人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年刊)その2

(山村暮鳥<明治17年=1884年生~大正13年=1924年没>)
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 山村暮鳥(明治17年=1884年1月10日生~大正13年=1924年12月8日没)の第1詩集『三人の處女』は大正2年(1913年)5月に島崎藤村(1872-1943)の序文を巻頭に掲げて刊行されましたが、成立までには明治45年(1912年)3月に編纂された『「原」三人の處女』と呼ばれる手稿詩集が先行していました。実は『「原」三人の處女』には表題作「三人の處女」は入っておらず、序文を依頼された藤村の手に渡った生原稿や同人誌発表作品から藤村が「三人の處女」を詩集の表題作と取り違えて序文を書いてしまったために(さすがの大家にリライトは頼めません)、改めて「三人の處女」を含んだ構成に再編集したものでした。もし続いて『聖三稜玻璃』が書かれなければ『三人の處女』は『聖三稜玻璃』に取って代わる位置を占めたと思える双生児的な作品で、『聖三稜玻璃』の成立を契機として暮鳥は急激に作風を転換させるのです。

 暮鳥の詩歴は『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)で頂点に達する神秘主義的な前期、ヒューマニストに変貌した大作『風は草木にささやいた』(大正7年=1918年)を頂点とする中期、大正13年(1924年)12月の逝去前月に校了した遺稿詩集『雲』(大正14年=1925年1月刊)で達成された穏やかな日常詩の後期の作風の3期に分かれると早くから見なされており、前期・中期・後期ではまったく異なる発想と方法でコンセプトのはっきりした詩集を創作しているために、かえって評価が安定しない詩人でもあります。初期の同人誌仲間だった萩原朔太郎(1886-1942)と室生犀星(1889-1962)すら暮鳥への評価は留保つきで、同世代の日夏耿之介(1890-1971)は大著『明治大正詩史』でやはり暮鳥と初期の同人誌仲間で(地方在住の暮鳥は東京の同人誌をいくつもかけもちしていました)マイナー・ポエットの三富朽葉(1889-1917)や加藤介春(1885-1946)には好意的なのに「暮鳥が死した後を以て大詩人であるかの如く持ち上げるものあるは不真面目も甚しい。暮鳥は単に奇巧をてらつて素人威しをした以外に何の業績もない駄詩人にすぎぬ」とばっさり斬っています。

 萩原朔太郎に師事した詩人・伊藤信吉(1902-2002)や伊藤と同世代の詩人・村野四郎(1901-1975)らも暮鳥には手厳しく「その美学に秩序がなく、その理念に朔太郎のように一貫した形而上学的な根拠がなかった」「通俗的なイメージを破壊したが、その跡に高級なメタフォルを創始しえていなかった」ゆえに日夏耿之介の評価にも「これは決して耿之介独特の毒舌のみとは言えない」、それは作風の変化についても「詩人にはいかなるものにもおのずから感情の歴史というものがあるべきであるが、暮鳥のようにこれを喪失してしまっている詩人はめずらしい」と村野四郎は書いています(『現代詩小史』昭和33年=1958年)。伊藤信吉の暮鳥評価も村野と主旨において一致しており、伊藤と村野は戦後に昭和前期までの現代詩の生き証人として日本の詩史の見取り図を定着させた貢献の大きな人ですからおおむね評価は穏当で、詩史に落とせない詩人とは認めても暮鳥ほど批判を前提に俎上に上げられた詩人は珍しいのです。他に探せば大手拓次(1987-1934)でしょうか。萩原朔太郎室生犀星との比較で、手法的には萩原と犀星に一歩先んじながら萩原や犀星の出来損ないのような作品しか残せなかった詩人、というのが日夏、伊藤、村野の共通の見解であり、また萩原や犀星自身も暮鳥や拓次に言及した鑑賞や回想でも社交辞令的な賞賛を除けば、言外に暮鳥らの作品を芸術的に未熟なものと批判しているように読めます。

 日夏の『明治大正詩史』は昭和4年(1929年)に初版が刊行され、戦後の昭和23~24年の増補改訂版が定本となりましたが、暮鳥を「駄詩人」と断じたのは注釈部分ですから増補改訂版での追加部分かもしれません。「歴程」主宰の草野心平(1903-1988)編・解説による増補新版の『聖三稜玻璃』が復刊されたのが昭和22年(1947年)で、草野は解説に当たる「覚え書」で暮鳥の自伝エッセイから「自分の芸術に対する悪評はその秋に於て極度に達した。或る日自分は卒倒した」と引用し、「極度の悪評はそれらの詩の新鮮斬鬼をそのまま映写するものとしていまは悪評を投げつけた人々の前にたちはだかる」「詩集『聖三稜玻璃』は近代日本詩の最もかがやかしい古典の一つである。それは最早論をまたない。けれども実は上梓されたその当時既にその命運をもつてゐたものであつた」そして「時間の努力なしには分らない暗愚さのなかに永いこと寒気してゐたこの詩集が三十年を経た今日再刊されるといふことは改めて一つの考察にもなり興味深い」(十字屋書店・昭和22年新編復刊版より)と結んでいます。日夏の酷評はこの草野心平編『聖三稜玻璃』復刻版刊行への過剰反応かもしれません。

