(21)
第三章。
私が10歳で、私たちの町のラテン語学校に通っていた頃の体験から話を始めよう。当時のいろいろなものが私に向かって匂ってくる。暗い路地、明るい家や塔、時計の音、人の顔、住み心地のよい温かな快適さに満ちた部屋、秘密と幽霊に対する深い恐怖に満ちた部屋などが、心の内から痛みやおののきをもって私を揺り動かす。……もう片方の世界は生まれた家だった。いやそれはもっと狭いもので、実際は両親を含んでいるにすぎなかった。
ラテン語学校?何の話?もっとわかりやすく話してくださいませんか?
……では10歳になり、ふるさとの町のラテン語学校に通っていた頃のある体験から、ぼくの話を始めることにしよう。あの頃のにおいが、どっとぼくに吹きつけてくる。何やかや、悲痛な思いと快いおののきで、ぼくを内からゆさぶるものがいろいろあるのだ。薄暗い横町もそうだし、明るい家や塔もそうだ。時計の音やさまざまな人の顔、ぬくぬくとして居心地のいい部屋も、おばけの出そうな、神秘に包まれた部屋もそうだ。……もう一方の世界は、父の家だった。といっても、もっと狭い世界で、本当はぼくの両親だけしか含んでいないのだ。
そうですかあ、とミミィは言いながら、私もう一杯いいですかあ、とりんごサワーをダニエルに取ってこさせました。酔っ払いの繰り言には慣れていますし、えんえんひとり言をつぶやいているようなお客さんほど店には儲けになるのです。私こんどの休みにはどこか日帰りでのんびりしようと思ってるんですよ、お客さんどこかいい所知りませんかあ?
しかし客は自分が10歳で、故郷のラテン語学校に通っていた頃云々という話題に執拗に固執して譲りませんでしたので、ミミィはトイレに立つふりをしてデイジーに接客を替わってもらいました。デイジーも自分の受け持っていたお客の相手に飽きて席を立っていたのです。客を替えれば少しは飽きずに接客もできますし、余分にお客にお金を使わせることもできますから、自分のお客に飽きてきた時はだいたいこういうふうにして入れ替わっているのです。
ミミィがハローキティの双子の妹であるように、キャシーの姉のデイジーも妹にそっくりでした。もっともミミィたちがこねこなのに対して、デイジー姉妹はこうさぎという違いはあります。そしてミミィは、さきほどお店に来ていたうさぎの女の子たちはデイジー姉妹の友だちなのかな、と漠然と考えていました。
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アギーはひと見知りで、仲間うちでつるんではいてもウインとバーバラとはミッフィーやメラニーを間にしてしかあんまり会話したことがありませんでしたが、ハローキティのお店を視察して戻ってからはバーバラとは何となく親しくなっているのに気づきました。化粧室は特に席は決まっておらず各自持参の化粧品箱をロッカーから出してくるのですが、ウインやメラニーはやたら手早いか入念か神経質なところがあり、たいがいはのろのろとやっているアギーは隣あわせると落ちつかないのです。のん気なバーバラもアギーと同じように感じているようでした。特に今日、敵情視察(?)から戻ってからは、クールなウインはいつも以上に人を寄せつけない雰囲気で、世話焼きのメラニーは捕まったら最後この先々の人生設計までこと細かにアドヴァイスされそうでした。
つまりウインとメラニーは、ハローキティの店を覗いてきて内心の動揺が激しく、ふだん通りにふるまおうとしている分だけ身ぶりが大きくなっていると思われました。私は鈍いだけかもしれないけど、とアギーは思いました、バーバラがいつも通りなら私もそうしていよう。化粧室での仕事の支度はお掃除(仕事上がりは散らかしたまま帰ってしまうので)とお化粧ですが、鏡のついた化粧台は2席、化粧台が埋まっていたらテーブルに化粧箱を置いて箱の裏蓋の鏡でお化粧することになります。掃除との順番や席順は特に決まっていません。今はみんな外出から戻ってきて、耳に変装用のリボン(こねこに化けるならこれよ、とミッフィーが調べてきたのです)をつけたままでひじをついてテーブルを囲んでいました。
