人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年9月7日・8日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(4)

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 パブリック・ドメイン作品を集めたコスミック出版の廉価版10枚組DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション』は『ジャン・ギャバンの世界』の既刊3集も、おそらくフランス本国ですらここまで集めたものはないと思われる、ジャン・ギャバンの主演・出演作品を'53年までの作品のほとんどを網羅しているすごいものでしたが、ジャン・ギャバン集の既刊3集と重複のない続刊の『巴里の屋根の下』『天井桟敷の人々』『舞踏会の手帖』もギャバン主演作以外のフランス映画('30年~'53年の、トーキー以降のパブリック・ドメイン作品)を集めた唖然とするような徳用廉価版DVDボックスで、今回の2作品はどちらも『舞踏会の手帖』の巻に収録されていますが、この巻も収録順に『ゲームの規則』'39(ジャン・ルノワール)、『アタラント号』'34(ジャン・ヴィゴ)、『毒薬』'51(サッシャ・ギトリ)、『自由を我等に』'31(ルネ・クレール)、『ぼくの伯父さんの休暇』'53(ジャック・タチ)、『舞踏会の手帖』'37(ジュリアン・デュヴィヴィエ)、『悪魔が夜来る』'42(マルセル・カルネ)、『パルムの僧院』'48(クリスチャン=ジャック)、『ミモザ館』'35(ジャック・フェデー)、『双頭の鷲』'48(ジャン・コクトー)と、この10本が良好なマスターによる良い画質と丁寧な翻訳で観やすい日本語字幕で税込でも2,000円を切る税抜価格1,800円とは、かつてこれらの作品を1本1本上映の機会を探して観て回るしかなかった時代からはにわかに信じられない気がします。
 多少なりともご存知の方はこれが有名無名・入手容易困難取り混ぜたセレクションなのはお分かりいただけると思いますが、この巻では廃盤DVDでは高値(一時は中古盤相場が万単位になりました)をつけている『アタラント号』『ぼくの伯父さんの休暇』もあれば、日本未公開作品(特殊上映会でのみ輸入版民生用プリントにより上映)であるばかりか日本初DVDで、世界的にも昨年2017年にアメリカの古典映画復刻レーベル「Critirion Collection」からブルーレイ発売されたばかりのサッシャ・ギトリ監督作品『毒薬』が目玉作品であり、この作品がこの巻に収録されたのは『アタラント号』の準主演俳優ミシェル・シモンの主演作というつながりがあります。その他の著名作も定評あるフランス映画の古典ばかりで、各巻の収録作中2、3作は他社からは廉価版が出ていない稀少作品、日本初DVD化、世界初DVD化作品まで含まれていますからこれほどコストパフォーマンスの高い廉価版DVDボックスはないでしょう。今回の『アタラント号』は本国での初公開では検閲でズタズタにされ改題されて監督の病没寸前に不完全版が公開され、その後に戦後の暫定的復原版によって映画史ベストテン級の名作の再評価が高まり、完全版復原公開は60年近くを経た'91年になったフランス映画史きっての「呪われた作品」として伝説的な作品で夭逝監督ヴィゴの遺した唯一の長編映画であり、逆にジャック・フェデーの『ミモザ館』は'30年代のフランス映画の時流を決定づけた作品として公開即古典的名作とされたフランス映画史の里程標的な歴史的作品です。この2作が数か月の差で公開され、当時『アタラント号』がまったく評価されなかったのに対し『ミモザ館』が当時のフランス映画を代表する作品になり、後世にはまったく評価が逆転しているのも興味深い現象で、これはどちらも観た上でないと確かめられないことです。なお、今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月7日(金)
