人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『NAGISAの国のアリス』第一章

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  (1)

 10歳のアリスはお姉さんのロリーナ(13歳)と妹のエディス(8歳)といっしょに川のほとりに座り、ドジソン先生のお話を聞くのが好きでした。ドジソン先生は当年とって30歳、男ざかりの数学の先生で、年ごろの男性にはよくあることですが同年輩の男も苦手なら女ざかりの女性はなお苦手で、くつろげるのは第2次性徴期前の少女を相手にしている時だけ、というタイプでしたが、そんなことはアリスたちにはわかりません。ドジソン先生にとってこの三姉妹は、13歳のロリーナはぎりぎり相手にできる年ごろで、8歳のエディスは姉たちと並ぶと幼なすぎる。ですからちょうど真ん中の歳の、10歳のアリスが先生にはいちばんのお気に入りでした。さすがにそれは少女たちにも感づかれていて、アリスは靴の中に画鋲を入れられたり、砒素を盛られて髪がごっそり抜けたりしましたが、ドジソン先生が姉妹どうしの嫉妬に気づいていたかどうかはわかりません。
 「学生時代最後の夏休みに」と先生は話し始めました、「大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は田舎の海に遊びに行きました。暖い陽気に誘われて3人は泳ぎましたが、その隙に服を盗まれ、かわりに軍服がありました。3人はそのため先々で密入国者扱いされ、パトカーに追われる破目になったのです」。
 そして、たまたまセクシーなおねいさんから温泉で服を盗んだらいいわ、とアドヴァイスされましたが、謎の青年たちに拳銃を突きつけられ、元の服に戻されてしまいます。彼らには何か事情があるらしいものの、3人には何が何だかさっぱりわかりません。ただただパトカーと青年たちを逃れて走り回らねばなりませんでした。追われているうちに3人は次第に逃げ方も隠れ方も上手になりましたが、今は都会が平和で天国のようなところに思えるのでした。三人の逃走に協力してくれたおねいさんは毒虫のような悪者の情婦でしたが、3人には天使のように親切でした。そんなうちに中ノッポがおねいさんに恋してしまいました。ですが3人はパトカーと、消えてはまた現われる謎の青年たちの拳銃におびえながら首都に向って逃亡を続けていかなければならなかったのです。
 先生、とロリーナは首をかしげました。そのお話にはどういう教訓があるのですか?
 いや、これは正確にはお話ではなく、と先生、動物ならば骨に相当する、プロットと言うものです。そして骨はそれだけでは動物にはならず、教訓もありません。


  (2)

 2016年は平成28年でしたよね、と姉のロリーナが訊きました。……
 2016年は平成28年ですよ、とドジソン先生は答えました。……
 平成28年は2016年なの?と妹のエディスは訊きました。……
 平成28年は2016年よ、と10歳のアリスは答えました。……
 玄関のドアポストには宅急便の不在配達票が入っていました。ずっと部屋にいたはずなのにどうして気づかなかったんだろう、とドジソン先生は思いました。ドジソン先生は不在配達票を手に取り、発送元・海外、内容・成人映画と記載されていましたが思い当たる節がないので、自分が注文したのではないからには誰かが自分に配達されるよう手配したのに違いない、と考えました。ならば誰が何の意図で、ということの方が重要なはずですが、ドジソン先生にとってはそれよりも、成人映画とはいったいどんな成人映画なのだろうかと気になって、気持が動揺したのでした。
 成人映画ってなあに?とエディス(8歳)。お話は黙って聞きなさい、とロリーナ(13歳)。きっとおとなの観る映画よ、とアリス。ドジソン先生、どんな映画だったの?
 先生は不在配達票の裏からバーコードをスマホで読み取り、在宅だからいつでも再配達してほしいと連絡しようとしましたが、サーバーがダウンしているとしか思われないエラー表示しか出ません。時間を置いて再接続するしかないか、とドジソン先生は思いましたが、その時ドアに硬いノックの音がしました。宅急便の再配達かな、とドジソン先生は、はーい今行きます、と三文判を台所の引き出しから取り出しました。どうしてチャイムを鳴らさないのだろう、たぶんさっきも今みたいにノックして、ノックの音は部屋の中には実はあまり響かないから気がつかなかったのだ。三文判を探しながらドジソン先生は再び大声で、今出ます、ハンコは要りますよね、と訊きました。宅急便ではなく認め印不要の普通郵便で、ポストに入らない大きさのものを郵便配達員が手渡しで届けに来る場合があるのです。しかしドアの向こうからは返答はありませんでした。
 聞こえなかったのかしら、とエディス。気持悪いわ、とロリーナ、私だったら居留守を使います。私は平気よ、とアリス、先生はどうしたんですか?
 ドジソン先生はドアの向こうにはもうノックの主はいない、と感じました。だが訪ねてきたのが何者だとしても、それはきっとその成人映画に関わることなのです。


