人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第五章

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 第五章。
 追加登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、ミムラやミイの母親。35人の子を持つムーミン谷一多産な夫人。本人同士も知らないスナフキンの実の母親。
 三人の魔女トロール
 その一、トゥーティッキ。帽子にしましまの服を着た気のいい女性。冬眠から目覚めたムーミンに冬の暮し方を教える。
 その二、モラン。通った道は凍りつき、長く座った場所には何も生えなくなる。世界一冷たい灰色の女の魔女トロール
 その三、フィリフヨンカ。フィリフヨンカ族の女性。フィリフヨンカ族はきれい好きで神経質で気が小さいのが共通点。

 糞ッタレ!
 あら、口が悪いわよ。私たちはどんな時でも魔女らしく優雅でいなきゃ。それを……でもいいわね、たまには普段と違って、糞ッタレと口にするのも。
 だから言ってみたのよ、私たちはあちらのテーブルこちらのテーブル、他人の話に耳を傾けてばかりいたけれど、誰もが少しは話題のなかに他人を引き合いに出す、というかダシにするものね。ビフスランとトフスランみたいな存在はともかくね。もちろん陰口ばかりに囲まれるのは嫌だけど、全然気づかれないのもあんまりじゃない?だから一言で言えば糞ッタレ!よ。あなたもそう思わない?
 私は……目立つと恥かしいですから……
 別に目立とうとかそういうのじゃないの。今日の連中はムカつくな、と思ったら素直に口に出す、ってそれだけのことだし。
 まあまあ、あなたがずっと座っているのは普段なら大変なことだからムカつくのもわかるけど、今夜はめったにないような晩だからみんなも気を取られているだけよ。それにあなたがずっと座っているのでいちばんハラハラしているのはこの人なのよ。もし何かあったらどうにかしなくちゃ、ってあなたよりも彼女の方がよほど気にかけているかと思うと私までドキドキしてくるわ。
 それじゃっまるで私はトラブルメイカーか何かみたいじゃない。ケンカ売ってるの?黙ってないで、あなたもどう思う?
 わ、私は……
 ごめん、あなたを否定してるわけじゃないのよ。あなたはすごい人だから、うかつに誰かが、あなたのことを、口に出せないだけなんだわ。
 うーん納得いかないけどいいわ。水に流しましょう。糞ッタレ!
 糞ッタレ!
 この会話の一部始終を、ミムラ夫人はテーブルの下に隠れて聞いていました。


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 第五章。
 追加登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、前述。
 三人の魔女トロール
 その一、トゥーティッキ、前述。
 その二、モラン、前述。
 その三、フィリフヨンカ、前述。

 長い悪夢を見ていた気分なのはスナフキンに限らず、ムーミン谷に結界を張る三人の魔女も同じでした。この三人の魔女は協力して結界を張り、ムーミン谷の存在が全世界に漏洩するのを守ってきましたが、おたがいの存在は知らずにいたので自分たちが結界を張っていることも知らなかったのです。
 ですからこの結界は内部からの流出は防ぐが、外部からの刺激は侵入を許す、という、いびつなものになりました。これを身近なものにたとえるとコンドームがあります。あれは漏れては意味がありませんが、刺激まで遮断してしまったらおしまいです。
 または避妊具ならペッサリーを引き合いに出せば、膣内に直接射精されても子宮への侵入は防ぎますから、この方がより結界の性質に近いとも言えます。しかし結界の目的は内部からの漏洩防止なので、その点ではコンドームに近い。避妊具にたとえるのが無理があるのでしょう。
 トゥーティッキ、モラン、フィリフヨンカの魔女トロール三人はまだ知りあっていませんでしたが、それはおそらく魔女たちの存在が続く限り続くことでした。三人は自分たちが魔女だとすら気づいていなかったからです。そうなるべくして魔女を封印しているのが、魔女封印の魔力の代償に、35人の子だくさんになったミムラ夫人でした。しかも母子家庭なのは、やはり魔力の代償に故ミムラ氏が最後の交接で落命し、子種だけが生き延びてミムラ夫人夫人を自動妊娠させてきたからです。
 魔女封印の魔力発動と引き替えに起ったのはミムラ氏の腹上死だけでなく、スナフキンとの母子関係の忘却もありました。魔力は過去をも改変したのです。
 ですが谷にはまた異変が起ろうとしていました。


