人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月20日・21日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(3)

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 いつ頃から「ベティカーを知らないやつは西部劇を知らない」と言われるようになったかを思うと'80年代になってからでしたが、各種文化会館の古典・日本未紹介映画上映サークルが盛んになったのも同時期ながら、ベティカー作品は民生上映用16mm版もあまり出回っていなかったようでほとんど上映されない名のみ高まって幻のままの映画監督の筆頭みたいな監督でした。ニコラス・レイサミュエル・フラーの配給権切れ作品が民生用16mmプリントでそれなりに観る機会があったのに較べてもベティカーの映画はなかなか観られなかったしビデオ化もされなかったので、「ラナウン・サイクル」からの代表作以外の作品も観られるようになったのは低コスト・プレスの可能なDVDソフトの普及以降で、それを言えば21世紀になるまでベティカーは40年あまり幻の映画監督のままだった、とも言えます。'80年代~'90年代にはレイやフラーですら主要作品をひと通り観るのに稀な上映会に注意して駆けつけて5年~10年かけないと観られない、という環境でしたが現在では40作あまりあるベティカー作品のうち主要な20作以上がDVD視聴できるようになりましたが、ベティカーのような'50年代西部劇を好んで観る人はごく一部の西部劇好きの映画趣味の人に限られてくるのではないか。現代映画では西部劇自体が大して人気もなければ製作数も少ないジャンルになっているのは日本映画で時代劇が衰退しているのと同様の現象で、西部劇なり時代劇なりを観て育った世代がすでに高齢化して後継世代が育たないとすればベティカーはおろかジョン・フォードって誰?となっていても仕方ないので、フォードを知らなければジョン・ウェインもどういう映画俳優かわからないように代表作がランドルフ・スコットの壮年作でもあるベティカー映画など興味・関心のカヤの外なのではないか。末期の三百人劇場(2006年閉館)でベティカー特集上映会があったとしても百人も客は入らず日本全国でもベティカー映画の観客は200人くらいしかいないのではないか、とも思えるので、ベティカーを知らないどころか西部劇自体に関心がない人が多くても今では当たり前なのかもしれません。そういう一抹の空しさはあるのですが、まだベティカーのあとにペキンパーという壮絶な人がいたとはいえベティカーはアメリカ西部劇の黄金時代末期に西部劇黄金時代の終わりとともに映画界から去っていった監督であり、それはペキンパーの映画の西部がもはやペンペン草とサボテンとタンブルウィードしか転がっていない荒涼とした西部であることでも痛感します。ベティカー映画は死臭漂うペキンパー映画(またはモンテ・ヘルマンの映画)の一歩手前の最後の西部劇なので、ペキンパーの陰気な『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』'73や『ガルシアの首』'74をご存知の方ならベティカー西部劇の味はわかります。今回の'53年の2作はともに前年度作よりさらに陰気な作風に進んでいく佳作です。

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●5月20日(月)
『最後の酋長』Seminole (ユニヴァーサル'53.Mar.20)*87min, B/W, Standard : 日本公開昭和35年('60年)9月16日

