人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

追悼・フォーク歌手、高石ともや(友也)さん(1941~2024)

高石ともやさん死去 フォークソングの旗手の晩年は達観したかのように穏やか「陽気に行こう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f39db66304d985c51cd72464f49a79cb6a3271a
f:id:hawkrose:20240901214659j:image
f:id:hawkrose:20240901214720j:image
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12858626654.html
 高石ともや(友也)さんが膵がんでお亡くなりになったと知ったのは、遅ればせながら8月17日(土)のご逝去からちょうど二週間目の昨日、8月31日(土)のことでした。筆者はつい先日、愛するひとと一緒に高石さんの高石友也名義時代の『想い出の赤いヤッケ/高石友也フォーク・アルバム第1集』(日本ビクター, 昭和42年/1967.8.15)、『受験生ブルース~第2回高石友也リサイタル実況より/高石友也フォーク・アルバム第2集』(日本ビクター, 昭和43年/1968.6.15)、『坊や大きくならないで/高石友也フォーク・アルバム第3集』(日本ビクター, 昭和44年/1969.6.15)の、高石さん渡米旅行以前の初期アルバム三部作をアルバム未収録シングル曲入りのCDで聴き返し、彼女も筆者もその時代の、自分たちが生まれた頃・まだ幼児だった頃の日本のポピュラー音楽ではグループ・サウンズフォーク・クルセダーズが好きですが、スパイダースやブルー・コメッツを始めとする素晴らしいGS時代の日本のロック・バンドや、才気に富んだフォークルはそれはそれとして、高石さんのプロテスト・フォークはなんて志の高い、真摯な音楽なんだろうと、その孤立した異質な存在感に目の覚める思いでした。そこで高石さんの近況はいかがなさっているだろうと、調べてみてつい二週間前にお亡くなりになっていたと知り、愕然としてせめてもと、急ぎこの追悼文を捧げることにした次第です。享年82歳の高石さんはボブ・ディランと同じ1941年生まれですが、高石さんはまさにボブ・ディランが果たした役割を日本の風土でなしとげられたのです。