飲み物持ってこようか、とウインが言いました、みんな好きなのを言ってよ。あ、私が行くよ、とメラニーが先に立ち上がったので、みんなはにんじんジュース、バーバラはりんごジュースにしました。飲み物を取りに行ったのがメラニーだったので、アギーは少しほっとしました。ウインが取りに行ったらアギーとバーバラはメラニーの餌食です。ウインはウインで威圧感を感じさせますが、ウインの無口は悪気があってのことではないはずです。メラニーも自分が飲み物を取りに立ったところで陰口をたたくほど度胸のある連中ではない、となめきっている面もあるのがわかりましたが、いない仲間の陰口など叩くのは誰しも後で嫌な気分になることでした。幸いメラニーはすぐに飲み物を持って戻ってきました。
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ミッフィーちゃんは自分のカリスマ性があっさり一蹴されてしまったような屈辱を感じました。そんなのってないじゃない、と自信を喪失していく時の彼女は、確かに一介のナインチェにすぎませんでした。でもどうして彼女の方からお店をたたまなければならないのでしょう?もともと元祖と呼べるのはこちらの店の方なのです。肩身の狭い思いをするいわれなどひとつもないはずで、なるほどお客は減っているかもしれない、その分売り上げも落ちているのは認めないではない。しかしひところに較べればこれでも持ち直した方で、大人になったからと言って縁が切れるお客さんばかりではなくなってきた。戦場とはひとつのテーマパークなら、その中にはミッフィーのシマがあり、さきほど見てきたばかりのハローキティのシマがあり、たぶんあのビーグル犬のシマもあると思われました。二足歩行する犬、というだけであの犬は自分たちの同類らしき匂いがしました。二足歩行するねずみの王国、というのもきっと世の中にはあり、さすがにねずみまでが擬人化の対象になるとねずみをねずみと呼ぶことさえきわどい禁忌にもなり、犬ならば擬人化しなくともかなりの知性と協調性があるとされますから犬であることは問題にはなりません。ねことうさぎではかなり差別されていますが、帰巣本能のあるなしで差別するなら人間だって怪しいものです。一定の条件下なら帰巣本能がないとされる生物にすら帰巣本能は後天的に芽生えます、と断言してまずければ、起こり得る、と言い換えてもいいでしょう。それを言えば巣作りをする動物の範疇に入る以上、ねずみにも一定の人格を認めないと公平を欠くとも言えますが、たとえハローキティを認めざるを得ないとしても、また、あのビーグル犬とはかぶらないからいいや、という根拠のないカンが働くにせよ(もっとも、もし本当にビーグル犬だったとしたら本来狩猟犬ですから、近づくと命に関わりますが)、ねずみだけはどうしてもミッフィーの美意識を逆なでするのです。だとしたらハローキティはどうなんだろう?初めてお店を見てきたばかりですが、お客さんはといえばギラギラしたマッチョのグループにアジア人の幼稚園児と、何だかよくわからないものでした。そしてあの軍人きどりのビーグル犬です。もしあんな連中がうちの店に来たら、と思うとナインチェは想像しただけでもげっそりしました。しかしこれでは負けを認めたも同然です。
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つぎの角を曲がると、まっすぐな二車線の対向車線の側に連なるように灰色の高い建物が建っているのが見えました。刑務所ですか、とキティちゃんが訊くと、運転手は女子校ですよ、と答えました。それなら私は何をさせられるんだろう、とキティちゃんは首をひねりました。徴用されて来はしたものの、どんな任務が与えられるのか、キティちゃんは知らされないままに連れて来られたのです。運転手ならそれを知っているかもしれない、と空港で迎えの車に乗った時には期待しましたが、ここまで来る途中にも空港乗務員、税関、窓口係員とおよそキティちゃんの徴用に伴う移動に関わった相手の誰もが軍事乗務とは知る様子はなく、さすがに最終目的地(と思われる乗り継ぎ地点)まで近づくにつれ、まるで雨ざらしの乗り逃げ放置自転車みたいな気分になるのでした。
