●6月17日(日)
『ゴジラ』(東宝'54)*本多猪四郎監督, 97min, B/W; 昭和29年11月3日公開
○あらすじ(同上) 太平洋の北緯二十四度、東経百四十一度の地点で、次々と船舶が原因不明の沈没をした。新聞記者萩原(堺左千夫)は遭難地点に近い大戸島へヘリコプターで飛んだ。島では奇蹟的に一人だけ生残った政治(山本廉)が、海から出た巨大な怪物に火を吐きかけられて沈んだというが、誰一人信じない。只一人の老漁夫は昔からの云い伝えを信じ、近頃の不漁もその怪物が魚類を食い荒すせいだという。海中に食物がなくなれば、怪物は陸へ上って家畜や人間まで食べると伝えられている。萩原は信じなかったが、暴風雨の夜、果して怪物は島を襲って人家を破壊し、政治と母(馬野都留子)も一瞬に踏み潰された。国会は大戸島の被害と原因を確かめる調査団を派遣した。古生物学者山根博士(志村喬)を先頭に、その娘で助手の恵美子(河内桃子)、彼女の恋人サルベージ会社の尾形(宝田明)、原子物理学の田畑博士(村上冬樹)に萩原と政治の弟新吉(鈴木豊明)も加った。そして調査団は伝説の怪物が、悠々と巨大な姿を海中に没するのを見た。帰国した山根博士は二百万年前の海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程の生物ゴジラが、海底の洞窟にひそんで現代まで生存していたが、度々の水爆実験に生活環境を破壊されて移動し、而も水爆の放射能を蓄積して火を吐くのだと説明した。フリゲート艦が出動して爆雷を投下したが何の効果もなく、ゴジラは復讐するかの如く海上遥かに浮上り、東京に向って進んだ。直ちに対策本部が設けられた。山根博士の弟子芹沢(平田昭彦)は、恵美子を恋していたが戦争で傷けられて醜い顔になったのを恥じ、実験室にこもって研究を続けていた。ゴジラは東京に上陸し、品川駅を押し倒し、列車を引きちぎり、鉄橋を壊して海中へ去った。本部では海岸に五万ボルトの鉄条網をはり、都民は疎開を始めた。ゴジラは再び上陸し、鉄条網を寸断し戦車や重砲の攻撃を物ともせず、議事堂やテレビ塔を破壊し、一夜にして東京は惨澹たる街となった。芹沢の秘密の研究を知る恵美子は、それを尾形に打明けた。水中の酸素を一瞬に破壊して生物を窒息させる恐るべき発明である。現代の人間を信じない芹沢はこれが殺人武器に用いられることを恐れて資料を火に投じ、ただ一個の機械を持って自ら海中に身を没した。船上の人々は目のあたりゴジラの断末魔を見た。そして秘かな恋をすてて死んだ芹沢の為に黙祷を捧げた。
志村喬がさすがの存在感(この年は『七人の侍』の主演と同年)以外は主要キャストの俳優が下手でつらいですが、かえってエキストラの方にリアリティがあるのは本作の場合映画の意図がはっきりする効果になっています。関東大震災(1923年=大正12年)も先にありますがこの映画の東京壊滅は直接には'44年(昭和19年)の東京大空襲の再現で、製作者たちも出演者たちもそれはしっかりわかっているのが端々から伝わってくるので、ただただおろおろと大八車に家財道具を積んだり大風呂敷を背負ったり逃げ遅れたりするエキストラは生彩を放っていて、逆にドラマらしいドラマをしなければならない主要キャストは浮いて見えてきます。話の筋としては最強の化学兵器を作り上げた天才科学者役の平田昭彦の主張はもっともで要ともなっているテーマですが、女学生たちの合唱(!)のラジオ放送を聴いて、というのがそのまま敗戦末期の再現のようなあまりに神頼み的な日本人の哀れっぽさに自己犠牲精神を喚起される一種の特攻精神を感じさせて映画の辻褄は合っていても嫌な感じがしますし、志村喬の最後の台詞のように「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。またいつか他のゴジラが……」とまで平田昭彦の考えが及んでいたら最終兵器の秘密ごと自爆するような末期は選ばなかったでしょう。またオキシジェン・デストロイヤーの効果は河内桃子しか証言者がいないのに対ゴジラ作戦の最終兵器としてすんなり採用されているのも都合良すぎますが、そこら辺を描くと平田昭彦の自決に持っていけない。