(黒田三郎<大正8年=1919年生~昭和55年=1980年没>)
黒田三郎(大正8年=1919年2月26日生~昭和55年=1980年1月8日没)は広島県呉市生まれで鹿児島に育ち、戦国詩の詩人グループ「荒地」に拠った詩人です。詩集は『ひとりの女に』(昭森社・昭和29年=1954年6月)、『失はれた墓碑銘』(昭森社・昭和30年=1955年6月)、『渇いた心』(昭森社・昭和32年=1957年6月)、『小さなユリと』(昭森社・昭和35年=1960年5月)、『もっと高く』(思潮社・昭和39年=1964年7月)、『時代の囚人』(昭森社・昭和40年=1965年10月)、『ある日ある時』(昭森社・昭和43年=1968年9月)、『定本黒田三郎詩集』(新詩集『羊の歩み』収録、昭森社・昭和46年=1971年6月)、『ふるさと』(昭森社・昭和48年=1973年11月)、『悲歌』(昭森社・昭和51年=1976年1月)、『死後の世界』(昭森社・昭和54年=1979年2月)、『流血』(思潮社・昭和55年=1980年5月)の12冊がありますが、必ずしも制作順に刊行されておらず、『失はれた墓碑銘』と『時代の囚人』は『ひとりの女に』以前に昭和20年代の『荒地詩集』に発表された初期の民主主義的作品をまとめた戦後の初期詩集に当たり、没後刊行詩集『流血』は『ふるさと』と『悲歌』の間に刊行された『増補版・定本黒田三郎詩集』(昭和51年=1976年)収録の新詩集分の独立単行本化です。
前回は「夕方の三十分」を始めに詩集『ひとりの女に』と『小さなユリと』の収録詩篇を中心にご紹介しました。黒田三郎の画期性は戦前までの詩人はほとんどすべて、戦後のでもまだ依然として残っていた「詩人の特権」意識による詩ではなく市井の小市民の感覚によって非凡な詩を書くことができたことで、その1点でも黒田三郎は戦前の大手拓次のような芸術至上主義的詩人よりずっと優れた詩人でした。詩人を特権化しないというのは戦前のモダニズム詩を出発点として批判的に戦後詩の改革運動を始めた「荒地」同人全員の認識でしたが、当初からモダニズム詩からの影響が少なく、民主主義的な指向が強かった黒田三郎ならではいち早い到達でした。前回に黒田三郎の詩集は五十歳の前後で作風の安定を深めたと指摘しましたが、黒田三郎は私生活でも五十歳を期に勤め先を早期退職して専業文筆家になっています。すると自然と依頼作品の比率が増加するわけで、日本の詩の伝統は詩型を問わず嘱目詩ですから抽象度の高い思想詩よりも具体性のある題材にそれまでの発想を生かしていくことになります。俳句では作句時季と作中の季語の不一致すら忌避され非難されることも珍しくないほどで、伝統的な日本の詩の基本思想はリアリズムとも言えます。藤原定家や松尾芭蕉がぬけぬけと和歌や発句で巧妙なフィクションを書いていたのは古典時代の大詩人として例外視すべきでしょう。
黒田の場合もジャーナリズムから微温的な日常詩が求められた'70年代の詩の風潮に流された、と言えるかもしれません。黒田の属した「荒地」グループは政治的思想を刑而上的に思索する従軍経験者の生き残り集団でしたが(だから女性詩人はいませんでした)黒田は例外的に抒情的な資質を持っていました。また、詩人的感受性の特権を認めない考えから初期の詩では社会主義的に民衆の視点を仮構していましたが、その時期の黒田の詩には無理が目だちます。当時黒田の考えた民衆の中に生身の黒田自身はいなかったのです。そのことからも『ひとりの女に』『小さなユリと』の方向で初めて黒田は等身大の自分を詩にすることができたのです。今回最初にご紹介するのは'70年代の詩集『ふるさと』の、ごくさりげない作品です。うまい詩を書こうとも思想を盛ろうともしていません。それが作品を成功させています。
「風を喰う」
カチャと言えば
インドネシア語ではガラス
ガチャは象
カチャカチャ
ガチャガチャ
ふたつ重ねると複数になる
たくさんのガラス
たくさんの象
