人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年11月13日~15日/サイレント時代のドイツ映画(5)

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 この映画日記はあらかじめ毎日1本1か月分の用意してあった映像ソフト(またはサイト上の視聴リンク)で映画の視聴プログラムを組んで、なるべく初見ではなく学生時代までに観た2,000本くらいとその後観た数百本、映像ソフトで初めてというものも購入してすぐ一度観てあったものから観直す具合に組んでいるので、これまでで言えばチャップリン、ロイド、キートンなどを取り上げた時やヒッチコックハワード・ホークス、『フランス映画パーフェクトコレクション』、アメリカ古典ホラー映画特集などは非常にすんなりと楽しんで感想文を書けました。馴染み深さはやはりのんびり鑑賞できる条件で、エリック・ロメールの『獅子座』や「六つの教訓話」などの初期作品なども楽しく観直せた作品です。映画日記感想文には取り上げずともグリフィス、シュトロハイムはよく観直しますが、これも何度観ても飽きが来ず引きこまれます。サイレント映画はまだ映画自体が発明発見の連続時代なのでウィリアム・S・ハートの西部劇『開拓者(Wagon Tracks)』'18を観れば'30年代以降の西部劇とまるで違う西部の景物と人々に驚くし、アンナ・メイ・ウォンの異人種間メロドラマ『恋の睡蓮(The Toll of the Sea)』'22を観れば1922年の2色分解式テクニカラー映画で観ることができるほぼ100年前の海のロケーション撮影されたサンフランシスコ湾の岩礁に砕ける波と水平線に魅入って永遠を感じたりするのが普段の映画の楽しみです。『アルプス颪(Blind Husbands)』'19で誘惑されて脅迫された若妻の悪夢の中で迫ってくるシュトロハイムの顔、と大好きなサイレント映画の場面はまだまだいくつもありますが、トーキー時代の喜劇では文句なしに最高で大好きだったはずのマルクス兄弟の映画などは最近観直したらあまり良い感じを受けなかった(ハーポだけはそれでも最高でしたが)ので、感想文には失望感を露わさないように必要以上に気を配りながら書いた例もあります。
 あらかじめまとまった単位で日程を組んでおいて観る(途中で微調整したりもしますが)のは、どんな映画も孤立して突然生まれたのでもなければ何らかのかたちで他の映画と結びつくのを避けられませんし、1本の映画の持つポテンシャルにはそれをもたらしめた背景があり、背景とはこの場合類縁性のある作品群です。フイヤード、ガンス、レルビエ、デリュック、エプスタン、フェデーにルノワールの初期作品で8割方語れるフランスのサイレント時代の映画や、有力な監督・俳優が無数に存在するので監督・俳優別、またはいくつかの流派に分けて観ていくのが手頃な膨大なアメリカ映画群の前だと、サイレント時代のドイツ映画は小粒な異色作が点在しているようで取り留めのない印象も受けます。従来'20年代前半の「表現主義映画」を主流であるかのように語られてきたのも実際に表現主義映画と言えるものはごく少数の注目された作品だけで、ドイツ映画全体は表現主義映画を意識しつつ反面教師的に表現領域を拡大しようとしていたと見た方が正鵠を得ていて、表現主義映画は一つの指標に過ぎないとも言えます。