オキシジェン・デストロイヤーの秘密を開示せよという話になってしまうのでそういう都合の悪いところはすっ飛ばした脚本になっています。しかし本作は観直すたびにこんなにテンポ良かったっけと感心する渋滞のない筋運びで、記憶の中ではのろいテンポの映画に変化するのですが実際観直すとあれよあれよという間に事件が展開します。15分目に嵐の夜中にゴジラが島の民家襲撃、22分目に山越しに上半身登場、というのも今回メモを採りながら観てそんなに早かったんだと驚いたくらいで、時間を意識せず観ているとゴジラの出現までが不穏な雰囲気で重々しく進むので映画の中盤になってようやく姿を現したような印象を残します。もっと精密に観ればこの映画の時間の進み方はどこか不均衡なところがあり、ゴジラの東京上陸から結末に退治されるまで(しかしあれでは東京湾中が死の海で、オキシジェン・デストロイヤーの波及範囲や半減・収束期がまったく説明されていないのも映画ならではの都合良さですが)いったい何日間の出来事なのかよくわからない。何しろ放射能汚染まで撒き散らす怪獣ですから避難が間に合わなかったり動けない負傷者たちはほぼ二次汚染で絶望的で、食糧・医療品含め輸送網ごと遮断されていると思われる状況ですから長く見ても1週間、またアメリカと皇居については言及を避けているのも昭和29年の制約で、昭和59年版ゴジラでは本州を北上するゴジラが北方領土に侵攻する前にソ連邦がゴジラをミサイル攻撃する情報が入り、アメリカにソ連からのミサイルの対空ミサイルを依頼するとんでもない展開でした。東宝はもともと軍部とのパイプが太かった映画社でしたから、ゴジラ映画も後には自衛隊の協力を仰ぐ製作になったので、'54年版『ゴジラ』を反戦反核(これはプロデューサー、監督とも表明していました)・反米映画として見る見方も批評家の間ではある一方、同じ東宝の『七人の侍』は自衛隊擁護映画ではないかという批判が公開当時からあったようです。もし反戦反核映画なら『ゴジラ』は徹底していないのは暗喩的にしか先進諸国(ただし日本だけは禁じられている)の核開発競争批判を暗示できなかったからでもあり、暗示にとどめていたからこそシンプルに恐怖映画の次元での怪獣映画が仕上がったとも言えて、今ではこういう話も政治・軍事的シュミレーション抜きにはリアリティを持って描けなくなっている、と製作者や観客も当たり前のように考えるようになっている。そういう世知辛さ抜きに空襲の恐怖、という当時の日本人の共通体験で成り立った強みがオリジナル『ゴジラ』にはあって、こればかりは本作1回限りのアイディアだったのもうなずけます。また表現上の制約の中でも、日本人の体験したこの悲惨さだけは描きたかったという製作者側の強い意図が込められているのが観客にも伝わってくる点は突っ込みどころだらけの内容を補ってあまりあり、何より「ゴジラ」という怪獣を創造したのが着ぐるみ怪獣の手法の導入とともに『キング・コング』'33以来のショッキングなモンスター映画になっていて、続くシリーズ作品と決定的に切れています。それだけで十分なのは皆さんご存知の通りでしょう。
●6月18日(月)
『ゴジラの逆襲』(東宝'55)*小田基義(1909-1973)監督, 82min, B/W; 昭和30年4月24日公開
○あらすじ(同上) A漁業の飛行艇の操縦士月岡(小泉博)は、故障で岩戸島附近に不時着した同僚小林(千秋実)の救援に向った。軽傷の小林を励ましていると突然ゴジラが現れて、二人に襲い掛ろうとした時、さらに巨大な怪獣が現われ両者は格闘しつゝ海中に没した。報告を受けた大阪警視総監は動物学者山根(志村喬)・田所(清水将夫)両博士、防衛庁幹部と緊急会議を開いた。田所は怪獣は水爆実験で眼覚めたアンギラス、学名アンキロサウルスと推定した。アンギラスは約一億五千年前の巨竜で脳髄が数ヵ所に分散し、敏捷で兇暴な獣である。防衛隊は行動を開始したが、ゴジラは四国南岸に向い大阪は一応危機を脱した。月岡が恋人の社長令嬢秀美(若山セツ子)と踊りに行った時、ゴジラの大阪湾接近が報じられた。月岡等が照明弾を投下しゴジラを沖へ誘き出す事に成功しかけたが、脱走した囚人の起した大爆発の為にゴジラは再び大阪へ向った。その時沖からアンギラスが現われ再び格闘を始め、ついに勝ったゴジラの吹く白熱光は附近を焼き払った。本社と工場を失ったA漁業は社長(笠間雪雄)以下全員北海道支社へ移った。ゴジラの為に沈没した会社の船の捜索隊は孤島神子島にゴジラを発見した。投下する爆弾にも動じないゴジラに小林は体当りを試みたが、白熱光に機を焼かれ氷の山肌に激突しその為に起った雪崩はゴジラの進路を阻んだ。ヒントを得た月岡等の飛行機隊は山脈にロケット弾を投下し、ゴジラは大きな咆哮を残してその大雪崩の底に埋った。
