人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月24日・25日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(5)

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 ついにベティカーの名を映画史に刻みこんだバート・ケネディ(1922-2001)脚本、ランドルフ・スコット(1898-1987)主演の、のちに「ラナウン・サイクル」と呼ばれるようになった7連作の第1作『七人の無頼漢』'56と第2作『反撃の銃弾』'57をご紹介できる番になりました。記念すべき第1作はジョン・ウェインのプロダクションのバトジャック・プロでプロデューサーにアンドリュー・V・マクラグレンとロバート・E・モリソン、ノンクレジットながらジョン・ウェインが当たっており、当初はウェイン自身の主演作として企画が立てられていたのが先輩俳優スコット主演に変更されたものでした。この第1作と第6作『決斗ウエストバウンド』'59はワーナー配給ですが、第2作~第7作はすべてハリー・ジョー・ブラウンが製作を勤めて第2作~4作はプロデューサーズ&アクターズ・カンパニー名義の製作=コロンビア配給、第5作と第7作はラナウン・ピクチャーズ名義の製作=コロンビア配給(第6作はハリー・ジョー・ブラウン製作ながら製作・配給ともワーナー)と、第2作以降は意欲的に製作ハリー・ジョー・ブラウン、監督バッド・ベティカー、脚本バート・ケネディ、主演ランドルフ・スコットという布陣によるシリーズ化が行われたものです。ベティカーは'52年~'53年にユニヴァーサル社に6作の西部劇を残しているのはこれまでご紹介した通りですが、『七人の無頼漢』での強靭な作風は目を見張るものがあり、20世紀フォックスでの闘牛士メロドラマ『灼熱の勇者』'55でセンチメンタルな方面を突きつめたのがこの作風への転換のためのつゆばらいにつながったのではないかと思うと、徹底してベタな人情メロドラマだった同作を作り上げたのがベティカーを吹っ切らせた結果がもうたいへんな『七人の無頼漢』という画期的作品に向かう遠因になったと思うと『灼熱の勇者』も無駄ではなかったということで、『灼熱の勇者』がまだユニヴァーサル時代のベティカー作品の延長とすれば『七人の無頼漢』は一気にユニヴァーサル時代の西部劇とは隔絶している。さかのぼって「ラナウン・サイクル」のベティカーのルーツを探ろうとすれば共通する発想もあるのですが、スタンダード・サイズからシネマスコープ、ほんの2年ほどの経過でここまでというほどまず映像からして違うのです。すぐあとにサム・ペキンパーセルジオ・レオーネ、のちにピーター・ボグダノヴィッチマーティン・スコセッシクリント・イーストウッドがベティカー西部劇の跡を追うのは『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」連作があるからであって、ユニヴァーサル時代の作品(またはその延長上の作品)だけでは小佳作を数編残した旧時代末期の監督として忘れられていたでしょう。逆に『七人の無頼漢』や『反撃の銃弾』の監督の旧作として観ればユニヴァーサル時代の作品もそれぞれ見所があるのは見てきた通りで、ここからがベティカー西部劇のフル・スロットル突入期です。'56年(第1作)から'60年(第7作)が、ランドルフ・スコット60歳前後の、俳優生活最後期の連作主演作になったのも特記すべきで、『七人の無頼漢』がジョン・ウェイン主演で作られたらこうはならなかった運命的な作品群なのも不思議な感慨を誘われます。

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●5月24日(金)
『七人の無頼漢』Seven Men from Now (バトジャック・プロダクション=ワーナー'56.Aug.4)*78min, Technicolor, Widescreen : 日本公開昭和32年('57年)6月22日 : https://youtu.be/hB-IdQfiS9o (Trailer)

