人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年6月25~27日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(9)

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 大なり小なりフランス映画史上外せない作品が並ぶので『フランス映画パーフェクトコレクション』続刊の30本は、今回で27作まで連続視聴してくると9割が学生時代までに観たことがある作品とはいえ、50代半ばの筆者には40年~30年前に観たきりの作品もかなりの比率を占めます。当時はホームビデオ普及の過渡期であり、フランス映画の古典はごく有名作しかソフト化(しかもビデオ用の劣化マスター原盤)されておらず、満遍なく古典作品を観るには東京中の文化会館・語学学校・自主上映クラブの特別上映で、画質・編集とも難があり英語字幕入りの民生用16mmプリントによる上映会をしらみちつぶしに当たるしかありませんでした。映画への関心は古典フランス映画に限りませんでしたし、現在DVDソフトで版権期限の切れてパブリック・ドメイン扱いになっている諸外国の古典映画が手軽かつ廉価(初期のホームビデオは1本2万円近い価格でした)で観ることができる上、画質も良好なら、日本盤ならちゃんと字幕スーパーがつき、輸入盤ヨーロッパ映画なら英語字幕がつきアメリカ作品でも難聴者向け台詞字幕が選べるのは何だか狐につままれたような気もします。ありがたみも薄れたというか、数年間気にかけていてようやく上映会を見つけ、遠出して東京の外れの粗末な公民館などでボロボロの劣化プリントでやっと観ることができた「幻の名画」がこうも手頃に観られるようになると、映画との出会いにも一期一会の覚悟があった往年との温度差を感じずにはいられませんし、かつて観るだけでも困難だったからこそ関心も長つづきしている気もします。またあっさりと観直すのが容易になってみると映画への印象自体も変わって観えてくるのはこちらも20代から50代と歳を経たのもあってやむを得ず、今回の3作は初日本公開時から好評だった、定評ある名高い名作ばかりなので感想文ではどう書いてあろうと未見のかたはぜひ、また再見しようとされるかたもぜひとお薦めできる映画なのを、先に強調しておきたいと思います。

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●6月25日(火)
肉体の冠』Casque d'or (Speva-Films=Paris-Films-Production'52.3.13)*98min, B/W : 日本公開昭和28年('53年)2月2日
◎監督:ジャック・ベッケル(1906-1960)
◎主演:シモーヌ・シニョレ、セルジュ・レジアニ
○ある日、カフェで出会った娼婦のマリーと大工のマンダ。二人は一目で恋に落ちるが、マンダは、マリーの恋人ロランの恨みを買ってしまう。密かにマリーを狙っているロランのボス、ルカは二人をわざと闘わせ……。

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 戦時下に監督デビューしたジャック・ベッケルの作品は早くから日本公開されていたのですがのち'90年代になってようやく日本公開された作品、DVD発売された未公開作品も半数あまりになり、サスペンス映画路線から下町人情ドラマ路線に転じたカンヌ国際映画祭受賞作『幸福の設計』'47の日本公開はあまり受けなかったようで、同作の路線の『七月のランデヴー』'49と『エドワールとキャロリーヌ』'51、『エストラパード街』'53の日本公開は当時見送られています。ベッケルが本格的に注目されるようになったのは19世紀末のパリを舞台にした時代痴情犯罪メロドラマの本作『肉体の冠』で、ブロンドの髪を結って「黄金の冠」と徒名されたヒロインから原題は採られていますが、「黄金の冠」を『肉体の冠』としたのも痴情メロドラマを暗示したインパクトのある邦題ですから良しとしましょう。