旅程の途中からキティちゃんにはもみ上げの長い中年男が随伴することになりました。私は警視庁の銭形と申します、と警部だというその男は帽子を取りもせずに名乗りました。私は護衛なんかいらないわ、とキティちゃんが言うと、護衛ではなく監視です、と銭形警部はむっつりと真面目くさりました。監視!ならばいっそう、なおのこと、従順に徴用に応じている自分が監視の対象にならねばならないのでしょうか?普通に考えれば、逃亡を企てる可能性のある相手でもなければ監視する必要はないはずです。ならばキティちゃんに対する監視はほとんど拘置押送と変わらず、これから待ち受けているのは徴用よりも懲罰、いっそ刑罰というような性質の処遇であると思われてくるのです。
私はどこに連れて行かれるんですか、とキティちゃんはほぼ回答を諦めながら尋ねました。さあ、私はただ、あなたの監視だけが職務ですからな。警部は煙草に火をつけると、意地悪でしらばっくれているのではない、と釈明したいのか、お仲間も現地で合流するようですよ、それかが目的地のようです、と多少は詳しく教えてくれました。現地合流、とキティちゃんはおうむ返しに、それしか教えてもらえないんですか、と詰め寄りました。そんなの道徳的に許されることでしょうか。
道徳はわかりませんな、と銭形警部は先端しか喫っていない煙草を乱暴にもみ消しました、それは私の職務にはない言葉です。あるのは法規だけです、それが唯一この世の中のすべてに公平な基準です。
そして車はどうやら、目的地に着いた様子でした。
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ミッフィーちゃんのようにあからさまに冷戦下に咲いたアイドルとは違い、ハローキティは東西情勢の指標を経済学に置くようになったプレ超国際高度資本主義の生まれでしたから、その本格的ブレイクもキティちゃん自身が体現し、予告していた無国籍性が大衆的消費活動に自然に浸透するまでほぼ20年あまりの歳月を要することになりました。つまり彼女は、それだけの長い間、銭形警部に監視されながら駅から駅への日々を強いられていたのです。もちろんキティちゃんとは個別のキャラクターというよりもひとつのコンセプトであり、いくらでも再生産可能なものでした。ハローキティの圧倒的な強みと不特定性はそこにあり、それゆえ彼女は誰よりも軽んじられ、にもかかわらず恐れられていたのです。いかなる時にも決して真実性のある実在にはならないという点で、ハローキティはミッフィーばかりか、ムーミン、スヌーピーその他もろもろの先人たちをおびやかしていました。キティちゃんは誰ともかぶることができるとともに誰ともかぶらないのです。
唯一彼女が踏み込めなかった領域にあの夢の国があり、そこはねずみによって支配されていました。ねことねずみでは最初から相性も最悪なばかりか、あのねずみはねずみでありながらねずみではない、そして実在する、という強引な前提で笑顔を貼りつけていました。笑顔が彼の無表情であり、それがあのねずみをひときわ不気味な自信で満たしていました。おそらくあの自信こそが、ウンコにハエがたかるように夢の国へと人びとを惹きつけているのです。
しかし20年もの待ち時間と言ったら!監視されているキティちゃんだけが唯一のハローキティではありませんから、彼女はあちこちで文房具になり、枕かばーになり、ぬいぐるみになり、食玩グッズになってきました。そのうち自分はいったい何をやりたいのかわからなくなってきたほどです。幼児のころに彼女を愛した女の子たちが母親になり、自分の娘にキティちゃん柄のお洋服を着せるようになるほど、すでに彼女は気づくとそこにいる存在でした。たぶんそうなるまでの時間として20年もの間、キティちゃんは待たされ続けていたのです。
そうでも考えないとつじつまがあわないほどに、もう彼女は自分の措かれた状態に飽きあきしていました。あまりに長い待機は人の心を放下に向かわせますが、キティちゃんの心はむしろ鬱積で内圧が高まるばかりだったのです。