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 第五章。
未登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、前述。
 三人の魔女トロール
 その一、トゥーティッキ、前述。
 その二、モラン、前述。
 その三、フィリフヨンカ、前述。だが……

 長い悪夢を見ていたような気分なのはスナフキンに限らず、ムーミン谷に結界を張る三人の魔女も同じでした。この三人の魔女は協力して結界を張り、ムーミン谷を世界から隔絶させてきましたが、おたがいの存在はおろか自分たちが結界を張っている魔女であるのも知らなかったのです。
 ですからこの結界はいたるところがほころびかけていました。これを身近なものにたとえると、何度結んでもほどけてしまう靴ひものようなものです。なぜわれわれは靴ひもを結ぶかといえばもちろん、履いて歩くためですが、歩くと靴ひもがほどけてしまう。しかし歩かなくては靴ひもを結んだ意味がない。
 それと同じでこの結界は、なまじ張られているために全世界から注目を浴びる地帯になっていました。つまり結界など張られていなければここは、単に北の国の無人地帯で済んだはずなのです。
 ですが結界の存在自体がこの地帯を結果的に神話化させてしまったのは、結界に踏み込んで帰ってきた人が誰もいないからで、そのことからも外部の研究機関ではこの結界の性質を外部からの侵入は許すが、元々の住人であれ外部からの調査員であれ、内部からの脱出は厳重に食い止めている、と判断していました。
 この事態は、魔女たちの存在が続く限り続くことでした。魔女たちの結界を発動させたのが、発動の魔力の代償に35人の子だくさんになったミムラ夫人でした。なぜミムラ夫人が、といえばミムラ族は単性生殖だったからです。
 結界の魔力発動と引き替えに起ったのは、結界内すべての生命のトロール化であり、記憶はすべて失われました。またはただの空想と区別がつかなくなったのです。スナフキンが見ていた悪夢は永遠に続くムーミン谷の現実そのものでした。


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 第五章。
 コイントス
 コイン、と言ってもムーミン谷には通貨はないので文献上の知識から考案された偽コインですが、その偽コインはジャコウネズミ博士とヘムル署長の立ち会いのもとヘムレンさんの手のひらに載せられ、スノークが下から叩きあげました。
 失礼、大丈夫ですか?
 なあに平気だよ。それよりコインが飛んで行ったぞ。探してくれんか?
 まずいことにコインは垂直に跳ばなかったのです。それは間近にいたフローレンとスティンキーの眼もかすめ、ムーミン一家のテーブルに跳ね、ミムラとミイの35人兄妹のテーブルの下に潜り、ビフスランとトフスラン夫婦のテーブルの下を走り、トゥーティッキとモランとフィリフヨンカのテーブルの横をすり抜けて、スナフキンの椅子の下で止まりました。レストラン中の、
・今ここにいる人
・いない人
 は重い沈黙のなかにいましたから、転がって行ったコイン(偽コイン)が倒れる音ですら巨大なつららが落ちたように響きました。
 わっ、と肩ひじついていたスナフキンは自分の肛門の真下から響いた音に驚き、その声に驚いてテーブルから生えたり引っ込んだりしていたニョロニョロもいっせいに硬直しました。実はニョロニョロが硬直した姿を見た住民はムーミン谷にはおらず、コインが倒れたことよりもそちらのほうが驚嘆すべきことでしたが、誰ひとりそのことには気がつかないのがムーミン谷の知的水準を永久凍土と化している原因でもあり、ムーミン谷の存在理由と限界を示しているのです。
 それは同時にムーミン谷が世界から結界によって隔絶されねばならない理由でしたが、ムーミン谷の住民たちにはこの谷が全世界で、ここはどこかの大陸の西海岸で北西に大山、その向こうの北西沖にニョロニョロ島、海岸の南西側には二子山があり、東の山脈はおさびし山で、谷の中央には川が流れています。大山と二子山の間には住民たちが水遊びする海岸があり、二子山にはほらあながあってムーミンたちの多目的施設になっており、谷の南北の北部は氷土、谷が平原につながる南部にはムーミン一家の住む家があってその南側の庭にはムーミンママの家庭菜園があり、谷の南はそこから先がありません。しかしスナフキンはその、未知の南からやってきたのでした。
 ありましたよ博士、これは裏ですか表ですか?
 そんなの私にもわからん。とにかく食事は続くようだな。