今回は表現主義映画から派生した怪奇映画の最高峰『吸血鬼ノスフェラトゥ』、表現主義映画の究極的実験作『朝から夜中まで』、ベルトルト・ブレヒト自身の唯一の映画作品で「'20年代の最重要ドイツ映画」とされる荒唐無稽な中編ナンセンス・コメディ「床屋の怪事件」の3作ですが、独立プロダクション製作の『朝から夜中まで』「床屋の怪事件」が後者は国外配給網がなく日本公開されなかったのはやむを得ないとは言え、表現主義芸術運動を文学・演劇面で代表する作品である原作が'12年発表・'17年初演以来世界各国で翻訳上演されていた話題作『朝から夜中まで』が'20年製作・'21年完成しながら世界初かつ唯一の一般商業公開がされてヒットしたのは日本だけだったのは特筆すべき事件で、ヒットラー政権下で'20年代映画をほぼすべて上演禁止にしていたドイツ本国では戦後に、国内ばかりか西洋圏内にも同作のプリントがないので散佚を危ぶみ捜索を始めて、日本近代美術館フィルムセンター(現国立フィルムアーカイヴ)に所蔵プリント目録に判明し、以来世界中の美術館から自国の稀少作品と交換で複製のための貸し出し依頼が殺到する作品になりました。現行の世界各国の上映プリント、映像ソフトはすべて日本で所蔵されていたプリントを原盤としたもので、この再発見により「『カリガリ博士』以上の実験的手法による表現主義映画」と再評価されることになった数奇な運命をたどった作品ですが、同作の場合は原作戯曲があまりに舞台劇として浸透しすぎていた上に、むしろ映画手法としては急速に飽きられていた表現主義手法を徹底して推し進めた作品だったため試写段階でドイツ国内・ヨーロッパ配給先のめどが立たず、2年遅れて『カリガリ博士』や『ゲニーネ』が公開されて話題作となっていた日本に売りこみ、または日本からの買い付けがされたという事情があったと思われます。今回の3作はそれほどこの時期のドイツ映画の異なる傾向を示す作品です。

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●11月13日(火)
吸血鬼ノスフェラトゥ』Nosferatu, eine Symphonie des Grauens (監=F・W・ムルナウ、Prana Film-Film Arts Guild'22.3.4)*94min, B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/oAX2WBzCh5Y

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 ラングの『彷徨する影』'20もバイエルン・アルプスの山岳ロケーション撮影が「ラングの表現主義映画」という定説を破って自然撮影の美しさがかなり強引なドラマをそれなりに感動の焦点のはっきりした内容に仕上げていましたが、回想に要があるあの作品ではまだそこにドイツ映画特有の室内劇要素が残っていました。その点、ほとんどの場面をロケーション撮影で構成した本作は、おおむね画面が暗く室内セット照明のコントラストが強いドイツ映画にあっては窓を開けたような新鮮で鮮烈な映像だけでも解放感のある作品です。ここぞというシークエンスは室内場面ですし、そこでは人物そのものではなく影を行動するキャラクターとして使う表現主義的手法もあるのですが、映画全体が白日の中で展開される中の危機的シークエンスだけが室内、夜間という明確な区切りがあるので、映画の額縁と地は明るいリアリティのある世界が描かれており、不思議と怪奇は夜の室内に限定されて起こります。ただしオルロック伯爵こと吸血鬼ノスフェラトゥ(マックス・シュレック)がブレーメンにペスト船とともに到着してからは、白昼のブレーメンもペストの流行によって死の町になります。この映画の優れる点は超自然の怪奇としての吸血鬼の存在と、ごく現実的なペストの伝播を結びつけて二重の恐怖を描いてうまく統一していることで、ペストと結びつけたのは『プラーグの大学生』『巨人ゴーレム』や『妖花アラウネ』などのドイツ怪奇幻想映画のシナリオや監督に関与したヘンリック・ガレーンの脚色による映画のためのオリジナル・アイディアですが、本作はアイルランド作家ブラム・ストーカー(1847-1912)の『吸血鬼ドラキュラ』1897の映画化としては正式に遺族にライセンスを取った初の映画化『魔人ドラキュラ』'31より原作に近い内容で、原作小説でドラキュラの覚醒に