  (3)

 ノックの音に気づいてドジソン先生がドアを開けると、そこに立っていたのは小さなエディスでした。こんばんわ、と小さなエディスは言いました。
 私そんなの知らないわ、とエディスは言いました。いいから黙ってなさい、とロリーナは妹をたしなめました。先生、それから?
 ドジソン先生はきみは少し小さすぎるみたいだね、と言い、ほら、お菓子を持ってお帰り。小さなエディスはうなずくと、チョコビのトロピカルフルーツ味を選んでドジソン先生に見せました。おや、そんなお菓子があったのかい。ドジソン先生はエディスにチョコビを渡すと、持ってお帰り、と言いました。
 それからドジソン先生が作りかけだった数学の問題に戻ると、また遠慮がちなノックの音がしました。どうしてチャイムを鳴らさないんだろう、とドジソン先生は思いました。うちのチャイムのボタンは、そんなに鳴らしづらいところについているのだろうか。ですがその理由は、ドジソン先生には思いもよらないことでした。なぜなら、部屋の主であるドジソン先生本人は自分の借りている部屋に入るのにチャイムを鳴らすことはなかったからです。
 よくわからないわ、とアリスは言いました。だって先生は理由がわかったんでしょう?そうでなければチャイムのことなんか話題にするわけないもの。
 いいから口を挟まないで、と姉のロリーナは妹をたしなめました。先生のお話にはまだ続きがあるのよ。ちゃんと聞いていればわかるわ。アリスは不服で、妹のエディスとせっせっせでもしたい気分でしたが、それも子供じみているので止めました。ドジソン先生は意にも介さない様子でお話を続けました。
 誰もがチャイムを鳴らさずドアをノックしたわけは、チャイムが酒臭かったからです、とドジソン先生は言いました。酒臭いチャイム?とロリーナは訊き返しそうになりましたが、話の腰を折っては駄目と妹たちに注意してきた手前、口を挟むわけにはいきません。
 ドジソン先生がドアを開けると、立っていたのは大きなロリーナでした。こんばんは、とロリーナは言いました。
 妹のアリスとエディスはロリーナのこわばった顔を見つめました。ドジソン先生はロリーナに真面目な口調で、きみは少し大きすぎるみたいだね、何か果物を持ってお帰り、と言いました。いりません、とロリーナ。そうかい、それなら手ぶらでお帰り。
 それから再びノックの音がしました。ドジソン先生は大根を構えました。


  (4)