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・未登場人物
 ミムラ夫人、ミムラやミイら35人の母親。スナフキンの実母。
 三人の魔女トロール
 その一、トゥーティッキ。気のいい世話好きな魔女トロール
 その二、モラン。すべてを凍らせる冷たい灰色の魔女トロール
 その三、フィリフヨンカ。きれい好きで神経質で気が小さい魔女トロール

 ミムラ夫人は今ここにいませんが、かつてもいませんでした。35人の子どもたちは気づいたらそこにいたのです。ときおり顔ぶれはちがう時もありましたが、35人という定数と、長姉のミムラねえさんとちびのミイ(ポケットに入ります)だけは変りませんでした。この多人数の兄妹たちが存在するのに両親、少なくとも母親すら存在しないのは何故か、本人たちも周囲もまるでそれを詮索も頓着もしないのがムーミン谷の美徳と言えるでしょう。
 正解にはミムラ夫人はいたのです。しかし彼女は世界からムーミン谷を隔絶させる結界を三人の魔女に張らせるとともに、その代償から自分自身を消滅させてしまいました。結界を張られたムーミン谷は記憶を持たない谷となり、魔女たちは魔女であることを忘れ、結界を発動させたミムラ夫人はこの谷の過去にも現在にも未来にも属さない存在になりました。
 それはちょうど医療者が感染症の治療過程で患者から感染し、陽性反応が出て一定期間、医療の仕事ができなくなるようなものです。しかもムーミン谷の結界は半永久的なものでしたからミムラ夫人の非在も、三人の魔女の封印も半永久的なものでした。
 医療の場合は性病と肝炎が危険ですが、要因としては針刺し事故のほかに、内科で梅毒やAIDS、泌尿器科で淋菌やクラミジア、婦人科でも同様の検査がされることがあります。ほとんどが検査センターに外注し検出感度の良い方法で検査されます。淋菌は培養や顕微鏡検査でも見つけることができ、若い男性が東南アジアあたりに遊びに行き、帰国したら膿のようなものが出るからと病院を受診したら淋菌が出た、という話もよくあります。
 そうした理由で存在しないミムラ夫人はおろか、
・気のいい魔女トゥーティッキ、も、
・氷の魔女モラン、も、
・気弱な魔女フィリフヨンカ、も、
 まったく無活躍な、普通のおばさんでしかないのが今あるムーミン谷でした。そこにスナフキンが現れたのです。もちろんスナフキンからも、母親の記憶は消えていました。


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 ムーミン谷にはほど良い川幅の流れが東のおさびし山のふもとに沿って注ぎこんでおり、谷の半ばで流れは南から北へとゆるいL字型の曲線を描き、谷の中央を流れ、北西の大山の裏に回り沖へとつながっているようでした。
 ようで、と不確かなのは大山の裏は断崖絶壁の上、そこまでくると入江に近く、川の流れも海流や潮の満ち引きで不規則なばかりか滝すらいくつもあり、さらに突然のうずまきが川面を流れる何もかも水中に呑みこんでしまうからです。あわせて69の学位を持つヘムレンさんとジャコウネズミ博士が何度も観測を試みましたが、満足な成果どころか不満足な成果すら得られません。
 だが私はやってみたのさ、というのがムーミンパパの口癖でした。実現困難な話題を聞くとそれは私がやってみた、とムーミンパパは必ず言うのです。発明家フレドリクソン、そしてロッドユールとソースユールの男女コンビがヘムル孤児院出身のムーミンパパの冒険仲間でした。
 もっともムーミンパパには経歴詐称癖もあり、実際に育ったのはフィリフヨンカ孤児院らしく、その点を突かれると私のような著名人の場合、在命者に迷惑がかかるからと理由にならない言い訳をします。しかも実は伯母がいる、本当は裕福なエリート軍人家庭出身という噂にも信憑性があるのです。ですがムーミンパパが結婚前は職業冒険家として谷じゅうに名をはせていたのは事実で、早い話が谷いちばんの問題児だったのでした。
 だからムーミンパパが所帯を持って冒険家から足を洗うのは、谷の住民みんなが大歓迎だったのです。ムーミン族の雄は代々スノーク族の雌とつるむ慣習があります。そこでムーミンパパ(当時ムーミン)がフレドリクソンと嵐の沖へ、ニョロニョロ島周遊にオーシャン・オーケストラ号で船出した時、住民から有志がムーミンママ(当時フローレン)を素巻きにして沖へ放りだしました。救助した雄と救助された雌にはもくろみ通りロマンスが芽ばえ、冒険仲間のロッドユールとソースユールも婚約し、フレドリクソンも一介の市井の発明家になりました。めでたしです。
 そして婚約中のムーミンたちとふたりのユールたちは合同結婚式の計画をしていました。挙式は新居でつつましくやろう。披露宴は住民みんなを呼ぼう。だがどこで?するとムーミンパパ(当時ムーミン)が新聞から顔を上げて言いました。
 この谷にもレストランができたそうだよ。