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 '53年アメリカ本国公開のベティカー作品は5作ありますが2月公開の『海底の大金塊』(日本劇場未公開・テレビ放映)はロバート・ライアンアンソニー・クイン主演、9月公開の『East of Sumatra』(日本劇場公開)はジェフ・チャンドラーとアンソニー・クイン主演でともに海洋SFアドベンチャーらしく、また筆者も未見の上に映像ソフト化もされていないので見送らざるを得ませんが、3月公開の本作『最後の酋長』、8月上旬公開の『平原の待伏せ』と下旬公開の『黄金の大地』は西部劇で幸いどれもDVD化されており、『East of Sumatra』がベティカーのユニヴァーサル最終作になりますから2作の海洋SFアドベンチャーはユニヴァーサルのアドベンチャー映画路線の企画があてがわれた節があります。それでもともにアンソニー・クイン出演、特に『海底の大金塊』はロバート・ライアン主演とあっては気になりますが、'53年に本作『最後の酋長』を含めて3作もアンソニー・クイン出演作を撮っているのも特筆すべきで、翌'54年にはベティカーはテレビ作品しか関わっていませんが'55年にはモーリーン・オハラアンソニー・クイン主演の闘牛ロマンス『灼熱の勇者』が20世紀フォックスの大作として封切られるので、長らくインディアンの酋長役やメキシコ人の悪人役が役所だったアンソニー・クイン(1915-2001)は『革命児サパタ』'52で'53年度アカデミー賞助演男優賞、主演したイタリア映画『道』'54がアカデミー賞最優秀外国語映画賞を獲得する世界的ヒット作となっていたので、おそらくアカデミー賞助演男優賞受賞以前に出演契約数を結んでいたユニヴァーサルには'53年の集中的な3作は契約消化的な意味があり、『灼熱の勇者』は『道』の大ヒットを受けて本格的な主演作(クレジット上はモーリーン・オハラが先ですが、そこはギャラの差・スターの格あってのことでしょう)が企画されたと思われ、日本で最初に劇場公開されたベティカー(当時ボーティカーと表記)作品は昭和27年('52年)の『美女と闘牛士』'51、次に昭和32年('57年)の『灼熱の王者』'55で、最新作『七人の無頼漢』'56が『灼熱の勇者』より数か月遅れて公開され、ユニヴァーサル時代の西部劇作品はベティカーの新作西部劇の公開にあわせて昭和33年('58年)以降に5年以上遅れて公開されています。『美女と闘牛士』『灼熱の勇者』の2本までの公開では闘牛映画の監督で、『七人の無頼漢』でようやく西部劇監督の面が知られたので『反撃の銃弾』'57(昭和33年='58年)からやっとユニヴァーサル時代(といっても'52年~'53年の2年に9作、うち西部劇6作)のベティカー作品が半数ほどは日本公開されるも、新作も旧作も批評家受けも悪ければ観客にも受けなかったので、『七人の無頼漢』に始まる7連作「ラナウン・サイクル」は最初の2作『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』、最後の2作『決斗ウエストバウンド』'59、『決闘コマンチ砦』'60といった具合に中間3作は未公開に終わっています。新作旧作入り乱れての公開も印象の混乱を招いたのではないでしょうか。映画監督でも俳優でも年代を順序だてると成長や変遷がわかりやすいのに対して、本作などは実質的な映画界引退作品『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』'60(日本公開昭和35年='60年5月)よりあとに公開されています。前年度作『征服されざる西部』ではロバート・ライアンの義弟役の副主人公だったロック・ハドソンが今回は訳あってインディアンのセミノール族の酋長になっていた旧友のクインと再会するが、インディアンと白人側双方の立場で困難に直面した二人の運命は……となかなか面白い映画になりそうな設定で、西部劇はもともときちんと白人を侵略者、インディアンを誇り高い被害者に描いてきた伝統がありますが、これは西部劇では南北戦争北軍(東部人)と南軍(南部人)の寓意だからでした。