人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年9月29日・30日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(15)

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 延々年代順に観てきた『フランス映画パーフェクトコレクション』の3集分に収められた10×3=30作もようやく今回の2作が最終回で、『フランス映画パーフェクトコレクション』は9月発売の『情婦マノン』、10月末発売予定の『嘆きのテレーズ』とまだ続きますが、4月にまとめて観た先行発売の『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』既刊3集(重複作品なし)と合わせて4月と9月だけで'30年~'53年のフランス映画の著名作品を60本も観て感想文を書いたことになります(ギャバン主演作にはアメリカ映画2本を含みますが)。たかだか24年間のうちのこの数ですから牛尾の一毛とはいえ、なかなか集中してフランス映画ばかり観直す機会などないですし、廉価版(税抜1,800円)の10枚組DVDボックスセット『フランス映画パーフェクトコレクション』は作品選択の妙、稀少作品の収録、廉価版としては十分良好な画質、こなれた字幕翻訳と読みやすい字幕スーパー(無字幕選択、チャプター割りも有り)で映画好きの方にはお勧めできるセットです。ここでは3セット分から年代順に並べ直して観てきましたが、最後の2本は偶然ながら締めくくりにふさわしい愛らしい2本立てになりました。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。
●続刊・2018年9月発売 [ フランス映画パーフェクトコレクション~情婦マノン] 1.『肉体の冠』'52、2.『悪魔の美しさ』'50、3.『北ホテル』'38、4.『旅路の果て』'39、5.『ピクニック』'36、6.『女だけの都』'35、7.『情婦マノン』'49、8.『罪の天使たち』'43、9.『美女と野獣』'46、10.『うたかたの恋』'36
●続刊・2018年10月発売 [ フランス映画パーフェクトコレクション~嘆きのテレーズ] 1.『恐怖の報酬』'53、2.『幸福の設計』'47、3.『とらんぷ譚』'36、4.『巴里祭』'33、5.『夜ごとの美女』'52、6.『田舎司祭の日記』'51、7.『牝犬』'31、8.『嘆きのテレーズ』'53、9.『新学期・操行ゼロ』'33、10.『恐るべき子供たち』'50

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●9月29日(土)
『ぼくの伯父さんの休暇』Les Vacances de Monsieur Hulot (Cady films, 1953)*87min, B/W : 1953年2月25日フランス公開
監督:ジャック・タチ(1907-1982)、主演:ジャック・タチ、ナタリー・パスコー
・バカンスに向かう人々。その中にポンコツ車を操るユロ氏もいた。リゾートホテルを舞台に、他の宿泊客に迷惑をかけるユロ氏の立ち居振る舞いが、絶妙な笑いを生み出している。ユロ氏を演じるのは監督のジャック・タチ

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 日本公開昭和38年(1963年)8月3日、次作『ぼくの伯父さん』'58の方が先に日本公開されたため(昭和33年=1958年12月23日公開)、ヴェネツィア国際映画祭脚本賞、フランス映画大賞、アカデミー賞外国語映画賞受賞作の同名でもジャック・タチはユロ伯父さんを演じていたのにあやかって原題『ユロ氏のヴァカンス』が『ぼくの伯父さん』の続編のような邦題になりましたが、製作・公開は本作の方が先でタチがユロ氏を演じた第1作になり、本作ではまだ「伯父さん」設定はありません。パントマイム役者でコメディアンのタチは映画出演作ではタチ自身の脚本でルネ・クレマンの監督デビュー作になった短編映画「左側に気をつけろ」'36が最初の主演作になり、クロード・オータン=ララ『乙女の星』'45、『肉体の悪魔』'47出演のあと短編映画「郵便配達の学校」'47を初監督(脚本・主演)し、『のんき大将・脱線の巻』'49(日本公開昭和24年='49年12月31日)で初長編を監督・脚本・主演します。