人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「私はダイヤモンドなの!」

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 ぼくが最初に精神病院に緊急入院搬送される目にあったのは、2009年12月15日かその翌々日でした。入院そのものもそれが初めてで、最初の入院こそ年末年始をまたいだ1か月の短期入院で済みましたが、この入院から2011年5月までの2年半・30か月に5回入退院、合計入院期間20か月と、2/3の期間は入院生活を送ることになるとは、最初の入院では思いもよらないことでした。なおこれから会ったかたがたのお名前は、イニシャルでは読みづらく感じが出ないので、仮名でよくある姓名を当てて呼ばせていただきます。

 入院までの経由は、それ自体一本の作文になるほど煩雑だったので略します。ぼくは意識朦朧状態で救急車に乗せられ、電車を乗り継げば1時間半以上かかる山奥の精神病院に、30分もかからず到着・搬送されました。救急レスキュー隊のかたがたって本当に作業の手際よく鍛えられているんだな、救急車ってこんなに速いんだな、頭に振動を与えないために車体の中央にくるようになっているんだな、と角を曲がって窓から差しこむ光がぐるりと回るたびに感心していました。これも救急車というお題だけで書いても長くなるので略します。

 緊急隔離室で二晩過ごしたのち、ぼくは十畳・6人部屋の畳敷きの座敷に移されました。この山奥の精神病院は精神科単科の大病院で、木造に鉄筋の建て増しで4階以上あったから建築基準法から考えても歴史の長さがわかります。男女は別フロアに分かれており、男性患者は3フロア、女性患者は1フロアに収容されていました。ぼくはかつて入獄した県内の大拘置所を思い出しました。裁判待ちや判決済みの被疑者を厳重禁固する拘置所に較べれば、精神病院なんてよっぽどましだなと思いました。拘置所雑居房などは12畳に10人が収容されますから、殺伐として死ぬほど息苦しい空間でした。これも何回に分けても語りきれないほど長くなるので略しましょう。

 ぼくは新参者なので先にいた5人とあいさつを交わしました。みんな気さくに歓迎してくれました。これもさぐり合うような拘置所の名乗りあいとは違います。鬱であまりしゃべらない斎藤さん・安田さん(ともに30代)以外の3人はぼくの入院事情を訊いていたわってくれ、自分たちの事情も話してくれました。ぼくより5歳若い桑原くんは数回入退院をくり返していましたが、失職や発病・離婚と離別、入獄などほとんどぼくと同じ経歴の元自衛官・パチンコ店員でした。まだ20代初めの山本くんは未亡人のお母さんと絵画教室を開いている画家で、ダ・ヴィンチの画集とお母さんからの手紙の束を大事そうに見せてくれました。山本くんの病気は周期的に激しい自傷癖のある双極性障害(「錐で身体じゅう滅多刺しにして血まみれになっちゃうらしいんですよ」)と桑原くんが教えてくれました。また重鬱の斎藤さんは親族によって強制入院させられ、病棟の4階から夜中に何度も壁づたいに逃亡を図っては連れ戻されているとも桑原くんから聞きました。

 拘置所でも裁判の長期化(長期再犯者はそうなります)でもう何年も座敷雑居房にいる牢盟主と言える人がいましたが、この6人部屋の主と言えるのが20代末に入院し、もう30年あまり入院している佐野さんでした。この座敷病室では布団の上げ下ろしが決まりなのですが、佐野さんは特別に、部屋のいちばん奥に万年床を許されていました。痩せて小柄な佐野さんは優しい人でした。ぼくの話と桑原くんの経歴を聞いて、「二人ともつらかったわねえ。涙が出たでしょ。あなたたちが悪かったわけじゃないのに。つらいわねえ」と目元を潤ませていました。佐野さんはおネェでした。元レコード店員の佐野さんは誰はばからずにゲイとして男性の恋人を渡り歩いてきたため、親族によって強制入院させられて30年あまりを男性ばかりの精神病棟で過ごしてきた人でした。

 佐野さんは歌が好きで、よく30年以上前の歌謡曲をアカペラで口づさんでいました。「佐野さん歌上手いですよね。いい声だし」と桑原くんも苦笑していました。レコード店員は佐野さんには楽しく、「新宿二丁目は天国だったわ。あんなに素敵な所はなかった……」と喫煙室でメンソールの煙草をくゆらしながら思い出にふけっていました。ぼく自身も新宿二丁目の店にはライターの仕事で出入りしていたことがあり、そういえば歳とったおネェの人たちはみんな佐野さんみたいな、優しく、どこか痛々しい、孤独な印象を残す人ばかりだったのを思い出しました。