 大根をどうする気なの?とエディスが訊きました。てにをはが間違っているね、とドジソン先生。大根を、ではなく大根で、が正しい。もちろん大根で人を殴るんだよ。
 暴力はいけないと思います、とロリーナ。それに食べ物をそんなふうに、粗末にするのも良くないわ。
 大根を棍棒がわりに使ってはいけないという決まりでもあるのかね、とドジソン先生。杖やレンガやブロックで殴るのは普通で、大根を使うと変態扱いされるのは公平を欠いてはいないかと私には思えてならないよ。
 変態とは言っていません、とロリーナ、私が言いたいのは暴力と、それから食べ物は粗末にしては……。
 そこだよ、とドジソン先生、どうしてパイなら人に投げてもいいが、大根で人を殴ってはいけない?
 それは暴力が……。
 そこよ、誤解は、とドジソン先生。私は暴力ではなく正当防衛のために練馬大根を握ったのです。
 正当防衛?とアリスは突っ込みました、先制攻撃の間違いじゃないの?だってまだドアも開けていなかったんでしょう?誰がいるのかもわからなかったはずじゃない。
 ドアの外で、酒臭いチャイムに顔をしかめながらドジソン先生に招き入れられるのを待っていたのはアリスでした。エディスが訪ねて帰され、ロリーナが訪ねて帰された後ではアリスが最終兵器になるしかありません。ところで、姉妹たちはなぜ、代わるがわるドジソン先生を訪ねたのでしょうか?
 エディスはロリーナを見ました。ロリーナはそしらぬ顔でアリスを見ました。アリスはエディスを見つめていましたが、ロリーナの視線を感じるとエディスの視線を誘導してロリーナにはちあわせさせました。ロリーナは姉の威信がないがしろにされた気持で末妹の助力を借りると、エディスとふたりでアリスに責めるような視線を浴びせました。アリスは伏し目がちでいましたが、ロリーナとエディスにはアリスの様子が姉妹の中で唯一、まだドジソン先生に追い返されてはいないのに由来する自信のように見えて、激しい嫉妬に襲われました。
 わかった、とアリスは言いました、私はドジソン先生を殺しに訪ねたのよ。だから先生は正当防衛で先制攻撃するために練馬大根を手に取ったんだわ。違いますか?
 おおむね違いません、とドジソン先生は言いました、ところで大根には、殴る以外の使い道もあります、とドジソン先生は練馬大根を振り回しながら言いました。練馬大根は変態倶楽部です。それをお忘れなく。


  (5)

 犬のメスの発情周期は6か月から8か月ですが、犬種により差があります。発情期間は約3か月で、この期間のうち前期1か月間が実際に交尾によって繁殖できる可能性のある期間です。発情期に入ると、メスは性器を自らなめる仕草が多くなり始めます。この時期にメスの性器が発するフェロモンが周囲のオスに発情期を察知させるので、余計なオスを興奮させないためにも、発情期のメスをドッグランなど不特定多数のイヌがいる場所に連れ出すのは控えた方が良いでしょう。次いで性器が充血して出血(生理)が始まる時期に移行します。その期間は平均10日前後で、この時期に相手のオスと同居させることで交配が行われます。
 交尾の際にはほかの多くのイヌ科の動物と同様に交尾結合が見られ、後背位で結合した後にオスがメスの尻をまたいで反対向きとなり、お尻とお尻を向かいあわせた状態で、長い時は30分以上交尾が継続します。交尾中はオスの陰茎は根元付近が特に大きく肥大してメスの膣から抜けなくなるため、射精が終了するまでは人の手でも引き離すことは困難です。ブリーダーによる血統証明書の申請の際は、この「お尻を向かい合わせた姿勢」の写真を根拠に交配証明書を作成することが一般的です。
 いっぽう練馬大根は、東京の練馬地方で作り始めた大根を言い、練馬区の特産品にもなっています。この地域の土壌が関東ローム層であり、栽培に適していたのです。練馬大根とは白首大根系の品種で、重さは通常で1~2kg前後、長さは約70~100cmほどにもなります。首と下部は細く、中央部が太い形状が特徴で、辛味が強く、沢庵漬けに適した「尻細大根」と、その改良型で煮て食べたり、浅漬に用いられる「秋詰まり大根」の2種類があります。
 利用法としては漬物、特にたくあん用として重宝されます。辛味が強いことから、大根おろしにも利用され、その他煮物、干しダイコンなどに使われます。
 現在生産量が少ない理由としては、収穫時の重労働があります。練馬大根の特徴が、首と下部は細く、中央が太いということがあり、収穫で練馬大根を引き抜く際に、非常に力が必要になります。ある調査によれば、練馬大根を引き抜くには、青首大根の数倍の力が必要であるといいます。そのため、高齢の農家への負担が大きいと言われます。
 ドジソン先生は目をつぶると、意地でも大地から抜けない明るい青空の下の練馬大根に思いをめぐらせました。


  (6)