騒々しさになれてそれをもう
騒々しいとも思わなくなった
都会の暮しの中で
カチャカチャガチャガチャ
たくさんのガラス
たくさんの象と
お伽話のように懐かしく
思うことがある
高原に来て十日余り
とうもろこしと花豆畠の間を歩き
僕が思うのはマカン・アンギン
インドネシア語で
散歩が「風を喰う」であるとは
全くさわやかでしゃれている
「風を喰らう」と日本語で言えば
素早く逃げ出すことだ
でも僕は
都会から逃げ出したわけではないのだ
ただ「風を喰う」ために
僕はいま高原の道にいる
(詩集『ふるさと』より)
詩集『ふるさと』よりつづけてご紹介します。黒田は1980年に逝去しますから逆算すれば晩年の始まりなのですが、前詩集『定本黒田三郎詩集』の新詩集『羊の歩み』から詩人が円熟期に入ったことを感じさせる点で、この作品は代表作のひとつといえるでしょう。短歌や俳句ほどの凝縮された詩型を基準とすれば、最終連は「動く」(別の表現でもいい)でしょうが、これは一編を終らせるための独立した最終連なので、眼目はそこにはありません。具体的にあげられた事例それ自体も面白いものです。スーパーの買物リストは1974年のオイルショックを反映した当時の物価で、そんなことは誰でも書けますが、そこから詩をくみ上げることは誰もができることではありません。
「数える」
小学校で
僕が一番よくできたのは
数学
今でも
スーパーで買物する時は
何となく暗算しているのに
気がつく
買うものと言えば
鶏卵十個一三九円 油揚げ四枚二八円 マヨネーズ一本一二八円 スープの素一箱四三円 紅しょうが一袋三五円 バナナ一房一四〇円 キャベツ一個六〇円 レタス一個五〇円
そんなふうである
適当に切り上げ切り下げて
合計すると十円とは違わない
だから間違いがあれば
さっと気がついてしまう
売子が暗算を間違えるのは
しょっちゅうだし
レジが計算の単位を間違えることも
ままある
でも僕は
途中で考え事をしたりして
せっかくの暗算を
ふっと忘れてしまうことも多い
何でもつい数えるくせが
僕にはあるというだけのことだ
公団サイズの風呂の湯をかきまぜる
一回二回といつの間にか弾みをつけている
電車の中でぼんやり
降りるまであといくつと
駅の数を数えたりしている
小学一年生の時
担任の先生がしばらく病気で休み
クラスは半分ずつ
他のクラスに預けられたことがある
最初の日
いきなり暗算をやらされた
暗算なんて
それまで教わったことがなく
全くできなかった
先生の顔も名前も忘れ
元禄袖の着物を着た
同級の女の子達の顔も名前も忘れ
いまでは
スーパーで買物する僕のなかに
暗算だけが
気まぐれに残っている
小学四年生の息子が肩を叩く時
ひとつふたつと息子は数を数えている
肩叩きの単価は
息子の気まぐれで
しょっちゅう変っている
(詩集『ふるさと』より)
この「数える」は日常的なディテールに徹することで優れた詩になっています。やや暗喩的なのは「駅」だけですが、これも過度な意味を持たされてはいません。次にご紹介するのは黒田の遺作詩集(逝去の前年刊行)『死後の世界』収録詩篇です。『ふるさと』から『死後の世界』の間には『流血』(『増補版・定本黒田三郎詩集』所収の未刊詩集)と『悲歌』がありますが、どちらも機会詩的な短詩を集めた小品集で、本格的な詩集としては久しぶりになりました。この詩集で詩人は再び社会的関心を主題にしていますが、'60年代までのように理想主義的な主張はなくなっています。黒田の民主主義的な作品はこれまでご紹介してませんが、率直に言ってそれらは失敗作とまではいかなくても無理の目だつ詩篇が大半でした。大衆と一体化しようとしてかえって稀薄な実感しかもたらさない、どこかそらぞらしいものになりがちでした。『死後の世界』では詩人は等身大で社会的関心を作品化することに成功しています。やや時事的、かなり自伝的ですが、それは作品の性格上仕方ないでしょう。
「歴史」