戦後型西部劇ではさらに複雑になっているのが本作にも反映していて、それぞれのアイディンティティが揺らぐような描かれ方をする。本作も製作年のサバを読んで日本公開されたようですが、日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) セミノール族インディアンと白人の抗争を描く西部劇。チャールズ・K・ペック・ジュニアの脚本を、「レッグス・ダイヤモンド」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影と音楽は「黒い肖像」のラッセル・メティとジョセフ・ガーシェンソンがそれぞれ担当。出演は、「夜を楽しく」のロック・ハドソン、「黒い肖像」のアンソニー・クインのほか、バーバラ・ヘイル、リチャード・カールソンら。製作ハワード・クリスティ。
○あらすじ(同上) 1835年、士官学校を卒業したコールドウェル少尉(ロック・ハドソン)はフロリダのキング砦勤務を命じられた。彼はこの近くの出身で、セミノール族インディアンに詳しかった。合衆国政府は南部のインディアンを西部保護地に移す計画を立てた。が、セミノール族の酋長オシオラ(アンソニー・クイン)は頑強に反対し、砦の守備隊長ディーガン少佐(リチャード・カールソン)を困らせた。コールドウェル自ら説得役を買って出た。彼は交易所で幼馴染みのレビーア(バーバラ・ヘイル)と再会した。単身カヌーに乗ってコールドウェルは奥地のオシオラに会った。オシオラは昔の親友パウエルだった。2人は問題を平和に解決しようと誓った。頑迷な少佐は討伐隊を率いて集落に向かった。が、逆襲を受けコールドウェルはオシオラに捕まり、少佐はやっとのことで砦に逃げ帰った。少佐はレビーアを使者にオシオラに和睦を申し込んだ。彼はコールドウェルを伴って砦にやって来た。少佐はすきをみてオシオラを土牢に閉じこめ、コールドウェルを営倉に入れた。その夜、一族の青年ケジャック(ヒュー・オブライエン)はオシオラが白人と妥協したと誤解し、暴風雨をついて砦に忍び込んだ。オシオラを刺そうとしたが、コールドウェルが止めた。ケジャックは逃げ、オシオラは牢内で溺死した。砦の軍法会議でコールドウェルは反逆罪に問われた。銃殺刑執行の直前レビーアとケジャックの一隊が急襲した。真相が明らかになり、コールドウェルは無罪、ディーガンは逮捕された。ケジャックは平和を約し、コールドウェルとレビーアは結ばれた。
 ――本作も西部劇第1作『シマロン・キッド』同様ヒュー・オブライエンの犯行が発覚するのですが、どうも違う脚本家の『征服されざる西部』でもそうでしたが(あちらはレイモンド・バーが強烈な悪役でした)、映画冒頭1/3は快調な展開なのに中盤1/3でテーマが割れて焦点があいまいになり強引な方向に話が向かい、後半1/3はばたばたしすぎてとにかく形だけでも勧善懲悪に持っていくような脚本の無理や追究の浅さが難点になっています。『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』の場合アンチ・ヒーロー型アウトローと化していくオーディ・マーフィロバート・ライアンに収束していったため中盤の混乱や後半のばたばたはまあいいか、と思えますが、本作の場合真の主人公はセミノール族の酋長になっていたアメリカ軍人出身のクインなので、もと旧友だったハドソンとクインのたがいの立場の苦悶がどうなっていくか、というのが本作の最大の焦点なのに映画中盤1/3はクインが暗殺され、ハドソンに冤罪がかかるということになってしまう。映画冒頭が軍法会議にかけられるハドソンの姿から始まり中盤1/3の終わりでクインが暗殺されハドソンが冤罪逮捕される、と回帰するのですが、後半1/3はクインの死が駐留軍内部の陰謀かセミノール族内の抗争かがハドソンの独自捜査で二転三転し、結局軍内部の陰謀とセミノール族の内部抗争が偶然重なりあったタイミングでクインが暗殺される隙が生まれたのが明らかになります。