アタラント号』L'Atalante (Argui-Films=Gaumont Film Company, 1934)*87min, B/W : 1934年9月12日フランス公開(同年4月25日プレヴュー上映)
監督:ジャン・ヴィゴ(1905-1934)、主演:ミシェル・シモン、ディタ・パルロ、ジャン・ダステ
アタラント号の若い船長ジャンは田舎娘のジュリエットと結婚し、船で一緒に働いていた。彼女は狭い船内に息がつまり、気晴らしを望んだが、ジャンは許さない。知り合った行商人からパリの華やかさを聞いた彼女は……。

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 日本公開平成3年(1991年)11月15日、これは'90年に改竄前の『アタラント号』のプリントに極力復原されたレストア版で、翌'91年に世界公開されました。日本初公式公開されたのはこの時ですが、2001年と2004年にはさらにアメリカ、イギリスで復原版を精査した改訂版が映像ソフト化されています。配給会社ゴーモンによって約65分に短縮、『船は河を行く』と改題された'34年の改竄ヴァージョンがようやく『アタラント号』として一応の復原版が作られたのは'40年で、戦後ににわかに評価が高まり、ヴィゴが『アタラント号』に先んじて作った寄宿舎の小学生の反抗映画でフランスでは戦後まで上映禁止指定を受けていた45分の中編『新学期・操行ゼロ』'33とともに'47年にはアメリカ公開もされ、戦後~'50年代フランスでは本格的にヴィゴの再評価が行われ、イギリスの映画誌「Sight & Sound」誌が10年ごとに行う映画史ベストテン投票では'62年に10位、1992年に6位、2002年に17位、2012年に12位にランクされています。日本では'40年の復原版にさらに'50年代に改訂が加えられて英語字幕がついた民生用16mmプリントが民間の映画クラブの上映会の定番人気作品になっており、筆者も学生時代に10回以上各所で上映されるたびに足を運んだので、六本木シネ・ヴィヴァンで初の公式公開がされた1991年11月15日にレストア版復原版を観た時には画質の鮮明さ、音質の良好さ、日本語訳字幕で観られる平易さには感激しましたが、見慣れた民生用プリント版と違うショットやカットのつなぎがあるたびにかえって違和感を感じて戸惑いました。転倒した話ですが、10回以上も画質はまちまち、音も割れているような民生用旧版プリントを語学教室の、またはパイプ椅子を並べただけの臨設会場で10人程度しか集まらない上映会で観てきていると、ジャン・ヴィゴの映画(実験的ドキュメンタリー短編1編、ニュース映画短編1編、『新学期・操行ゼロ』『アタラント号』の4作、総計2時間40分しかありません)は戦前フランスの自主製作映画という印象で観てきたので、商業映画としての日本公開は何だか秘密にしておきたい宝物が陽の下に晒されたような気もしました。商業映画とはつまり他の商業映画と商品としての価値を較べられるということで、映画人による映画人のための専門誌「Sight & Sound」誌上の評価の変遷とは性質が違います。旧版プリントと現行版のレストア版の相違も、画質自体が劇的に改善されたので同一カットでも異なって見える箇所もあったでしょうが、冒頭の結婚式で新郎新婦が腕を組んで船に向かうシークエンスで現行版にはある草むらの中を抜けるカットが旧版プリントではなかったのは確かで、『戦艦ポチョムキン』'25の旧版プリントにはあった艦上から反乱で海に落とされた上官が海藻の漂う海中でもがくカットが新版プリントでは削除されていたのと並んで強く記憶に残っています。