 年間300ステージ(!)をこなしていたという最盛期に制作・発表されたサード・アルバム『坊や大きくならないで』ではプロテスト・フォークの延長上にロック色が強まり、弾き語り以外のバンド編成の曲では、バック・バンドにジャックスと五つの赤い風船の、当時それぞれ東西を代表する、極めてサイケデリック色の強いアンダーグラウンド・シーンのフォーク・ロック・バンドが起用されていますが(ジャックスはその時期の高石さんのレギュラー・バックバンドでもありました)、ジャックスや風船の的確なサウンド以上に、このサード・アルバムは高石さん自身の訳詞によるバリー・マクガイア(1963年、全米3位「グリーン・グリーン」のヒットで知られるニュー・クリスティ・ミンストレルズのヴォーカリスト)の「明日なき世界 (Eve of Destruction)」(P. F. スローン作詞作曲、1965年7月、全米No.1)の鮮やかな(しかも原詞の内容、ニュアンスまで余すことなく伝えた)日本語カヴァーを筆頭に、ロックの日本語ヴォーカル・スタイルを革新した記念碑的作品となりました。アルバム全編、また同アルバム当時のアルバム未収録シングル「死んだ男の残したものは」(2バージョン)、「おいで僕のベッドに」(オーケストラ・バージョン)、「イムジン河」も初期三部作の高石さんの到達点を感じさせるもので、逆に言えばこのサード・アルバムで高石さんの和製プロテスト・フォークは頂点に達してしまったため、渡米~帰国後の30代以降の高石さんはカーター・ファミリーを範とするカントリー~ブルーグラス系の、プロテスト・フォーク以前の純粋なフォークに回帰したとも思えます。高石さんのライフワークとなったナターシャ・セブンでの活動がそれで、またマラソントライアスロンへの熱中も、より持続的なストイシズムを求めた高石さんの中では一貫したものだったと思われます。
f:id:hawkrose:20240901214753j:image
◎『想い出の赤いヤッケ/高石友也フォーク・アルバム第1集』(日本ビクター, 昭和42年/1967.8.15)
https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kMRcF17kYHf1PNhvix4L8hlhUm5xhZ-dA&si=zu2-6oxRo5rCvarA
 しかし初期三部作の高石さんのプロテスト・フォークはその姿勢において'60年代の先鋭的ロックが追求していた反骨精神そのもので、高石さんの存在、そして歌唱法の革新なくしては岡林信康さん、吉田拓郎さんら、より長く第一線の活動を維持したフォーク系シンガーソングライターの系譜は現れなかったでしょう(高田渡さん、遠藤賢司さん、三上寛さん、あがた森魚さんら、高石さんの系譜とは異なるシンガーソングライターも現れましたが)。高石さん自身は必ずしも自作自演型フォーク歌手ではなく、優れた選曲センスと音楽的言語センス、決定的だったのはその素晴らしい声質と歌唱力でした。声自体が光輝き、聴く人の心を射抜き、揺るがせるのです。日本語ロックのスタンダード曲となった高石さん訳詞版「明日なき世界」はその後の岡林信康さんや吉田拓郎さんの登場を予告し、その影響力は「日本語ロックの創始者」を自負したはっぴいえんど以上に広範なものでした。この曲を高石さん訳詞でカヴァーした忌野清志郎さん、佐野元春さん、宮本浩次さんらは、岡林さんや拓郎さんと同様、高石さんの歌唱法を独自に継承したものです。それほど日本語ロックのヴォーカル・スタイルを決定的に革新した歌手は高石さん以外にいません。遅咲きの高石さんと同時期に圧倒的存在感を誇ったロック歌手に、加橋かつみさん、早川義夫さん、加藤和彦さんと北山修さん、と数え上げても(まだまだお名前を上げられますが)、その個性は個人的でアーティスティックなもので、高石さんのような普遍性とは異なる指向性(北山修さんは高石さんに近いですが)によって表現されていた観を抱かせます。
f:id:hawkrose:20240901214811j:image
◎『受験生ブルース~第2回高石友也リサイタル実況より/高石友也フォーク・アルバム第2集』(日本ビクター, 昭和43年/1968.6.15)
https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nYZRJU-dFKoshbkNDI3iA2mmq2PmTkoNA&si=pPHARrs3rVjB9VQW
 個性を競うのではなく普遍性を探る、高石さんの場合には25歳デビューの遅咲きの高石さんが最初から備えていたのが(高石さんが最新のニューヨークのフォーク・シーンを伝えるレコードから学んだのは)、京都出身の高石さんの身の丈に合う現実の日本に移したフォーク・ミュージックの諧謔精神で、まだ青春期の日本のロック(GS)が「若い僕ら」の青春、ひと夏の恋、北欧の美少女との出会いを歌っていた時に、高石さんははっきりと日本の現実の学生、主婦、労働者の生活の実態や、戦争体験者を含む戦後20年を経たばかりの不安定な日本の民衆の直面する問題、そして国際的な危機意識を歌い上げました。高石さんのデビュー当時はまだ日本のフォークはプロの歌手はおらず、音楽好きの学生がサークル活動で合唱する、いわゆるカレッジ・フォークの時代でした。高石さんも大学8回生という学生でしたが、脱カレッジ・フォークを果たした、アーティストとしての主張を持つ日本初のソロのプロテスト・フォーク歌手として突然出現したのです。歌手としては遅咲きの25歳デビューでしたが、それだけに高石さんはアメリカのフォーク運動に学んで完全に咀嚼し、日本のプロテスト・フォーク歌手としてのスタイルをデビュー時から完成して登場しました。グループ・サウンズ全盛期にあって高石さんのプロテスト・フォークは、その精神性において当時の日本のロック・バンドよりも正統なロックに位置づけられるものでした。高石さんは同年生まれのボブ・ディランの5年遅れの日本版だったかもしれませんが、ステートメントを持ったアーティストとしてその登場は、日本のポピュラー音楽界では悠に5年は早かったのです。
f:id:hawkrose:20240901214830j:image
◎『坊や大きくならないで/高石友也フォーク・アルバム第3集』(日本ビクター, 昭和44年/1969.6.15)
https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mvqPHb4VBgviOkKyOdb17FGA1shSw5gBI&si=6zsAeULoyxJtpCVg
 そして'60年代のフォーク・アルバム三部作ののちの高石さんは昭和44年(1969年)12月に一旦ライヴ活動を休止したのち福井県の名田庄村に移り住み、昭和45年(1970年)1月~5月のアメリカ旅行のあと音楽活動を再開、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡、また自身の生活を歌い、特に野外でのコンサート活動を中心として全国各地をまわります。名田庄村移住とアメリカ旅行の成果はよりフォークのルーツを追求した普遍的な音楽へ、というもので、翌昭和46年(1971年)1月にはナターシャ・セブンでのバンド活動に移行し、ナターシャ・セブンでの活動がバント編成を取らずソロ活動をする時も、その後の高石さんの音楽性となります。いわばピート・シーガー(1919~2014)の開拓したモダン・フォーク以前のブルーグラス~ルーツ・フォークを30代以降のライフワークとしたため、その音楽にはロック的要素は介在しないものとなりました。しかし高石さんが選び取った道が日本初の本格的ブルーグラス~ルーツ・フォークであれば、他人がとやかくそれを不服とし、口を挟むのは筋違いでしょう。

 それもあってか、モダン・フォーク(プロテスト・フォーク)ばかりか日本のロック史の中に置いても、真に革新的だった'60年代の高石さんのフォーク・アルバム三部作は、日本のフォーク、そしてロックの金字塔にも関わらず、あまりに等閑視されています。筆者がアルバム『坊や大きくならないで/高石友也フォーク・アルバム第3集』をご紹介した記事をアメーバブログに載せたのは2021年4月19日(月)、さらに加筆修正した再紹介をつい先日の2024年7月27日(土)に載せましたが、その再紹介記事掲載時にはすでに高石さんは末期の膵がんで闘病中で、4週間後の8月17日(土)にはお亡くなりになるとは予想だにしないことでした。'70年代以降の高石さんの活動について筆者はまったく無知ですが、'60年代のフォーク・アルバム三部作は日本のポピュラー音楽史、フォーク史、ロック史の真の革新的最重要作にして、三作いずれも20代の高石さんのアーティスト・パワーのピークを記録した、感動なしには聴けない名盤です。機会を改めて取り上げたいと思いますが、後れ馳せながら訃報を知り、取り急ぎ高石さんの偉業を称えて追悼とさせていただきます。