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前向きに検討してみるわ、とミッフィーちゃんは苦しまぎれに返答しましたが、まさか身内から営業権を手離そうなんていう話が出てくるとは、とアトピー性疥癬でも診るような目つきでメラニーの表情を読み取ろうとしました。するとメラニーはさりげなく片手で自分の目もとを隠しましたが、見えている顔の下半分はどう見ても笑いをこらえているように見えました。わざとほくそ笑んでいる表情を、目だけ隠して見せつけているんだわ。だとしたら、いましがた口にしたばかりのことだって、いったい本当はどこまで本気なのかわからない。動揺させ、気落ちさせるようなことを言って反応を楽しんでいるのかもしれない。ひょっとしたらこれは一種の陽動で、こちらから何かボロが出るのを予想して揺さぶっているのかもしれない。かまをかけている、ってやつ。たちが悪いのは、この話がメラニー個人の考えなのか、メラニーが店のみんなの意見を代表して述べているのかもよくわからない、ということ。わざわざ1対1になる状況を作って話を持ち出してきたのも、その判別には役に立たない。
強いてわかることと言えば、とミッフィーちゃんは考えました、他の子がいないサシになった場面でこの話を持ち出したこと自体にメラニーの狙いがあること。メラニーはこういう場合ぜったい彼女自身に有利な状況を選ぶに違いないけれど、二人きりの密談であることがミッフィーにとっても好都合だと暗に匂わせているのに違いない。つまりトップであるミッフィーの決断次第で最善の策が決まること、メラニーが相談相手になる以上それは独断ではないしミッフィー個人が利するためでもないこと。そういう風に誘導していく気なのに違いない、としか思えませんでした。
ただしこれらはすべて正反対のやり口とも考えられるので、つまり左右どちらにもものごとが振れると予期される時に、本来の保守派が先に現状改革的な指向の強い選択肢を強く推してしまうという手口もあります。するとそれに対して本来の改革推進派の方が急進的な方策について慎重になりますから、保守派の方では改革案を修正するとともに本題からは隠蔽させていた別の目的の方も承認させてしまう。これもよくあるやり口で、しかも決着がつくまでいくらでも修正していけばいいのですからほぼ先手必勝の手口です。
ならば素直に出るしかないでしょう。みんなの意見も聞かないと、とミッフィーちゃんは答えました。
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今年のパインクレスト小学校のサマーキャンプは、とペニマン先生は言いました、戦場です。クラスのみんなは爆笑しました。パインクレスト小学校の先生はヴィトキェヴィッチ先生、リーブマン先生、オッターバーグ先生、シュルツ先生と冗談のきついユダヤ系の先生が揃っていますし、ペニマン先生はアフロ系とユダヤ系のハーフでその上ゲイと教育委員会でも人種差別撤廃のテストケースとして適性を注目されているような人ですから、生徒たちからの人気も高い先生でした。学校がもっと面白くなるのに異論はないからでもあるし、ペニマン先生のジョークは実際面白かったのです。
はいはい、皆さん静かに、とペニマン先生は言いました、ここは笑うところではありませんから。ところで中沢くん、とペニマン先生は手前の席のロイを指して(その席に座っていればペニマン先生には「中沢くん」なのです。ちなみにクラスは自由席でしたので、ルーシーが「中沢くん」と呼ばれたこともありました)、戦場とはどういうところですか?中沢くんことロイは、これは普通に答えた方がいいのかな、と、利害を争って軍隊と軍隊が戦うところです、と答えました。では具体的には?それは連合国軍とドイツ軍とか、北軍と南軍とか。
そうですね、それからアメリカとヴェトナム軍というのもありました。これはどこに利害があったんでしょうね?それからドイツ軍でもそうですが、戦争においては利害がはっきりしないのに戦っていると負けます。これは負けた時のことを考えずに戦ってしまうと負けるということでもあります。南北戦争などは負けても勝っても北軍の勝ちでした。私たちが今でも南軍を英雄視するのは外国の表現では判官びいきと言います。負けるとわかっているのに戦うのはロマンをそそりますからね。