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 岩山だらけの荒涼とした西部。本作を始め「ラナウン・サイクル」は映画冒頭から主人公が西部を移動する過程で事件に遭遇しますが、出発地点では町並みがあっても事件の場所は荒野で、立ち寄り舞台となる家があっても外も中も大差ないような掘っ建て小屋みたいな粗末なバラックです。町並みはオープン・セットとしても本編のほとんどは岩山地帯に掘っ建て小屋を建てただけのアラバマ・ロケで行われているそうで、また途中インディアンの襲撃を受ける場面がありますが(2008年ユニヴァーサル復刻版DVD)、各種映画サイトを見ると2016年の国立近代美術館上映を観た方の感想で「先住民の襲撃の知らせが入るシーンはあるが実際の襲撃シーンはないのは人種問題への配慮か」という記載があり、本作含め「ラナウン・サイクル」全7作は2017年に日本盤初DVD化されていますが、筆者が揃えている2008年のアメリカ盤DVDではインディアンの襲撃シーンはあります。現行日本盤DVDは未確認ですが、そうしたカット版ヴァージョンも出回っているという証言として参考になります。本作のインディアン襲撃は侵入者である白人の馬車を撃退しようとする様子ですから差別的な意図は絡まず、むしろ未開の西部はインディアンの仕切る土地であって白人にとっては危険な地域だったことを歴史的観点から描いているので「先住民族のインディアンは白人に敵対的」という偏見を助長することには必ずしもなりませんが、所蔵フィルム交換でアメリカの公的映画アーカイヴから取り寄せた本作のプリントがカット版だったらしいのは現代の一部のアメリカ人には本作のような内容であってもインディアン描写を問題視する態度がある、ということでしょう。それはともかく、本作が成功しているのはアラバマの荒野ロケがドラマのほぼ全編を占めているからで、ユニヴァーサル時代の西部劇は屋外シーンもおそらくオープン・セットだったのでことさらサボテンなど生やしてありましたが、本作の荒野は本当にもう岩山と少し芝みたいな草しかない荒涼とした西部で、おそらくこんな鼠一匹ハエ一匹いない荒涼とした西部はサイレント時代の一部の映画以来なのではないか。トーキー初期では同録の必要がありましたしダビング技術が開発してからも撮影の利便性からはオープン・セットの方が便利ですし、広大なハリウッドには地平線まで続く西部のオープン・セットくらい何壺もあるわけです。サイレント時代の『キートンの西部成金』'25などは大規模な撮影班を組んだ本格的な西部ロケですが猛暑でフィルムが溶けてしまうのでカメラを氷嚢で包んで撮影したそうで、クライマックスが西部の死の谷で終わる『グリード』'24というすごいのもありましたがシュトロハイムキートンのようないかれた監督だから過酷な西部ロケなどを決行するので、普通は美術的に整理された西部のオープン・セットを使う。ベティカーもユニヴァーサル時代は会社所有のオープン・セットを使って事たれりとしていたのですが、本作はワーナー配給とはいえ独立プロ製作です。バトジャック・プロは主宰者ジョン・ウェインの主演作などは配給会社と提携して大作企画を立てますが、本作はランドルフ・スコット主演と決まった時点でB級映画予算だったと思われる。原作・脚本のバート・ケネディジョン・フォードジョン・ウェイン主演作『捜索者』'54のイメージでロバート・ミッチャムを主演に想定して書いたそうですが、結局ミッチャムにも自分が出ようかと思ったウェインにも決まらず、大御所なのにあまり偉くない「B級西部劇を代表するスター」ランドルフ・スコットに決まった。スコット撮影時の'55年秋には57歳です。フレッド・アステア映画やスクリューボール・コメディの助演で二枚目性格俳優の演技派の実績もあるのにスコットは出世作の「ゼイン・グレイ連作」'32ー'34(全8作)からB級西部劇スターのイメージが抜けない不思議な人で、どの辺がB級かというとスクリューボール・コメディの名作『ママのご帰還』'40でプールから上がってくると女性客たちが「ジョニー・ワイズミュラーさん?」