夢遊病で遠隔精神反応する精神病院患者の役割は、不動産屋クノック(アレクサンダー・グラナハ)の手代の主人公トーマス・ヒュッター(グスタフ・フォン・ワンゲンハイム)が出張中の妻エレン(グレタ・シュレーダー)に移してあり、原作小説では遂にロンドンに到着したドラキュラ伯爵は狙いであるジョナサン(映画のトーマス)の婚約者ミーナ(映画のエレン)を最後の獲物にする前に自分を予知する夢遊病患者の存在に気づいて襲って殺すだけですが、映画ではミーナに夢遊病患者の吸血鬼予知能力(というか症状)を併せてエレンにしたので、ブダペストまで呼び出されてオルロック伯爵のブレーメンの町での不動産契約を取りつけてきた主人公トーマスがオルロック伯爵に狙われる、妻エレンの予知能力による呼びかけが届いてオルロック伯爵の襲撃が未遂に終わる。先に帰国して不動産手続きを進めますというトーマスがふと取り出した懐中時計の蓋の裏のエレンの写真にオルロック伯爵が目を留める。そして帰国するトーマスの船にオルロック伯爵の入った棺も積まれ、貨物に紛れて鼠が次々入りこみます。途中下船して陸路でトーマスがブレーメンに帰る一方、船はペストの流行とオルロック伯爵の襲撃で港に着くと生存者は一人しかおらず、航海日誌からペスト罹患者の続出と吸血鬼の出現が判明します。トーマスはルーマニアで入手した吸血鬼伝承の本で疑っていたオルロック伯爵の正体が伝説の吸血鬼ノスフェラトゥであると確信します。エレンはオルロック伯爵のブレーメン到着とともに謎の夢遊病が止みますが、それは予知の必要がないほど危険が身近に迫っているからだと気づきます。ブレーメンの町はペストの流行によって死の町となり、エレンは夫の談話とルーマニアの吸血鬼伝承の本から自分が囮になって吸血鬼ノスフェラトゥを引きつけ、夜明けの陽光で消滅させる決意を固めます。と、本作は間然とするところのない、表現主義的手法の適度な応用と表現主義映画の枠にとどまらない開放感のある映像とスケール感が見事に折衷された傑作で、怪奇の次元にとどまっていた映画表現を恐怖の次元まで高めた記念碑的作品です。本作が日本では劇場未公開に終わり、今なお劇場公開されずビデオ(映像ソフト)・スルー作品扱いなのは情けないばかりで、キネマ旬報映画データベースでもビデオ・スルー作品として以下のような短い紹介があるだけです。
[ 解説 ] ドイツ表現派の巨匠、F・W・ムルナウがブラム・ストーカーの怪奇小説を映画化した元祖吸血鬼映画。スキンヘッドにギョロ目玉、異様な鷲鼻を持つ痩せこけた不死の伯爵(マックス・シュレック)が、鮮血を見て舌舐めずりし若い女性の生血を吸い尽くす。
 ――現行版プリントのほとんどでは「オルロック伯爵」の名は後のレストア・プリントではドラキュラ伯爵に戻してあるヴァージョンが多いようですが、これは著作権継承者による不許可からブラム・ストーカー原作とも「ドラキュラ伯爵」の人物名ともに使えなかったため改名されたもので、アメリカのユニヴァーサル社の『魔人ドラキュラ』が初めて公式に著作権継承者からライセンスを取得したドラキュラ映画になったのは本作がドラキュラ映画を名乗れなかったせいでした。おそらく第1次大戦から間もないこの頃にはドイツに対しては敵国感情があったため遺族がドイツでの映画化権を許可しなかったと思われ、第2次大戦後にシャーロック・ホームズ・シリーズ最終作『シャーロック・ホームズの事件簿』だけが著作権継続期間中だったため同作が著作権期限切れになるまで多くの日本語訳の各社のシャーロック・ホームズ全集が最終巻『事件簿』だけを欠いて刊行されていましたが(日本が国際著作権協会加入以前に翻訳者の著作として刊行していた2社だけが免れました)、これもコナン・ドイルの遺族に第2次大戦の戦死者がおり、反日感情から翻訳権を許可しなかったので、ムルナウ作品『吸血鬼ノスフェラトゥ』の場合もやむを得ずドラキュラ伯爵ではなくオルロック伯爵としたようですが、結果的に原作からの改作が本作をオリジナル作品と言ってもいいくらいにうまく決まり、また知名度の高いドラキュラ伯爵よりもよりローカル色の強いオルロック伯爵の名前が公称で、実体は吸血鬼ノスフェラトゥというさらにインパクトの強い名称が押し出されてきたのは結果的に成功しているでしょう。