まあ小学生には難しい話は置いておいて、と先生は、サマーキャンプが戦場というのは本当です。理屈を理解するのは難しくても、現場の空気に触れる体験は貴重なものです。もちろん戦闘に参加するにはみなさんはまだ歳が若すぎますから、ちょうどおあつらえ向きの休戦地がありました。斬ったはったの戦闘は見学できませんが、休戦中で待機している人殺しから体験談がうんざりするほど聞けるでしょう。兵士どうしでは飽きあきした話でも、みなさんが教えを乞えば生い立ちから自慢話までうんざりするほどお話ししてくれるはずです。任意参加ですが、ぜひ出るように。
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ではまずこれに乗ってみてください、とミッフィーちゃんの前に置かれたのは、人間ならば小学校低学年向けだろうと思われる自転車でした。ミッフィーちゃんはつま先立ちしてサドルになんとかつかまりましたが、足をかけてよじ登り、またぐことはできません。無理みたいですね、ではこれはどうでしょう。
今度は一輪車でした。これなら高さを調節できますからね、と腰の高さ程度に座高を調節してもらい、でも私、一輪車なんて乗ったことないんですけど。そんなの気になさらずにいいんです、乗れなければ乗れないのも大事なことですから、と係官を名乗る女性は言い、ミッフィーちゃんをうながしました。なるほど、要するにデータを取りたいわけね、と合点はいきましたが、ミッフィーちゃんだってそんなふうに、まるで実験どうぶつのように扱われるのは、いくら子うさぎとはいえあまり気分の良いものではありません。
乗りなさい、と係官の女性の口調が変わりました。しぶしぶミッフィーちゃんは、やあっ、と一輪車に乗ってみました。うまくまたげず、横むきですが、まるでパズルの破片がはまるように一輪車のサドルの上でミッフィーちゃんは微動だにしませんでした。カメラらしきシャッター音がしました。何で私、こんなことやらされているのかしら、と初めてミッフィーちゃんは思いました。
では進んでみてください、と係官は言いますが、ミッフィーちゃんには一輪車の進め方が、わかりません。だいいち、足がペダルを踏んでいないのです。係官はミッフィーちゃんの困惑を察したか、体重を移動させてごらんなさい、と言ってきました。ミッフィーちゃんはそうしようとしましたが、体重どころかからだ全体がスライドしてしまい、サドルからころげ落ちてしまいました。
痛ったーい、とミッフィーちゃんは大げさに声を上げました。ですが女性係官は意に介さず、では三輪車に乗ってください、三輪車なら乗れますよね?とミッフィーちゃんにだめ押ししました。三輪車ならミッフィーちゃんも乗ったことがあります。女性は三輪車を横に置きました。ミッフィーちゃんは横に置かれた三輪車をまたげませんでした。
ではこれならどうでしょう、と係官は三輪車を真正面に向けました。乗れます。次に三輪車を後ろ向きにしてみました。乗れます。そうでしょう、と係官はうなずきました。これではっきり確認が取れました。あなたは、いつも平面のうさぎなのです。
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キティちゃんは三輪車に乗りそこなうと、まだ試されるんだろうか、と思いました。いったい何を調べられているのかもわかりませんが、サーカスの入団試験ならキティちゃんには一輪車より他に向いた仕事があるはずです。たとえば、と言われても困りますが、向き不向きで言うなら絶対キティちゃんには向き不向きがあるはずです。
