人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

三島由紀夫について(下)

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後鳥羽院(上皇)は藤原定家に命じて「新古今和歌集」を定めた天皇にして文人でありながら軍事クーデターを起こして島流しになった、いわば三島の先駆者(武家政治に対してわざと負け戦を挑み、敗残者となることで天皇家の存在を誇示した)人です。
武家政治と戦国時代の狼煙のなかで、後鳥羽院の志向は純粋詩としての和歌でした。大戦中に文学活動を始めた世代には「新古今和歌集」は大きな影響を与えました(太宰治にも「右大臣実頼」があります)。
また三島について文学上の趣味の偏りを感じるのは、フランス文学とドイツ文学を愛好し熱心に学びながら、イギリス文学とロシア文学には(オスカー・ワイルドを唯一の例外に)まったく無関心なことです。これは文学と宗教的モラルについての三島の感覚を教示してくれるヒントではないかと思います。
ごく少数の例外を除いて、ドイツ文学とフランス文学には神がいません。イギリス文学とロシア文学では神の遍在は当然のことです。三島が西洋文学の中の宗教的要素に興味を持つ時はカトリシズムの中のマゾヒズムといった倒錯的現象に偏向しています。西洋文化への憧憬と反発を西洋文化の論理をもって行う、あえて敵の土俵に上がる大胆さを三島は持ち合わせていました。ドイツ文学ではロマン派以降はっきりとキリスト教以前の文化への探求がテーマになっています。
コリン・ウィルソンは「三島の死は日本人のトラウマとなり、いまだ解き放たれてはいない」と評しました。ウィルソンはまあ文学者というよりはジャーナリストですがイギリス文人ならではの保守的な良識はしっかり持っている人で、この言い回しは一筆書きとしてはなかなか気が利いていると思います。だけどいまでは「日本人にとって」ではなく、日本文化に真剣な関心を持つ外国人にとっては、といった方がいいでしょう。極めて限定されたものです。
中学生の時、日本人インタヴュアーによるザ・ストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルの記事で、三島に興味を持って手に入る限りの文献は読んでいるというバーネルに女性インタヴュアーが「だって彼は犯罪者でしょう?」「そうは思わない」というやりとりがあったのが印象的でした。まだ70年代です。
何事もなかったみたいにするのが得意な風土です。三島が読み違えていたとしたら、まさにその一点でしょうね。