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・未登場人物
 スニフ。ムーミンパパの旧友の冒険仲間ロッドユールとソースユールのあいだに生まれた、ツチブタに似たトロールの少年で、ムーミンの親友。親子二代のつきあいのため、ムーミン家ではスニフの部屋があるほどもてなされている。臆病だが落ちているものを拾い集めるのが得意。ムーミンに輪をかけたうすのろ。

 ですがスニフはこれまでもずっと存在を消していました。ムーミンに輪をかけたぼんくらでしたが、臆病なだけに危機察知能力には長けていたのです。
 名前の響きは似ていますがスノークの語源はスノッブ(気取り屋)と同一なのに対しスニフはそのものずばり嗅ぎつけ屋でした。キラキラ光る物には目がないのです。特に小銭と光り物には鋭いカンを働かせました。器用で大胆で知恵のまわる両親の長所をことごとく遺伝しなかったために、スニフは谷でもうすのろの、不肖の二代目扱いされていました。スニフに対して親密なのはムーミン一家とスナフキン、トゥーティッキおばさんくらいのもので、ミイやスノークは当然のことミムラやフローレンにすら小馬鹿にされているくらいです。
 ムーミンスナフキンすら見当たらないと、スニフの遊び相手は見えない友だちだけでした。ひとり言を言いながら谷の子どもの遊び場で楽しげにしているスニフが夕方にはよく見られました。両親や親しい人は別として、ムーミン谷の住民誰もがスニフには子どものうちに死んでほしいと願っていました。
 ですがスニフが存在を消していたのは住民からの嫌悪を感じていたからではありません。スニフは偽ムーミンを見破っている唯一のトロールだったのです。
 初めて偽ムーミンが現れた時、スニフは一瞬で偽者だと看破しました。逆光を浴びてつむじから伸びた三本のアホ毛に気づいたからです。その後もしばしば偽ムーミンムーミン本人になりすましているのにスニフ以外はムーミンの両親すら気づかず、谷での自分の立場を思うとスニフが指摘しても説得力はまるでなさそうでした。
 スニフは徐々に活気を増してくるレストランを眺めながら、ああやっぱり偽ムーミンだ、とぼんやり壁にもたれていました。姿を現してしまったら確実にムーミン一家のテーブルに呼ばれてしまう。それは避けたいが事の成り行きは見守りたい。途方にくれて壁にもたれているスニフは、まるでかつてのスナフキンのようでした。


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 ここに来る前と来てからのおれ、正確には来て放浪者になってからのおれは、まるで別人のようだ。それは放浪生活を始めたからなのか、放浪生活を強いられているからなのかはおれ自身にも区別がつかなくなっている。だいいちそれ以前からおれの仕事は町から町へと、そういっても実際は町どころか辺境の村のような土地ばかりに派遣されていたので、おれにとってはもう昔から旅がすなわち仕事のようなものだった。
 しかし旅と放浪はまったく違う。旅には目的があり、放浪には目的がない。というよりも旅とは手段であり放浪とは状態なのかもしれない。おれは目的を与えられてこの土地に来たはずだし、自分のための食糧は現地調達できるとふんでいたものの事務所に託されあいさつの折のお土産まで持ってきた。おれさえ口にしたことのない菓子だ。
・亀屋萬年堂のナボナ
 だがそれも廃棄処分する、と没収されてしまった。本当に廃棄されたのかはわからない。甘くてうまそうな菓子なのは開けて見ればわかるはずだ。ここは警察国家か?仮に警察の官令だとしても民間人、ましてや公務に招聘された外国籍人から私物を巻き上げるのが許されるのか?少なくともあれは、あの時点ではおれが事務所から預ってきたものだった。
・喰っときゃ良かった
 とりあえず鞄本体とコートを没収されなくて良かった……連中もこれは見やぶれなかったわけだ。なにしろおれは宿屋もないような辺境にも慣れてる。鞄から金具を抜いてコートの骨組みにするとなんとか頭から膝までが入るテントができあがる。膝から下はブーツで隠れるから問題ない。鞄は厚手の革を何層にも重ねてできていて、内側にボアがあるから、拡げて筒状にすればこれも膝までの寝袋になる。旅慣れていて良かったと思うのはこんな時だ。
・良いわけない
 なぜおれは変ってしまったと思うのか、おれを変えてしまったのは何か、それは招かれたにもかかわらず放りだされ、来たはずの道も引き返せなくなっているからだが、今やおれは水鏡にも影さえ映らなくなっている。光すらおれの体をすり抜けるということは、おれの肉体自体がすでに光の粒子なのだ。
 だがこの悪臭!そして料理らしきもの?だとすれば悪臭と料理のどちらかが幻覚なのだ。そしてここは、どうやらレストランのようなのだ。
 ですが悪臭はスナフキンの知るどんなドブよりひどい臭いがしました。