では今度はモニターを観てください、と係官が言いました、まずこれから流れる4本のテレビアニメを観てください。観るだけですか?この装置を持って(とコントローラらしきものを渡され)意味のわからない画面だな、と思ったらボタンを押してください。知能テストだろうか?キティちゃんはちゃんとした説明がほしいと思いましたが、最初から拒否権もないのでは質問しても無駄と悟りました。テレビアニメは『俺様のハーレムが少しずつ崩壊してるかもしれないけどたぶん気のせいかもしれない(仮)』『背徳ロボ・サドカ☆マゾカ』『もんもんびより』『野球のプリンス様』と続きました。キティちゃんは正直にモニタリングすべきか迷いましたが、後で追及されてボロが出るとかえって面倒なので言われた通りにボタンを押すことにしました。つまり二時間弱ほどボタンを連打するはめになりました。
なるほど、と係官、一応どういうアニメなのかはわかりましたか?キティちゃんは文章題なので困りましたが、ラノベ系青春ラブコメと、制御不能暴走巨大ロボットものと、四畳半日常萌えアニメと、学園スポーツボーイアイドルものだと思います。それだけわかれば大したものです、と係官、でもわからない画面ばかりだったんですね?画面というか……。ストーリーがわからない?それもあります、それに……。どこが面白いのかわからない?そうなんですが、そもそも……。誰が何をしているのかがわからない?はい、そうです。どういう場面かわからない画面ばかりです。
あの、すいません、トイレに行かせてもらえませんか、とキティちゃんは申し出ました。面接もかなり長引いたので、係官は許可をくれ、廊下に出て場所を説明してくれました。簡単に言えばフロアの廊下は回廊状になっているから、一周すれば必ずある、ということです。戻ってくる道筋も同じです。はい、とキティちゃんは急がず歩き出しました。まだ用件は済んでいないとはいえ、中座すると緊張がどっ、とほぐれるようでした。ただし残念ながらトイレは和式だったのです。
(30)
自由参加のサマーキャンプとはいえパインクレスト小学校は公立校ですから、授業はすべて義務教育です。私立校ならレジャー授業もあり、必修科目ではないものもあるでしょうが、公立小学校の場合は欠席科目には何らかの理由が必要になるでしょう。宗教的信条の場合は信教の自由上詳細を明かす必要はないでしょうし、政治的な理由の場合でも不参加は認められるでしょうが、微妙な場合もあり得ます。たとえばご両親がフリーメーソンであるとか。成人であれば思想的理由というのもありでしょうが、小学生の場合お父さん・お母さんの思想的立場と児童教育の平等とは一応別にすべき、とする学校側の教育方針もあるのです。そうでなければ義務教育としての学校教育自体が無意味ということになります。
あとは生徒自身の希望ですが、夏休みくらい学校のことを忘れてのんびり過ごしたい、という生徒だっているわけです。サマーキャンプに出る出ないでそう大したこともなければ、気乗りしない生徒は出なければいいだけです。が、戦場見学となるとあまりに大きな経験の差がつきすぎて、出ると出ないでは大人と子どもほどの差があるのは明らかでした。友だちづきあいとは別の次元で、純粋に社会勉強としてもそうです。それにこうした体験は、個人で負うには重すぎます。こうした行事は団体学習だからこそ咀嚼できる側面が大きいと、学校側も配慮しているでしょう。
どう思う?とみんなはフランクリンのまわりに集まりました。なぜなら前回の非公式選挙で、生徒会非公式会長選にはフランクリンがプレジデントに選ばれたからです。ちなみに対抗候補はルーシーで、アフロ系生徒にしろ女の子にしろ、パインクレスト小学校裏プレジデントがアーリア系男子以外の決戦投票になったのは初めてでした。もっとも、選挙しなくてもフランクリンほどかしこい少年はおらず、強烈なリーダーシップなら(反リーダーシップ、破壊力、つまり事態を滅茶苦茶にするのも含めて)ルーシーに勝る少女はいなかったからです。
そうだね、とフランクリンは慎重に言葉を選びました。サマーキャンプに出たい人を基準にするか、出ない人を基準にするかで意見をまとめた方がいいと思う。ぼく自身は、自由参加という学校側の建て前には抵抗がある。
ならどうすんの?とルーシー、全員参加か全員不参加?サボタージュ突入ってわけね。パインクレスト小の叛乱!上手くいくかしら?
第三章完。
(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)