同作は「郵便配達の学校」長編版というべき郵便配達コメディで、ヴェネツィア国際映画祭監督賞、フランス映画大賞を受賞する高い評価を受けました。タチの映画監督としての評価をさらに知らしめたのが長編第2作品である本作で、カンヌ国際映画祭国際批評家賞、ルイ・デリュック賞を受賞し、フランソワ・トリフォーの戦後フランス映画批判の評論「フランス映画のある種の傾向」('51年1月「カイエ・デュ・シネマ」)では脚本家オーランシュ&ボストを筆頭にオーランシュ&ボスト脚本から話題作を送っていた戦後監督ジャン・ドラノワ、クロード・オータン=ララ、イヴ・アレグレ、ルネ・クレマンらが批判される一方、真の映画作家と賞揚されているのはジャン・ルノワールロベール・ブレッソンジャン・コクトーアベル・ガンスジャック・ベッケルマックス・オフュルスジャック・タチ、ロジェ・レーナルトの8監督で、レーナルト(1903-1985)は映画批評家出身で『最後の休暇』'47のあと短編諸作と長編第2作『最後のランデヴー』'62だけの寡作家ですが「カイエ・デュ・シネマ」誌の親分格つまり映画批評家時代のトリフォーの師匠格だった人なのもあって名前を上げている観もありますが、5年後には自身も映画監督になるトリフォーが上げた上記の監督たちがその頃にはヌーヴェル・ヴァーグの生みの親と認知されるようになったので、ジャック・タチは本当にまだ数少ない作品を出したばかりの頃から国際的評価も得れば新鋭映画批評家にもサイレント時代からの大家ガンスやルノワールに並ぶ存在と目されていた、ということです。しかし本作は日本公開は5年後の次作をまたいだ10年後の公開になっているあたり、本国公開から半年ほどで同年早くも日本公開になった長編第1作『のんき大将・脱線の巻』が興行不振だったか、不振とはいかなくとも同作の興行成績から見込める配給収入に見合うよりも配給権料が高かったかをうかがわせるので、タチのような独立プロ製作で5年に1作ペースの場合後者の場合も考えられます。10年後にはその間『ぼくの伯父さん』のヒットもあれば旧作ですから配給権料も下げられていたとも考えられるので、タチ作品はその後『プレイタイム』'67、『トラフィック(ぼくの伯父さんの交通大戦争)』'71、スウェーデンのテレビ局から依頼されたテレビ用映画『パラード』'74を作りますが、最大のヒット実績と人気を誇る作品は『ぼくの伯父さん』で、最高傑作は『ぼくの伯父さんの休暇』という評価におおむね落ち着いています。『ぼくの伯父さん』は昔はよく地上波のテレビ放映もされていましたし名画座上映もされていて、テレビで観てもスクリーンで観てもしっくりくる、カラー映像や音楽も見事でこれも夏の(夏休みの)映画というイメージが強いのですが、観ていると湿度が下がって体感温度が下がり、観終えて心地良くシャワーを浴びたような気がする清涼感あふれる好作でした。タチの映画はどれもプロットやストーリーはあってないようなもので、エピソードの順を組み替えても同じような、設定だけあってタチ演じる主人公がパントマイム演技でとぼけた行状をくり広げているうちに映画が終わるので、そのあたりがどういう具合なのかは日本公開時のキネマ旬報近着外国映画紹介を引用してみます。
[ 解説 ]「のんき大将 脱線の巻」「ぼくの伯父さん」のジャック・タチ自作・監督・自演する風刺コメディ。脚本にはアンリ・マルケが協力。撮影はジャン・ムーセルとジャック・メルカントン、音楽はアラン・ロマン。出演はタチのほかナタリー・パスコーなど。製作はフレッド・オラン。カンヌ国際批評家大賞、ルイ・デリュック賞受賞。
[ あらすじ ] バカンスを楽しむため続々と海へ向う人々の中に"ぼくの伯父さん"すなわちユロー氏(ジャック・タチ)のポンコツ自動車もまじっている。カタツムリみたいにのんびりと動くこの車が、とある海辺の宿に着いたときに、もう殆どの人は宿を決めてくつろいでいる。たえず二人そろって散歩に出る中年の夫婦、退役軍人、子供連れの母親、カード好きの老人、ロイド眼鏡の株式仲買人――この人たちとともにユロー氏の休暇は始まるのである。宿の給仕に始終、ぶつぶつ何やらいっている、食堂のドアは開閉するたびに必ずポンと音がする。たえず散歩する夫婦は、いつも同じ歩調、肥大な妻が前を行き、小男の夫がステッキをもって後に従う。