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 あの時はひどかったな、とヘムレンさんは唸って言いました。狂気の沙汰も金次第、または正気の沙汰ともいうが、貨幣などムーミン谷にはないからあの場合は食次第というべきか。だがわれわれトロールにとって食事はイメージでしかないのだから、より正確に言えばとっておきの祝いを粗末な料理で台無しにされた怒りなのだろうな。
 うむ、あれならいっそ会食などない方が良かった、とジャコウネズミ博士。おかげでムーミンパパ、当時はただのムーミンだったが、そのムーミンとロッドユールが本気で怒るとどれだけ常軌を逸してしまうかも見たし、フレドリクソンなどはその場で凶器を発明しておったのには感服した。女だてらにソースユールも大暴れだったが、あのユール夫妻のせがれがスニフなのだから世の中わからんな。しかし結局は……。
 彼女が原因だろうよ、とヘムレンさんはチラッと横目でムーミンママを指しました。新婦、当時のフローレンしかおらん、料理の豪勢な結婚披露宴などに固執するのは。いったいにスノークの雄は見え張りで、スノークの雌はやたら家庭的にふるまう性質がある。だが自分らだけで一度に谷の住民全員をもてなす料理はできない。
 そこに都合良くレストランができた、というわけか。だがあの建物はムーミン谷ができた時にはすでに存在していた、と言い伝えられていた。実はレストランだと判明したのはムーミンの結婚式が初めてで、それまではわれわれも不審に思うだけだったのだ。
 そしてあのひどい料理!披露宴の後半はムーミンパパがロッドユールやフレドリクソンたちと破壊の限りをつくしたな。私は手つかずの料理が並ぶテーブルがあれほど盛大にひっくり返される光景は初めて見たよ。こんな飯が喰えるか!という台詞もテレビアニメ以外では初めて聞いた。それもアジアの島国産のだ。そして味見した二組の新郎新婦以外その日は誰も料理を味わえなかった。
 ……翌日からわれわれ谷の住民は人目を避けるようにそのレストランに通い始めたのだ。悪臭や外観から想像したよりは多少はマシとはいえ、料理としては、
・マズイ!
 のひと言だった。にもかかわらず、われわれは通うのを止められなくなっていたのだ。そう、あのコックカワサキのレストランに。
 そしてその夜からスナフキンは残飯にありつき、誰の目にも谷の住民になったのです。