 それが先生のおっしゃりたいことでしたの?とロリーナが受けました。こういう時に姉妹を代表するような態度に出るのが、いかにも3人姉妹の長女らしいロリーナのこざかしい面で、アリスやエディスが従順なのは決してロリーナに賛同してではありませんでしたが、いざ事がこじれた場合に長姉を矢面に立たせるのは得策なこともあるのです。その辺はアリスたちもちゃっかりロリーナのでしゃばりに便乗しているところがありました。もしロリーナが地雷を踏んでもそれは自爆というものです。
 遠くで汽笛が鳴りました。ポー。
 おおむね違いません、とドジソン先生は言いました、ところで大根には殴る以外の使い道もあります、とドジソン先生は練馬大根を振り回しながら言いました。練馬大根は変態倶楽部です。それをお忘れなく。
 ロリーナはエディスを見ました。エディスはそしらぬ顔でアリスを見ました。アリスはロリーナを見つめていましたが、エディスの視線を感じるとロリーナの視線を誘導してエディスにはちあわせさせました。エディスは妹の特権がないがしろにされた気持で長姉の助力を借りると、ロリーナとふたりでアリスに責めるような視線を浴びせました。アリスは伏し目がちでいましたが、アリスの様子がロリーナとエディスには姉妹の中で唯一、まだドジソン先生に追い返されてはいないのに由来する自信のように見えて、激しい嫉妬に襲われました。
 わかった、とアリスは言いました、ドジソン先生は私を殺しに呼び出したのよ。だから先生は不意打ちしようと練馬大根をつかんだんだわ。違いますか?
 違うわ、とロリーナは口をはさみました。先生ならそんな回りくどいことはなさらないわ。回りくどいこと?とエディス。そう、先生なら堂々とドアを開けてアリスが入ってきてから撲るわ。だって不意打ちする必要なんかないじゃない、そうでしょ?
 これはもちろん暗にロリーナならそうする、ということをドジソン先生に託して言っているのです。これを一般的には「当てこすり」と言います。いやあ先生も買いかぶられちゃったなあ、とドジソン先生は笑ってみせました。少女といえども女同士、しかも姉妹同士で揉めるとなると、博愛主義者のドジソン先生ですら手に余るというものです。
 そうだ、とドジソン先生はつぶやきました、犬でも練馬大根でもない、この姉妹たちにいま必要なのはウサギ、しかも食えないほどにとびきり腹黒いウサギなのだ。


  (7)

 昔アリスという女の子がお姉さんのロリーナ、妹のエディスと川辺にピクニックに来ていると、とドジソン先生は語り始めました、川の向こうに大きな樹がそびえ、その緑陰で3人のお婆さんがさっきからずっとひそひそ話をしているのに気づきました。
 アリスは気になってロリーナとエディスにも知らせようとしましたが、姉も妹もドジソン先生にきびしく命令されているので気づきません。どんな命令ですか?とロリーナ。もちろん何もしないでアリスのキャラを立てろ、という命令です。
 ブーイングするエディス。
 仕方なくアリスは自分ひとりで探りをいれに行こうと考えました。でもこの川は穏やかな小川に見えて、実はけっこう深いのです。アリスはとりあえず木の棒を野原から拾ってくると、これで水深を測りながら渡って行けるかな、と思いました。アリスが裸足になったつま先を伸ばした、その時です。
 バカだなあ、そんなことで渡れるわけないじゃないか、という声にアリスが振り向くと、ジャージの上下を着たウサギが立っていました。左手首にはピカピカ光って不似合いな高級腕時計をつけています。
 あ、今お前、時計が不似合いだと思っただろ?とウサギ。確かにこのロレックスは2,500万円するからな。おれだっていつもは夜会服が普段着だが、今日はたまたまそうしてもいられない事情があるのだ。
 どういう事情?とアリス。
 教えなーい、とウサギ。ところでウサギさん……。イナバって呼べ、とウサギ。イナバさん、とアリス、この川を渡るには、いったいどうしたらいいかしら。
 それをあんたに教えて、おれさまに何か得があるのか?アリスは当惑して黙り込みました。メルヘンの世界ではたかが相談は損得抜きだと思っていたからです。
 ただし得がないでもないな、とイナバさんは言いました。お前ちょっと、足を水につけてみろ。アリスは言われた通りにしました。するとたちまち上流下流対岸から、水面がワニだらけになりました。きゃあ、とアリスはあわてて川から飛び退きました。
 なかなかいいぞ、とウサギ。今の要領で川の水面がワニだらけになったら、すかさずワニの背中を飛び移って向こう岸に渡るんだ。ちょうどおれも渡る用があった。それじゃもう一度頼むよ。もう一度?
 それが私に何の得があるかしら、とアリスはイナバさんを川に突き落とすと、時計だけは惜しかったかも、と思いながら押し寄せるワニの背中を跳び渡りました。


