人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

高村光太郎『根付の国』ほか

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 明治以降の近-現代詩の中で大家と目されながら、三好達治とともに高村光太郎(1883-1956、東京生まれ)の評価はいまだに揺れている面がある。
 もちろん誰もが名を知る詩人だが、あまりに多彩な上に時代的背景の反映も大きく、全体像を知るのが困難なのも光太郎と達治の共通点になる。
 何人もの詩人を束ねたような大手腕の詩人だった。朔太郎や光晴、中也のように純一ではなく、矛盾がいつも渦巻いていた。1911年1月、森鴎外の文芸誌「スバル」に発表した5篇は、前年フランス留学から帰国した詩人(彫刻家)の、後の処女詩集「道程」1914の着手となる。中でも文明批評(日本文化批判)の痛烈さで名高い1篇を引く。愛の詩人、ヒューマニズム詩人、芸術至上主義詩人、愛国詩人の前に、高村は故国への憎しみから詩人として出発したのだ。

『根付の国』 高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫った根付の様な顔をして

魂を抜かれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まって、納まり返った
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、めだかの様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらのような日本人
 (詩集「道程」より、1910年作)

 動物をモチーフとした詩集「猛獣篇」では、さらに批判が鋭敏になる。

『ぼろぼろな駝鳥』 高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるじゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるじゃないか。
腹がへるから乾パンも食うだろうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見ているじゃないか。
見も世もない様に燃えているじゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまえているじゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆巻いているじゃないか。
これはもう駝鳥じゃないじゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
 (詩集「猛獣篇」より、1928年作)

 こうした文明批判的な詩と平行して、芸術論的な詩、プライヴェートな詩(「智恵子抄」以外にも多数。「智恵子抄」は精神病者を配偶者が描いた初の文学作品とされる)、戦意高揚詩が高村光太郎には共存しているのだ。