名優ミシェル・シモン(1895-1975)はルノワールのサイレント末期の『のらくら兵』'28からトーキー初期の『坊やに下剤を』'31、『牝犬』'31に出演し、ルノワールのシモン主演作の最高傑作『素晴らしき放浪者』'32はシモン自身のプロダクションの製作によるものでした。これらルノワールの初期作品は以前かえって観ることが難しかったので、筆者が最初に観たシモンの名演はこの『アタラント号』で、ヒロインのドイツ映画女優ディタ・パルロがルノワールの高名な『大いなる幻影』'37の、軍人しか出てこない同作後半で唯一の女性キャストで捕虜収容所脱走兵のジャン・ギャバンをかくまう雪山の一軒家の未亡人役だったと気づいたのは、『アタラント号』を観てからディタ・パルロは他にどんな映画に出ているのか調べてからで、つまり最初に『アタラント号』を観た時はそれまで数回観ていたはずの『大いなる幻影』の女優が花嫁役のヒロインだとは気づかなかったのです。熱中していた頃から醒めてみるとヴィゴはまだこれから将来があった人で、その前に監督デビュー作だけで亡くなってしまった不遇の映画作家と距離を置いて見られて、ヴィゴは系譜としては9歳年上の巨匠ルノワール、3歳年上の鬼才ジャン・グレミヨンに連なる存在で、ヴィゴより1歳年下でルノワールの助監督を10年勤めた後に監督デビューしたジャック・ベッケルの諸作はヴィゴが夭逝せずに映画を作り続けることができたらこうした円熟を迎えたのではないかと思えるような作風でした。しかし短編2作と中編1作、長編1作だけでジャン・ヴィゴの映画は小宇宙をなしており、特に劇映画の2作の中編『新学期・操行ゼロ』と長編『アタラント号』は感激生々しいうちは他のどんな映画とも隔絶した印象を与える映画で、ひどいプリントでしか観ることができなかった時代でも映画史上の奇跡のような作品として語り継がれてきたのです。またヴィゴの劇映画2作はヴィゴ生前は検閲による上映禁止や短縮改竄の憂き目に遭ったので、ルノワールやグレミヨン、ベッケルにヴィゴの遺志が受け継がれているとしてもヴィゴ自身がその後どんな映画を作ることができたかは予測できないような特異な境遇のまま亡くなったこともあり、それがなおのことヴィゴの遺した映画の神秘性を高めています。『新学期・操行ゼロ』は'76年8月にジャン=ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』'50の併映作として先に日本公開されていましたが、『アタラント号』の日本公開が遅れたのはなかなか本国での復原が実現しなかったからで、平成になってからの日本公開ですからキネマ旬報の新作公開映画紹介でも紹介文はあっさりしたもので、戦前の「近着外国映画紹介」のような熱弁口調の語り口ではなくなっています。データとしての映画紹介文としてはこのくらいが適度のものでしょう。
[ 解説 ] オリジナル・ヴァージョンが散逸し長らく幻の傑作として名のみが高かった、ジャン・ヴィゴ監督の残した唯一の長篇。89年に発見されたネガによる最も原形に近い復元版の初公開。製作はジャック・ルイ・ヌネーズ、ジャン・ギネによる原脚本にヴィゴとアルベール・リエラがアレンジ、ダイアローグを加え、撮影はボリス・カウフマン、音楽をモーリス・ジョーベールが担当。出演はミシェル・シモン、ディタ・パルロほか。