 伊藤信吉、村野四郎とも草野心平とは親しい詩人でしたが、「歴程」は日本の詩史における萩原朔太郎室生犀星三好達治(1900-1964)を代表とする「四季」の詩人たちの正統性は認めながらも、「歴程」自体は高村光太郎(1983-1956)、宮澤賢治(1896-1933)、尾形亀之助(1900-1942)、岡崎清一郎(1900-1986)、高橋新吉(1901-1988)、山之口獏(1903-1963)、逸見猶吉(1907-1946)、中原中也(1907-1937)などアウトサイダー的詩人を擁立していました。多くは学歴も定職もない劣等生で、ブルジョワ家庭の子弟の「四季」とは大違いでした。「歴程」からすれば山村暮鳥復権すべき詩人だったのももっともです。草野よりやや年長の金子光晴(1895-1975)や吉田一穂(1898-1973)は萩原朔太郎を認めつつライヴァル視するか(金子)、あるいは完全に否定的(吉田)でした。金子は『こがね虫』(大正12年=1923年)、一穂は『海の聖母』(大正15年=1926年)を萩原の『月に吠える』(大正6年=1917年)以上のものと自負していました。

 金子は回想録的な『現代詩の鑑賞』(昭和29年=1954年)で「山村暮鳥と、感情詩派の若い詩人たちに彼が与えた指嗾ほど、貴重なものは日本の詩壇のあと先をたずねて珍しい」とし、萩原と室生、拓次が師事した北原白秋(1885-1942)のあまり注目されない仏教的短詩集『白金之独楽』(大正3年=1914年)からの独自発展を見ています。同書の別の章では、光晴の兄が新刊の『白金之独楽』に熱中する一方で光晴は間もなく刊行された山村暮鳥詩集を購入し、「僕は、やがて暮鳥の『聖三稜玻璃』を無上のものと思うようになった」と、当時暮鳥を模倣して書いた自作まで引用しています。金子が暮鳥参加の同人誌「感情」も購読し、まだ詩集未刊行の犀星や朔太郎の初期詩編に触れたのも『聖三稜玻璃』~暮鳥~「感情」という流れでした。金子も日夏が批判した「暮鳥が死した後を以て大詩人であるかの如く持ち上げる」若手詩人のひとりだったわけです。

 ただし金子光晴草野心平が暮鳥を復権させようとしても伊藤信吉や村野四郎の否定的評価は変わらず、昭和36~37年に全2巻で彌生書房から刊行された初の『山村暮鳥全集』は未発表書簡は含むものの既発表作品の3分の1程度の選集でした。ようやく詩集未収録作品、未発表作品、全エッセイまで網羅した分厚い4巻本全集が暮鳥研究の第一人者・和田義昭氏編集で筑摩書房から刊行されたのが平成元年~2年です。ただし誤訳だらけで生前に暮鳥の信用を落とした(暮鳥が「悪評はその秋に於て極度に達した。或る日自分は卒倒した」と書いている原因は『聖三稜玻璃』だけではなかったのです)ボードレール詩集とドストエフスキー書簡集・ドストエフスキー評伝の翻訳(いずれも英訳からの重訳)は筑摩書房版でも割愛されました。