キネマ旬報の年間ベストテンには入りませんでしたが、当時新進作家だった三島由紀夫もいち早く本作を賞賛していて(「現代のスネる――『肉体の冠』を見て」時事新報1953年2月12日号)、ただし冒頭の鮮やかさと前半の展開に較べて後半の展開と締めくくりが甘い、としています。次作で『エドワール~』の続編『エストラパード街』は未公開になりますが、次のジャン・ギャバン主演作『現金に手を出すな』'54から『アラブの盗賊(『アリババと四十人の盗賊』)』'54、『怪盗ルパン』'57、ジェラール・フィリップ晩年の代表作になった『モンパルナスの灯』'58、ベッケル自身の遺作になった脱獄映画『穴』'60とベッケルは順調に新作が日本公開される監督になったので、人気の昇り調子だったシモーヌ・シニョレは本作で主演女優の地位を確立したとも言えます。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引きましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「幸福の設計」のジャック・ベッケルが一九五一年に監督した作品で、今世紀初めの実在の街の女を主人公に」監督のベッケルと「密会」のジャック・コンパネーズがオリジナル・シナリオを書き、それをベッケルが脚色し台詞を附加した。撮影は「想い出の瞳」のロベール・ルフェーヴル、装置は「輪舞(1950)」のジャン・ドーボンヌの担当。主演は「輪舞(1950)」の第一話のコンビ、シモーヌ・シニョレとセルジュ・レジアニで、クロード・ドーファン(「呪われた抱擁」)、レイモン・ビュシェール、ガストン・モド、ポール・バルジュらが助演している。
○あらすじ(同上) 一八九八年の秋。パリのやくざものルカ(クロード・ドーファン)一味は、日曜日の行楽にそれぞれ情婦をつれてマルヌ河で舟遊びした。女たちのなかで、マリイ(シモーヌ・シニョレ)は鮮かなブロンドの髪を兜型に結い、目立って美しい存在だったが、彼女は情夫ローラン(ウィリアム・サバティエ)との仲がまずいものになっていた。マリイはローランへの厭がらせに、休憩した掛茶屋で働いていた大工のマンダ(セルジュ・レジアニ)を誘い、殊更親しそうにふるまったので、ローランはマンダに喧嘩を吹きかけた。だがマンダは彼を殴り倒して去って行った。親分のルカは内心マリイに気があったが、彼女の心がローランを去ったと知って、翌日の夜、彼女を一味の溜り場『アンジュ・ガブリエル』の酒場に誘った。そこへマリイの呼んだマンダが現れた。マンダとローランは成行き上、酒場の裏で決闘することになり、死闘の未、マンダはローランを殺してしまった。マリイは黙ってその場を立去り、翌日手紙でマンダをジョワンヴィルの一軒家に呼びよせた。数日、二人はそこで恋の歓びに身を任せたが、その間に、ローラン殺害事件を知った警察はマンダの行方を追究していた。ルカはマンダをおびき出すため、マンダの親友レエモン(レイモン・ビュシェール)を犯人だと密告して捕えさせた。案の定マンダは自首して出たが、ルカの計略であると知って怒り、警察から監獄へ移される護送車の中から競走、警官隊の目の前でルカを射殺した。マンダは死刑を宣告された。運命の日、断頭台のマンダを、マリイはうつろな眼でじっとみつめていた。
 ――本作もルノワール、クレール、カルネらの戦前作品で端役出演の常連だったガストン・モドー(唯一の主演作はブニュエルの初長編『黄金時代』'30、物語に関わる重要な役はルノワールの『ゲームの規則』'39とカルネの『天井桟敷の人々』'45くらいではないかという悪面の性格俳優です)が端役出演しているのも嬉しいですが、本作は三島の批評がおおむね的確な上に、ベル・エポック時代のパリを舞台にしている分これまでベッケルが現代映画で見せてきた人間観察の鋭さや繊細さが時代劇的な典型的人物像の型にはまってしまっているきらいがあります。1898年といえば明治31年で徳富芦花の『不如帰』が大ベストセラーになった年であり、尾崎紅葉が3年越しの大作で作者逝去により未完となる『金色夜叉』の連載2年目でしたが、公開死刑がギロチンといった具合にここで描かれるパリはフランス革命時代の18世紀末から大差なく、フランスの文化様式は第1次世界大戦の災禍を経るまで近世と地つづきだったんだなと感慨をもよおさせます。