[ あらすじ ] ル・アーヴルと田舎町を結ぶ艀船、アタラント号。今しも若い船長のジャン(ジャン・ダステ)が村の娘ジュリエット(ディタ・パウロ)と共に乗り込んできた。これから新婚旅行でパリに向かおうというのだ。艀には他に変わり者の老水夫ジュール親爺(ミシェル・シモン)と少年水夫(ルイ・ルフェーヴル)、そしてジュールの飼う何匹かの猫。幸福そうな若い二人の姿にジュール親爺は少しあてられた様。やがてアタラント号はパリに着くが、妻が街の不健全な空気に染まることを気にもむジャンは、しぶるジュリエットをなだめてそそくさと出航命令を下す。しかし隣町のダンスホールで知り合った行商人(ジル・マルガリティス)にパリの華やかさを吹き込まれたジュリエットはいてもたってもいられなくなって深夜夫の眼を盗んで艀を脱け出す。かんかんになったジャンはジュリエットを置き去りにして艀を出してしまう。艀に戻れず途方に暮れたジュリエットは更にバッグまで盗まれてしまう。一方、ジャンも一時は怒りに駆られたものの、さていなくなってみると考えるのはジュリエットのことばかり。そんなジャンの姿を見て、町にジュリエットを探しに出たジュール親爺はレコード屋で彼女を見つけ、無事艀に連れ戻す。こうして元のさやに戻った二人を乗せて、アタラント号は何事もなかったように川を進んでゆくのだった。
 ――ドイツ映画界から来てヴィゴの全作品で組んだロシア系カメラマンのボリス・カウフマンはソヴィエトの映画監督ジガ・ヴェルトフの弟で後にハリウッドに渡り『波止場』'54や『12人の怒れる男』'57のカメラマンになり、音楽のモーリス・ジョーベールはのちにフランソワ・トリュフォーが贔屓にするヴェテラン名映画音楽家になります。カウフマンの撮影とジョーベールの音楽も本作を名作にした要因になり、ヴィゴ初(かつ唯一)のメジャー映画会社作品の本作は低予算しか与えられなかったため撮影途中で予算が尽きてヴィゴ自身が金策をして完成したそうで、肺結核の悪化を抱えていたヴィゴにとって本作のロケは寿命を削る製作になりました。『新学期・操行ゼロ』に続いて主演したジャン・ダステが河に飛びこむ水中撮影のシークエンスは短編ニュース映画「水泳選手ジャン・タリス」'31の経験を生かしたもので、最初のサイレントのドキュメンタリー短編「ニースについて」'30も『新学期・操行ゼロ』や本作のサイレント的演出やロケーション撮影に生かされていますからヴィゴの短編2作・中編と長編各1作はたった2時間40分で小宇宙の観があるのですが、ヴィゴについての伝記研究書を読むとヴィゴには亡くなった時点で後に推理小説作家になるクロード・アヴリーヌ(翻訳された代表作に『U路線の定期乗客』があります)と15本近いシナリオを温めていたそうで、また本作は新妻のディタ・パルロがこっそり船を出てパリ見物中に夫の貨物船船長のダステが船を出航させてしまい、パルロは船が出てしまったので途方に暮れ、意地を張ったダステは髪はボサボサで無精髭の心神喪失状態になり、思いあまったミシェル・シモンがパリに探しに出てレコード店の試聴室から流れてくる新婚夫婦の愛聴曲でパルロを見つけて連れ戻るのですが、あらすじのとおりこのあたりの時間経過が実際の映画では意図的にぼかされています。シナリオ段階では財布をスリにあったパルロは仕事を見つけようとするも就職先はなく(このシークエンスは映画にあります)、安宿住まいをし(これが夫のダステとクロスカットされるシークエンスもあります)、その頃にはパルロは街娼に身を落としているのですが、映画ではパルロが中年のポン引きっぽい男に声をかけられて逃げ出すサイレントの短いシーンがあるだけではっきり街娼に身を落としたのを示すシーンはありません。これはシナリオ段階での検閲結果削られたそうで、映画ではパルロの家出期間は数日とも数週間とも2、3か月とも取れるようになっていますが、これは怪我の功名とも言えるもので、家出というより置き去りにされた新妻が街娼までに身を落とすのではやり過ぎになり、最後の感動的な新婚夫婦の再会もやるせない、割り切れない後味が残ってしまう。これはリアリズムの次元ではなくて何を描きたいのかの問題で、この夫婦の純粋な愛情を描くのに、たとえその間新妻が街娼以外には選択肢がないような境遇にあったとしてもそれを描く必要はないので、現行版の描写に落ちついたのはこの映画の場合正解です。