と二枚目の肉体美っぷりに騒然となる、と、B級西部劇だけでなく特大ヒットしたアステア&ロジャース映画の『ロバータ』'35や『艦隊を追って』'36のロマンス・パートでは主役を張っているのに、ターザン役者と間違われてしまう役をコメディ映画でやっている。二枚目で長身のスタイルいい好漢なのにあまり特徴のない二枚目なので観客にすらランドルフ・スコットの顔が浸透していないので、しかもスコットの出世作ヘンリー・ハサウェイ監督の初期作品「ゼイン・グレイ連作」はスコットはもっぱら受動的に事件の成り行きに立ち会っているうちに悪漢同士が自滅するような話が多く、むしろスコットの相棒役の初老保安官役のハリー・ケリー(サイレント時代から西部劇スターのシニア)の方が渋い魅力で印象に残るほどです。'30年代後半~'50年代前半もスコットはB級西部劇の主演、一般映画の助演で名のみ高くして印象は稀薄という不思議な俳優だったので、10歳あまり年少のジョン・ウェインがB級西部劇から出てアメリカ映画を代表するスターになるような存在ではなかった。同年輩のハンフリー・ボガートフレッド・アステアゲーリー・クーパーや、ウェインと同年輩のジェームズ・スチュワート、スコットとウェインの半ばの年配のケーリー・グラントヘンリー・フォンダと名を上げていくとスコットの落ちこぼれ具合は気の毒なほどで、上記の面々で「ジョニー・ワイズミュラーさん?」と間違われるような俳優がスコット以外にいるでしょうか。逆に特徴がないようなのが特徴というのがスコットの宿命だったので『七人の無頼漢』から始まる「ラナウン・サイクル」連作はスコットの俳優キャリア最後期の畢生の代表作となったとも言えます。『灼熱の勇者』に続いて日本公開された、その日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 愛妻を殺した7人の無頼漢を追う元保安官が主人公の西部劇。バート・ケネディの原作・脚本によって「灼熱の勇者」のバッド・ボーティカーが監督、「中共脱出」のウィリアム・H・クローシアが撮影監督を担当した。作曲指揮はヘンリー・ヴァース。主演は「勇者の汚名」のランドルフ・スコット、「密輸空路」以来久々のゲイル・ラッセル。「攻撃」のリー・マーヴィン、テレビ・スター、ウォルター・リードらが助演。
○あらすじ(同上) 7人組の無頼漢に愛妻を殺され、大金を奪われた元保安官ストライド(ランドルフ・スコット)は、一味を追って馬を進めるうち、幌馬車に乗ったジョン・グリーア(ウォルター・リード)とその妻アニイ(ゲイル・ラッセル)と出会い、カリフォルニアの宿場まで同行することになった。駅馬車中継所に着いたストライドは、マスターズ(リー・マーヴィン)とクリート(ジョン・ベラディーノ)という2人の男と知り合い、彼らも加えて一味の潜むと思われるフロラ・ヴィスタの町へ向かった。翌朝、一行はインディアンに襲われる牧童らしい男を助けるが、インディアンが去って間もなく折角助けた男をマスターズは射殺した。彼は、この男こそ7人組の1人だと、不気味な笑みを浮かべてストライドに告げた。その夜の露営で、マスターズは、しつこくアニイに戯れ始めた。怒ったストライドはマスターズを殴りクリートとともに追出した。そのマスターズはフロラ・ヴィスタの町に入り7人組の首領ボディーン(ジョン・ラーチ)と知り合った。ボディーンは、奪った金をグリーアの幌馬車で運んでくることを漏らし相棒になれとマスターズに奨めた。が胸に一物あるマスターズは即答を避けた。一方、ストライドは単身フロラ・ヴィスタに向かったが、途中ボディーンの部下2人に狙われ相手を倒すが自分も重傷を負った。後から着たグリーアとアニイに彼は助けられたが、親身に介抱するアニイは、夫にすら示さなかった愛情にあふれていた。ところが馬車の中でストライドは、グリーアがボスのボディーンに大金を届ける途中だとアニイに語る言葉から総てのカラクリを知った。開き直ったストライドは、7人組の残りを引寄せるため、金が欲しいならここまで来いとボディーンへの伝言を持たせ、グリーアを町にやった。町で、事の次第を告げたグリーアは直ちにボディーンに射殺された。そして間もなく部下を連れて現れたボディーンとストライドとの間に戦いが始まった。が、ボディーンは後から来たマスターズに射たれ、部下は逃げ去った。ほっとしたストライドがマスターズの助太刀を感謝しようと思った一瞬、そのマスターズが金を寄こせと迫った。大金を独り占めにしようとするマスターズは遂に馬脚を現したのだ。睨み合いの数分、一瞬早くストライドの抜打はマスターズを倒した。家へ帰るストライド。アニイも彼との愛の巣を求めていくだろう。