  (8)

 ひどいな君は、とウサギはずぶ濡れの体をブルッと震わせながらボヤきました、いったい他人の命を何だと思っているんだい?
 アリスは何言ってやがるんだこのウサギ、と思いましたが、こうして川を渡りきってみれば川のこちら側には一度も来たことがないのに気づきました。今来た通りにまっすぐ戻れば姉妹たちとピクニックしていた場所に戻れるはずですが、見渡してみても川の向こうは遠すぎてよくわかりません。なのになぜアリスには川のこちらで3人の老婆がひそひそ話しているのが見えたのでしょう?
 それはロリーナやエディスが老婆たちに気づかなかったのと同じ理由かもしれません。見えたと思ったのは具体的な知覚に置き換えて錯覚していただけで、こんなに広い川幅をまたいでアリスに見えるはずはなかったのです。つまり君は呼ばれた、ってわけさ、とドジソン先生は言いました。そしたら君には道案内が必要になる。さもないと元いた場所に帰るにも帰れなくなるんだから。
 たあ!とアリスはずぶ濡れのウサギを蹴とばしました。イテッ!とウサギは悲鳴を上げ、暴力反対、相談になら乗るよ、と低姿勢になりました。ほお、とアリス、あんたに相談して私に何の得があると言うのかしら?たかがウサギ風情が知った口利くんじゃないわよ。
 イナバです、とウサギは言いました、いやあ私だってこの状況じゃお役にたてると思いますよ。たとえばこの腕時計、今何時か訊いてもらえればすぐわかる。
 そうね、とアリス、あんたを連れて歩けばいざという時に食糧に不足はないしね。
 真面目な顔して冗談は止めてくださいよ、とイナバさん、素直に道案内してくれって頼んだらどうです?アリスは無言でイナバさんの両脚をむんずとつかんで逆さ吊りにすると、別に私は今すぐ同じやり方で帰ってもいいんだから、と川に向かって戻りかけました。ギャー!とイナバさん、それは止めてください、今度こそワニに喰われてしまう。
 ワニに喰われるのと私の奴隷になるのでは、とアリス、ワニに喰われた方がマシだと思わない?どうよ?
 アリスのあまりにビッチな脅しにイナバさんはショックを受けました。陰毛も生える前の美少女にこんなことを言われて、ウサギならずともちびらない動物のオスはいません。
 はい、道案内します、とほとんど魅入られたようにイナバさんが歩き始めると、すかさず尻に蹴りが飛びました。行く先も訊かずに何よ!とアリスは怒鳴りました。


  (9)