『新学期・操行ゼロ』でも踏み台に乗って高い棚から宝物の箱を取った少女が目隠しをして待っていた少年の目隠しを取って宝箱を見せる、という美しい場面がありましたが、これも後年明らかになったのは少女のスカートの中を少年が覗こうとするので目隠しをして、というシークエンス前半が猥褻だと検閲でカットされ破棄された結果だそうで(それでも小学生たちの反乱を描いた同作はアナーキスム的として上映禁止になりましたが)、前半がカットされたおかげで目隠しして待っていた少年に宝箱を見せる、という純粋に美しい場面になったわけです。ルノワールの系譜の映画はルノワール自身の映画が最たるものですが、直感的なひらめきと作者自身の本来の構想と偶然の見分けのつかないような自然な流露感にあり、『アタラント号』でもなぜ構図が傾いているのかカットの長短がまちまちなのかアップなのかロングなのか視線が交わっているのかいないのかコンテの流れやシナリオの構成、シークエンス配分が行き当たりばったりではないかと実はずいぶん不思議な映画なのですが、ルノワールの『素晴らしき放浪者』や撮影部分欠落のまま完成させてしまったという『十字路の夜』'32などはもっとでたらめです。『アタラント号』はその偶然か計算かわからないような場面まで最高に決まっています。ヴィゴがもし幸いにも健康と映画製作の機会に恵まれたとしても、『アタラント号』に続く作品が予想がつかないのはそういうヴィゴの映画の性格によります。

●9月8日(土)
ミモザ館』Pension Mimosas (Tobis Distribution, 1935)*105min, B/W : 1935年1月18日フランス公開
監督:ジャック・フェデー(1885-1948)、主演:フランソワーズ・ロゼー、ポール・ベルナール
・南仏で安宿ミモザ館を夫と営む女ルイズ。彼女は身寄りのないピエールを育てていたが、ある日実父が現れ引き取ってしまう。成長したピエールは、自堕落な生活を送っていたが最後に頼るのは育ての母ルイズだった……。

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 日本公開昭和11年(1936年)1月29日でオーストリア映画『恋は終りぬ』'35(監督フリッツ・シュルツ)との2本立て、『恋は終りぬ』はウィーンで人気を博していた日本人ソプラノ歌手、田中路子(1909-1988)の主演映画で、田中路子は英仏にも活動の場を広げて'39年に国際結婚しマイルン田中路子となった話題の人で、この2本立ても『恋は終りぬ』の方が目玉作品でした。フェデーの前作『外人部隊』'33は前年昭和10年5月公開で批評家から絶賛され、興行的にも成功し、キネマ旬報外国映画ベストテン第2位を獲得しますが、エキゾチックな外人部隊ドラマで宣伝しやすかった前作に対して『ミモザ館』はいかにも地味な田舎の旅館一家の家庭悲劇だったので、配給会社が興行面で危うんで田中路子主演のオーストリア映画を看板作品にした経緯もあり、『ミモザ館』は昭和11年キネマ旬報ベストテン第1位の高評価を得ましたがこの2本立ては興行的には奮わなかったそうです。翌昭和12年3月日本公開のフェデーの次作『女だけの都』'36は再度キネマ旬報ベストテン第1位になり、また山中貞雄(1909-1938)の出兵前の最後の監督作品で、山中の戦死によって遺作となった『人情紙風船』(P.C.L.