いや、これを西部劇ミステリーとすれば謎解き映画に展開するのもいいのですが、だったら前半1/3で鮮明に打ち出され、中盤1/3で雲行きのあやしくなったハドソンとクインのアイディンティティの危機をめぐる人種問題劇はミステリー展開にするためクインを暗殺させてしまったことで霧消してしまったのに本作の物足りなさがあり、真の主人公たるクインが殺されてしまってからの後半1/3だってハドソンが謀叛を起こす展開もあり得たでしょうがハドソンはそういうキャラクターの俳優ではなく、平和共存を望む穏和な女性的な受動型キャラクターの俳優です。ハドソン自身は好演ですしもともとそういうキャラクターのタイプの俳優ですから、逆にハドソンが旧友クインの謀殺に激昂して軍に謀叛を起こしたらその方がミスキャストなのですが、だったら本作前半~中盤の2/3のハドソンとクインの対照劇は『折れた矢』'50のようなインディアン側に立った戦後西部劇の風潮を中途半端に取り入れただけに終わってはいないか。ハドソンとクインがともに名優でキャラクターに見あった好演で中盤までは進むためにますます本作の不徹底は惜しまれ、2月公開の前作の海洋SFアドベンチャー『海底の大金塊』は興行収入125万ドル、本作も140万ドルとユニヴァーサル社のB級予算映画としては『シマロン・キッド』(125万ドル)や『征服されざる西部』(150万ドル)と同等のヒット作だけに、観客もクインが中盤2/3で殺されてしまう展開には意外性があるとも、何でクイン殺しちゃうんだよと悔しがるのと両方の反応があったのではないでしょうか。娯楽映画のユニヴァーサル社はミステリー映画でも西部劇でもアドベンチャーでも怪奇映画でも結末は勧善懲悪ハッピーエンドなのがお約束なので、クインやハドソンの人物像を突き詰めてしまうと本作では両者とも破滅を免れない。そこでクインは中盤2/3までで殺され、ハドソンの無罪が証明される作劇にしたのがユニヴァーサル流なのでしょうが、本作はベティカー自身も本当はこうじゃないんだがなあと思っているのが透けて見えるような面があり、結末のあわやハドソン処刑か、という時に突如現れたセミノール族が矢を構えて処刑場を囲んで真相を明らかにする、という場面には後半ようやくベティカーの本音が表れたような手際が見られます。しかしヒロインにせっかくのバーバラ・ヘイルを得ていながら本作のヒロインは存在感皆無で、そんなところもベティカーらしい愛嬌を感じます。

●5月21日(火)
『平原の待伏せ』The Man from the Alamo (ユニヴァーサル'53.Aug.7)*79min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和33年('58年)12月24日

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 本作はアメリカ・メキシコ戦争、いわゆる「アラモの戦い」に材を取った作品で、1836年2月23日~3月6日の13日間におよんだアラモ砦のアメリカ軍の全滅にいたる籠城戦が背景にあり、もっとも有名なのはジョン・ウェイン製作・監督・主演の『アラモ』'60でしょう。この戦闘はアラモの戦い100周年に映画化されてから今日まで幾多の映画化があり、本作はその中でも知名度の低い作品ながらベティカー作品らしい負け犬型主人公(負け犬になっていくのではなく、本作の場合は最初から負け犬呼ばわりされている)を冒頭から描いた点で注目され、撮影がダグラス・サークの『愛する時と死する時』'58のカメラマンなら主演は本作と同年にフリッツ・ラングの傑作『復讐は俺に任せろ』に主演したグレン・フォードと、もう悪かろうはずはない布陣で、日本公開昭和33年('58年)12月の本作のキネマ旬報の紹介が「『決斗ウエストバウンド』のバッド・ボーティカー」とあるのが当時慣習のボーティカー表記はともかく『決斗ウエストバウンド』がアメリカ本国公開は'59年4月なのに日本公開は昭和33年('58年)11月なのは『決斗ウエストバウンド』に関する謎ですが、『決斗ウエストバウンド』や本作が陸続と日本公開されたのに日本の映画批評家や観客には不評だったというのがベティカーには不運だったとしか言いようがなく、本作などは5年遅れの公開なのに製作年を'58年とサバを読んで公開されたらしいのもついていないなら(本作はスタンダード・サイズですが、アメリカ映画は'50年代半ばからベティカー作品も含めてシネマスコープ(ワイドスクリーン)が一般的になりましたから、'58年作品なのにスタンダード・サイズなのはB級映画のさらに下ではないかと見えたでしょう)、また当時の映画界は勢いがありましたから2~3年のズレでも「これは古い」という感覚があったと思えるので、5年前の旧作までサバを読んで新作と交互に公開されてシネマスコープだったりスタンダードだったりとまちまちなベティカー西部劇は何だか印象の定まらないように当時の日本の観客には見えたとも、作風自体が日本人の嗜好に合わなかったとも考えられます。戦前からの映画界のご意見番双葉十三郎氏がベティカー西部劇は「"心"がない」と評して映画雑誌の読者も賛同したのは、日本では『駅馬車』より『荒野の決闘』の方が名作視され、また戦後西部劇のヒット作は『シェーン』や『真昼の決闘』だったので、日本の観客の好むような情感や主人公像とはベティカー西部劇はだいぶ異なるものだった、と思えます。ベティカーの西部劇は従来の西部劇世界の理想の終焉を告げるものであり、ベティカー引退後の'60年代にはかつての西部劇世界の崩壊後の西部劇の時代になる。いわゆるアメリカン・ニュー・シネマはそうした'60年代西部劇から始まったので後世の映画観客にとってものちのアメリカ映画からさかのぼると'60年代西部劇には抵抗なく観られるのですが、ベティカー西部劇は古い西部劇の残滓があって黄昏期の西部劇といっても旧時代の西部劇ではないか、しかも旧時代の西部劇基準で観るとグダグダなのではないか、とどこか狭間のところに位置する映画に見えてしまうのです。ところが現在ではベティカー映画は意外な現代的テーマを浮き彫りにしている面があって、アメリカ本国'53年8月7日公開の本作『平原の待伏せ』は次作で8月26日公開の『黄金の大地』と対になるメキシコ連作と言ってよく、『黄金の大地』は1911年のスペイン領時代からの独裁政権打倒革命中のメキシコが舞台ですが、メキシコというのは南米最北端の自然発生的な民族国家がスペインに占領されて植民地国家になっていた国で、南部テキサス移民のスペイン系アメリカ人がメキシコに乗りこんでメキシコの権力者と手を結びスペインから独立を果たした国でした。しかしメキシコ国内ではスペイン領時代からの独裁政権が続いたので、それを背景にしたのが1911年の独裁政権打倒革命中のメキシコが舞台の『黄金の大地』なら、先立つ本作『平原の待伏せ』の1836年のアメリカ・メキシコ戦争は過去にアメリカ南部軍がメキシコをアメリカ領にしようとした戦争で、結局メキシコのアメリカ領化はかないませんでしたがアメリカは当時未開の地だったカリフォルニアをメキシコから手に入れます。カリフォルニア州はもともとメキシコ領だったので植民したアメリカ人も混血率70%以上と人種差別が低いのもそうした由来からで、ただしメキシコへの出入りは観光としては人気ながら密入国や密輸は厳しく取り締まられている。現アメリカ合衆国大統領トランプの馬鹿げた「メキシコとの壁」政策もそうしたメキシコとの歴史的確執によるので、1836年が舞台の『平原の待伏せ』と1911年が舞台の『黄金の大地』ではアメリカとメキシコの関係は侵略・略奪者(1836年)から解放協力者(1911年)に変わっている。