人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源・番外編 / 山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』より「A' FUTUR」

[ 山村暮鳥(1884-1924)、大正2~4年頃(1913~1915年)、第1詩集『三人の處女』(大正2年)~第2詩集『聖三稜玻璃』成立時。]

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『聖三稜玻璃』初版=にんぎよ詩社・大正4年
(1915年)12月10日発行、函・表紙

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  A' F U T U R      山 村 暮 鳥

まつてゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒の「だんす」、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讚美をかい探る。

わたしをまつてゐるのは、誰。
黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫へてゐる。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやはらかな髮を梳る。誰だ、わたしを呼び還すのは。わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびてゐる。青に朱をふくめた夢で言葉を飾るなら、まづ、醉つてる北極星を叩きおとせ。愛と沈默とをびおろんの絃のごとく貫く光。のぞみ。煙。生(いのち)。そして一切。

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましひ)。汝(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。靈魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしやれ)な獸の哲理を知れ。翼ある聲。眞實の放逸。再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。

靡爛せる淫慾の本質に湧く智慧。溺れて、自らの胡弓をわすれよ。わたしの祕密は蕊の中から宇宙を抱いてよろめき伸びあがる、かんばしく。

わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちや)を愛す。猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。朦朧なる水晶のよろこび。天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。

いたづらな蠱惑が理性の前で額づいた……

何といふ痛める風景だ。何時(いつ)うまれた。どこから來た。粘土の音(ね)と金屬の色とのいづれのかなしき樣式にでも舟の如く泛ぶわたしの神聖な泥溝(どぶ)のなかなる火の祈祷。盲目の翫賞家。自己禮拜。わたしの「ぴあの」は裂け、時雨はとほり過ぎてしまつたけれど執着の果實はまだまだ青い。

はるかに燃ゆる直覺。欺むかれて沈む鐘。棺が行く。殺された自我がはじめて自我をうむのだ。棺が行く。音もなく行く。水すましの意識がまはる。

黎明のにほひがする。落葉だ。落葉。惱むいちねん。咽びまつはる欲望に、かつて、祕めた緑の印象をやきすてるのだ。人形も考へろ。掌の平安もおよぎ出せ。かくれたる暗がりに泌み滲み、いのちの凧のうなりがする。歡樂は刹那。蛇は無限。しろがねの弦を斷ち、幸福の矢を折挫いてしくしく「きゆぴと」が現代的に泣いてゐる。それはさて、わたしは憂愁のはてなき逕をたどり急がう。

おづおづとその瞳(め)をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乘せた騾馬――――記憶。世界を失ふことだ。それが高貴で淫卑な「さろめ」が接吻の場(シイン)となる。そぷらので。すべて「そぷらの」で。殘忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、歸らぬ鳩は眩ゆきおもひをのみ殘し。

おお、欠伸(あくび)するのは「せらぴむ」か。黎明が頬に觸れる。わたしのろくでもない計畫の意匠、その周圍をさ迷ふ美のざんげ。微睡の信仰個條(クリイド)。むかしに離れた黒い蛆蟲。鼻から口から眼から臍から這込む「きりすと」。藝術の假面。そこで黄金色(きんいろ)に偶像が塗りかへられる。

まつてゐるのは誰。そしてわたしを呼びかへすのは。眼瞼(まぶた)のほとりを匍ふ幽靈のもの言はぬ狂亂。鉤をめぐる人魚の唄。色彩のとどめを刺すべく古風な顫律(リヅム)はふかい所にめざめてゐる。靈と肉との表裏ある淡紅色(ときいろ)の窓のがらすにあるかなきかの疵を發見(みつ)けた。(重い頭腦(あたま)の上の水甕をいたはらねばならない)

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繋がれてゐる。そして懶(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。

(以下雑誌発表形末尾連、詩集『聖三稜玻璃』決定稿では削除)

おお、日本。私は汝(そなた)のために薔薇の戴冠式を踵の下で祝するぞ。汝は童話の胸に凭れた騾馬か。
わたしを待つのは汝ではない。それは見えぬ彼女だ。彼女と相見るところの現實の中心、おお、爪立てる黎明のゆびさき。大空を楯としてわたしと夢のながい凝視、それが、又、無始無終の刹那を創り、孤獨の無智への飛躍をする。

わたしの騾馬はうしろの丘の十字架に繋がれている。そして懶くこの日長を所在なさに糧も惜しまず鳴いてゐる。

 (大正3年=1914年5月「風景」、
かなづかい・正字表記は詩集に従いました。)


