人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源・番外編 / 西脇順三郎詩集『近代の寓話』より「アン・ヴァロニカ」

(創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集13』昭和30年1月刊より、西脇順三郎肖像写真)

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詩集『近代の寓話』昭和28年(1953年)10月30日・創元社刊(外箱・表紙・裏表紙)

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  ア ン ・ ヴ ァ ロ ニ カ  西脇順三郎

男と一緒に――
その男は生物学の教授――
アルプスへかけおちする前
の一週、女は故郷の家にひそかな
離別の気持を味うので来ていた。
昔の通りの庭でその秘密をかくして
恋心に唇をとがらしていた。
鬼百合の花をしやぶつてみた。
「壁のところで子供の時

地蜂
おやじ
の怒りにもかゝわらず
梅の実をぬすんでたべたこともあつたわ。」
この女にその村であつた。
村の宿屋でスグリ酒と蟹をたべながら
紅玉のようなランポスの光の中で
髪を細い指でかきあげながら話をした
「肉体も草花もあたしには同じだわ」

 (「GALA」昭和28年2月発表)


 戦後の新作詩48編・戦前の拾遺詩4編を収めた西脇順三郎(1894-1982)57歳の第3詩集(第1詩集『Ambarvalia』'33の改作詩集『あむばるわりあ』'47を含めれば第4詩集)より、詩集巻頭から3番目に置かれた名作。第2詩集『旅人かへらず』'47は敗戦直後の疎開先の郷里で構想され168編の断章からなる長編詩だったので、実質的にはこの『近代の寓話』が戦後の詩集としては本格的な出発点となります。第1詩集の刊行後に戦局の悪化から西脇順三郎は戦後まで詩作を止めてしまっていたので、『近代の寓話』は新作詩集としては実に20年ぶりの作品集で、戦後の西脇の作風を確立した詩集になりました。自身も詩人出身だった作家・批評家で英文学者としても西脇の後輩に当たる伊藤整は戦後に、戦前のモダニズム詩からの詩人の戦後の旺盛な詩作を概括して、北川冬彦北園克衛らと並べて「西脇氏が一番人生的である。ディフォルメーションが激しいのでそう見えないだけである」と評しましたが、この「アン・ヴァロニカ」もそうで、9行目~14行目は女の傍白になり、15行目で突然「この女にその村であつた。」と詩の語り手が登場しますが、この詩自体がイギリス作家H・G・ウェルズ(1866-1946)の恋愛小説『Ann Veronica』(1909年刊)を下敷きにしており、冒頭3行「男と一緒に――/その男は生物学の教授――/アルプスへかけおちする前」はその小説の第15章の概要です。「壁のところで子供の時/~/梅の実をぬすんでたべたこともあつたわ。」は第15章1節から「In spite of God and wasps and her father she had stolen plums.」を引用し一人称話体に訳したもの、そして終行「肉体も草花もあたしには同じだわ」は第14章4節の「Fresh and flowers are all alike to me.」を引用したものです。
 つまりこの詩はほとんど半世紀前の、半ば忘れられたイギリスのベストセラー小説を素材にした、フィクションから作り出したフィクションの詩なのですが、文体も手法も人を食ったこの詩は原作小説とは関係なく寂れて痛切な感情を読者に抱かせるので、それは日本語訳では文庫版なら上下巻数百ページに及ぶ、20世紀初頭のイギリスの女性の自立と自由恋愛を描いた社会問題小説のウェルズ作品では森の中の木の葉の一葉のような部分でしょう。ウェルズの『Ann Veronica』を読んだ誰もがこんな詩を書けるわけはなく、その小説から西脇順三郎が自分の詩に生かせる極小部分だけを切り取って作り出したのがこの「アン・ヴァロニカ」です。これほど見事な本歌取りをされたのであれば、この詩の2年前に逝去したウェルズも以て瞑すべしと言えそうで、おそらく大学生時代からの読書が30年以上を経て結実したのがこの詩に年季を感じさせる風格を与えています。その点でもこの詩は、見事だからと言ってそうそう安易な真似はできないものと言えます。