モディリアーニの伝記映画『モンパルナスの灯』がやはりベル・エポック期のパリとは言っても本作よりは数年遅く、第1次世界大戦をくぐって晩年を迎えている(モディリアーニがパリに出てきたのは1906年、逝去は1920年です)上に、芸術家たちの世界なので20世紀以降の現代人という感じがするのに対し、本作はバルザックの小説が原作で背景は19世紀前半のパリと言われてもおかしくない。ベッケルはあえて古風な題材から激情的な犯罪メロドラマを作ったと思われますが、戦前の溝口健二の明治ものが日本では開国によって明治がすでに現代日本の整備期だったのに較べても、同時代のフランスの庶民文化は近世そのままだったのが日本で言えば江戸時代の世話物のような本作の内容から伝わってきます。時代劇だから駄目ということは決してなく時代劇で生々しい人間ドラマを描いた映画の成功例は日本映画にだって豊富にあるのですが、本作の場合は時代背景と庶民文化の描写が情痴メロドラマや人物造型と微妙なところで焦点がズレていて、もっと時代を古くするかきっぱり現代が舞台の映画に描いた方が良かったのではないか、と思えてくる。これは他のベッケルの成功作をひと通り観てからこそ思う贅沢な感想で、最初に観るベッケルの映画が本作なら濃厚な情感に圧倒されるだけの作品だけに、本作はシニョレを悲劇のヒロインにしすぎているような感じもするのです。

●6月26日(水)
夜ごとの美女』Les Belles de nuit (Franco London Films=Rizzoli Film=Gaumont'52.11.14)*87min, B/W : 日本公開昭和28年('53年)12月25日 : ヴェネツィア国際映画祭批評家連盟賞
◎監督:ルネ・クレール(1898-1981)
◎主演:ジェラール・フィリップ、マルティーヌ・キャロル、ジーナ・ロロブリジーダ
○音楽教師のクロードは、喧噪に囲まれ、皆からからかわれる毎日に嫌気がさしていた。ある日、偶然見た夢で美女と出会い、その後も眠るたびに別の美女と出会う。クロードは夢の世界に浸るようになり……。

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 戦後もアメリカ軍の占領が前年'52年に解け、日本の昭和20年代の外国映画の観客に歓迎を持って迎えられたクレールの本作は、前作のようにキネマ旬報年間ベストテン入りは逃しましたが再びジェラール・フィリップ主演作で前作『悪魔の美しさ』のようなヴェテラン名優ミシェル・シモンとのW主演ではなく、かつスター女優ジーナ・ロロブリジーダを始め複数のヒロインが登場し、フィリップ演じる貧乏アマチュア作曲家が夢の中でさまざまな時代、背景で美女たちとの恋が同時進行するといった作りで、『悪魔の美しさ』の日本公開の前年昭和25年('50年)日本公開されキネマ旬報年間ベストテン8位の評判を呼んだダニー・ケイ主演のアメリカ映画『虹を掴む男』'47のクレール版の趣きがあります。『虹を掴む男』は名邦題で、アメリカ戦前のジェイムズ・サーバーの短編ユーモア小説の古典「ウォルター・ミティの秘密の生活」が原作で原題も原作小説のままですが、妻子持ちのうだつの上がらない中年サラリーマンが前線将校、ギャング対秘密警察、海賊船と日常生活の合間に夢想し、結末ではニヒルにくわえ煙草で処刑される夢想で終わるほとんど筋のない原作から大きく改変して、現実の主人公のドラマも同時進行しロマンスの成就で終わる脚色がしてあり、始終買い物の荷物持ちや家事手伝いで妻の尻に敷かれていて夢想するだけの原作とは大違いです。サーバー原作小説のような味をアメリカ映画がそのまま映画化できるようになったのはウッディ・アレンの『泥棒野郎』'69の頃からで、『虹を掴む男』自体はまだ'40年代コメディ映画のお約束が観客にも喜ばれていた時代の映画ですからあれはあれで良いのですが、本作は主人公の現実逃避には違いないにしろ「昔は良かったな」という老紳士(ピエール・パロー)の暗示で次々とナポレオン時代、ルイ十六世時代、ルイ十三世時代と平行して各時代の美女と愛しあう夢を見るようになり、うちひとりは現実の主人公の恋人と名前も顔も性格も同じで、新作オペラのコンペティションに自作を応募している主人公は自作の優勝・上演に自信がないので自作が上演されるも演奏が壊滅的に終わる悪夢(オーケストラ団員の楽器がクラクションを始め削岩機、ノコギリ、電気掃除機、バケツなどに変わっていく)を見る。