八木の場合は童話作家というポピュラリティーを持ち得た宮澤ほどの多数の読者は獲得できませんでしたが、八木の同世代の夭逝詩人で生前刊行の詩集、詩誌への作品発表も八木と同程度で、歿後に遺稿詩集、選詩集が何度となく刊行され、暫定的な全詩集を経て歿後50年あまりにして全集刊行にたどり着いた詩人はめったになく、八木のように詩人としての位置づけや評価を後回しにしてただ単に読み継がれてきただけ、という詩人は他に皆無と言ってもいいでしょう。真に賞賛する評も批判する評も八木重吉の詩にはほとんど皆無と言えるほどで、選詩集や全集の解説文も批評の体をなしているものは見当たらず、思い切った批判のひとつもあって良さそうなものですが、相田みつをのお習字詩に対するほどの論難すらないのです。宗教アレルギーを自称する読者は八木には近づかないから、日本人の多くを占める自称宗教アレルギーの人々にとって八木の詩がどう映るかも語る人がいない。そうした意味ではこれほど詩の読者をいらいらさせる、わずらわしい詩人はおらず、立原道造の詩ならばすでに多くの賞賛の批評とともに批判や嫌悪を表明する評もひと通りの切り口は巡回しています。今回は詩集『秋の瞳』から純粋詩(一編の詩として自律性の高い、独立した短詩)と見なせるものを集めてみましたが、これらも果たして個々の詩編ごとに単独の詩として鑑賞できるものか。100年近くを経て古びた面が少ない一方(たとえば先に引いた北川冬彦安西冬衛の短詩は明らかに古びています)、これらの詩には一定の幼稚さを装った風情があり、それが詩編ごとでは発想から表現までの射程の短さに結びついているとも見えるのです。

八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊

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●(c)純粋詩(一編の詩として自律性の高い、独立した短詩と見なせるもの)……36編


  (1)息を 殺せ

息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる


  (2)白い枝

白い 枝
ほそく 痛い 枝
わたしのこころに
白い えだ


  (4)朗(ほが)らかな 日

いづくにか
ものの
落つる ごとし
音も なく
しきりにも おつらし


  (12)鉛と ちようちよ

鉛(なまり)のなかを
ちようちよが とんでゆく


  (21)美しい 夢

やぶれたこの 窓から
ゆふぐれ 街なみいろづいた 木をみたよる
ひさしぶりに 美しい夢をみた


  (24)ひびく たましい

ことさら
かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ
たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく


  (25)空を 指(さ)す 梢(こずゑ)

そらを 指す
木は かなし
そが ほそき
こずゑの 傷いたさ


  (26)赤ん坊が わらふ

赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ


  (29)心 よ

こころよ
では いつておいで

しかし
また もどつておいでね

やつぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行つておいで


  (32)貫ぬく 光

はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかつたのです

ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福(いわわ)れながら


  (33)秋の かなしみ

わがこころ
そこの そこより
わらひたき
あきの かなしみ

あきくれば
かなしみの
みなも おかしく
かくも なやまし

みみと めと
はなと くち
いちめんに
くすぐる あきのかなしみ


  (40)ほそい がらす

ほそい
がらすが
ぴいん と
われました


  (42)彫られた 空

彫られた 空の しづけさ
無辺際の ちからづよい その木地に
ひたり! と あてられたる
さやかにも 一刀の跡


  (47)雲

くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい


  (48)在る日の こころ

ある日の こころ
山となり

ある日の こころ
空となり

ある日の こころ
わたしと なりて さぶし


  (49)幼い日

おさない日は
水が もの云ふ日

木が そだてば
そだつひびきが きこゆる日


  (57)おほぞらの 水

おほぞらを 水 ながれたり
みづのこころに うかびしは
かぢもなき 銀の 小舟(おぶね)、ああ
ながれゆく みづの さやけさ
うかびたる ふねのしづけさ


  (58)そらの はるけさ

こころ
そらの はるけさを かけりゆけば
豁然と ものありて 湧くにも 似たり
ああ こころは かきわけのぼる
しづけき くりすたらいんの 高原


  (59)霧が ふる

霧が ふる
きりが ふる
あさが しづもる
きりがふる


  (60)空が 凝視(み)てゐる

空が 凝視(み)てゐる
ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
おそろしく むねおどるかなしい 瞳
ひとみ! ひとみ!
ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
かぎりない ひとみのうなばら
ああ、その つよさ
まさびしさ さやけさ


  (61)こころ 暗き日

やまぶきの 花
つばきのはな
こころくらきけふ しきりにみたし
やまぶきのはな
つばきのはな


  (62)蒼白い きりぎし

蒼白い きりぎしをゆく
その きりぎしの あやうさは
ひとの子の あやうさに似る、
まぼろしは 暴風(はやて)めく
黄に 病みて むしばまれゆく 薫香

悩ましい 「まあぶる」の しづけさ
たひらかな そのしずけさの おもわに
あまりにもつよく うつりてなげく
悔恨の 白い おもひで

みよ、悔いを むしばむ
その 悔いのおぞましさ
聖栄のひろやかさよ
おお 人の子よ
おまへは それを はぢらうのか


  (63)夜の薔薇(そうび)

ああ
はるか
よるの
薔薇


  (68)蝕む 祈り

うちけぶる
おもひでの 瓔珞
悔いか なげきか うれひか
おお、きららしい
かなしみの すだま

ぴらる ぴらる
ゆうらめく むねの 妖玉
さなり さなり
死も なぐさまぬ
らんらんと むしばむ いのり


  (69)哀しみの 秋

わが 哀しみの 秋に似たるは
みにくき まなこ病む 四十女の
べつとりと いやにながい あご

昨夜みた夢、このじぶんに
『腹切れ』と
刀つきつけし 西郷隆盛の顔

猫の奴めが よるのまに
わが 庭すみに へどしてゆきし
白魚(しらうを)の なまぬるき 銀のひかり


  (70)静かな 焔

各(ひと)つの 木に
各(ひと)つの 影
木 は
しづかな ほのほ


  (78)あめの 日

しろい きのこ
きいろい きのこ
あめの日
しづかな日


  (81)暗光

ちさい 童女
ぬかるみばたで くびをまわす
灰色の
午后の 暗光


  (87)秋

秋が くると いふのか
なにものとも しれぬけれど
すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
わたしのこころが
それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか


  (101)沼と風

おもたい
沼ですよ
しづかな
かぜ ですよ


  (102)毛蟲を うづめる

まひる
けむし を 土にうづめる


  (105)秋の 壁

白き 
秋の 壁に
かれ枝もて
えがけば

かれ枝より
しづかなる
ひびき ながるるなり


  (111)ゆくはるの 宵

このよひは ゆくはるのよひ
かなしげな はるのめがみは
くさぶえを やさしき唇(くち)へ
しつかと おさへ うなだれてゐる


  (114)哭くな 児よ

なくな 児よ
哭くな 児よ
この ちちをみよ
なきもせぬ
わらひも せぬ わ


  (116)春

春は かるく たたずむ
さくらの みだれさく しづけさの あたりに
十四の少女の
ちさい おくれ毛の あたりに
秋よりは ひくい はなやかな そら
ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる


  (117)柳も かるく

やなぎも かるく
春も かるく
赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
青い 山車には 青い児がついて
柳もかるく
はるもかるく
けふの まつりは 花のようだ


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。回ごとの論旨のまとまりの便宜上、記述・引用の重複はご容赦ください。)
(以下次回)