 筆者が暮鳥を読むきっかけになったのは、詩誌「現代詩手帖」昭和43年(1968年)のバックナンバーに掲載の天沢退二郎(1936-)の『瀧口修造の詩的実験1927-1937』書評で、「これがいったい言葉なのだろうか?これが言葉たち以外の何ものでもありえないなら、言葉とはいったい何なのだろう?」と始まり「近代から現代へ、私たちが持った《詩的実験》史の内容は、『聖三稜玻璃』の山村暮鳥瀧口修造吉岡実という三つの星によって最もラディカルに区切られている。この三つは、単に歴史的時間によって直線的に並ぶのではなく、互いに引きあい放ちあいながら三角形をかたちづくっている」とあったからです。『静物』(昭和30年=1955年)、『僧侶』(昭和33年=1958年)、また『サフラン摘み』(昭和51年=1976年)、『藥玉』(昭和58年=1983年)の吉岡実(1919-1990)については言うまでもないでしょう。執筆から30~40年を経てまとめられた瀧口修造(1903-1979)唯一の詩集『詩的実験1927-1937』(昭和42年=1967年12月刊)もまた、刊行前から失われた現代詩の古典とされながら30年あまり放置されていた詩集です。昭和43年は、その時点の既刊詩集すべてをまとめた『吉岡実詩集』が前年に刊行されたばかりでした。『吉岡実詩集』の前に『瀧口修造の詩的実験』があり、さらに瀧口修造詩集に先立って屹立している詩集が『聖三稜玻璃』と天沢が考え、実際はすでに『聖三稜玻璃』と『吉岡実詩集』が存在する詩史の欠落を埋めるように『瀧口修造の詩的実験』が刊行されたと天沢は主張したわけですが、『月に吠える』でも『抒情小曲集』でもなく、大手拓次『藍色の蟇』(昭和11年=1936年・歿後出版)でも瀧口が師事した西脇順三郎(1894-1982)の『Ambarvalia』(昭和8年=1933年)でもなく、初めに『聖三稜玻璃』ありき、という断言は強烈です。

 昭和43年には長老詩人では日夏耿之介堀口大學(1892-1981)は存命でしたが室生犀星佐藤春夫(1892-1964)、三好達治は逝去して間もなく、70歳代にして旺盛な詩作の衰えがない西脇順三郎金子光晴が日本の現代詩最高の巨匠と目されるようになっていた時期です。戦後第一世代の詩誌「荒地」同人にとっても、「四季」の流れを汲む詩誌「ユリイカ」系の詩人を中心とした「櫂」同人にとってもそうでしたし、詩歴の長い「歴程」同人にとっても西脇・金子は兄貴分的存在でした。ただし「ユリイカ」はシュルレアリスムの再検討を指向する一派もあり、「荒地」同人が戦前に西脇・瀧口らの「詩と詩論」の薫陶を受けていたように、孤立してシュルレアリスムから出発していたのが「ユリイカ」の異端として再デビューした吉岡実だったのです。強靭な思想性を持つ「荒地」系詩人や日常的で柔軟な抒情性を会得した「櫂」の詩人たちに対して、もっと若い世代のシュルレアリスム指向の戦後詩人たちは『静物』『僧侶』の吉岡実を現代詩のトップランナーと目していました。吉岡の前に瀧口修造を、そして現代詩の原点に『聖三稜玻璃』を置く天沢退二郎の指摘は、日本のシュルレアリスム詩の発展史として正当性のあるものです。

 シュルレアリスムという恐ろしい言葉が出てきてしまいましたが、『聖三稜玻璃』はドイツとイタリア、フランスの詩人たちの合流する1916年のスイスで詩を中心とした新しい芸術運動がダダイスム命名され、1918年に「ダダイスム宣言」が行われる(いわゆるチューリッヒ・ダダ)より早い1915年12月の刊行で、1914年5月から1915年5月に創作または発表された詩を集めた詩集です。ダダは特定の方法を持たないアナーキーな発想だったのでフランスの詩人たちはダダを離れてフロイディズムを援用した夢や無意識を手法に採用しシュルレアリスムを提唱しますが、「シュルレアリスム宣言」とその実作の散文詩集『溶ける魚』が1924年ですから大正13年で、日本でも平戸廉吉(1893-1922)「日本未来派宣言運動」が大正10年=1921年(遺稿集『平戸廉吉詩集』は昭和6年=1931年刊)、吉行エイスケ(1906-1940)主宰の同人詩誌「ダダイズム」創刊(大正11年=1922年)で、辻潤に兄事した高橋新吉による日本初のダダイズム詩集『ダダイスト新吉の詩』(辻潤編)が毀誉褒貶を呼んだのが大正12年(1923年)になり、シュルレアリスムのように名称を変えてはいませんが(唯一、平戸廉吉は「日本未来派」と提唱しましたが)チューリッヒ・ダダとシュルレアリスムの違い以上にチューリッヒ・ダダと日本のダダは異なるものでした。以降、代表的な日本のダダ詩集は北川冬彦(1900-1990)『三半規管喪失』、遠地輝武(1901-1967)『夢と白骨の接吻』、萩原恭次郎(1899-1938)『死刑宣告』、尾形亀之助『色ガラスの街』(以上大正14年=1925年)、小野十三郎(1903-1996)『半分開いた窓』、北川冬彦『検温器と花』(以上大正15年=1926年)あたりまでで、昭和に入ると日本のダダはコミュニズムモダニズムに変貌します。フランスのシュルレアリスムがフロイディズムからコミュニズムへ転換した流派に分岐したのと事情は似ています。日本のダダも方法意識の稀薄なものでしたが、輸入文化の消化というフィルターを経ずには成立しなかったためチューリッヒ・ダダがフランスにシュルレアリスムを生んだのと似た社会的(または反社会的)指向がありました。