 ――本作こそがベティカー西部劇の黄金パターン、すなわち平和ながら荒涼とした西部の情景→人妻または未亡人との出会い→悪党が加わる→そしてドロドロの死闘へ、と殺伐とした展開を見せる、一般的な西部劇のイメージよりさらに西部劇くさいベティカー西部劇を強烈に打ち出した作品です。ユニヴァーサル時代の西部劇もこの図式を頭に置いて観れば原型はそこかしこに見られたものの本作から始まる「ラナウン・サイクル」連作の諸作ほど意識的なパターン化はされていないので、これは本作の成功でベティカー監督・ケネディ脚本・スコット主演の連作を企画した次作~最終作の7作までを手がけたプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウンの手柄でもあるのですが、本作ではアンドリュー・V・マクラグレンのプロデュース、バート・ケネディの脚本がベティカーとスコットの潜在能力を引き出したと言ってよく、また本作はコンパクトな尺の中にウォルター・リード演じるヒロインの夫の秘密の役割、敵なのか味方なのかわからないリー・マーヴィンの行動など意外性も富んでおり、ゲイル・ラッセルの人妻ヒロインぶりともどもジョン・ウェインもしくはロバート・ミッチャムが主演でもおかしくない風格がある。つまり本作では視点人物は主役のスコット以外にリードやマーヴィンに割れるサブ・プロットがあるので、次作『反撃の銃弾』以降は主演のスコットに視点は統一されるようにりますから、まず独立した作品として本作があって本作を精製して2作目以降が作られた分、本作では以降のシリーズの要素は出そろっているもののスコット以外の人物の比重も高いドラマ構成を取っているとも言えます。ウェインやミッチャムなら副人物がどれだけ重要でも主役たる強烈な存在感がありますが、スコットの場合はリードと大差ないかマーヴィンには負けてしまいそうな存在感なのでかえって本作の土壇場で強いスコットには意外性がある。スコットだって風格のある西部男を演じてさまになっているのですが、あまり強そうに見えないのに危機に見まわれるのでそれがサスペンスになっている。これはつづく第2作以降でもそうなので、一見平凡そうな主人公が逆転劇に賭ける図式に意識的に特化されます。初期の「ゼイン・グレイ連作」からスコットのキャラクターはあまり変わっていませんが、勘と機転と気合いで窮地を切り抜ける役柄が50代後半の年齢に見合っており、演技に燃焼感がある。マーヴィンの二挺拳銃の早撃ちのアクションは見せてもスコットの対決シーンでは早撃ちで撃たれた相手を見せ、撃った銃を構えたスコットに切り替わるという具合に激しく機敏なアクションは演出上の処理で割愛していますが、全身を使った体技はしっかり見せています。敏捷というより慎重かつ判断が早い様子をきちんと描いているので身のこなしそのものがスコットのキャラクター描写になっており、またゲイル・ラッセルも5年後にアルコール依存症由来で病死してしまうのが惜しまれる愁いのあるヒロインぶりが本作では女性を上手く描けなかったベティカーがようやく上手く描けたヒロインになっており、本作以降に描かれるヒロイン像の原点と言えるのも注目されます。

●5月25日(土)
『反撃の銃弾』The Tall T (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'57.Apr.1)*78min, Technicolor, Widescreen : 日本公開昭和33年('58年)2月21日 : https://youtu.be/BEqrN4l6mqM (Full Movie) : https://youtu.be/S4SJ_NS1fS8 (Trailer)