 山村暮鳥の第2詩集『聖三稜玻璃』中で唯一の散文詩にして最長の作品。この詩集は以前取り上げましたし、少し前に八木重吉の詩集をご紹介した際にも言及しました。八木重吉が明治大正詩人の中で学生時代もっとも傾倒していたのが北村透谷であり、第1詩集『秋の瞳』(大正14年8月刊)編纂中に刊行すぐに購入していたのが大正13年12月に逝去した山村暮鳥の遺稿詩集『雲』(大正14年1月刊)で、大正13年1月のノートには山村暮鳥の既刊詩集・エッセイ集全冊を購入予定の詩書の筆頭に上げており、入手し得る限り読んでいたと推定されることにも触れました。北村透谷と山村暮鳥キリスト教伝道者を本職としていた詩人であり、やはり透谷と同時代の明治詩人・宮崎湖處子とともにキリスト教伝道者で英文学者でありながら詩人を兼ね、晩年には(湖處子の場合はもっと早く)教会本部から解職されており、八木重吉は熱烈な無教会派クリスチャンでイギリスのロマン派詩を愛読した英語教師の詩人でしたから、湖處子には言及・証言がないものの透谷と暮鳥に対する関心は詩と信仰の両面からのものであったと思われ、また具体的に暮鳥の『雲』の作風は八木重吉の『秋の瞳』の作風と近似しています。しかし八木は暮鳥が『雲』の作風に移る前から『秋の瞳』に収録される詩編を書き始めており、八木は当時(現在でも)の詩人には珍しく第1詩集刊行以前は詩の投稿も同人誌参加も詩人との交流もまったくなかったので、八木から先輩詩人の暮鳥への影響もあり得ず、結果的に暮鳥晩年の詩集『雲』の作風が、偶然にまだ世に出ない詩を書いていた八木の作風と近似していた、ということになります。
 ただし暮鳥はその変化が批判の原因にもなったほど劇的な作風の変化があった詩人で、日本の現代詩最初の口語詩運動から詩人として出発し、後期象徴詩的な第1詩集『三人の處女』'13(大正2年刊)に続く第2詩集『聖三稜玻璃』'15(大正4年刊)ではまだヨーロッパでダダイスムシュルレアリスムも起こっていなければ当時同人誌仲間だった萩原朔太郎室生犀星も第1詩集を出していない時期にダダ/シュルレアリスムを予告するような詩集を書いており、同詩集は室生犀星による山羊革表紙の豪華天金装丁による自費出版でしたが同人誌仲間の萩原、出版した室生も評価を留保する前代未聞の実験的詩集で、折り悪く暮鳥が英訳から翻訳出版した『ドストエフスキー書簡集』と『ドストエフスキー評伝』の翻訳書やボードレールの英訳からの重訳が誤訳だらけだったのと合わせて『聖三稜玻璃』は悪評の集中を浴びてしまいます。その後に暮鳥は意識的に作風を変えメッセージ性の強い人道主義的な平易な雄弁体の長詩の詩人となり、その時期の代表的な詩集が『風は草木にささやいた』'18(大正7年刊)で、続く詩集『梢の巣にて』'21(大正10年刊)、選詩集『穀粒』'22(大正11年刊)も『風は草木にささやいた』を継ぐものでした。
 山村暮鳥が晩年になぜ初期の口語象徴詩や『聖三稜玻璃』期の作風、『風は草木にささやいた』期の作風から淡々とした平易な短詩の詩集『雲』に作風を変えたか、第1詩集から逝去する10年足らずの間にこれだけ変遷のあった詩人ですし、晩年1年間は結核の病状悪化で休職・解職されほとんど病床にあった人ですから短詩や作風の恬淡化は健康状態に伴う変化だったかもしれません。しかし「A' FUTUR」(フランス語でfuturは香水、a'は献辞)のような詩は暮鳥の作品歴でも詩集『第三稜玻璃』の時期(『雲』と同時に暮鳥が編纂を済ませていた拾遺詩集『黒鳥集』には『第三稜玻璃』期の拾遺詩集の部があり、また大正6年刊のエッセイ集『小さな穀倉より』'17は『聖三稜玻璃』期のエッセイを集めて散文版『聖三稜玻璃』の趣向を持つものです)しかないだけに、このとびきりの突然変異的散文詩はいったい何なのだろうと読むたび驚嘆します。また雑誌発表形の末尾の「おお、日本~」の1連を詩集収録に当たって割愛したのは適切な添削と思います。なおこの詩集の山羊革表紙は当然性的な含みもあるでしょう。