 私ウサギってもっと可愛い動物だと思っていたわ、とエディス。そう思いたいところですがね、とドジソン先生、本来ならウサギはもっとチャーミングな動物だったかもしれない。しかし彼らにはちょっと間の抜けた性質があって、一匹が走り出すと周りのウサギもつられて群れをなして無我夢中で走り出すお調子者な本性がありました。そこでニュージーランドでは、両手に棍棒を持って草原に立って待っていると、ウサギの大群が走ってきたらめった矢鱈に棍棒を振り回すだけで大量の食用ウサギを収穫できるのです。そこから人間に対するウサギの深い猜疑心が生まれました。
 ひどいわ、とロリーナ、そんな野蛮人みたいな狩りを、どうして動物愛護団体は見過ごしていたのかしら?
 それはニュージーランド植民がわれわれイギリス人のご先祖様だったからです、とドジソン先生。動物愛護団体だって同胞を非難するような売国奴なことはしません。それにウサギの繁殖力はたまげたものですから、ひとにぎりのニュージーランド植民がモグラ叩きしたくらいでは減るもんじゃありません。かえって一定数は潰しておかないと、牧草不足で餓死するウサギまでいます。食物連鎖ってわかります?みなさんは学校で習いましたね。ウサギは牧草を食う。そのウサギをニュージーランド植民が食う。ニュージーランド植民はイギリス政府から植民税を絞り取られる。話をウサギに戻すと、一部のウサギが食用に狩られることで周期的な個体数の爆発を回避させられ、牧草面積に見合っただけのウサギが餓えずに暮らしていける。これは非常に合理的な話なのです。
 それじゃ目的地を教えてくださいよ、とウサギ、もっとも目的地を言えるなら道案内なんか必要ないんじゃないんですか?
 ウサギ風情が口答えしない!とアリスは柳の枝(まだ持っていたのです)をびゅんびゅん振りまわし、目的地は3人の婆さん連中が井戸端会議している木よ。
 イナバです、とウサギは身を縮ませ、あー了解しました、でも案内したらお嬢さんの将来に泥を塗りますよ、一応警告ですが。
 それってつまり、あんた案内したくないっていうわけなの?
 いや義務づけられているんです、とイナバさん、警告しても行くって言うんなら、それはお嬢さんの自己責任ですからね。
 たかがウサギに自己責任の説教されるとは思わなかったわ、とアリス。
 私の身にもなってくださいよ、と、イナバさん。それじゃ行きましょうか。


  (10)

 いちどにすっきりトイレが済まずに何度も何度も通うことをお釣りと言いますが、とウサギは用心深くアリスの持っている柳の鞭との距離を測りながら、こうして同じ目的地に向かうわれわれは、お釣りどころかもはや友だちと言っても過言なのではないでしょうか。
 私は他人とは主従関係以外の関係は認めないの、とアリスは冷たく拒絶しました。いくら私だってそんなに冷たくないわ、とアリス。そうかしら、とロリーナ、そんなに、というくらいなら自分に水くさい面があるのに気づいて認めるのにやぶさかではないってことね。エディスは姉たちのどちらに着くともつかず、ドジソン先生を従順な子犬のような目で見つめました。いとけない姉妹たちが媚を売りあっているのは悪い気持のすることではありません。
 しかしウサギ(イナバです、とウサギ)にとってはアリスはいつ暴君になるとも限らない危険な連れでしたから、アリスとの交渉は腫れ物に触るようなおっかなびっくりでした。3人のお婆さんですか、とウサギ。その婆さんたちが木の下でひそひそ話をしているのが、川の向こう岸から視えたんですね?
 アリスはムッとしました。見えたを視えた、体を身体ならまだしも躰、躯(この場合作りの区はメではなく品と書きます)などと中二病的な文字フェチぶり、日常言語でもないのに歴史的仮名遣いをひけらかす恥知らずがアリスは大嫌いなのです。もっともアリスにとっては大嫌いではないものを探す方が難しく、世界は大嫌いなものとせいぜい我慢できるものでできている、というのがアリスから見た世界でした。案外こういう子の方が成長すると俗な普通のおばちゃんになるので、誰しも程度の差はあれ反抗期はくぐってくるものです。
 見えたわ、とアリスは言いました、顔まではわからなかったけど、服装や姿勢がお婆さんだったもの。頭を寄せあっている様子だから、お年寄りで耳が遠かったんでしょう。
 それがお婆さんたちだという根拠になるわけですね、とウサギ。しかし一緒にいたあなたのご姉妹は気がつかないようだったというんじゃないですか。それは……とアリスは口ごもりました。それに、とウサギ、渡って来た時お気づきでしょうが、この川幅は相当なもんですよ。あなたは本当は自分でも、何か錯覚か幻覚でも見たとは思いませんか?
 アリスはグッと詰まりましたが、ここでごり押ししなくては女がすたります。それが何だって言うのよ!
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)