このヴードゥーともクトゥールーともつかないような異教性を漂わせるネーミングは吸血鬼ノスフェラトゥを演じたマックス・シュレックの禿頭も西洋人役の俳優としては初めてのもので、禿頭は西洋映画では東洋人や未開人にしか描かれなかったものです。トーマスを迎えに来た伯爵の馬車の異様な早送りによる疾走シーンもコミカルではなく異常さの強調となっており、ムルナウの前作『フォーゲルエート城』'21はカール・マイヤー脚本で国際版タイトル『The Haunted Castle』が似つかわしい怪奇ムードの作品でしたが、本作のヘンリック・ガレーンの脚本は演出によってさまざまなニュアンスを盛りこめる、さらに優れたもので、のちにガレーンがコンラート・ファイト主演版『プラーグの大学生』'26の監督で収める成功を予期させるものです。ラングが同世代のドイツ映画監督で唯一ライヴァル視していたのがムルナウですが(ムルナウ没後には唯一、ヨーロッパの監督ではルノワールに敬服するようになります)、剛直重厚なラングと融通無碍なムルナウの作風の相違も顕著で、ラングが大作時代に進んでいた頃ムルナウはもっと柔軟で軽快な発想から傑作を作り上げたので、のち'24年の両者の対照的な傑作『ニーベルンゲン』と『最後の人』ではさらに資質の違いを明らかにすることになります。ただし本作について言えば撮影全体も見事なものですが、吸血鬼の最期がジャンプ・カットによる消滅と小さな燃えかすとはあまりにあっけない。'13年の『プラーグの大学生』ですらすでに使われている二重露出によるトリック撮影を控え目でいいから使えなかったのか、ここは透き通って消えて行く姿に炎が重なる程度が普通でしょう。逆光気味の背景だから無理だったのか、瑕瑾として気になる箇所ではあります。

●11月14日(水)
『朝から夜中まで』Von morgens bis mitternachts (監=カールハインツ・マルティン、Herbert Juttke Produktion'20/21、ドイツ一般未公開)*73min, B/W, Silent; 日本公開(世界初一般公開)大正11年(1922年)12月3日(尺数不詳) : https://youtu.be/PTHWiPWlPHg (English Version)

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 本作はもっぱら、先に脚本・美術装置ありきの演劇種の映画だったと見なせるでしょう。監督カールハインツ・マルティン(1886-1948)は舞台演出家でしたし、本作『朝から夜中まで』は'20年に製作、'21年に完成されましたが、元来は劇作家ゲオルク・カイザー(1878-1945)の'12年執筆発表・'17年初演の表現主義演劇の先駆けとなった舞台劇の話題作でした。ラングの『ドクトル・マブゼ』'22や『ニーベルンゲン』'24、E・A・デュポンの『ヴァリエテ』'25、ムルナウの『ファウスト』'26などを手がける名カメラマン、カール・ホフマンの撮影が大きな貢献をしており、製作が『カリガリ博士』に刺戟された'20年初頭に始まったのをうかがわせますし、舞台劇版の方を知りませんがすでに舞台劇として『カリガリ博士』に先んじて本作のセットは作られ上演されていたとも思えます。銀行窓口といい、店や家屋のセットといい思い切り歪んで傾いた台形をなしていますし、人物のメイクも左右の目からして非対称に隈取りされています。窓や柱は90度角であることはほとんどなく、道はどこも一定の道幅を維持せず常に蛇行しています。