人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

女嫌いのフェミニスト(2)

前回は途中までで「これじゃ1回では収まらないな」と早々投げてしまい、後半はただの日記と化して次回に見送ったのだった。幸い前半は業界裏話みたいなものだったからそれだけでまとまりがないでもない。だがぼくはそこからタイトル通りの話題に持っていくつもりだった。

さっさとテーマに入ろう。大体映画・演劇の世界(音楽家も含めて舞台人全体と言ってよい)なんていうのは、一夫多妻の上に愛人譲渡(交換=スワッピング含む)がひんぱんに(男が譲渡される場合も含めて)行われる、あまり今日の社会では馴染まない男女関係が常態化していた(一応過去形にする)。
これはあまりに密接で閉ざされた職業環境が必然的に招いてしまう事態とも言えるのだが、舞台人の自由主義的な男女関係に比べて映画人の男女関係はどこか権力的な横暴さを感じさせるものだ。
主演女優に関係を要求する監督、スポンサーやプロモーターに性的接待を強いられる女優。映画の発祥そのものが性的なものと切り離せない。
演劇の場合(音曲も含めて)また別の歴史的発展があり、ほとんど偶然のように現代的フェミニズムを切り開いた。
もう見えているかと思うが、ぼくは映画に「女嫌いのフェミニスト」を、演劇に「女好きのフェミニスト」を見ているのだ。

例えば映画監督でもベルイマンなどは「女好きのフェミニスト」だろう。本職は演出家だからだ(で、主演女優を愛人にする)。ゴダールは複雑だ。女嫌いむき出しの映画とフェミニズム映画を気が向くままに作る(どっちも主演は愛人)。トリュフォーなんかは愛人主演だとフェミニズム映画なのだが自伝的作品群では女性恐怖が出る。アントニオーニはよくわからない。発想の見えない変な映画ばかり作った。ゴダール以上に作品中の乖離が激しい。もっと例は挙げられるがこのくらいでいいだろう。

なぜ「女と男のいる鋪道」や「恋人たちの時間」のような画期的なフェミニズム映画の作者が、一方では偏見に充ちた女性不信の映画監督でもあるのだろうか、とゴダールを論じてスーザン・ソンタグは指摘した(「反解釈」所収)。「勝手にしやがれ」「気**いピエロ」、女は男を裏切り死をもたらす存在。これは過去の映画史でもファム・ファタール(運命の女)としてよくあるテーマでもある。
…と、またもや紙幅が尽きた。次回こそこの話題の本質に迫りたい。