人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

七ひき目の小やぎが助かったわけ(前)

 (19世紀末のドイツ版グリム童話本挿絵より)

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 これは'60年代までの政治活動家から'70年代以降には児童教育家に転じた詩人の谷川雁(1923-1995)が、昭和55年('80年)頃から主催していた「ものがたり文化の会」での討論をまとめたエッセイ集『ものがたり考』(『意識の海ものがたりへ』'82ほか分散収録、のち没後の著作集『谷川雁の仕事』'96の第2巻に集成)に収録されている、グリム童話『おおかみと七ひきの小やぎ』についての考察エッセイ「時間の城にかくれた小やぎ」のご紹介です。谷川雁は韜晦した文章で知られた人ですがこの児童教育の方法を童話論の形で語ったエッセイは平易な文体で、長さも2段組みで3ページ(文庫本相当なら6ページ弱)と短いものですから、25編の日本・世界の有名童話を読み説いた『ものがたり考』は難解な反体制的詩人批評家・谷川雁を何となく敬遠している読者にも例外的に楽しく読める好エッセイ集で、せっかく著作集で集成されたのですから『ものがたり考』だけを広い読者層向けに文庫化してもいいんじゃないかと思える、面白く読んでためになる好著です。

 谷川雁は'70年代からすでに児童教育に携わっていましたが、'80年から'82年にかけては子供たちを集めてパーティー形式の自由学習会を開き、そこで子供たちとともに普段読み流してしまう有名童話の不思議を検討してこの『ものがたり考』の一連のエッセイをまとめたので、その着目点は'80年代後半から起こったような童話の残虐性を指摘した興味本位な童話論、パロディ的な視点にはありません。童話が生まれてきたそもそもの発想を探る、という実際は高度な文化論的アプローチを子供たちとともに試みることで、自然に子供たちの興味を呼びさまし直観的に有名童話に隠れている文化的背景に目を向けさせています。当然谷川雁は残虐性や道徳性(それと表裏一体の背徳性)、パロディ的観点といった大人からの視点はかえって童話の本質を歪めることになるのを「童話再読ブーム」以前に気づいていたでしょう。子供たちにとって童話の残虐性、道徳性、背徳性、性的隠喩などはいわば自明のことであり童話のうわべに過ぎないので、子供たちの直観は童話の持つ不思議な面白さの方に向かいます。

「『おおかみと七ひきの小やぎ』のピイプが時計の中にかくれたのはなぜだろう――という宿題を、先日あるパーティのこどもたちに出しておきました。これは私の解答ですが、それぞれのパーティで噛みくだいてお話くだされれば、また変った意見が返ってくるかもしれません。」

 ――と、このエッセイ「時間の城にかくれた小やぎ」は始まります。谷川雁がなぜ七ひき目の小やぎをピイプと名づけたかはあとから出てくるのですが、慌てず順を追ってエッセイの続きを先に追ってみましょう。

「物語というものは、いちばんおしまいのところからはじめへもどることができると考えてみましょう。近代の物語より昔話のほうがそうしやすいと大ざっぱに言えると思いますが、古い物語でもそうすることが簡単なのと複雑なのがあります。」

 ――谷川雁は話が冒頭に帰るわかりやすい例としてグリム童話の『かえると金のまり』(魔女の呪いでかえるにされていた王子が呪いが解けて姫がめでたく結ばれ男の子をさずかり幸せになるが、魔女の呪いで男の子はかえるに変えられるも、男の子は呪いが解けて立派な王子になり、許婚の姫と結ばれる)を上げ、これは代がわりになっていく仕組みですが同じ話が親子代々くり返されていくことになります。しかしグリム童話でも『三びきのコブタ』となると、ディズニーのアニメ映画版以降二ひきの兄の小ブタも次々と弟の小屋に逃げこんで助かりますが、グリム童話ではオオカミも二ひきの兄さんブタも死んでしまいます。しかも二ひきは食べられてしまったままですから、この話を循環させていくには残った弟ブタが大人になって三びきの小ブタの父親になり、また死んだオオカミのこどもが成長して二代目の三びきの小ブタを襲いに来る、と手順はややこしくなります。