両作とも『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』に続いてジュリー(ジュリア)・アダムスがヒロインで、アダムスといえば真っ先に上がる代表作はユニヴァーサル戦後怪奇映画の大ヒット作『大アマゾンの半魚人』'54ですが、ベティカーのユニヴァーサル契約は'52年~'53年とはいえ9作中西部劇6作以外に戦争映画1作、海洋SFアドベンチャー2作を撮っているのでユニヴァーサルに残留していたら『大アマゾンの半魚人』も直前のアダムスのヒロイン作を多く手がけたベティカーに振られた可能性は十分にある、と思うと面白い。本作も日本劇場公開作なので、初公開時のキネマ旬報の紹介を引きます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 米墨戦争中に、アラモの砦にたてこもり、メキシコ軍を迎えうって全滅したアメリカ守備隊の史実をもとに、その砦から抜け出して卑怯者の汚名をきせられた男を主人公とする西部劇。ナイヴン・ブッシュとオリヴァー・クロフォードの原作を「決斗ウエストバウンド」のバッド・ボーティカー監督が映画化した。脚色はスティーヴ・フィッシャーと「黄金を追う男」のダニエル・D・ビューチャンプ。撮影監督は「愛する時と死する時」のラッセル・メティ。音楽はフランク・スキナー。近頃西部劇によく出演する「偽将軍」のグレン・フォード、「全艦発進せよ」のジュリア・アダムスが主演し、「ジャイアンツ」のチル・ウィルスズ、「アリババの復讐」のヒュー・オブライエン、ヴィクター・ジョリー、ネヴィル・ブランド、ジョン・デイ等が助演する。製作アーロン・ローゼンバーグ。
○あらすじ(同上) 1936年。メキシコ侵入軍に対して、少数の米軍がアラモの砦を死守していた。オックス・ボウの町がメキシコ軍の攻撃を受けようとしていることが知らされ、家族をそこに残している兵達は苦しんだ。そして、クジによってジョン・ストラウド(グレン・フォード)が、秘かに砦を脱して急を知らせに行くことになった。事情を知らぬ人々にとっては、彼は卑怯者に見えた。ストラウドが町についた時、既に妻子は殺され町は全滅していた。生存者のメキシコ少年カルロス(マルク・キャベル)から、虐殺の犯人はメキシコ人を装う白人だと聞いた彼は、フランクリンの町に向かった。逃れた老人や女子供はそこに集結していた。護衛のラーマ中尉(ヒュー・オブライエン)はストラウドを脱走者として牢にぶちこんだ。カルロス少年は新聞社社長ゲージ(チル・ウィルス)と金持のアンダーズ未亡人(マイラ・マーシュ)にあずけられた。ラマー中尉の妻ケート(ジーン・クーパー)と姉妹の、娘のベス(ジュリア・アダムス)は彼を可愛がってくれた。避難民の馬車隊は北方に旅立った。牢の中でストラウドはドーズ(ネヴィル・ブランド)という白人匪賊の仲間の1人を知り、妻子の仇を討つため彼に加担し、町を襲ってきた一味に助けられて親分のジェス(ヴィクター・ジョリー)を知った。一味は避難民の馬車隊を襲った。急を告げるためストラウドは仲間の1人とわざと喧嘩して発砲し、目的を達したが、自分も撃たれて傷を負った。その彼をベスとカルロス少年が助けた。はじめてストラウドは自分の脱走の理由を語り、本隊を救援に行くラマー中尉の後を引き受けて馬車隊護衛の任についた。そして老人や婦人にも銃をもたせて待機させ、機略をもって、襲ってくるジェス一味に対戦した。護衛隊の去ったことを知ったジェスは一味を二手に分けて街道と裏山から襲撃して来た。機転を利かしたストラウドは馬車で街道をふさぎ婦人達に銃をもたせ至近距離に入ったら発砲するよう云いつけ老人達を裏山の岩陰に配置させた。時機を見たストラウドの合図で勇敢な馬車隊の人々は一斉に火蓋を切った。意外の反撃にひるんだ匪賊達は浮き足立ったが憎しみをこめた銃弾は彼らを倒していった。驚く首領ジェスを追いつめ、ストラウドは宿敵を倒し、仇をとって汚名をそそいだ。援軍に加わるために出発する彼を、婚約したベスが見送った。
