ディラン・トマス(イギリス・1914-1953)はとにかくかっこいい詩を書いた人だった。二十歳にも満たない若さで鮮烈にデビューし、生涯を詩人以外の職業に就かなかった。こういう詩人はどの国でも1世代にひとりくらいしか現れない(日本では三好達治、谷川俊太郎がそれに当たる)。大衆的人気も大きく、文学的にも画期的に斬新で高度。19歳で雑誌投稿して一躍力量を知らしめた出世作を引く。「緑の導管を通して花を駆り立てる力が」。
緑の導管を通して花を駆り立てる力が
ぼくの緑の年齢を駆り立て、木の根を枯らす力が
ぼくの破壊者となる。
だからこそ歪んだバラの花に告げるまでもない、
ぼくの若さが同じ冬の熱病に屈していることを。
岩を通して水を駆り立てる力が
ぼくの赤い血を駆り立て、河口の流れを涸らす力が
ぼくの血を蝋に変える。
だからこそぼくの血管に口伝てするまでもない、
いかに山の源泉で同じ口が吸い込んでいるかを。
池の水を掻き回すその手が
時間の流砂を掻き立て、吹く風を括るその手が
ぼくの屍衣の帆をたぐる。
だからこそ首括られる者に告げるまでもない、
いかに首括り役の生石灰がぼくの土から変じたかを。
時間の唇が泉の源に蛭のように吸い付く。
愛がしたたり固まる、だが流れ落ちた血が
愛の傷を癒すだろう。
だからこそ時候の風に告げるまでもない、
いかに時間が星めぐる天にも時を刻んできたかを。
だからこそ恋人の墓に告げるまでもない、
いかに同じ歪んだ蛆がぼくのシーツにも這うかを。
詩を読みつけない人にも、一種魔術的なイメージの奔流はおわかりいただけると思う。開放的なナルシズムとエロティシズムがある。ディラン・トマスの活動は独特で、詩集の刊行ごとに朗読ツアーを行うというロックンロールなものだった。特にアメリカで人気があった(ボブ・ディランの芸名もディラン・トマスからだ)。恋愛もはなやかで酒豪だったが、ウィスキーをストレートで20杯飲んで急死した。享年39歳、見事なものだ。
入院中ずっと詩に飢えていた。ディラン・トマスを読むと「ああ詩を読んでるなあ」という気になるのだ。