クライマックスでは恐竜の闊歩する先史時代にまでさかのぼってスポーツカーで現代につづく時間の道を引き返そうとぶっ飛ばしてくるのですが、日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「悪魔の美しさ」に次ぐルネ・クレールの一九五二年作品で、例によって脚本・潤色・台詞・監督をひとりで担当している。現実と夢の交錯を描いたコメディ。撮影は「情婦マノン」のアルマン・ティラール、音楽は「浮気なカロリーヌ」のジョルジュ・ヴァン・パリスの担当。主演は「花咲ける騎士道」のジェラール・フィリップジーナ・ロロブリジーダ、「浮気なカロリーヌ」のマルティーヌ・キャロル、新人マガリ・ヴァンデゥイユで、「終着駅」のパオロ・ストッパ、「肉体の冠」のレイモン・ビュシェール、「悪魔の美しさ」のレイモン・コルディ、「花咲ける騎士道」のジャン・パレデス、「快楽」のパロオ、「沈黙は金」のベルナール・ラジャリジュ、マリリン・ビュフェルらが助演する。
○あらすじ(同上) 貧しい音楽教師クロード(ジェラール・フィリップ)は、隣家の娘シュザンヌ(マガリ・ヴァンデゥイユ)に愛されていたが、どっちを向いても憂うつなことだらけの世の中にすっかりクサっていた。だが彼はふと迷いこんだ夢の世界で素晴しい歓びを発見した。時はさかのぼって一九〇〇年、自作の曲を夜会で披露したクロードは、若い貴婦人エドメ(マルティーヌ・キャロル)に並々ならぬ好意を寄せられ、オペラ座の支配人は彼のオペラの上演を約束してくれた。夢からさめたクロードは、「儂の若い頃は良かった」という老人(ピエール・パロー)の言葉をきっかけに、再び夢の世界でエドメに会い、オペラ上演も目前に迫るが、ここでまたも昔を惜しむ老人が現われて、夢は一八三〇年のアルジェリア征伐に変った。ここではクロードは勇敢なラッパ手でアラビアのレイラ姫(ジーナ・ロッロブリージダ)と相抱いた。そこへ再び昔を懐しむ老将校があらわれ、夢はルイ十六世時代の貴族の邸宅となり、クロードは、現実のジュザンヌとその名も同じ貴族の令嬢シュザンヌ(マガリ・ヴァンデゥイユ)と恋を囁く。しかし夢からさめればクロードは、郵便配達と喧嘩したり、月賦屋に追いかけられたり、挙句のはては幼な馴染の巡査に毒づいて留置所入りとなった。ここでクロードは夢のつづきを見る。ルイ十六世時代ではシュザンヌと駆落ちの約束をし、アルジェリアではレイラ姫から月の出に待つとの伝言、一九〇〇年ではエドメからディナーの後で来るようにと囁かれた。と、折角のところをクロードを釈放に来てくれた友人たちのために夢を破られ、クロードは一刻も早く夢の世界にもどろうとしたが、友人たちは彼の態度を怪しんで警戒怠りなく、やっとの思いで夢の世界に戻ったときは、すべて約束の時間をはるかにすぎさり、エドメのところでは彼女の夫に見つかって逃げ出し、アルジェリアではレイラ姫の兄たちに襲われ、シュザンヌは急進派に拉致されたあと。急いで牢屋に行った彼も、そのまま捕えられた。そこで夢は更にさかのぼってルイ十三世時代、ボナシュウ夫人(マリリン・ビュフェル)との逢う瀬も束の間、剣豪ダルタニァンにおそわれて命からがら逃げ出し、やっと夢からさめた。こんどは夢のつづきを見るのが怖く、眠るまいと頑張ったが、ついウトウトしてしまい、決闘だ銃殺だという騒ぎに逃げに逃げて、原始時代からノアの箱船の大洪水時代、ローマ帝国時代などを走りぬけ、やっと現実に舞い戻った。そこへほんとにクロードのオペラが上演される通知がまいこみ、彼とシュザンヌもめでたく結ばれた。
