人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

追悼ヴェルナー・シュレーター

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 昨年4月に亡くなっていたのを昨晩偶然に知った。Werner Schroeter(1945-2010・写真上)、ドイツの映画監督。ヴェルナー・ファスビンダーの証言では、70年代の独ニュー・シネマは自分も含めてほとんどがシュレイターの革新性から出発したという。日本で人気の高かったヴィム・ヴェンダースヴェルナー・ヘルツォークしかり。ドイツ語圈スイスのダニエル・シュミットも。ハンス・ユルゲン・ジーバーベルグによるシュレーター作品の露骨な模倣には同世代の映画人みんなが激怒した……というオマージュだった。

 シュレイター映画は日本では映画館で1本・DVDで1本しか市場に乗らなかった。その2本を含めて8本見ている。大学から近いシネマテークの上映作品なら「エノケンのちゃっきり金太」から「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」までなんでも見たので、アテネ・フランセの「ヴェルナー・シュレーター週間」も回数券を買って毎日見た。ドイツ大使館提供による非商業上映だったので、公式には日本未公開ということになっている。

 シュレイターの処女作は追っかけまでしていたマリア・カラスの短篇ドキュメンタリー(1968・8ミリ)だが、初長篇「エイカ・カタパ」(写真中)'Eika Katappa'1969は16ミリながら2時間半の大作で、ほぼ8つほどの関連のないエピソードで構成されている。題材は売春と同性愛と死だ。
 たとえばアラブ系の青年がふたり、手をつなぎながらひとけのない道を選んで、日没にもかまわず歩いて行く。次の場面では青年のひとりは死んで倒れている。先立たれた青年はいつまでも泣きつづける。……と、こんな断片的エピソードの連続で、あまりの衝撃に2回続けて見てしまった。

 第二作「マリア・マリブランの死」(写真下)'Der Tod Der Maria Malibran'1970も16ミリだが110分、しかも「もしマリア・カラスが歌手ではなかったら」という発想でひとりの女性を主人公にして凝縮力がある。ヒロインを演じたマグダレーナ・モンテヅマは86年の死去までシュレイター作品の主役となる。
 しかし混乱する人も多そうだ。ヒロインは名前も性格も場面ごとに変わる。時系列はバラバラにシャッフルされている。いきなり映画の中盤で長ーい臨終の場面になるが何言ってるのかわからないので字幕(英語です)も出ない。これも2回続けて見た。
 退廃ではなく悲しみの映画、弱者の映画だった。だから感動したのだと思う。