映画製作所・昭和12年='37年8月25日公開、キネマ旬報ベストテン日本映画第7位)は当時のスタッフやキャスト、批評家の証言から『ミモザ館』(またゴーリキーの安宿群像劇『どん底』)を下敷きにしていると語られていますし、ラスト・ショットの風に舞う紙幣(『ミモザ館』)と風に舞う紙風船(『人情紙風船』)もフェデー作品から山中作品がヒントを得たものとされますが、映画全体の印象はまったく違うもので、不良青年に育ってしまった養子の息子への母親の執着を描いた報われない愛の悲劇の『ミモザ館』と、貧乏長屋に住む誠実で実直な浪人武士が就職活動に失敗した挙げ句に貧乏長屋の騒動に巻きこまれ、思いつめた妻からの無理心中で命を落とす『人情紙風船』では人物配置も悲劇性も力点が異なるので、『ミモザ館』の情感とドラマの密度は舌を巻くしかないほどの仕上がりですが、もっと貧乏長屋の住人たちの群像劇と問題劇的な臭みを感じさせず江戸時代の不公平な社会構造への広い視野を不遇な主人公夫婦の悲劇に落としこんだ『人情紙風船』の方が映画として広がりがある。ラスト・ショットにしても『ミモザ館』の紙幣は意図的にカジノのルーレットを連想させるように円周を描いて風に廻るのですが、『人情紙風船』の紙風船が風に吹かれて舞っていくのはそんな暗喩はありません。今回『フランス映画パーフェクトコレクション』収録作品を年代順に観直して、ルネ・クレールの3作、デュヴィヴィエの『にんじん』、ルノワールの『素晴らしき放浪者』の次に『外人部隊』を観ていきなり映画が重くなった印象を受けましたが、そこまでのクレール作品、デュヴィヴィエとルノワールの作品はまだサイレント映画的な簡潔さがうまくサウンド・トーキー化した映画とかみ合っていて、テンポの良さが映画の良さになっていたのを実感しました。『外人部隊』はテンポをぐっと落とした作りが'33年のフランス映画では画期的だったので、フェデーはサイレント時代からサイレント映画としては長い映画を作っていましたが確か2時間40分あった『カルメン』'26や2時間の『グリビシュ』'26、2時間20分の『成金紳士たち』'28でもサイレント作品ならではの切れの良いテンポ感がありました。しかし1時間50分の『外人部隊』はそれらのサイレント作品より長く感じるもので、思い切った省略話法は映画のあちこちにあるものの各場面はじれったくじれったく描かれています。『外人部隊』が完全にサイレント映画とは切れた、トーキー作品ならではの映画と感じさせるのはそのくどい重苦しさにあり、確かにこれはクレールやルノワールには思いつかなかった手法でしょう。『ミモザ館』も公開当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介に紹介文があり、これもまた紹介文筆者の入れ込みようが伝わってくるような熱っぽい紹介文なので、ご紹介しておきます。
[ 解説 ]「外人部隊(1933)」に次ぐジャック・フェーデの監督作品で、シナリオと台詞も前作と同じくフェーデがシャルル・スパークと協力して書いたものである。主役は「外人部隊」「母性の秘密」のフランソワーズ・ロゼーで、舞台から来たポール・ベルナール、同じくアレルム、それからコメディー・フランセーズ座のリーズ・ドラマールがそれを助けて重要な役を勤めるほか舞台から来たジャン・マックス、ポール・アザイス、アルレッティ、「乙女の湖」のイラ・メエリー、「最後の億万長者」のレイモン・コルディ、子役のベルナール・オプタル、等も出演している。撮影はロジェ・ユベール、装置はラザール・メールソンの担任である。
[ あらすじ ] 一九二四年。南フランスの海岸に近いある町にミモザという下宿があった。主人は血の気は多いが好人物のガストン(アンドレ・アレルム)という人物で、カジノの賭博室の取締をして居り、下宿の一切はしっかり者の妻のルイズ(フランソワーズ・ロゼー)が切り廻していた。だが、この夫婦の間には子がなくその淋しさから、獄に曳かれた男の子供ピエール(ベルナール・オプタル)を引き取って育てていた。ピエールは周囲の環境からルーレットの魅力を身体じゅうに感じて生長した。これがルイズには心配だった。