 ――結末はキネマ旬報のあらすじとちょっと違っていて、フィリップは友人たちとカフェの中で夢から覚め、届いた書留でパリのオペラ座に呼び出され期限が当日なので友人たちの車でパリのオペラ座に着くのですが、恋人のシュザンヌと待っていても次々と落選通知と返却楽譜を受け取った応募者が出てくるのでどうせ落選さ、とふてくされる。フィリップの番号の番が来て案の定落選の楽譜を渡されるが待っていた別人の楽譜で、もういいよと出ていくフィリップにシュザンヌが寄り添う。その頃オペラ座の事務所では優勝楽譜が見つかり今の青年だ、と慌てて職員が待合室に出てくるがフィリップはおらず、寄り添って街角を曲がるフィリップと恋人の姿で映画は終わります。本作のフィリップはパリから車で4時間という地方都市の青年ですが、貧乏アマチュア作曲家フィリップの日常を描いた部分はクレール'30年代初期のパリもののような青春映画の風情があってなかなか良い雰囲気で、これで押しても良かったんじゃないかと思える。しかしクレールの主眼は次第に小間切れかつ比重を増していく夢の中の時代恋愛コメディの方に向いていて、クレールがアメリカ映画の話題作『虹を掴む男』を観ていないはずはないのでさらに奇想天外で面白いものをと、クライマックスでは恐竜時代まで遡行してしまったフィリップが老紳士や友人たちの手引きでスポーツカーで時間線の車道を現代に向けてぶっ飛ばす(道路標識に時代と年号と舞台が書いてあり、「フランス革命」の標識を見たフィリップは「絶対停まるな!」と絶叫する)具合に荒唐無稽なギャグのアイディアは満載されているのですが、果たして面白いか、映画ならではの満足感があるかというと、工夫を凝らしたコメディではあるけれどあまりに内容がないではないかと思えてくる。50代半ばにさしかかり四半世紀の監督キャリアを重ねたクレールの遊び心には満ちている映画でしょうが、『悪魔の美しさ』にせよ本作にせよとにかく仕掛けで観客を楽しませようとしていて、映画を観る楽しみには確かにそうした凝った仕掛けも含まれるとしても、クレールが描きたかったもの、観客に伝えたかったことは戦後フランス映画界へのカムバック作品『沈黙は金』には確かに感じられましたが、『悪魔の美しさ』『夜ごとの美女』では仕掛けを除いたらフィリップのスター映画という以外何もない。『ファウスト』の改作だった前作にせよ本作にせよ別の人生を生き直すというのが基本アイディアにあり、通常これは生きることの本質とは何かという問いに結びついている切実な課題です。クレールは『悪魔の美しさ』『夜ごとの美女』ではサイレント時代からの旧知のコクトーが本格的な劇映画に進出したことにも刺戟を受けていたと思えますが、コクトーの映画は人工性を究めていてもコクトーの全人性を賭けた迫力と重みがあり、それ自体を目的とはせずともコクトーの生涯を賭けた死生観すら浮かび上がってくるものでした。かつての実験映画『詩人の血』'31から戦後の本格的な劇映画へのコクトーの自己革新はそれなしには起こり得なかったでしょう。コクトーもクレールに劣らない粋人だった才人ですが、粋と才気だけでは作れない映画の領域に踏みこんだからこそ本格的な映画作家になったと言えて、コクトーに較べるとクレールはあまりに本職である映画で粋人であり才人でありすぎた。それがクレールらしさとして好感は持てるものの、もうクレールには映画で作りたいもの、伝えたいことなどなくて、遊びの境地しかないような空々しさも感じないではいられない本作の印象につながります。また前作、本作がファンタジー的内容だったことからも、次作・次々作の『夜の騎士道』'55、『リラの門』'57のクレールはむしろかつてより人情味の強い作風に揺り返したのではないでしょうか。

●6月27日(木)
『恐怖の報酬』Le Salaire de la Peur (Vera Films=CICC=Filmsonor=Fono Roma'53.4.22)*148min, B/W : 日本公開昭和29年('54年)7月24日 : カンヌ国際映画祭グランプリ: ベルリン国際映画祭グランプリ : キネマ旬報ベストテン2位
◎監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)
◎主演:イヴ・モンタンシャルル・ヴァネル
○2,000ドルの報酬のために、命の保証なしで大量のニトログリセリンを運搬する4人の男。手に汗握る展開、そして予期せぬクライマックス。H・G・クルーゾー監督がメガホンをとった傑作サスペンス。

