人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

高村光太郎「母をおもふ」(昭和2年=1927年)

(岩手移住時代<昭和22年・65歳>の高村光太郎<1883-1956>)
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母をおもふ

           高村光太郎


夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。

鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリエに
金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待つてゐた巴里(パリ)の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹(くぼ)んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうという時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。

 高村光太郎(1883-1956)の母(本名わか・通称とよ)は大正14年(1925年)9月10日、腸炎によって69歳で亡くなりました。この「母をおもふ」はそれから2年後の昭和2年(1927年)8月15日に書かれ、翌9月号の同人誌「炬火」に発表された詩です。当時高村は45歳でした。発表誌では、詩への反歌として、

たらちねの母は死ねども死にまさずそこにも居るよかしこにも居るよ

やせこけしかの母の手をとりもちてこの世の底は見るべかりけり

 の二首の短歌が末尾に添えられていましたが、昭和4年10月刊の『現代詩人全集』(新潮社・第九巻『高村光太郎・室生犀生・萩原朔太郎』)に初収録された以降は短歌二首は削られています。高村光太郎の詩集刊行は意外なほど少なく、この『現代詩人全集』の高村光太郎の巻は自費出版の第1詩集『道程』(大正3年=1914年10月)以来ようやく刊行された高村の2冊目の詩集に当たるものでした。

 高村光太郎は伝統彫刻の巨匠・高村光雲の長男に生まれ、伝統的な木彫彫刻の後継者として育てられましたが、青年時代のフランス留学を経て与謝野鉄幹・晶子主宰の「明星」の文学運動に石川啄木北原白秋谷崎潤一郎らとともに関わり、伝統彫刻と西洋彫刻の間に引き裂かれた人でした。結果的に父の流派の後継者(師範)となることを辞した高村は、本業の彫刻家としては非常に貧窮生活を送ることになります。また高村は商業文筆家になることも拒んだので、文名が上がってからも詩作のほとんどは同人誌に自費発表していました。昭和2年は高村にとってますます彫刻の仕事が貧窮し始めた時期であり、2年後の昭和4年には夫人・智恵子の実家の家業の破産により智恵子の健康状態の悪化とともに精神疾患の症状が現れ始め、昭和7年に自殺未遂を図ってからの智恵子夫人は昭和13年の病没まで慢性的な統合失調症に陥ります。「母をおもふ」を書いた時期は、まさに高村にとって、これからの後半生の苦難に向かう折り返しのような生活苦が始まっていました。

 高村も傾倒したボードレール(1821-1967)の遺稿集『赤裸々な心・火の鞭』には「私の母は変な人だった」という有名な一節がありますが、ボードレールと対照的に、この詩は高村が詩人として真っ当すぎるほど健康な感受性の持ち主だったのを示す、優れた普遍性を持った詩です。しかし「母をおもふ」が書かれた背景には高村自身の前途への不安があり、高村より1歳年長の芥川龍之介(1982-1927)が4月にはひっそりと没後発表のための遺書を書き、6月末には遺稿「或る阿呆の一生」(ボードレールの引用を含む自伝的短編です)とキリストの生涯の考察エッセイ「西方の人」を書き上げて友人に託し、「ぼんやりとした不安」を理由に服毒自殺したのは同じ昭和2年、6月24日のことでした。当代一の人気作家・芥川の自殺は社会的事件となり、同年7月~8月の新聞・雑誌は競って芥川追悼特集を組みます。そうした中で高村が「母をおもふ」を母の逝去から2年経って書いたのは、芥川の自殺と、高村自身の生活の危機感と、無関係ではないように思えます。