人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ミモザの俳句(里霧へのメール)

里霧さんの句もいいね。でもちょっと背景を知らないと難解だね。去年の春は私も彼も入院中だった。今年の春は庭のミモザが見れたが彼には会えない。「昨春」と「ミモザ」の季語の重複も痛し痒しだ。
「昨春は見じミモザ見て彼想う」
中七の「見じ」「ミモザ」「見て」のミの頭韻の畳み掛けが魅力と短所の両方になっている。「見じ」という表現が性急で強引だ。こう改作したらどうだろう。

「彼想う去年は見ざるミモザ見れば」
「昨年は見ざるミモザよ彼想う」
ミモザ咲くまた年を越し彼を想う」

これで時制や季語はすっきりするが、里霧さんの原句にある鋭さと迫力は薄れてしまった。いっそこのくらい大胆にする手もある。

「彼の目にミモザは見えぬかもしれぬ」

どうだい?これは渡部白泉という前衛俳句作家の、
「鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ」(昭和10年) の本家どりだ。
でも全然違っていると思う。ミモザを見ている女、ミモザが見えない男。きみの元の俳句にも忠実なんじゃないかな。
どう思う?

…ただやはりきみの元句の「見じミモザ見て」のミの畳み掛け、サ行濁音の脚韻の緊張感、「見て」とスッと脱力する哀切な叙情はきみならではだと思う。背景抜きでも伝わってくるのは、「またミモザの季節になった。その頃に彼との出会いがあったが、今は会えない。ミモザを見ながらこの一年間のこと、彼のことを思うだけだ」
これだけの内容をきみは17音に圧縮している。結婚している女性が夫以外の男性(しかもかなりヤバめ)のことを想っている、という状況も伝わってくる。どちらかといえば短歌的な内容なのだが、きみは「見じ」という硬質で痛切な表現と「ミモザ」という斬新な季語でピタリと俳句に押さえた。いい俳句をありがとう。
きみが俳句の本なんて読み出すとご主人が不審がるだろうから、ネットで大正、昭和の俳句作家たちを読んでみるといい。「新興俳句」という前衛俳句のムーブメントがあって、前記の渡辺白泉、西東三鬼、富沢赤黄男、女性では三橋鷹女といった俳句作家がいる。夭逝した篠原鳳作が赤ちゃんを詠んだ連作、
「赤ん坊の足裏(あうら)真っ赤に泣きじゃくる」
「握りしめ示し掌(てのひら)になにもなく」

はぼくも長女を授かった時に思い出して胸が熱くなった。