僕が鹿児島市の隅っこの
小さな小学校の一年生になったとき
新潟県の雪深い農村の小学校に
田中角栄という一年生も入学した筈だ
もう五十何年も昔のこと
最近の
五十年余りの
歴史が
こういう形で見えて来たのは
つい最近のことだ
中学で同級の
無口でおとなしい小柄の友人が
今では統幕議長になって
『赤旗』のロッキード事件告発者のなかに
名前をつらねている
まだ金脈問題が表面化しないころ
日雇い労働者のような大学講師である僕は
『文藝春秋』をよんだひとはいるかいと
大学の教室できいてみた
たった二人手を挙げたのを覚えている
「大人はなぜ戦争に反対しなかったのかと
青年たちは言うけどね
歴史ってのは、ね
『文藝春秋』をよもうがよむまいが
進行するんだよ」
何が進行しているのか知らないうちに
歴史は進行する
終ってしまってから
三十年たち五十年たち
それから
歴史の教科書で
僕らは歴史を教わるが
しかし
誰だって
歴史のなかで生きているのだ
あの三十五年前の十二月八日
学生だった僕は寝すごして
おひるになって起き出したら
下宿中が軍艦マーチで湧き立っていて
ただ呆然としたものだ
(詩集「死後の世界」より)
この「歴史」は、いわゆるロッキード事件と呼ばれる政界汚職事件と田中角栄内閣総理大臣の失脚を前振りにした作品で、それ自体はテーマではなく時事的な話題を導入部にしたにすぎなませんが、現在では50代より若い世代には田中角栄の名前の持つインパクトは皆無かもしれません。詩作品のなかにヌッと「田中角栄」を出して成功するのはほとんど綱渡りで、こんな芸当はよほど大胆でないとできません。次にご紹介する作品は珍しく連に分かれていません。これもテーマは「歴史」ですが題材は天皇とふんどしという人を喰ったものです。息子の登場で落とすのは「数える」でも成功した前例がありました。連を分けずノンストップで通しているのもこの作品では効果をあげています。
「記録」
変ったことでないと
新聞にも出ない
世の中の
あたり前の
誰でも知っていることが
かえって何も後に残らない
三、四十年もすると
誰にもわからなくなってしまうことになる
戦争直前の学生のころ
僕らは「天チャン」と
「バカトノ」ふうに言ったものだ
神さまなんてつゆ思わなかった
そういっちゃいけないところでは
子供でもそうは言わない、それだけのことである
外から見ただけでは
全くわからないが
今ではみんなズボンの下に
パンツをはいている
あのころはみんな越中ふんどしだった
「越中褌(細川越中守忠興の始めたものという)
長さ一メートルの小幅の布に
紐をつけたふんどし」
と広辞苑に書いてある
この説明をよんだだけで
いまのパンツしか知らない青年に
越中ふんどしの使い方がわかるかどうか
世事にうとい学者の河上肇博士は
刑務所のもっこふんどしのはき方が
わからなかったそうである。
「自叙伝」にそう書いてある
戦時中南方で
本人は大威張り、大真面目なのに
半ズボンの裾から
ゆるんだふんどしのはしがはみ出ているのを
よく見たものだ
「ああ 日本人ここにあり」
僕がいつのまにかパンツ常用者になったのも
戦後の物資不足で
手づくりのふんどしの材料の
白木綿が手に入らなかった故為であろう
僕の息子の中学生は
いまでは僕より巨大になり
ブリーフなるものを常用している
ブリーフをはいた息子は
天皇なんか全く気にしていない
(詩集「死後の世界」より)
詩集『死後の世界』は結果的に黒田三郎の遺作になった詩集ですが、黒田自身には晩年の予感はなく、年齢的にもまだ初老にすぎません。ムードとしてはまだ中年期後半の作品のような読後感があります。もっともくつろいで読め、充実した内容が伝わってくる詩集であり、十分に成果を遺した詩人ですが、70代~80代まで行けただろうと思うと、60代になったばかりの早逝が惜しまれます。次の詩篇はすでにご紹介した「歴史」「記録」と緩い三部作をなしています。「歴史」が田中角栄と軍艦マーチ、「記録」が天皇と越中ふんどしから詩をくみ上げていたように、今回は越中ふんどしと従軍戦死者から歴史の不安をあぶり出しています。「活字の越中ふんどしだって/無言で語ることがあるのさ」に到るまでの4行はこの作品のピークで、かつての社会派詩人がより成熟した視点で歴史を見すえて到達した地点でしょう。この作品も一篇をノンストップの一連に構成して効果をあげています。