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 ムーミンパパの無駄話と食前の飲み物の追加注文で、すでに運ばれていたスープからすっかり気がそれていたのは、偽ムーミンには偶然の幸いでした。熱い状態でのそれは、おさびし山の岩をも溶かし、海水浴場にまけばあらゆる水中生物の息の根をとめる猛毒だったのです。それはかつて水爆実験の余波でよみがえった巨大で凶暴な古代生物すら数分で白骨化させました。これを俗に、
・毒を持って毒を制す
 といいます。
 それほどの猛毒が冷めるとただのスープになるのは、無視されるとそっぽを向く若い娘のような性質だからでした。ですが冷めてしまうと意地でもおいしいスープになって食客を堪能させようという一面もあり、ムーミンたちの知らない世の果てではこれを、
ツンデレ。と、
 呼んだ時代もありました。また重ねて幸いなことに、このスープは例によって強烈な悪臭を放ちましたが、外部には臭わず、熱いうちに飲んだ当人だけに猛烈に臭う、というしかけがありました。でもどっちみち冷めてしまったのだから関係ないのです。
 ムーミンパパが黒ビールを飲み干してじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ムーミンママもやはり目を細めてじーっと(偽)ムーミンを見つめ、その気配からスノークとフローレンも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ヘムル署長とスティンキーも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トゥーティッキとモランとフィリフヨンカもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ミムラとミイの35人兄妹も(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トフスランとビフスランもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、見えないスニフはあえて(偽)ムーミンから目をそらしてじーっとこらえ、スナフキンはじーっとテーブルクロスを見つめ、ニョロニョロはただニョロニョロしていました。
 (偽)ムーミンは自分にそそがれた注目にたじろぎながら、思い切ってスプーンを手に取ると、冷めたスープの皮を破ってひとくち、すすってみました。ん?
どうだねムーミン
 おいしいよ。何のスープかわからないけど。
 レストランじゅうがホッとしました。どれどれ、とムーミンパパそしてママ。
 ムーミン!これのどこがうまいんだ!
 ……ムーミンパパは蒼白でした。スープはやはり心変わりしていたのです。
 しかもまずいことに偽ムーミンは利き腕をまちがえていました。


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 ん?もう一度言ってくれないか、とスノークは言いました。どうもお前はお嬢さんぶって話すから聞き取りづらい時が多いな。本当のお嬢さまは威圧的なほど明晰に話すぞ。だからといって威圧的に話せとはいわないが。
 トイレに行ってくる、とムーミンパパ。あら、あなた早いわね。うむ、なにしろ黒ビールなど久しぶりだからな。気をつけて行ってらしてね。あのなあ、トイレに行くだけなのだぞ。
 あら、ミイがいないわ、とミムラねえさん。みんなどこに行ったか知らない?知ーらない。困ったわね。
 ご一緒してもいいかね、とヘムル署長。私はかまわんよ、あなたとヘムレンさんは本家分家だし、私とあなたは官吏仲間だがスティンキーくんは窮屈じゃないかね?あたしなんぞは光栄のいたりです。では合席も狭いからウェイターを呼んでテーブルを寄せようか。
 トゥーティッキはモランが苦手でしたがモランはフィリフヨンカを警戒し、フィリフヨンカはトゥーティッキに劣等感をいだいていました。女性の三人組はなんとなく一人対二人の構図になりがちですが、人間の価値観でトロールを見てはいけません。
 あら、もう済ませたの?いや、こんなものが入っていたのだ。ムーミンパパはシルクハットを裏返してみせました。な、私は寝る時以外脱がないのに、どうして入り込んだのだろう?とにかくこれでは男子トイレに入れん。そいつを帰しておいてくれ。
 スニフはもうそろそろつらくなっていました。こうしているあいだも道には小銭やビール瓶の蓋がキラキラしているにちがいない。でも今ここにいる人と、
・いない人
 がムーミン谷の全員だし、食事を終えた組が出ていかないかぎり誰もそれらを拾えないはずだ。
 トスフランはまだかなビフスラン、と仲良く料理の到着を待っていました。
 おお、来たぞウェイター、ヘムル署長とわれわれのテーブルを合わせてくれ。できますが、よろしいのでしすか?われわれ四人はそうしたいが、何か問題でもあるのかね?合わせると♥のかたちになりますが。
 お探しじゃない?すいません、とミムラムーミンママからシルクハットを受け取ってぶんぶん振り回しました。参った、降参、と目を回したミイが落ちてきました。あんた、どうやって入ったの?
 そして小用から戻ったムーミンパパの頭にはアホ毛が三本生えていました。(偽)ムーミンは内心の動揺を必死で抑えていました。


