人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小説「眠れる森」第2章

留置場の40日間、さらに拘置所の40日間、裁判から釈放までの事情はありふれたものだった。結婚生活の末期にはぼくは精神疾患に陥っていた。
別居中に妻からの民事訴訟で離婚が決定し、その時点でDV指定により刑事裁判に棚上げされる準備ができていた、と知ったのは裁判5日前の国選弁護人との面会の時だった。
入監や押送、医療受診、面会などの待機中には電話ボックスの半分ほどの幅の部屋に閉じ込められる。大正時代はシャモ箱(大杉栄「獄中記」)、横浜拘置所ではビックリ箱と呼ばれていた。ラスコリニコフが「奥行き40センチ、幅70センチ、高さ180センチの空間でいいから生きていたいと思った」という、まさにそれだ。立てた棺。
留置場では突然の監禁性障害からぼくは鉄格子の中で錯乱状態にあった。拘置所では雑居房だった。畳12畳に男10人。天井だけがやけに高い。最初に入った房は集団窃盗、売春と麻薬密輸、みんな組織犯だ。ぼくはすぐに妬みといじめの対象になった。猫の中の鳩。
刑務官に独居房への転房を希望したが別の雑居に移され、こちらでは同房者とは落ち着いた関係を持てた。前科14犯の房長はヘロイン常用者だが親分肌で、雑居房の誰もが前科を重ねながら組織的犯罪には関わらずに自分の責任は自分で引き受ける覚悟の座った人たちだった。刑事も検察も刑務官も誰も教えてくれないので、服務規定や裁判の段取りはみんなこの人たちに教わった。
「何やった?マリファナか?シャブか?」
「条令違犯です」
ぼくはかいつまんで説明した。房長はなるほど、という顔で聞いていたが、
「それじゃお前の女房がお前の敵なんだな」
「そうは思いません」
と静かに会話を閉じた。
親切だったのは隣の房の人たちもだった。週に2回中庭で運動時間がある。ぼくが転房し、
「どうしたんだい?何かあったのか?」
と(半分は興味本意としても)質問を受けた。
「いじめにあいました」