そして或日、ピエールの父が子供を連れ戻しに来た時には、この夫婦は最愛の我が子を奪われる様に嘆いた。それから年は経って一九三四年。ミモザは今は立派なホテルとなっている。そしてパリにいるピエール(ポール・ベルナール)からは、ここへしばしば金の無心の手紙が舞い込んで来る。その内にピエールが病気だと聞き心配の余りルイズはパリまで出かけて行くと、ピエールは与太者の集まりの様なホテルで、賭事に溺れて暮らしていた。しかも或る賭博場の持ち主ロマニ(ジャン・マックス)の情婦ネリー(リーズ・ドラマール)と恋し合い、ロマニの手下から殴られた。ルイズは彼の身を案じミモザに帰れと勧めた。ネリーがロマニの怒りを柔らげるため彼と共にロンドンに行ったので、ここでピエールも始めてミモザに帰ることとなった。帰ると彼はニースの自動車会社に勤め、そこでよく働き出した。そしてルイズにもガストンにも楽しい日が暫く続いたのだが、その或日、ロンドンのネリーからピエールに一緒になりたいから旅費を送れと云って来た。ルイズがその金を調達を断ると、恋に目くらんだピエールは母の金を盗もうとまでした。始めは情けなさに憤ったルイズだが、彼の恋心の強さを知ってはルイズは金を与えた。そしてネリーはミモザ館に来た。だが、最初の対面からルイズとネリーは互いに敵意を感じた。ルイズはネリーこそピエールを己れから奪い、彼の身をこわす女だと見た。ネリーは、ルイズがピエールを恋しているのだと見た。だが、実際にこの頃のルイズのピエールに対する態度には母親としての気持ちだけでは理解し難いものがあるのだ。それからのルイズは、ピエールをかばい、彼を己れのために守るため凡ゆる心と手段を働かせた。その一方、浪費の生活に馴れたネリーは他に金持ちの知り合いを作って家を外に遊び歩いた。ピエールの懊悩が濃くなり、遂にネリーと共にミモザから別居する考えを抱いた時、ルイズはパリからロマニを呼んで、ネリーを此処から連れ去らせた。ネリーに去られたピエールは絶望と自棄に陥った。それは彼は主人の大金を使い込んでもいた。このピエールを救うためルイズは始めてカジノに足を踏み入れた。そして奇跡的にも大勝した。だが、紙幣の束を胸に抱いて彼女が家に戻った時、ピエールは毒薬を呑んで自殺していた。しかも、最後までネリーの名を呼び続けながら。その傍らで泣くルイズ。そして折から吹き入った強風に紙幣は室一面に渦をなして舞った。
 ――という具合で、フェデーはハリウッドからフランス映画界に復帰後にかつてのフランス時代の助監督、マルセル・カルネを再び助監督に迎えて、フェデーとシャルル・スパークとの共同脚本で『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』の3作を作り、次作『鎧なき騎士』'37(キネマ旬報ベストテン昭和13年度第7位)はイギリスに招かれて監督しますから、'30年代フランス映画の「詩的リアリズム」派の5大大家(フェデー、クレール、デュヴィヴィエ、ルノワール、カルネ)と言ってもフェデーはこの3作だけですし、クレールは興行的大失敗作『最後の億万長者』'34を最後にやはり渡英しますから'30年代クレールのフランス作品は5作だけ、最年少のカルネの監督デビューは'36年の『ジェニイの家』(キネマ旬報ベストテン昭和13年度第3位)で'30年代作品は『陽は昇る』'39までの5作ですから'30年代全般に渡ってフランス映画界で活動したのは5大家中ルノワールとデュヴィヴィエだけで(助監督時代も入れればカルネも含まれますが)、フェデーに限ればこの3作、そのうちアリストパネスに原典を求められる時代物の喜劇『女だけの都』は軽やかな作風に戻っているので『外人部隊』と『ミモザ館』だけでフェデーはペシミズム悲劇の「詩的リアリズム」映画の代表者とされているのですが、2作だけとはいえこれがルノワールはともかく後輩のデュヴィヴィエに与えた影響は甚大で、かつクレール作品で革新的なセット美術を実現したラザール・メールソン、このあとルノワールとデュヴィヴィエに2作ずつ脚本を提供することになるシャルル・スパーク、さらに愛弟子で「詩的リアリズム」の純粋培養映画の監督になったと言えるマルセル・カルネが助監督とキー・パーソンが揃ったのがフェデーを「詩的リアリズム」の代表監督と見なす評価の根拠にあったと思われます。