「『おおかみと七ひきの小やぎ』はどうでしょう。『三びきの小ブタ』のオオカミにくらべて、このおおかみはどこかのんびりしています。石ころをおなかにつめこまれながら、〈ごろごろがったん、こりゃたいへんだ〉といった調子です。どぶんと井戸におぼれ死んだといっても、悲惨な感じは強くありません。一度死んだとしても、また目をさまし、地下の坑道をとことこ歩いて、どこかから地上にぬっと顔を出し、性こりもなくまた〈かあさんだよ〉と小やぎたちの家の戸をたたく、そんなことになってもふしぎではない気がします。つまり、この話は循環しやすい、循環性の強い物語だと言えます。」

 ――この「循環性の強い物語」という解釈が谷川雁による『おおかみと七ひきの小やぎ』の読解に大前提となっているので、ここで引っかかるかこの前提を一応受け入れるかどうかが要になっているのが学術的研究か詩人的な想像力による解釈かの分かれ目になっているともいえます。それが説得力があるものか否かは、さらに読み進む必要があるでしょう。

「これは何を意味するのでしょうか。そのことを考えるのにあわせて、小やぎたちがなぜ七ひきなのかということに注意を向けてみましょう。おおかみが七をみんなのみこもうとした。だが六しかのみこめなかった。のこる一が母と協力して、六を助けだした。七はまたもとにもどった。おおかみが再びやってきても同じことがくりかえされるだろう。とすればこの七は、ただひとまとめの七ではなく、六と一なのです。こんな七が世の中のどこにあるのでしょうか。あります。七曜つまり一週間がそれです。」

 ――つまり谷川雁がこの童話に循環性を見ているのは、おおかみののんびりした不死性によるものよりも、まず七ひきの小やぎを七曜に見立てる解釈を発見したことに重点が置かれているのがわかります。

「〈それじゃ〉と気の早いこどもはさっそく先手にまわることでしょう。〈ピイプは日曜なんだね〉。そうです。この考え方によるならピイプは日曜です。もちろん、小やぎたちの名前は私がつけたものですから、〈大きいじゅんに〉とありますから、コリル(月)、コリーヌ(火)という風にそれぞれの曜日が決まっていることになります。おおかみは月曜から土曜までをつぎつぎにのみこんだわけで、その順番も守られていなければなりません。土曜まではのみこんだけれども、日曜はできなかった。当然です。神様でさえお休みになった安息日ですから。」

 ――また谷川雁はこのエッセイ(学習会)では原作にない名前を小やぎたちにつけたのを、最後の七番目の小やぎが特別な小やぎであることをはっきりさせるとともに、七番目の小やぎだけに名前があるのもおかしいから曜日にちなんで先の六ひきにも名前をつけたこと、特別な七番目の小やぎをピイプとしたのは発音のかわいらしさ、時計の箱からこわごわのぞいている(to peep)感じ、さらには日曜の朝に父親がゆっくりくゆらすパイプのイメージを重ねた命名としています。そして、なぜピイプだけがおおかみの探索から逃れたかを、曜日の暗喩以外の側面から考察していきます。

「さて、はじめの問題に帰りましょう。ほかの兄弟たちがかくれていたテーブル、ベッド、ストーヴ、流し、戸棚、洗濯だらいはどれも、母やぎが毎日触れている仕事の道具です。そういう〈日常〉は、おおかみの大きな口にぺろりとのみこまれてしまいます。だから、おおかみとは現在を過去に変えてしまう力です。私たちは、このおおかみのせいでどんどん年をとり、やがておじいさん、おばあさんになってしまいます。私たちから時間をもぎとる悪魔の手をどうしてのがれたらよいのでしょうか。」

「ピイプは日曜日ですからふつうの日ではなく、キリスト教安息日(ユダヤ教はちがいます)でもあるので、だいたいは大丈夫なのですが、逃げこんだところがまたよかった。時計――すなわち〈時間の城〉にかくれたのです。時計は、現在を未来へ進める力です。これにはおおかみも歯が立ちません。と言うよりも、自分とまるで逆の方向に流れているものなので、見ようとしても見えないのだと考えたほうがいいでしょう。時計にかくれたことでピイプは時計と一体になり、そこからはいだしたピイプにも未来を切りひらく力がそなわったという風に読んでほしいものです。そのピイプが、月火水木金土といつも変らぬくらしの循環の中心である母やぎと力をあわせて、六人きょうだいを救いだす。再生した小やぎたちは、新しくはじまる一週間を意味します。この堂々めぐりする時間は、実はおおかみと時計、過去へ引きずりこむ力と未来へかけだす力のせめぎあいにはさまれているというわけです。」

(以下後編)