人物の服装は一般的に常人ならばこんな着こなしで外出しはしまいと思われるようなものであり、一言で言えば歪んだレンズから見た狂人の世界そのものをヴィジュアル化したものがこの映画『朝から夜中まで』です。『カリガリ博士』よりもさらにアヴァンギャルドな徹底した表現主義映画、と戦後の再発見からようやく評価が始まったのも戦前本作は日本でしか一般の商業公開が実現しなかったので、本国でも配給先を求めて配給会社のスタッフや批評家を集めて試写は開かれたでしょうが、買い手がつかずお蔵入りになっていたのを、ドイツ本国から2年3か月遅れの大正10年(1921年)5月に『カリガリ博士』が公開されて表現主義映画が話題になっており、大正11年10月に『カリガリ博士』に続くロベルト・ヴィーネの『ゲニーネ』が公開されたタイミングもあって日本へ売りこみ、または日本からの買いつけがあったのでしょう。前衛演劇が美術とともにさかんで、『カリガリ博士』からも多くを採り入れていた日本の青年観客層からは本場の舞台をそのまま映画化した『朝から夜中まで』は大歓迎され、『カリガリ博士』より表現主義手法をこなした作品として高く評価されました。ドイツ本国を始め西欧諸国では本作は戦前は一般公開されずじまいでしたし、ナチス政権下ではワイマール時代('19年~'33年)の旧作映画のほとんどが映画統制によって上映禁止にされていましたので、戦後に前書きの通り日本に唯一の現存プリントが確認されるまで世界的には幻の映画だったのです。その頃には戦前のドイツ映画史の展望と作品評価の見通しもついていたので、『朝から夜中まで』は失われたパズルのピースの発見のように幻の未公開作品の位置から「『カリガリ博士』以上の実験的手法による表現主義映画」と評価されるにいたったのです。本作の日本初公開のキネマ旬報近着外国映画紹介はそのまま世界初公開の意義を持つものですし、舞台劇版についてはともかく映画『朝から夜中まで』を単独紹介したのはこれがもっとも早い文献になるのです。
[ 解説 ] 背景、扮装を始め演出に至るまで多大な表現派様式を取り入れた物で、ゲオルグ・カイザー氏の舞台劇をロベルト・ヘッパッハー氏が脚色し、カールハインツ・マルティンが監督した映画である。主役はエルンスト・ドイッチ氏、その他「鼠」「ゲニーネ」出演のハンス・ハインツ・フォン・トワルドウスキー氏や「アルゴール」等出演のエルナ・モレナ嬢が共演している。無声。
[ あらすじ ] ある銀行へ一日美しい夫人(エルナ・モレナ)が為替を取りに来た。銀行の現金係(エルンスト・ドイッチ)はその美貌に迷い銀行の金を盗み出し、暖かい家庭をまで捨ててその夫人と暮そうとした。しかし道徳堅固なその夫人は断然これを却けた。失望した彼は、今更犯した罪を後悔したが如何とも仕方なく、盗んだ金をあらゆる事に使い果たし、遂に救世軍に救われた。しかし身に犯した罪の苛責に堪えず自殺したのであった。
 ――このあらすじは間違いではありませんが、世界初公開なのですからここはあと一つ詳しすぎるくらいの気合を入れてがんばってほしかった気がします。映画は5幕に分かれます。「第1幕」があらすじにある外国人の貴婦人の銀行窓口訪問ですが、イタリアからの貯蓄をマルクで100,000マルク卸したいという用件なので銀行の支店長は先方からの許可連絡がないとできないと主人公の出納係に断らせます。出納係は映画冒頭から右目に隈のある憔悴しきった風貌で、服装も野宿してきたかのように乱れており、また出納係の座る銀行窓口自体が竹細工の籠のような歪んでねじれたもので、この映画はいきなり現実を極端にデフォルメさたものであることがわかります。貴婦人が去り、支店長が事務室に去ると出納係は紙幣を数え始めますが、この紙幣も不揃いに裁断した長方形の紙にクレヨンで0の数列を殴り書きしたようなもので、出納係は100,000マルクに達した(らしい)ところで決死の表情で鞄に詰めると銀行を出て行きます。