 ――いきなりアラモ砦の戦いを「1936年」と間違っていますが、本作の場合おそらく英語版プレスシートに「In the Year '36 of Nineteenth, ~」とあるのを19世紀(つまり1800年代)の36年ではなくNineteenthの'36年だから「1936年」と誤訳してしまったのでしょうが、これを配給会社もキネマ旬報編集部もおかしいと気づかず指摘されてもいないのかいまだにキネマ旬報の映画データベース・サイトにそのまま載っているのは問題で、'36年のアラモ砦映画が知られていなかったとしてもジョン・ウェインの大作『アラモ』'60のあとでは歴史的なアラモ砦の籠城戦は日本のアメリカ映画観客にもはっきり印象づけられたでしょう。本作のグレン・フォードは籠城戦の全滅がほぼ決定的になった局面でアラモ戦の敗北を市民に知らせ避難させるためにくじ引きで戦線を離脱して避難勧告の使命を受けた兵卒なのですが、すでに国境近辺のアメリカ・メキシコ人混淆の町は全滅して主人公の妻子も殺されており、しかもメキシコ側についてメキシコ人を装った白人組織の仕業なのが助けた生き残りのメキシコ人の少年カルロスから知らされる。主人公はまだ戦火のおよんでいないフランクリン市に着いて危機を知らせますが、市民はとまどい、市の護衛軍の隊長(またもやヒュー・オブライエン)は主人公をデマを流すアラモ戦線からの脱走兵と見なします。主人公は逮捕されカルロスは町の新聞社社長役のチル・ウィルスが後見人となって裕福な未亡人とその娘のジュリー・アダムスに可愛いがられますが、カルロスは主人公を第二の父のように慕っており主人公の主張の証人でもあるので、未亡人やアダムス、アダムスの姉で護衛軍隊長の妻、新聞社社長はカルロスを通して主人公を信用するようになる。牢に入れられ押送される主人公は戦争に乗じた白人組織の一員と知り合い仲間になるふりをして組織からの町への襲撃に乗じて組織に加わり、その襲撃によってようやく護衛軍は町への脅威に気づき市民を避難させるのですが、市民を避難させる馬車隊を急襲しようとする組織に護衛軍の注意を向けるため主人公はわざと組織内で内紛を起こし、馬車隊の危機を救って脱出してくる。護衛軍や市民たちはようやく主人公を信用するようになりますが、その時別の急襲された町へと護衛軍に急遽呼び出しがかかる。躊躇する護衛軍に主人公は行かなきゃまた全滅する町が出る、自分の妻子の住む町が全滅したようにとうながし、護衛軍を出発させ避難民の馬車隊の自衛軍の指揮を執る、と鮮やかに物語は展開し、負け犬から始まった主人公が汚名をそそぎ危機的状況の救世主となるまでを珍しく首尾一貫して描いており、『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』『最後の酋長』で中盤から後半にかけて前半の設定がどうもあらぬところに行ってしまっていた脚本上の無理がないのが本作を筋の通った作品にしており、その代わりエモーションの濃度では『征服されざる西部』や『最後の酋長』より主人公への抑圧がストーリーによって解消されている分きれいに流されてしまった観もあります。妻子を虐殺された男の執念の復讐譚という構図ではフィルム・ノワールと西部劇の違いこそあれ『復讐は俺に任せろ』と本作のグレン・フォードは同じ境遇の主人公で、本作も主人公は妻子の復讐を果たすのですが、新たな恋人アダムスが早くも現れて行動原理は市民全員の避難・救出に拡大されているので、虐殺された妻子の復讐は付け足しになってしまっている。緊張感の持続、躍動感と緩急に富んだ映像、特にクライマックスの見事な構図の連続とユニヴァーサル時代の6作の西部劇中でも完成度は随一の作品なだけに、主人公の怨恨の掘り下げが足りないのだけは本作の不足点になっている。もっともそれを入れると映画が渋滞するのであえて軽く流したとも思えますが、犯罪マフィア映画の『復讐は俺に任せろ』よりも話の規模が戦争西部劇と大きい分だけ主人公の行動原理を私怨に限定できなかったと思えば、闊達かつなめらかな本作の仕上がりにそこまで求めるのは欲張りすぎかもしれません。