何となく、のんびりした風景である。ユロー氏は、夜中に大きな音でジャズのレコードをかけたり、えらい音を立ててポンコツ車を乗りまわしたり、花火小屋に間違って火をつけたり、滞在客の安眠をさまたげること度々だが次第にみんなと親しくなった。乗馬やダンスで金髪美人のマルチーヌ(ナタリー・パスコー)とも仲好くなった。珍妙なプレイのテニスで、アメリカのオールド・ミスとも懇意になった。が、気心が知れてくるころ、もう休暇のシーズンは終りになる。人々は、来たときと同じように荷物をまとめて次ぎ次ぎに引き上げてゆく。そして、一番あとまで残ったユロー氏も、ポンコツ車にてこずりながら、あいかわらず、ひょうひょうと、帰って行くのである。
 ――タチの映画はこういう具合で、タチが自分の原点に上げるアメリカのサイレント喜劇ともまったく違ったものです。マック・セネットのキーストン社が創始してチャップリンを生み、ロイドやキートン、ローレル&ハーディらが受け継いだアメリカのサイレント喜劇は主人公が積極的に活動的で、明確な目的に向かって進み、アクションが豊富で、目的の成否が映画の興味となるものでした。アカデミー賞最優秀短編賞受賞作「ミュージック・ボックス」'30のローレル&ハーディはピアノ運送屋に扮してピアノも金持ちの屋敷も破壊することに成功します。タチの映画ではタチ演じる主人公は長編映画1本を通して何か目的に向かって進むということはなく、たとえばキートンの映画であればぐうたらな有閑御曹司が本作のように避暑地に行けば必ず恋に落ち、そこであれこれ誤解があってキートンが危険な目に遭わなければ恋人のハートを射止められなくなる状況が生じ、キートンは一発奮起してぐうたら御曹司を返上する大活躍の末に恋を達成するのですが、そろそろ中年という頃に主演映画の実現したタチはサイレント喜劇人のように監督・脚本・主演を兼ねながら設定だけあってプロットもストーリーもない映画を作ったので、本作は避暑地のホテルに人々がヴァカンスにやってくるのに始まり、そこにタチ演じるユロ氏もいて、ほぼ1週間の毎日の出来事が描かれ(律儀に夜と朝の映像が区切りになります)、ヴァカンスの終わりにユロ氏を含めて人々が去っていくまでがこの映画で、何か継続的な事件があるわけでもなければ劇的な人間関係の変化もない。台詞もほとんどないので、淡々としたムードの中でタチのとぼけたパントマイム演技を楽しむ映画です。タチの映画がサイレント喜劇に似て異なるのはチャップリンやロイド、キートンにしても見事なパントマイム演技は音声のなかった映画で雄弁の表れだったので、ちゃんと字幕には台詞が出てきて劇中では雄弁なくらいにしゃべっているのが暗示されている。チャップリンやロイド、キートンサウンド映画になったらサイレント時代のイメージを守るために無口な役柄を演じるようになったので、パントマイム役者出身だから役柄も無口とはいえ1907年生まれでサイレント映画の実績があるわけではないタチがしゃべらないのは本来不自然なのです。タチが過大評価されるのも過小評価されるのも映画の世界があまりに自然を装った人工的空間なので、映画が観客に未知の世界をのぞかせ現実を見る目を変えてしまう力を映画の内容というなら、タチの映画ほど個人的で内容のない映画はないでしょう。『ぼくの伯父さん』には多少現代工業社会への風刺的要素があり、主人公の妹夫婦のブルジョワ家庭と主人公になつく甥の少年との交流といったホームドラマ要素があってタチの映画ではとっかかりがある映画でした。しかし観れば観るほど良くなってくるのは見事に内容がないヴァカンス映画『ぼくの伯父さんの休暇』の方で、普通映画に求められるものに一切顧慮していない、クローズ・アップや切り返しショット、意図的なモンタージュすら排した、エドウィン・S・ポーターの『消防士の活躍』'01や「大列車強盗」'03から50年間の20世紀映画の発展史をまるで問題にしていないとんでもない映画です。この映画を観てから、つまらないと思うにせよ面白いと思うにせよ、ご覧になった方の第二の映画人生が始まると言ってもいいので、ぜひお手元に置いて二度三度ご覧になる機会をお持ちになるのをお勧めします。

●9月30日(日)
たそがれの女心』Madame de... (Franco-London-Films Indusfilms, Paris=Rizzoli Films, Rome, 1953)*93min, B/W : 1953年9月16日フランス公開・11月12日イタリア公開