ルノワールはリアリズムの監督ですがペシミスティックでも何でもなくむしろユマニスムの監督ですし、クレールなどは詩的ではあってもペシミズムやリアリズムの監督でないばかりか人情喜劇の映画監督でラザール・メールソンからさかのぼって詩的リアリズムにされてしまったと言ってよく、デュヴィヴィエは企画があればキリスト処刑の歴史映画『ゴルゴダの丘』'35も撮ればチェコスロバキアとの合作で『巨人ゴーレム』'36も撮りアメリカの依頼でワルツ王シュトラウス父子の伝記映画『グレート・ワルツ』'38も撮るしスウェーデンサイレント映画の古典のリメイク『幻の馬車』'39も撮る、という具合で、『白き処女地』'34から『旅路の果て』'39にいたるデュヴィヴィエの「詩的リアリズム」路線は'30年代の時流に乗ったものですがその役割を果たしたのもデュヴィヴィエなればこそと言えます。ただしデュヴィヴィエの『白き処女地』以降の名作群は手練れの職人芸らしい快調なテンポで『外人部隊』や『ミモザ館』の重苦しさを免れている一方、フェデー作品より粗っぽいのも良し悪しで、デュヴィヴィエの映画はその粗っぽさが古びた感じを招いているのに対して、『ミモザ館』は暗さ・重さと濃密な情感で『外人部隊』以上もの達成を示しているので古い映画とは思ってもつけいる隙のない完成度を誇っています。『外人部隊』では重要な助演だったフランソワーズ・ロゼーが本作では主演女優なのが映画の成功の鍵になっており、『外人部隊』ではシャルル・ヴァネル、本作と次作『女だけの都』ではアンドレ・アレルムがロゼーの亭主役ですが、ロゼーは他ならぬフェデー夫人なだけにロゼーの亭主役にキャスティングされた俳優はばっちり決まっており、養子の不良息子役のポール・ベルナールは戦後ならダニエル・ジェランあたりが起用されるような役ですが、この不良息子が惚れるパリのギャングの情婦ネリー役(リーズ・ドラマール)ともども不良息子とその恋人はちんぴらなので、年齢相応の甘ったれた軽薄さがあれば勤まる役でしょう。ひと言で言ってこの映画は親馬鹿悲劇で、テーマとしてはこれほどシンプルで普遍的なものはないのでそこに絞ったのも本作を抜き差しならない仕上がりの映画にしていますが、他人の家庭の不幸ほどありふれた他人事はないので、ましてや馬鹿息子と馬鹿親の話ですから映画の仕上がりの見事さに反して意外なほど共感を誘わない面があります。映画の深刻さと悲劇性にもかかわらずここに描かれているのは新聞の三面記事と井戸端会議で済まされてしまうような家庭の不幸なので、そうした意味では『ミモザ館』は技術だけが見所のような映画です。これがリアリズム映画と言えるかも問題があるのも、リアリズムが現実に対する新たな見方を教えてくれる手法であるなら、結局この映画が観客に発見させてくれるものは何もないとも言えるので、『人情紙風船』が本作から着想された昨年ながら豊かな内容に富んだ映画になったのとは対照をなしており、これは優劣で語るよりそれぞれの映画の性格でしょう。『人情紙風船』を「カメラと演出が緊密にからみ合って、一分の隙もない完璧な画づくりに成功している点に最も心をうたれた」と絶賛し、『ミモザ館』を「最も悪しきフランス映画の伝統」と酷評したのはフランソワ・トリュフォーでしたが、昭和11年の日本の映画人には『ミモザ館』こそ「一分の隙もない完璧な画づくり」に見えたに違いないのです。