 長い入院生活か、病状自体によるものか(これはその後の別の入院でもお目にかかったことですが)佐野さんには独語癖がありました。会話の途中で突然脈絡がなくなり、明らかに佐野さんだけの世界で話し始めている姿がよくありました。「私はダイヤモンドなの!」がそういう時の佐野さんの口癖でした。ぼくは困りましたが、数回の入退院で佐野さんを知っている桑原くんは「何でダイヤモンドなんですか?」と平気で訊いていました。佐野さんはふっとこっちに戻ってきて、「私は四月生まれだから。四月の誕生石はダイヤモンドなのよ」と教えてくれました。

 ある晩もう消灯して就寝のあと、佐野さんは夜中にこらえるような声で、「誰か起きてる人がいる?看護婦さん呼んで来て……胸が苦しいの、すごく苦しいの!」と呼びかけてきました。ぼくは隣の桑原くんを見て目が合いました。他の同室者は本当に寝ているか関わらないでいるかのどちらかでした。桑原くんがナースステーションに行くと、ぼくは佐野さんに寄り添って手を握り胸を撫でて、「大丈夫ですよ佐野さん、今桑原くんが看護婦さん呼びに行ってますから」「来てくれるかしら……」「大丈夫ですよ、それより落ちついて、楽になさって」。桑原くんが戻ってきました。「今すぐは来れないけど、もうちょっとしたら来てくれるそうです」「……大丈夫ですよ佐野さん」結局看護師さんが来るまで小一時間ぼくが佐野さんに添い寝して胸をさすり、看護師が来て「大丈夫ですか?」「もうだいぶ楽になってきたわ」「じゃあお休みになってください」。桑原くんはもう眠っていて、ぼくも佐野さんにおやすみのあいさつをして自分の布団に戻りました。

 翌日からぼくは佐野さんの寵愛を受けることになりました。「佐伯さんこっちの席に来てお話しましょう」「佐伯さんコーヒー淹れるから飲まない?」「佐伯さん一緒に煙草喫いに行きましょう」。「すっかり佐野さんのお気に入りになっちゃいましたね」と桑原くん。消灯、就寝時間。「佐伯さん私の布団に来ない?おちんちん触りっこしましょ」「佐野さん、もう寝ましょう。みんなも眠っていますから」もちろん桑原くんも含めてみんな寝たふりです。「ぼくももう眠りますから」。ぼくは新宿二丁目ゲイ・バーでおネェのおじさんに泊めてもらった時、「触らせてくれているだけでいいの」と一晩中そっと握られていたのを思い出しました。あの時は泊めてもらっているから仕方ないと握られるがままになっていたし、そっと握る以上のことはされませんでした。おそらく佐野さんもそれだけで十分なのでしょうが、ここは精神病院の病棟の一室です。

 佐野さんはゲイらしく繊細な人だったので、ぼくに嫌われたくない心づかいからか、そのあとはぼくの退院まで話し相手や茶飲み友だち、煙草の誘い以上には普通に親しく甘えてくる程度で済みました。ぼくは二度目の入院からは毎回危篤寸前でしたが、別のもっと近い病院に入院できたので、佐野さんと一緒の最初に入院した病院には再入院しませんでした。桑原くんとは退院後も連絡取りあい年に一度くらい会う友人になりました。桑原はその病院が近い上にすでに何度も入退院しているので、「また入院して佐野さんと同室になっちゃいましたよ」と入退院後に電話で教えてくれました。「佐野さん元気だった?」「元気も元気、佐野さんクルクルパーですよ。看護婦さんに「佐野さん!夜中に他人のおちんちんしゃぶって回らないでください!」って叱られてましたよ」。退院の見こみのない佐野さんにとって男性患者病棟は、時には、あるいは唯一の、この世のハーレムなのかもしれません。

 そんなわけで四月が来ると、佐野さんのこと、「私はダイヤモンドなの!」を思い出します。ピンク・フロイド1975年のアルバム『炎~あなたにここにいてほしい(Wish You Were Here)』を聴くたび、収録曲の「狂ったダイヤモンド(Shine On You Crazy Diamond)」や「あなたがここにいてほしい(Wish You Were Here)」(この邦題は誤訳で、"Wish You Were Here"はバカンス先からの葉書の締めくくりに「こっちは最高、羨ましいだろう?」というニュアンスで添える慣用句です)を聴くたび、「狂ったダイヤモンド」の佐野さんを思い出すのです。そして二度目の入院からは男女混合病棟だったので、入院するたびモテたくもない状況なのにその時々の特定の男女患者からモテモテになってはたはた困ることになり、最後の入院は既婚の女性患者との退院後の恋愛がきっかけになる最悪の事態になったのですが、リクエストがあれば離婚や入獄、度重なる入退院もこんな感じでエッセイにまとめてみましょう。プロの雑誌ライターだった頃は自分については決して書かなかったのに、今では自分自身の体験をネタに作文しているのは皮肉ですが、そういうものかもしれません。
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