乞食娘(ロマ・バーン)が出納係に施しを求め、出納係は断りますが、その瞬間乞食娘の顔はしゃれこうべに変化して出納係はおののきます。「第2幕」貴婦人の宿泊するホテルを訪ねた出納係はあなたのために盗んだと金を差し出し一緒に逃げようと迫りますが、貴婦人は出納係をあざ笑います。貴婦人の息子が帰ってきて、侮辱された出納係は引き下がります。ホテルを出る時に乞食娘が出納係に施しを求め、今度も出納係は断りますが、またもや乞食娘の顔は一瞬しゃれこうべに変化して出納係はおののきます。「第3幕」銀行では出納係の横領が露見し、出納係の家に連絡が届きます。祖母(フリーダ・リヒャルト)、妻(ロッテ・シュテイン)、娘(ロマ・バーン)は帰宅した出納係を迎えますが、「吐き気がするほど居心地悪い」一家の様子に警察への通報を予感し、暴風雨の中で逃走します。警察と支店長が出納係の家を訪れ、逃走した出納係の横領を確定した警察は電信で指名手配を流し、出納係は電線に火花を散らして宙に散る「出納係逃走中」の文字を見ます。出納係は礼服一式を購入します。「第4幕」出納係は「6日間自転車レース」の大穴に大金を賭けます。出納係はカジノに行きもてはやされますが、常連客の富豪が来ると人々の関心はたちまち移ります。出納係はキャバレーに向かい、出納係についた2人の接客嬢は大金に目の色を変え、出納係はうち一人を抱き寄せますが接客嬢の顔は一瞬しゃれこうべに変わり、出納係はおののきます。「第5幕」出納係は客引きに呼びこまれてカード勝負で沸き立つ貧民たちのバーに踏み入れます。出納係は賭けに勝って仲間の客から刺されそうになっているところを救世軍に保護されます。救世軍の施設の中で出納係は自分の罪状を告白し、残った紙幣をすべて投げ捨てます。紙幣を争って混乱する中で救世軍の保護司の娘は出納係を落ち着かせようとしますが、出納係の目に娘の顔は一瞬しゃれこうべに変わります。出納係は保護司の娘に自分の通報に5,000マルクの懸賞金がかかっていると叫んで逃走し、保護司の通報で駆けつけてきた警察に追い詰められて、救世軍の建物の隅の壁で拳銃を片手に斜め十字に腕を広げます。壁に男の姿の通りに白地で斜め十字が浮かび上がり、両腕に「ECCE HOMO(この人を見よ)」の文字が浮かびます。映画はニーチェの自伝題名を引用したこの場面で終わります。多くの文献がこの結末を「自殺する」とじかに解釈していますが、自殺場面そのものは描かれませんし、ニーチェのようにこれを主人公の狂死としてもいいので、この映画がアヴァンギャルド芸術の手法で資本主義社会や人間性を抑圧するさまざまな社会機構(家族制度、貧民救済施設を含める)を批判した作品として公開当時の日本では社会的テーマを持った作品として受け取られたのは筈見恒夫氏の『映画作品辞典』、田中純一郎氏の『日本映画発達史』の伝える評価ですし、画家のカンディンスキー(1866-1944)らによるドイツ表現主義の機関誌「青騎士」の運動が'11年~'14年にあり、ドイツとスイス合同でダダイズム運動が形をなしたのが'15年、詩人トリスタン・ツァラ(1896-1963)が「ダダ宣言」を発表して国際的な反響を呼んだのが翌'16年ですから、原作戯曲の『朝から夜中まで』は表現主義運動の産物であり、ダダイズムは政治的にはアナーキズムですから日本のアナーキズム詩人(のちにコミュニズム同伴者、それがダダイズムシュルレアリスムアナーキズムコミュニズム両方の平行現象でした)岡本潤の第1詩集『夜から朝へ』'28(昭和3年)は本作からインスピレーションを得たタイトルでしょう。しかし社会的テーマを扱った作品とすると本作は途端に幼稚なつまらない作品になるので、おそらくフリッツ・ラングが「幼稚なアマチュア脚本」として却下しみずから改稿したカール・マイヤーとハンス・ヤノヴィッツの『カリガリ博士』脚本第1稿も社会的メッセージの作品とマイヤーらが主張していますから、『カリガリ博士』の改稿前の脚本は本作のような生な怒りに満ちたものだったとも思えます。本作は戦後に歴史的作品として距離感が生まれたからこそ純粋に映画表現の実験として観られるようになったので(また日本ではあくまで「外国映画」として観られたので)そうした距離感なしに自国の現代映画として社会的メッセージの面を見た場合「幼稚なアマチュア脚本」でなければ実験のための実験が度を過ぎた映画に見え、それが本国でも欧米諸国にも配給先を得られなかった理由ではないかと思われるのです。