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 アメリカでは古典映画を文化財指定する法律「アメリカ国立フィルム登録簿」が'89年から施行され、毎年25編の映像作品(劇映画、ドキュメンタリー、アニメーション、自主製作映画の長短問わず、公開から10年以上を経過したアメリカ作品)が選出されていますが、本作『反撃の銃弾』は第12回の2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に選定されており、第12回の時点で登録作品はちょうど300作ですから2000年時点のアメリカ映画ベスト300に入ると真っ先にベティカー作品から永久文化財保存指定されたのが本作なのは妥当ともちょっと意外な気もします。『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」7連作はどれも工夫と見所があって甲乙つけ難いのですが、1作選ぶなら第1作『七人の無頼漢』か特例のワーナー作品『決斗ウエストバウンド』か最終作『決闘コマンチ砦』あたりになりそうなのを、あえて第2作の本作が選ばれたのは意図的なシリーズ化では本作から「ラナウン・サイクル」が始まったとも、'80年代半ば以降ようやく名声が高まったエルモア・レナード(1925-2013)の初期短編が原作なのも要因かもしれません。本作の特徴は「ラナウン・サイクル」連作でも極端に舞台と登場人物が限られていることで、おおむねシンプルな設定・プロット・展開のシリーズ中でも本作の凝縮度は非常に高く、冒頭に出てきて主人公のスコットが戻るとすでに殺されている旧友の駅馬車宿駅番の親子や町で会う親友や牧場主以外は新婚旅行に出たばかりの夫婦と駅馬車駅を乗っ取った3人組の強盗しか出てこない。主人公と夫婦、3人組の強盗だけの監禁対決ドラマです。このパターンは現代劇ならルイス・アレンのフランク・シナトラスターリング・ヘイドン主演の小傑作『三人の狙撃者』'54があり、それより前に西部劇の駅馬車宿駅への強盗籠城ものにヘンリー・ハサウェイの『狙われた駅馬車(Rawhide)』'51 (アメリカ/20thC.フォックス'51)があり、B/W86分の小品ながらに主演タイロン・パワースーザン・ヘイワード、脚本はダドリー・ニコルズのオリジナル、撮影は当時『イヴの総て』直後のミルトン・クラスナー、音楽監督ライオネル・ニューマンで、ヘイワードは孤児の姪の幼女連れなら4人組の強盗団にはヘイワードに手をだそうとする下卑たジャック・イーラムがいる、と小粒ながら見事なサスペンス西部劇でした。パワーとヘイワードの共演は他ならないベティカーの本格的映画界入りのきっかけになった(闘牛技術指導)『血と砂』'41の踏襲であり、またハサウェイがスコットの出世作のゼイン・グレイ連作の監督だったのを思うと本作『反撃の銃弾』が『狙われた駅馬車』が下敷きではなくても何かこんなのあったなあ、とスタッフなりキャストなりが思い出してもおかしくなく、本作がベティカー飛びきりの傑作と見なされたなら同じくらい決まっている『狙われた駅馬車』が平均点のハサウェイは過小評価ではないかと当たり外れのない一流中堅大家のハサウェイが器用貧乏に見えてくるのですが、ベティカーの本作は過酷で殺伐かつ荒涼としたムードでは'60年代映画を先取りしているので、そこが高評価のポイントになっているのでしょう。コロンビア配給ではあってもプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウン主宰のプロデューサーズ&アクターズ・カンパニー(のちラナウン・ピクチャーズ)によるインディー映画であることも評価に加算されていると思われ、本作の成功からか次作『デシジョン・アット・サンダウン(日没の決闘)』、次々作『ブキャナン・ライズ・アゲイン(ブキャナン馬に乗る)』はそれなりに都合もついたか室内セット、オープン・セット撮影が中心の映画になりますが、本作は指摘した資料はないものの『七人の無頼漢』のアラバマ・ロケとほとんど同じロケ地を使っているのが岩山の景観からわかります。