人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

大手拓次『陶器の鴉』ほか

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生前まったく無名だった詩人・大手拓次(1887-1934)は山村暮鳥(1884-1924)、萩原朔太郎(1886-1942)と並ぶ群馬三大詩人で、また拓次と朔太郎・室生犀星(1889-1962)は「(北原)白秋門下三羽烏」と呼ばれた同世代のライヴァルたちだった。だが暮鳥と拓次の知名度は不当に低い。
まだしも暮鳥は郷土詩人・自然詩人として今でも詩集・童話が再版されている。生前にも詩集9冊を含め20冊あまりの著書があった。それがことごとく不評だったのである。
一方、拓次は生前の詩集を持たなかった。田舎牧師の暮鳥よりライオン歯磨き広告部の拓次のほうが生計にゆとりはあったはずだが、自費出版すら考えなかったようだ。没後ようやく詩集「藍色の蟇」1936・詩画集「蛇の花嫁」1940が刊行される。1970年に全集が編まれた時、さらにまだ4倍以上の遺稿が発見された。暮鳥の詩集未収録作は生前詩集の1.5倍。犀星は詩集にしてから抹殺する(変な人だ)ので暮鳥と互角。朔太郎は公式詩集299篇に対して未収録詩篇69篇(数えました)と一見多そうだが、頁数では460頁対90頁と質の差は一目瞭然。
さて、拓次には幻視の詩人と官能の詩人の両面があった。まず幻視。

『陶器の鴉』

陶器製のあおい鴉、
なめらかな母韻をつつんでおそいくるあおがらす、
うまれたままなあたたかさでお前はよろよろする。
嘴の大きい、眼のおおきい、わるだくみのありそうな青鴉、
この日和のしづかさを食べろ。
(1913年作)

次に官能。フェティシズムと言ってもいい。

『窓ぎわにすわっているもの』

窓ぎわにすわっているもの、
それはなんだろう。
それは 白いきれいな足の永遠だ。
つめたくって、
ぴよぴよと鳥のなく音のようにしずかにうごいているのだ。
まっしろい足の永遠だ。
足ばかり見せて、ほかをすこしもみせないのはなぜだろう。
わたしはさっきからその足をみているのに、
くさむらのしげみにとぶ木の葉のように、
そよそよとうごいているばかりだ。
白い、きれいな足は、
なぜもっと全体をみせないのか。
さむい冬の夜の外には、
風がぼうぼうとあれくるっている。
(1920年作)

両方の系列が見事に一体となったのが渾身の絶筆『そよぐ幻影』だったのがわかる。