 夢、そして無意識という発想をフロイトから援用したフランスのシュルレアリスムは文学理論としては矛盾だらけ、作品にも成果の少ない運動で、優れた作品はシュルレアリスムの規範から逸脱しようとした詩人からしか生まれていないとすら言えて、純粋なシュルレアリストシュルレアリスムを宣言したアンドレ・ブルトンひとりであり、ブルトンは自分の規定したシュルレアリスムから逸脱した仲間を次々と除名していきました。ブルトンの規範ではわかりませんが、『聖三稜玻璃』がダダイスムよりはシュルレアリスムに近い方法を先取りしているのは確かです。古代仏教、中世カトリック、近代プロテスタント、さらにボードレールデカダンス象徴主義ドストエフスキーの黙示録的救済意識が暮鳥という日本の田舎の牧師詩人にとってのオブセッションになっていました。『聖三稜玻璃』の収録詩篇が一読支離滅裂で奇怪でも、何かとり憑かれたようなイメージから書かれている印象を与えるのは、萩原朔太郎室生犀星にはない過剰なものを抱えこんでおり、暮鳥ほど徹底しているのは手法的にはまったく異なりますがやはりボードレールを範とした大手拓次の過剰さであり、三富朽葉富永太郎(1901-1925)、中原中也の系譜では象徴主義の摂取はもっと完成された詩を目指したスマートなものになっています。大手拓次も手ごわい詩人ですが生前刊行詩集を持たない、完成を目指していなかった詩人であり、暮鳥の場合は『聖三稜玻璃』収録詩編制作中から友人宛ての手紙で「此の詩集、今世紀にはあまりに早き出現である。千年万年後の珍書である。これ小生のものならず、即ち人間生命の噴水である。その聖くして力強きをみよ――――」(大正4年9月15日付・小山茂市宛)と豪語しており、それは同人詩誌「風景」創刊号(大正3年5月)に寄せたエッセイで「自分には立派な普通以上の、眼にこそ見へないがそれだけまた過大な心霊的職業がある」として暗に詩作に伝道師としての職分以上の宗教性を意図していることからも暮鳥という個人を越えた霊感が『聖三稜玻璃』には働いている、と考えていたのがわかります。

 詩集『聖三稜玻璃』全編はほぼ均等な4部に分かれ、本文中の該当ページに「1915 III-V」「1914 V-」「1914 VII-XII」「1915 I-II」と印刷された(作品制作年月を表す)トレーシング・ペーパーの小さな紙片が挟み込んであります。今回は「1914 V-」に属する2編で詩集収録作ではもっとも早い時期の作品になり、大正3年(1914年)5月号の同人誌「風景」にまとめて発表されました。特に「A' FUTUR」は詩集唯一の散文詩シュルレアリスム的かつ最大の規模を持つ作品です。シュルレアリスムの具体的な方法論は「自動記述法」(オートマティズム)が代表的なもので、半睡眠状態で次々と言葉が湧くがままに書く(手法的性質上散文詩になることが多い)というものですが、これは当然散漫な内容(または無内容)とムラのある文体に陥る危険と裏腹です。それが一般的にはシュルレアリスムの弱点とされています。

 暮鳥の「A' FUTUR」も明らかに夢遊病的な状態で自動記述された(ただし暮鳥のとり憑かれたオブセッションの反映が求心的にテーマ変奏されている点ではシュルレアリスムの遠心性と異なる)散文詩ですが、ほとばしるというよりはにじみ出てくるようなイメージの奇怪さにはこけ脅かしではない内的な必然と切迫感があります。「永遠にうまれない畸形な胎兒の『だんす』、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ…… 」という戦慄的で爛れた肉感性の溢れた詩句を日本の詩で暮鳥以前に誰が書くことができたでしょうか。

 この「A' FUTUR」に限らず『聖三稜玻璃』収録詩編は雑誌発表型から句読点や形容副詞節に多少の改稿がありますが、「A' FUTUR」は約15箇所の小さな改稿以外に最終2連がまるごと削られています。以下にご紹介する決定稿の後に、もう2連あるのです。暮鳥ほどの詩人がどうしたことか明らかにこの2連は蛇足であるばかりか内容的にもまったく調和しておらず意図の不明な結句であり、添削した判断が成功なのはすぐにわかります。本文末尾に削除された2連を付け加えてご紹介することにします。