映画冒頭で主人公が町に用事に向かい、新婚夫婦と同乗するまでは西部の町の屋外セットでしょうが、そのあとの駅馬車宿駅行きや強盗団に乗っ取られた宿駅は荒野に掘っ建て小屋を建てただけの完全な屋外荒野ロケで展開されるので、ほとんど砂ぼこりをかぶって紗をかけたように色彩のない、空が青いだけの岩石地帯の西部がシネマスコープ画面のカラー撮影だけにかえって殺風景さが際立つのも登場人物の多かった『七人の無頼漢』よりいっそう効果を上げており、メジャー会社製作ではそれなりに彩りを加えるのが慣習ですが本作ではおそらく『七人の無頼漢』より低予算しか組めなかったため俳優の出演も最小限なら舞台、構成ともほとんどミニマムな実験的手法のインディー映画に近づいている。アメリカのBC級映画のあなどれないのはそれが大衆娯楽映画のフォーマットで平然と作られていることで、ヨーロッパ映画や日本映画で同じことをやると意図的なアメリカ映画の換骨奪胎という感じがどうしてもつきまといます。ベティカー映画の場合は本当に丸裸の西部劇らしいリアリティがあるので、中堅のイメージがつきまといながらもハリウッドの一流監督のハサウェイからベティカー映画が一歩を進めた観があるのがこの従来のハリウッド映画とは違う西部劇世界で、そこがニコラス・レイサミュエル・フラーと並んで次世代の映画を予見するような、従来の撮影所システムでは描かれなかったような映像を作り出したと言えそうです。'50年代のベティカー作品の半数は日本未公開ですが、本作は新作のうちに日本公開された数少ないベティカー作品のひとつなので初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) エルモア・レナードの原作を「七人の無頼漢」のバート・ケネディが脚色、「灼熱の勇者」のバッド・ボーティカーが監督した西部劇。撮影はチャールズ・ロートン・ジュニア、音楽は「赤い連発銃」のミッシャ・バカライニコフ。主演は「七人の無頼漢」のランドルフ・スコット、ターザン映画でジョイ・ワイズミューラーの相手役をつとめ、「大時計」などにも出演したモーリン・オサリヴァン。それ「星のない男」のリチャード・ブーンなど。
○あらすじ(同上) 荒涼たる西部の荒野。その荒野の中に、停年を間近にひかえたやもめのハンク(フレッド・E・シャーマン)と、息子のジェフ(クリス・オルセン)が2人で暮らしている、駅馬車の駅があった。ある日、町でわからずやとして有名な牧場主テンボーデ(ロバート・バートン)の牧童頭であったパット・ブレナン(ランドルフ・スコット)がやって来た。テンボーデのところに種牛を買いに行く途中であった。飴を買ってくれというジェフのたのみを快く引き受けて町に向かったブレナンに、テンボーデは気の荒い牛をのりこなしたら種牛をやろうといった。牛からブレナンがふり落とされ、ケガをしたら、そこで口説こうという計画だった。ところが、ブレナンは牛からふり落とされたが、ケガはしなかった。しかしカケに負けたブレナンは馬を取りあげられてとぼとぼと引きあげて来た。ちょうどそこへ駅馬車が来た。ところが、この馬車には今朝結婚したばかりの鉱山主の娘ドレッタ・ミムス(モーリン・オサリヴァン)と夫の番頭ウィラード(ジョン・ハバード)が貸し切りで乗っていた。この結婚は、男まさりで縁の遠いドレッタにウィラードが財産目当てで求婚したと噂していたが……。ともかくブレナンはいさいかまわず乗り込んだ。そうしてハンクの家の前まで来た時、おりようとするブレナンの耳に、「銃を捨てろ!」という声が入った。馭者が銃をとろうとしたとたん、2発の銃声が起こって、馭者は倒れた。中からハンク親子を殺したアシャー(リチャード・ブーン)以下3人の強盗チンク(ヘンリー・シルヴァ)、ビリー・ジャック(スキップ・ホメイヤー)が現われた。金がないと知ったアシャーが3人を殺そうとした時、ウィラードは妻の父が財産家であるから、ドレッタを人質にして身代金を払うといって命乞いした。これを聞いて、アシャーも取り引きの有利なことを知ってこれを認め、部下の1人をつけてウィラードを町にやった。そのあとで、もう1人の部下はブレナンとドレッタを殺そうとしたが、アシャーはそれをゆるさなかった。なぜか、アシャーはブレナンという男に好意をかんじはじめていたためだった。やがて帰ったウィラードは、ドレッタの父が身代金を払うことを約束したといって、ドレッタをのこしたまま去った。