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 上演時間半2時間半におよぶ本作は初公開時131分と20分近く短かったそうですが、現行映像ソフトでは148分の試写版がディレクターズ・カットとして定着しています。初めて観たのはテレビ放映版でしたので時間枠がえらく長いなとしか思わなかったのですが、映画研究者にはともかくディレクターズ・カットだから偉いというのはなくて(確かにディレクターズ・カット復原で重要性の増した映画も数ありますが)、本作などは110分くらいにまとめても良かったのではないか。2台の車に分乗してニトログリセリンを運ぶ4人の男という設定だけで著名で、後の危険物輸送サスペンス映画の雛型になり、カンヌ国際映画祭ベルリン国際映画祭のWグランプリ受賞で国際的に大ヒットした本作は、吹き替えテレビ放映や映画館などでリラックスまたは集中して観るにはともかく、DVD鑑賞という方式で観ると前半耐えに耐えてようやく話が動き出し始めるのでディレクターズ・カット148分があまりありがたくないのです。ウィリアム・フリードキンによるリメイク『恐怖の報酬』'77は基本的には本作に忠実で後半の危機一髪部分をさらに盛りこんである作りですが、クルーゾー作品に見劣りするとあまり評価の高くないリメイク(タンジェリン・ドリームのサントラは話題になりました)ながらアメリカ公開版120分で国際版90分とテンポが刈り込んであるのは順当で、クルーゾーの本作は4人の男たちが依頼に集まり出発するまで55分あまりかかるのです。南米架空国で食いつめた流れ者たちの描写に前半2/5をかけているのですが、主人公のイヴ・モンタン始めシャルル・ヴァネルら4人の性格は悪路の山岳地帯を越えるニトログリセリン運搬の過程で鮮やかに描かれるので、恋人を待たせているモンタンにせよ集合・出発シーンから会話や短いフラッシュバックで人物の背景を暗示しても差し支えない。たぶんそのシーンから本作を観始めても映画は何の問題もないので、集合・出発までの小1時間は大作感を出すためのもったいぶりにすぎません。本作公開時には南米架空国の異国情緒も新鮮だったのでしょうし、実際冒頭1時間弱は本編への導入部というより南米の雰囲気の描写に始終していると言ってよく、国際関係が不穏だった当時は南米へ流れついたヨーロッパ人の主人公たちはよほど訳ありで無国籍者になったのをじっくり観客に納得させる必要があったのでしょう。リメイク作になるとそこら辺は前提なのでくだくだしい前置き抜きに油田の大火災事故、そして消化用のニトログリセリン運搬のために集められる4人の訳ありの男(全員何らかの前科者)、とストレートな展開ができたのですが、本作の場合は流れ者たちの吹き溜まりが延々描かれ、そこにようやく一攫千金、ただし危険極まりない油田火災消化のためのニトログリセリン運搬の人員募集が転がりこんでくる、と回りくどい手順でようやく話が始まる。初公開版と対照して観たことがないのでわかりませんが、現行版では1時間弱のこの冒頭から20分近くが短縮されていたはずで、40分弱でもまだ長く感じます。モンタン始め4人の本性は運搬が始まらないと現れてこないので、2時間半の映画と言ってもドラマは正味1時間半弱と言っていい。というのは最初の難所に差しかかるまでが出発から20分~30分の間なので、出発してしばらくは2台の車に分乗した2人ずつ2組の男たちは愚痴や悪口ばかりを言い合っているからで、これは後半の危機以降に意外な本性が明らかになったり関係が変化する伏線になりますが、だとしてももっと圧縮されていいか、冒頭のうちに示されていればいい気もします。しかし映画では20分~30分、実際は1~2時間の行程が示されていると思いますが、最初の難所までそう早く着くわけにはいかないのでここは冒頭1時間弱に較べれば必要な冗長さという納得がいきます。本作の日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「二百万人還る」のアンリ・ジョルジュ・クルーゾーが一九五一年から五二年にかけて監督した作品で、中米を舞台に四人の食いつめ者がニトログリセリンを運搬するスリルを描いたもの。ジョルジュ・アルノーの小説をクルーゾー自身が脚色し、台詞をかいた。