「笑いの向うに」
広辞苑で越中ふんどしをひいてみたというと
みんな笑いを浮べて
いまでは女性も恥ずかしがりもせず
明るく「どんなの」とたずねる
日本の男がしめていた六尺を
倹約して半分の三尺にしようと
越中守という殿様が考えついたらしいのさ
つまり手拭の端に紐をつけたようなものさ
越中ふんどしの話をする僕の心の中では
しかし静かに流れるものがある
「海ゆかば水漬く屍
山ゆかば草むす屍
大君のへにこそ死なめ
かえりみはせじ」
ことばもメロディも美しいが
流れる血汐
屍に湧く蛆虫
雨中に散らばる白骨
見るも無惨な屍体の山
戦争で死んだ数百万の兵隊たちは
生きていたときはみな
ズボン(とは言わなかったが)の下に
越中ふんどしをはいていた
いまではその越中ふんどしを
広辞苑でひいてみる時代になったが
美しく巨大な新宿のビル街を透してふと
廃墟に生い繁る雑草の見える日があるように
活字の越中ふんどしだって
無言で語ることがあるのさ
僕も越中ふんどしをはいていたことがある
洗濯してもしみこんだ汚れが落ちないほど
汚れて茶褐色に変じた越中ふんどしを
いまでは白髪の死に損ないだけれど
まだ二十歳を過ぎたばかりの青年だったよ
(詩集「死後の世界」より)
しかしここまで達者に詩を書かれると、かつての黒田三郎は、風刺や自虐的諧謔が目だつ「記録」や「笑いの向うに」のような詩ではなく、もっと抑制された詩に抒情的な魅力があったのが気になってきます。戦後もっとも初期の作品を集めた詩集から引いてみます。
「苦業」
ら旋階段をのぼる
石壁にかこまれた
くらい
けわしい
石の階段をのぼる
小さなランプをぶらさげながら
階段が尽きさえすれば
水平線が見えるのである
あ 階段が尽きさえすれば!
ら旋階段をのぼる
石壁にかこまれた
くらい
けわしい
石の階段をのぼる
小さなランプをぶらさげながら
とおいむかし
白々しいウソをついたことがある
愛するひとに
とおいむかし
(詩集『失われた墓碑銘』より)
また『小さなユリと』の系譜に入る愛児を詠んだ詩でも、後年にはさらにしみじみした感慨が深まります。
「禁止」
小学四年生の息子は
ランドセルを投げ出すなり
「おそとへゆくよ」と
すぐ
そとへ
遊びにゆこうとする
そとと言っても
それは
団地の小さな児童公園
森でもなければ
小川でも
原っぱでもない
それなのに
まるで新天地にでも出かける勢いで
息子は
夢中で
駈け出してゆく
おやつなんな見向きもしない
くらくなると
それでけっこう
いっぱしの探検家のように
手足をすりむき
泥にまみれて
「おうちに」帰ってくる
そとへ
そとへと
いくら行っても
いつも
きまった囲いのなか
きまった人間のなか
息子はまだ
アフリカやメキシコは
愚か
嵐の犬吠崎も
雪の最上川も
知らないのだ
児童公園からそとへ
ひとりでゆくことは
父親に
禁止されている
誰の「禁止」もきかない
この父親に
(詩集『ふるさと』より)
この「禁止」の主題は、中期の詩ではもっと抽象的かつ抒情的に詠われていましたが、「禁止」と次の「紙風船」は優劣がつけ難いように思えます。黒田三郎は'70年代にはかつての「荒地」の同人仲間からも作風の平俗化を批判されるようになりましたが、この自分自身にそっとささやくような抒情はナルシシズムとは無縁な黒田の優れた資質を示してあまりあり、黒田三郎の最上の詩集は『ひとりの女に』と『小さなユリと』に尽きるでしょうが、まだまだ可能性を残して早い晩年を迎えた詩人のように感じられるのです。