そのうしろから銃声が起こった。アシャーの部下の1人が撃ったのだった。夫の死をなげくドレッタに、アシャーたちはウィラードの夫にあるまじき行為を非難して嘲笑するのだった。夫が自分に愛のないことは知っていたが、自分にプロポーズした唯一の男性としてウィラードを愛していたドレッタはなげき、やけになってしまった。そんなドレッタをブレナンはやさしく元気づけた。翌朝、アシャーが身代金を取りに行った。ブレナンはアシャーが行ったすきに、ドレッタとはかって彼の部下を2人とも射殺した。やがて帰ったアシャーを、昨日救われたお礼に見逃してやったが、一瞬アシャーの銃が火をふいた。しかし倒れたのはアシャーだった。ブレナンはドレッタをやさしくだいて牧場へ帰って行った。
 ――実際の作品に必ずしも即していない場合の少なくないキネマ旬報の紹介ですが、本作は極端にシンプルな作品なのでこのあらすじでも十分に詳細なくらいです。ヒロインがモーリン・オサリヴァン(1911-1991)、つまり往年のジョニー・ワイズミュラーのターザン映画で「ユー・ターザン、ミー・ジェーン」とジェーン役をやっていたオサリヴァンがヒロインで好演しているのもアメリカ本国で本作が「ラナウン・サイクル」を代表する名作とされている理由のひとつかもしれません。冒頭で駅馬車宿駅番のおじさんがスコットと昔なじみらしい会話をかわし、息子の少年が「町に出るならチェリー・キャンディを買って来てよ」とスコットに銅貨を渡しますが、スコットが夫婦と馬車で宿駅に戻ってくるとあっという間に友人の馬車の御者(アーサー・ハニカット)が射殺され、宿駅を占拠した強盗3人組が出てくる。強盗の頭がリチャード・ブーン(1917-1981)で、スコット、オサリヴァン、ブーンがメインキャストですから知名度はある俳優とはいえ華のあるキャスティングではなく、実年齢46歳のオサリヴァンは金持ちの娘ながら行き遅れで資産目当ての男とようやく結婚したという役です。この噂をスコットは馬車の御者をしている友人のハニカットから聞くのですが、ハニカットは真っ先に殺されてしまいますし、宿駅番も先に殺ったよ、と言って井戸をちらっと見る手下にスコットが息子もいただろ、と言うと「一緒だ」と返事が返ってくる。「ラナウン・サイクル」連作では映画冒頭からスコットが復讐者として登場する設定(『七人の無頼漢』がそうでした)と映画が始まってからスコットの復讐の動機ができる場合のどちらもがありますが、本作では友人の御者、宿駅番とその息子を次々惨殺されたスコットの無念が痛切なので、物語の開始前からスコットに行動の動機がある前者の型を捜索者型とすれば本作のような話は巻きこまれ型で、スコットの本来のキャラクターかつ観客が感情移入しやすいのは『七人の無頼漢』より本作の方かもしれません。同作のヒロインの夫が土壇場で尊厳を発揮していたのに本作のヒロインの夫は卑劣とは言わずとも最期まで逃げ腰のままなので、微妙なニュアンスは『七人の無頼漢』のヒロインの夫の方が富んでいますし、『七人の無頼漢』のリー・マーヴィンの本音の見えない怖さと本作のリチャード・ブーンの残虐非情なんだかお人好しなんだかわからない悪党ぶりではもともとキャラクターが違うので、ブーンの末期も悲惨と愛嬌半ばするものになっていますが、ロケ地を踏襲しスコット主演しないシリーズ化を狙った作品として『七人の無頼漢』からつながる面とあえて本作では変えてみた点がプロデューサーのブラウン、監督のベティカー、脚本のケネディ、主演のスコットの合議で検討されたのが極力シンプルにすっきり見せる本作に結実したと思われ、主人公のスコットが視点人物として筋の通った、完成度の高さでは副人物に視点の割れていた『七人の無頼漢』よりも練れた作品になっています。しかし本作で時点でシリーズが7作にもおよぶ構想があったのかどうか、本作の時点でも58歳のランドルフ・スコットには西部劇アクション映画俳優としてはもう年齢的な限界を感じていたと思われるだけに、「ラナウン・サイクル」連作は1作1作スコットの存在感と演技に強い燃焼感が感じられ、それまでの全キャリアを投入した観が深いので、ブラウン(製作)・ベティカー(監督)・ケネディ(脚本)の覚悟のほどが想像されます。