監督:マックス・オフュルス(1902-1957)、主演:ダニエル・ダリューシャルル・ボワイエヴィットリオ・デ・シーカ
・夫に内緒の借金を返済するため、夫から結婚祝いにプレゼントされたダイヤの耳飾りを売ってしまう伯爵夫人。耳飾りは色々な人の手に渡るものの、最終的に夫人のもとに戻ってきてしまい……。

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 日本公開昭和29年(1954年)12月19日、イタリア・フランス合作で、ヴィットリオ・デ・シーカがヒロインをめぐる二人の男のひとりとしてシャルル・ボワイエと同格の主役を張っています。ヨーロッパの監督は俳優出身者が多く古くはスウェーデンのシェーストレムが代表作『霊魂の不滅』'21でも主演を兼ねていましたし、ドイツ出身監督ウィリアム・ディターレや本作の監督オフュルスもサイレント時代の俳優出身でしたが監督昇進後は俳優は辞めているのに対して、イタリアの監督は戦後監督でも俳優を兼ねるのが目立ち、ピエトロ・ジェルミ監督・主演の『刑事』'59などが思い浮かびますが、デ・シーカは自分の監督作品には出演しない代わりに本作やロッセリーニ監督作『ロベレ将軍』'59で堂々主役を勤めており、これが渋い中年の色男なので『靴みがき』'46や『自転車泥棒』'48の監督はこういう人だったのかと目を見張ります。本作は男女カップルで観るのがぴったりのロマンス映画で、登場人物のキャラクターや突き放したような結末を含めて観る人ごとに異なる解釈が生まれてくる映画なので、これは作者がもったいぶってあいまいに描いているのでもなければ人物たちを高みから見下ろしているのでもなく、むしろ性格描写は非常に深みがあって精緻に複雑なキャラクター造型を説得力をもって成し遂げているので、非の打ち所のないほど丁寧で行き届いた、大人の人間観察が生きた映画です。こういうのは真剣な恋愛とその破綻を2、3回くぐってきた人生経験を経た観客か、将来のその可能性を真剣に考えたことのある恋人たちでないと理解できないので、結婚に失敗したくない同居生活や婚約中のカップルにはこれほどためになる映画はないでしょう。そういう実の詰まった話を先の読めないスリリングなメロドラマで観せてくれるのですから、貴族階級の上流社会の話という優雅なオブラートはこの場合観客の大半を占めるプロレタリアートの男女には必要な距離感で、これを庶民の物語にしたらもっと生臭いか、さもなければ身近な分だけ嘘くさくなってしまいます。映画批評家佐藤忠男氏(昭和5年生まれ)は人生を学んだ映画として立錐の余地ない映画館で仕事帰りに観たヒューストンの『黄金』'48(日本公開昭和24年)を上げていて、戦後間もない日本の光景が浮かんでくるような話ですがオフュルスの本作は昭和29年日本公開、日本映画は『二十四の瞳』『七人の侍』『ゴジラ』の年で占領解放後2年、海外旅行も自由化された年で、ロマンス映画でも『ローマの休日』から人生を学んだのは当時の皇太子とその夫人になる方くらいですが、『たそがれの女心』はこういう風に生きるとひどい目にあうぞと抜群に面白いメロドラマで人生を学べるすっきりした好作です。サッシャ・ギトリの『毒』でミシェル・シモンに一杯食わされる敏腕弁護士を演じたジャン・ドビュクールもここではちゃっかりした宝石商役で出ていたんですね。公開当時のキネマ旬報近着外国映画紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「忘れじの面影」のマックス・オフュルスが一九五三年に監督したコステューム情緒ドラマで、「巴里の気まぐれ娘」のルイズ・ド・ヴィルモランの小説から「呪われた抱擁」のマルセル・アシャールマックス・オフュルス、アネット・ワドマン(「レストラパアド街」)の三人が脚色した。台詞はアシャアル。「ボルジア家の毒薬」のクリスチャン・マトラが撮影を担当、音楽は「アンリエットの巴里祭」のジョルジュ・ヴァン・パリス。「凱旋門」のシャルル・ボワイエ、「愛すべき御婦人たち」のダニエル・ダリュー、「懐かしの日々」のヴィットリオ・デ・シーカ、ジャン・ドビュクールらが出演する。