その昔に観てほとんど憶えていなかったことでは昭和ゴジラで一番印象稀薄だった作品だけに観直す期待値も高いか低いかわからないで観直した本作。いやー、メモを採りながら観直したのは今回が初めてでしたが、シリーズ中でももっとも地味(B/W、スタンダード・サイズだし)と言われるこの『ゴジラの逆襲』、本多監督は別作品のスケジュールの都合で手がけられなかったのが残念とも本多監督が撮っても変わらなかったのではないかと思われるくらい、まず脚本からして駄目、というか第1作『ゴジラ』の好評で第2作をと同じ原作者の香山滋に依頼し、香山滋書き下ろし原作のゴジラは『ゴジラ』と本作の2作きりということで、東宝がキング・コングの版権を取得したことから製作された7年後の第3作『キング・コング対ゴジラ』'62(タイトルがキング・コングの方が先)の特大ヒットから自社の怪獣映画路線のヒット作『モスラ』'61と対決の対決路線が定着した第4作『モスラ対ゴジラ』'64(やはりモスラの方が先)からは毎年のようにゴジラ映画が製作されていくのですが、そういう意味では純粋な『ゴジラ』の続編は本作だけになるので、志村喬も「やはり二匹目のゴジラが出てきたか」というような台詞を言うためだけに出てきます。また芹沢博士みたいな天才科学者が出てくる設定・展開ではないために(続編にまで新たな対ゴジラ用最終兵器の開発者を出すと不自然、としたのかもしれませんが)本作の二代目ゴジラは生死不明の結末を迎えます。「やっつけたぞ」あのくらいで死ぬゴジラじゃなかろうに、と観客も突っ込んだと思いますが、『ゴジラ』では東京湾の海中で白骨化したゴジラに「罪もない動物をなぜ殺すのか」(あれだけ害をなせば当然だと思いますが)と観客からの同情の反響もあったそうなので、あえて生死不明の退治法を考案したならあれはあれですが、ゴジラがアンギラスを噛み殺すのがまだ中盤、これもそれなりに趣向で、アンギラスは四肢歩行ですし飛び道具的な攻撃法もない恐竜ですから、ゴジラの喉を狙って噛みつくのが唯一の戦法なので、ゴジラもアンギラスの空いた喉笛を狙う、そういう地味な戦いをするので長編映画を引っ張るにはきつい組み合わせだったと言えます。監督の小田基義は東宝の前身、戦前のPCL撮影所時代からの監督で他に観たことのある映画はトニー谷主演の『家庭の事情』シリーズ4作('54年)、『透明人間』'54くらいですがほとんど記憶がないもののそこそこ面白かった覚えがあるものの、本作は原作もいまいちならば脚本もまずく、演出ときたらスッカスカではないでしょうか。本多猪四郎もうまい監督という感じはしませんが『ゴジラ』では共同脚本で(いろいろ突っ込み所はあれど、画面は)きちっと仕上げていたのに較べ、本作の緊迫感のなさ・密度の薄さはこんなのでよく封切ったなと大らかさすら感じるほどで、千秋実の殉死のあっけなさといい(そもそもなぜ漁業会社の民間機がゴジラ追跡を率先しているか、自社の船舶の行方不明が発端としても無理な設定ですが)、ゴジラを埋めるための氷山粉砕が一向功を奏さないのに次のカットではすでに首まで氷塊に埋まっている(ズボッと足元が抜けたようにも見えない)など、試写段階で再撮影は間に合わないにしてもせめて再編集命令は出なかったのか。出なかったようです。ゴジラがアンギラスを倒した後で主人公の会社の宴会が15分間続くのがこの映画に必要だったのか。明らかに不要です。『ゴジラ』の観客動員数961万人、興行収入1億6,000万円に対して本作は観客動員数834万人、興行収入1億7,000万円というデータが残っていますが、何かこれ、蛇足を越えてもうゴジラの続編作らないぞという東宝から観客へのメッセージだったのではないかとすら思えてくるのです。