●11月15日(木)
『床屋の怪事件』Die Mysterien eines Frisiersalons (監=ベルトルト・ブレヒト/エーリッヒ・エンゲル、Stummfilmproduktion'23.7.14)*32min, B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/PGJ3pATeJPY

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 本作は20世紀ドイツの最重要劇作家、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)唯一の映画監督作として'20年代ドイツ映画の最重要作品と目されているもので、'23年のブレヒトの劇作の重要作『バール』と『都会のジャングル』の間に製作されたものです。製作には専任監督エーリッヒ・エンゲル(1891-1966)を共同監督に迎え、キャバレー道化師のカール・ヴァレンティンを主演、舞台俳優のアーヴィン・ファーバーを助演に起用し、仲間の作詞作曲家の妻の歌手ブランディン・エビンガーをヒロインに据えました。『吸血鬼ノスフェラトゥ』出演直前のマックス・シュレックもファーバーの友人で床屋の常連客3人組のひとりとして出演しており、撮影期間は撮っては中断し、また撮るのくり返しだったようで、シノプシスらしきシノプシスはなくヴァレンティンのアイディアをブレヒトがまとめて演出をつけた俳優たちの共同アイディアによる即興コメディ作品としての性格が強いという、ナンセンス・コメディの中編映画になっています。小規模商業一般公開されたとは言っても本作は気鋭の劇作家ブレヒトを中心とした演劇関係者の余興的側面の大きいものですが、それだけに同時代のドイツ映画の潮流など歯牙にもかけない傍若無人さがあって、メジャー会社どころか独立プロダクションでも映画らしい映画に腐心していた時代に(映画会社たるものそれが当然ではありますが)、門外漢の劇作家が無手勝手流に作った映画がエアポケットのようにぽちりと1作だけあるのが、その劇作家がこの時代の最大の劇作家だったためにいわば天才の余興を見るような楽しみがあるのが最大の興味になっていて、しかも期待を裏切らずというか何の期待にも応えないというか、馬鹿馬鹿しいことこの上ないナンセンス・コメディであることが逆説的に本作を'20年代ドイツ映への異議申し立てになってもいれば類例のない種類の映画にもなっていて、ブレヒト自身には本作に積極的な意欲は毛頭なく、演劇人のアルバイトでせいぜい「映画つくってみないかという話があるからやってみるか」程度のおふざけの産物だったと思われるだけに、専業監督のような商業的配慮や作意なしに純粋に製作チームだけで楽しんで作った映画であることが、本作に1作きり、1回きりの映画製作のもたらす面白さをもたらしているのが本作の珍重されるゆえんと思えます。