[ あらすじ ] 過ぎし雅かな時代、パリに一人の貴婦人がいた。名はマダム・ド……(ダニエル・ダリュー)。彼女は内緒の借金に困って将軍である夫ムッシュウ・ド……(シャルル・ボワイエ)との結婚記念のダイヤの耳飾りをひそかに売り、夫にはオペラ見物の際落したといい立てた。新聞が「劇場で盗難」と書きたてたので、買い取った宝石商(ジャン・ドビュクール)はあわてて将軍に真相を告げた。将軍は耳飾りを買取り、折しも国外へ旅立つ情婦ローラ(リア・ディ・レオ)に餞別として与えたが、耳飾りはコンスタンチノープルで賭博に負けた彼女の手を離れ、次にパリに赴任する大使ドナティ男爵(ヴィットリオ・デ・シーカ)が買取った。男爵はパリでマダム・ド……と恋に落ちその耳飾りを贈った。二人の仲を知った将軍は、耳飾りを外交官に返して事情を話し、宝石商に売らせ、改めて自分が買戻した。将軍は、これを男爵との恋に破れて半病人の様な生活を送っている夫人に与えたものの、すぐ貧しい姪エリザベスに贈るよう命じた。しかし夫人は、姪が耳飾りをすぐ売払ったことを聞くと財産のすべてを売払って買戻した。将軍は言葉の端にも男爵を思いつめている彼女の気持をどうすることもできなかった。クラブで将軍と男爵は軍隊と外交について激論し、将軍は遂に決闘を宣言した。将軍は名だたる射撃の名人であったが男爵の心は既に決っていた。決闘は挑戦者から射つしきたりであった。病をおして決闘場へかけつけるマダム・ド……の耳を、一発目の銃声がつんざいたが、二発目は聞えず、彼女は苦しそうに崩折れた。――教会の祭壇に読みとれる「寄進マダム・ド……」の文字、これが運命の耳飾りの行きついた所であった。
 ――本作の原題は『Madame de...』ですが、邦題はムード重視でつけているように、フランス以外では『マダム・ド…のイヤリング』としている改題が多いようです。夫が愛人を持つのは問題にならないが妻が浮気しているのがおおやけになるのは問題になる、というのはこの場合歴史的・文化的状況に由来するので映画自体は男女どちらとも不倫を糾弾する描き方はしていません。キネマ旬報のあらすじには抜けていますが、夫の将軍が男爵に決闘を申し込む前に(これは夫が男爵を挑発して軍事批判を引き出すのですが)、男爵は再三のヒロインの耳飾りについての嘘にヒロインに愛想をつかして別れを告げているのですが、ヒロインはそれでも未練たらたらなので夫は妻と男爵の別れ話に気づいているようにも気づいていないままのようにも見える。どちらにしても将軍にとっては気にくわないに違いないからこその決闘沙汰なのですが、キネマ旬報あらすじの通り観客には決闘はどう決着がついたか銃声1発と、教会に寄贈展示されたイヤリングでしかしめされません。カップルで観て面白い映画なのは観たあとあれこれ話題にできる、そういうリドル・ストーリー的結末に映画全体の見方も示されてくるので、カップルならばベストでしょうし女友達同士で観てもわいわい論じあえる映画でしょう。女性ならば同性同士でも恋愛思考(いわゆる恋愛脳)で会話ができるのでいいのですが、男同士や男グループで観るのはあまりお勧めできません。虚しくなるからです。また本作のボワイエ、デ・シーカは堂々とした存在感ですがダニエル・ダリューが実に頼りなく、将軍夫人がよく勤まるなというだけでなくデ・シーカに愛想をつかされる場面ではまともな男ならそうだろう、いい気味だとまで見えてくるくらいで、ヒロインを馬鹿にした描き方がされているのではなくごく自然に優しく率直でもあれば繊細で優雅でもあるのにどこか中途半端なのでその場しのぎの嘘をつくのも平気で甘えたところもある、そういう普通の人間として描いているので、実はこのヒロインは映画のヒロインとしては物語を支えるだけの性格に欠いているのに気づきます。真の主人公はヒロインを媒介にイヤリングをめぐる男二人の闘いであり、その力関係が肝であって、ヒロインが執着すればするほどイヤリングをめぐる闘いは激化する。決闘の決着は将軍が男爵を撃っても男爵が自殺しても将軍が空に向けて撃っても男爵が将軍を撃っても撃ち損じてもどうなっても同じなので、ヒロインは同時に二人の男からの愛を失った結果が教会に寄贈されたイヤリングと見るのが妥当でしょうしちゃんとそういう解釈にたどり着くようになっている映画です。前々作『輪舞』'50、前作『快楽』'52はともに破格の映画でしたが、一見小品メロドラマの本作も小品の見せかけゆえに大胆な工夫が凝らしてあり、フランス映画であるより先にオフュルスならではの映画という気がします。