撮影は「夜ごとの美女」のアルマン・ティラール、音楽は「アンリエットの巴里祭」のジョルジュ・オーリックである。出演者はシャンソン歌手として日本にもよく知られるイヴ・モンタン(「失われた想い出」)、「独流」のシャルル・ヴァネル、クルウゾオ夫人のヴェラ・クルウゾオ(映画初出演)、「オリーヴの下に平和はない」のフォルコ・ルリ、「外人部隊(1953)」のペーター・ファン・アイク、「ヨーロッパ一九五一年」のウィリアム・タッブスなどである。なおこの作品は一九五三年カンヌ映画祭グラン・プリを受賞、シャルル・ヴァネルが男優演技賞を得た。148分のディレクターズ・カット版がある。
○あらすじ(同上) 中央アメリカのラス・ピエドラスという町は世界各国の食いつめ者が集るところだ。コルシカ人マリオ(イヴ・モンタン)もその例外ではなかったが、彼には酒場の看板娘リンダ(ヴェラ・クルーゾー)という恋人がいた。そんな町へ、パリで食いつめた札つき男ジョー(シャルル・ヴァネル)が流れてきてマリオと親しくなった。ある日町から五〇〇キロ先の山の上の油井が火事になり、多くの犠牲者が出た。石油会社では緊急会議の結果、山上までニトログリセリンを運び上げ、それによって鎮火することにした。危険なニトログリセリン運搬の運転手は賞金つきで募集され、多く集った希望のない浮浪者の中からマリオ、ビンバ(ペーター・ファン・アイク)、ルイジ(フォルコ・ルリ)、スメルロフ(ヨー・デスト)の四人が選ばれた。選に洩れたジョーは大いに不服だった。翌朝三時、マリオとルイジとビンバは約束通りやって来たがスメルロフは姿を見せず、ジョーが現れた。何故スメルロフが来ないのか、そんな詮索をする暇はない、ジョーが代りに加ってマリオとジョーの組が先発、三十分遅れてルイジとビンバの組が出発した。マリオの組は、ジョーが意外に意気地がなくて二人の協力がうまく行かず、後から来たビンバ組に追いこされてしまった。崖の中腹に突き出た吊棚の上を危うく通りぬけたのち、車は道路をふさいでいる大石のためストップしてしまった。しかし、沈着なビンバは少量のニトログリセリンを使用して大石を爆破し、無事に通りぬけることができた。そのあとは坦々とした行進がつづき、一同もほっとしたとき、突如ビンバの車が大爆発を起し、跡かたもなくけし飛んだ。爆発のあとは送油管が切れて石油がたまりかけていた。早くここを通りぬけないと油に車をとられて二進も三進も行かなくなる。マリオは思いきって車を油の中にのり入れた。そのとき、ジョーが油に足をとられて倒れたが、車を止めることができないばかりに、マリオは倒れたジョーの脚の上を通りぬけなければならなかった。そしてジョーを助け上げ、介抱しながらようやく目的地につくことができたが、そのとき、ジョーは既に息絶えていた。ニトログリセリンのおかげで火事は消しとめられ、マリオは賞金四千ドルをもらった。重責を果して空車を運転しながら帰途につくマリオの心は軽かった。しかし、リンダとの幸福な生活を眼前にしてはずむ彼の心を魔が捉えたのか、僅かのカーヴを切りそこねたトラックは、希望に開けたマリオをのせてもんどりうって崖下に転落した。
 ――敗戦後のウィーンで偽ペニシリンの闇売買で儲ける悪党を描いた『第三の男』'49がペニシリンを一躍一般の観客に知らしめた映画なら、ニトログリセリンを知らしめた映画は本作ではないでしょうか。ニトログリセリン自体は爆発物ですが起爆力が非常に高いため、油田火災を大量のニトログリセリンの爆風で消火する(ニトログリセリン自体は瞬時に爆発で揮発するため延焼はしない)、という手段のために本作の石油会社はニトログリセリン運搬の運転手を高額で民間人、しかも流れ者のスラムから雇うのですが、運搬自体があまりに危険すぎて正規職員や運輸会社の正規労働者などには頼めないわけです。本作はコルシカ生まれのフランス人主人公マリオ、植民地から流れてきたフランス人ジョーの組とドイツ人ビンバ、イタリア人ルイジの組の2組に分乗して山頂近くの大火災を起こした油田まで山岳地帯をニトログリセリンを積んだ2台のトラックで向かうのですが、誰と組んでも同じだといえくじ引きで決まった2組は相方が気に入らない。