 この「床屋の怪事件」は即興演出とシナリオによるコメディ中編ですが、構成上前後編に分かれているのは明白で、カール・ヴァレンティンの床屋が工夫に工夫を重ねた挙げ句に客のモラス博士(アーヴィン・ファーバー)を中国人のような弁髪にしてしまい、モラス博士の友人でもある床屋の常連客3人(マックス・シュレックら)にとっちめられるのが前半で、ここで「明日は決闘なのに」と台詞字幕を入れて後半につなげています。シュレックは'22年3月公開の『吸血鬼ノスフェラトゥ』前の出演だと言いますから前半部分がそれに当たるのでしょう。後半はモラス博士の決闘相手の恋敵の男(俳優不詳)が決闘前に床屋にやって来ます。今日の客こそはと髪から髭にいたるまで整髪の陳列見本のような完璧な仕上がりに満足した床屋は男の頭を手に取ってしげしげ眺め、首がもげてしまったのに気づき慌てて取り落としてしまいます。首は勝手に床屋の中を歩きまわり、倉庫棚の整理をしていた見習い助手の娘(ブランディン・エビンガー)が何気なく首を拾い上げます。大声で呼ばれた娘は待合室に出て、待合室でたむろしていた常連客3人は娘の抱えた首に卒倒し、娘も初めて拾い上げたのが男の首なのに気づいて卒倒して男のトランクの中に倒れ、床屋は男の首を包帯を巻いて元に戻し、男は憮然としてトランクを提げて去ります。モラス博士と恋敵の男は床屋の見習い助手の娘をめぐって剣で決闘を始めますが、決闘中に目を覚ましてトランクから出てきた娘は木の上から枝に釣り糸と鉤を吊して男の髪を引っ張り、決闘中に男の首は釣り糸に釣られてもげて、モラス博士の勝利に終わります。娘はモラス博士と抱き合いキスして、映画はおしまいです。
 33分のナンセンス・コメディとしていかにも演劇関係者のお遊び映画らしいこの小品が「'20年代ドイツ映画の最重要作品のひとつ」とされているのは皮肉なことですが、アメリカのサイレント喜劇には当然影響を受けているにせよ、散髪中に見事に仕上がった頭がそのままもげてしまい勝手に床屋の中を徘徊するという怪奇な奇想のグロテスクなユーモアはアメリカのサイレント喜劇以上に撤退してドライなナンセンス趣味を強調しており、一応恋敵同士の決闘というバーレスクなドラマはありますが、キャバレー道化師のカール・ヴァレンティンの演目自体がおおむね本作のような道化芝居だったといいますから、本作の虚無的な無意味な笑いはサイレント時代のチャップリン、ロイド、キートンらの楽天性やペーソスよりもマルクス兄弟の無目的なアナーキズムに近い味があり、マルクス兄弟のコメディの質がアメリカの市民性よりもヨーロッパのバーレスクの系譜を継ぐものとしてサイレント喜劇と断絶しているとすれば、『床屋の怪事件』はアメリカのサイレント喜劇よりもマルクス兄弟の登場を予告するような作品でもあり(当時マルクス兄弟はまだ映画には進出せず、舞台劇の喜劇チーム一家として活動していました)、映画史的にはそうした位置づけのできる作品です。ブレヒトの演劇手法そのものが現実を材に採って現実を変容させるというアイディアによるものですから、本作は余技ではあってもブレヒトの作風の本流から外れてはおらず、取ってつけたような(筋書き上どうでもいい)ハッピーエンドも当時ブレヒトが好んだ手法で、もちろん作者は作為的にそうしていることで観客を突き放しているとともに、結末はハッピーエンドで終わらせるというドラマの約束事をからかってもいるのです。首(床屋のマネキン人形の整髪見本の首を使っているのは一目瞭然で、ここにもリアリティへの配慮は意図的に無視されています)が人形アニメの手法でトコトコ床屋の床を徘徊する滑稽さも馬鹿馬鹿しさを強調していますし、剣による決闘のクライマックスもこれがシリアスなドラマではなくバーレスク寸劇であることをわざわざ観客に意識させる仕組みなので、本作は撤退した茶番劇であることで映画自体のまったくの虚構性を笑い飛ばした作品でもあり、そこに批評性があるともこの映画自体は批評性以外に意味はないとも言えます。ともあれ、'20年代ドイツ映画界では本作のような演劇人による怪作がどさくさ紛れに作られるような気風があり、同じ演劇人による映画でも真正面からシリアスなのがある意味きつい『朝から夜中まで』と対照をなしています。「ECCE HOMO(この人を見よ)」で終わる大力作『朝から夜中まで』よりも、あくまで余興的な荒唐無稽なコメディ作品『床屋の怪事件』の方が健全な精神の産物であろうことも皮肉ではあります。