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 残飯をあさる生活といってもスナフキンの場合は、もしありつけさえすればかなりマシな残飯が得られました。いや、かなりどころではなかったのです。もちろんスナフキンはゴミ捨て場から食品を拾う行為に最初は抵抗がありましたが、まず疑問だったのはゴミ捨て場であるはずの場所に、
・作ったばかりの料理
 がそのまま捨ててあったことです。ひょっとしたらこれは、おれのようなホームレスに毒を盛るための罠なのではないか、とスナフキンは疑いました。試しにそこらの野生動物にでも与えてみれば判別がつくのですが、この土地の住民はだいたいが野生動物を二足歩行させたような肢体をしており、つまりはそういう進化をとげたわけだ、とスナフキンは推察しました。猫面の女性(?)や犬顔の男(?)はいても野良猫や野良犬はいないのです。
 疑問はまもなく氷解しました。相手からは見えないことをいいことに、スナフキンは民家の食事風景を窓から覗いてみたのです。着席した一家のテーブルに料理が並べられ、彼らはちょうど食事時間分団欒をすると手つかずの料理は下げられました。そういうことか、とスナフキンはひとりごちしました。ここの住民は別の方法でエネルギーを摂取しているらしい。おれには料理に見えるあれは、連中にはある種の儀式のための供物なのだ。手つかずなのはそういうわけだ。
 でもひょっとしたら粘土や廃物で作ってあるのかもしれないぞ、とスナフキンは気が進みませんでしたがまた歩いているとキャベツ畑に沿った道に通りかかりました。ひどいな、キャベツが全部腐ってる。青色申告のために農地登録して脱税しているのか。資本主義国はどこも同じだな。ん?ここは資本主義国か?
 それなら新鮮なうちに盗み喰いすれば良かった。しかも陰惨なことに、時季外れのコウノトリが置いて行った赤ん坊の泣き声があちこちから聞こえる。
 スナフキンは数往復してこの土地二か所の孤児院の門前の捨て子箱に嬰児全員を運びました。ああ、おれはこいつらを喰ってもいいんだな。もし残飯が喰える代物じゃなかったら、おれは赤ん坊たちを喰おう。
 ですが残飯は、ごく普通の食材を使った家庭料理でした。これでおれは赤ん坊を喰わずに済んだ。腹もくちた。なのにおれの存在が不可視のままなのは、これはどういうことだろう?むしろおれは、残飯より嬰児を喰うべきだったのか?


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 手際がいいな、とジャコウネズミ博士は感心してヘムル署長とスティンキーの前に並んだ前菜を眺めやりました。われわれなんぞはまだ食前酒すら頼んでおらんよ。まあそれは先生方は学者だがわれわれはおまわりと泥棒だからね。うむ、では同じものを注文するのは失礼に当るまいね?
 でもそうするしかないじゃない、とミムラねえさんは弟妹たちのブーイングをはねのけました。私たちが全員好き勝手なものを頼んだらどうなるか、同じテーブルに35人もいるんだから想像つくでしょう?
 だが問題はそんなことじゃなかったんだ、とスナフキンは思いました。スナフキンは谷で唯一の後天的トロールだったので、記憶のかけらがまだらボケ状にあるのです。問題は何を境に、おれがここの住民の一員になったかなのだ。
 フィリフヨンカは孤児院の経営者でもありましたが、自分にその素質があるとは自信が持てませんでした。彼女はある種の自己啓発セミナー中毒者でしたが、周期的に克己心を起して受講してみるものの、セミナー自体が彼女には試験だったのです。明らかに自信ありげなトゥーティッキと存在自体が凍てついたモランとの同席は、フィリフヨンカをますます心許ない気持にさせました。
 トフスランとビフスランは熱く見つめあい、おいしい?一緒なら何を食べてもおいしいね、と注文しなかったはずのコンニャク入りコロッケを分けあってつついていました。
 では私が代って注文しようか、博士らはなんの料理か知らんだろう。ビールは中ジョッキでいいね?ウェイター!カブラのドンドコ煮とトンビのパッパラ揚げ追加、急いで頼む!そういう料理だったのか、見た目はどちらも不細工なコロッケにしか見えんが。
 ウッーウッーウマウマ、と突然スノークは踊りだしました。どうしたのお兄さま気でも狂ったの?失敬な、これは佯狂というのだ。つまり気ちがいのふりだな、実は昔から試してみたかったのだ。お兄さまは留学されて学歴はあるけど知性はないのね、私が訊きたいのは……。なぜ踊りだしたりするのか、だろ?昔観た芝居の王子さまがこうやって周囲を欺いていたのだ。恋人を尼寺に行け!と自殺に追いやりまでしてな。
 それなら知ってる、と図書館住まいの偽ムーミンは思いました。つまりおれ、正しくはムーミンになりすましたおれがハムレットになればいいわけだ。これは切り札に使えそうだぞ。
 第五章『運命』完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)