先にマリオ&ジョー組(マリオとルイジだったら笑えますが)が出発し、間を空けてビンバ&ルイジ組が出ますが、ジョーは速度を上げるのを恐れて後続組に追いつかれてしまう。仕方なくビンバ&ルイジ組が先になり、空けてマリオ&ジョー組が追うことになりますが、ここまで出発から20分、人間ドラマは愚痴と悪口の言い合いばかりです。ビンバ&ルイジ組が最初の難所に差しかかるのがこの辺りからで、コンクリート舗装の車道が穴や突起やヒビだらけで、車載したニトログリセリンに爆発の恐れのある振動を与えず数キロに渡る凸凹なコンクリート道を乗り切るには時速40~60キロ台のスピードを維持して突っ切らなければならない。2人人組なのは交替やメンテナンスも必要ですが、この悪路では運転手のビンバはハンドルと路上に集中して、スピードメーターの確認やギアチェンジはマリオが分担するしかないわけで、このスピードを落としても爆発・上げすぎても爆発というのも本作が発明ではないとしても後続作品への影響は本作以降でしょう。ようやくコンクリート舗装道路を抜けて山岳への路に渡る方向転換用の橋を使おうとすると、木橋はあちこちが腐蝕している。最初は悪口を言い合っていたビンバとルイジにはチームワークが芽生えてきており、この難所も何とか切り抜ける。後続のマリオ&ジョー組が木橋に着くと腐蝕箇所にビンバ&ルイジが組んだ目印が立ててありますが、マリオが強引に木橋を使おうとするとジョーは怖じ気づいてしまい、トラックが方向転換して山岳道路方向に乗り上げた時に木橋は崖下に崩れ落ちてしまい、ジョーは逃げ出してしまう。マリオが呼びかけても来ないのでトラックを出すとジョーが走って追ってくる、という具合です。一方先にビンバ&ルイジは山岳道路の昇り口にたどり着きますが、落石が道路を塞いでいる。ビンバはニトログリセリンを水筒に移してルイジに掘らせた落石の穴に木の枝を伝って滴らせ、導火線でハンマーを落として爆破する。ルイジがトラックを引き返させ、後から追いついたマリオたちを停めますが、導火線に着火したビンバが走ってくると、ルイジは爆風がトラックまで来はしないかと導火線を消しに走り出し、その途端に噴煙と爆風が押し寄せます。従軍経験のあるらしいビンバが使ったニトログリセリンは水筒(細身のペットボトル大)の半量程度ですから、プラスチックの20リットル灯油缶ほどもある容器いっぱいのニトログリセリンをトラックの荷台にぎっしり満載した主人公たちの運搬自体がいかに無謀に近い危険な仕事なのかが駄目押しされる。落石が粉砕されてようやく山岳道路を通れると確認してビンバ、ルイジ、マリオたちは喜び健闘を称えあい、ジョーは俺だけのけ者かよ、としょげる。これまで通りビンバたちのトラックが先に発車することにし、マリオたちのトラックが進み始めた途端に煙草を巻こうとしていたジョーの手元から煙草の葉が吹き飛び、山の向こうで大爆発が起こり噴煙が上がっているのが見える。ジョーは怖じ気づいてしまいますがマリオは運搬を断行し、さらにビンバたちのトラックの爆発の巻き添えて送油管が切れて石油が道路に池を作ってしまっているのを通り抜けなければならなくなる。さすがに本物の石油の原油ではなく白黒映画のフィルム撮影でなら石油の原油に見える粘性に着色した水性の池だと思いますが、イヴ・モンタンシャルル・ヴァネルも頭の先どころか完全に全身を「原油」の池に沈める大変な場面です。このあと結末までは控えますが、マリオを待つ恋人のリンダが報を受けてバーの客たちとワルツを踊り、同じ曲をカーラジオで聴きながらマリオがワルツに合わせて帰りの車をジグザグ運転するのは、帰りの車に運転手をつけようかというのを断るのは大金を持った用心と警戒心からとしても、あれほどの死地に遭って都合良く軽薄すぎるように思えます。後半の怒涛の展開で冒頭1時間弱の冗長さが帳消しにはなりますし、これが新作だった当時はさぞかしと思わせるだけはありますが(同年のキネマ旬報ベストテン1位は『嘆きのテレーズ』'53ですが、芸術点の加算が大きいでしょう)、花田清輝のように本作を「冷戦状況の寓意」とするのはかえって純粋サスペンス映画としての発明を低く見ることになる気がします。また犯罪絡みでも情痴ドラマでもないサスペンス映画では本作は冒険映画の系譜に入るもので、戦争映画の任務遂行ものに近い性格の作品とも言えそうです。