『聖三稜玻璃』初版=四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本/にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
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(着色型押し三方山羊革表特紙本)
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1914 V-

青空に


青空に
魚ら泳げり。

わがためいきを
しみじみと
魚ら泳げり。

魚の鰭
ひかりを放ち

ここかしこ
さだめなく
あまた泳げり。

青空に
魚ら泳げり。

その魚ら
心をもてり。

(大正3年=1914年5月「風景」)

A' FUTUR

まつてゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒の「だんす」、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讚美をかい探る。

わたしをまつてゐるのは、誰。
黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫へてゐる。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやはらかな髮を梳る。誰だ、わたしを呼び還すのは。わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびてゐる。青に朱をふくめた夢で言葉を飾るなら、まづ、醉つてる北極星を叩きおとせ。愛と沈默とをびおろんの絃のごとく貫く光。のぞみ。煙。生(いのち)。そして一切。

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましひ)。汝(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。靈魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしやれ)な獸の哲理を知れ。翼ある聲。眞實の放逸。再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。

靡爛せる淫慾の本質に湧く智慧。溺れて、自らの胡弓をわすれよ。わたしの祕密は蕊の中から宇宙を抱いてよろめき伸びあがる、かんばしく。

わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちや)を愛す。猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。朦朧なる水晶のよろこび。天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。

いたづらな蠱惑が理性の前で額づいた……

何といふ痛める風景だ。何時(いつ)うまれた。どこから來た。粘土の音(ね)と金屬の色とのいづれのかなしき樣式にでも舟の如く泛ぶわたしの神聖な泥溝(どぶ)のなかなる火の祈祷。盲目の翫賞家。自己禮拜。わたしの「ぴあの」は裂け、時雨はとほり過ぎてしまつたけれど執着の果實はまだまだ青い。

はるかに燃ゆる直覺。欺むかれて沈む鐘。棺が行く。殺された自我がはじめて自我をうむのだ。棺が行く。音もなく行く。水すましの意識がまはる。

黎明のにほひがする。落葉だ。落葉。惱むいちねん。咽びまつはる欲望に、かつて、祕めた緑の印象をやきすてるのだ。人形も考へろ。掌の平安もおよぎ出せ。かくれたる暗がりに泌み滲み、いのちの凧のうなりがする。歡樂は刹那。蛇は無限。しろがねの弦を斷ち、幸福の矢を折挫いてしくしく「きゆぴと」が現代的に泣いてゐる。それはさて、わたしは憂愁のはてなき逕をたどり急がう。

おづおづとその瞳(め)をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乘せた騾馬――――記憶。世界を失ふことだ。それが高貴で淫卑な「さろめ」が接吻の場(シイン)となる。そぷらので。すべて「そぷらの」で。殘忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、歸らぬ鳩は眩ゆきおもひをのみ殘し。

おお、欠伸(あくび)するのは「せらぴむ」か。黎明が頬に觸れる。わたしのろくでもない計畫の意匠、その周圍をさ迷ふ美のざんげ。微睡の信仰個條(クリイド)。むかしに離れた黒い蛆蟲。鼻から口から眼から臍から這込む「きりすと」。藝術の假面。そこで黄金色(きんいろ)に偶像が塗りかへられる。

まつてゐるのは誰。そしてわたしを呼びかへすのは。眼瞼(まぶた)のほとりを匍ふ幽靈のもの言はぬ狂亂。鉤をめぐる人魚の唄。色彩のとどめを刺すべく古風な顫律(リヅム)はふかい所にめざめてゐる。靈と肉との表裏ある淡紅色(ときいろ)の窓のがらすにあるかなきかの疵を發見(みつ)けた。(重い頭腦(あたま)の上の水甕をいたはらねばならない)

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繋がれてゐる。そして懶(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。

(以下『聖三稜玻璃』決定稿では削除)

おお、日本。私は汝(そなた)のために薔薇の戴冠式を踵の下で祝するぞ。汝は童話の胸に凭れた騾馬か。
わたしを待つのは汝ではない。それは見えぬ彼女だ。彼女と相見るところの現實の中心、おお、爪立てる黎明のゆびさき。大空を楯としてわたしと夢のながい凝視、それが、又、無始無終の刹那を創り、孤独の無智への飛躍をする。

わたしの騾馬はうしろの丘の十字架に繋がれている。そして懶くこの日長を所在なさに糧も惜しまず鳴いてゐる。

(大正3年=1914年5月「風景」)

(以上「1914 V-」2篇)

(旧稿を改題・手直ししました)