人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

飯島耕一『他人の空』『何処へ』

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『他人の空』

鳥たちが帰って来た。
地の黒い割れ目をついばんだ。
見慣れない屋根の上を
上ったり下ったりした。
それは途方に暮れているように見えた。

空は石を食ったように頭をかかえている。
物思いにふけっている。
もう流れ出すこともなかったので、
血は空に
他人のようにめぐっている。
(詩集「他人の空」1953より)

飯島耕一(1930-・岡山生れ)は詩誌「ユリイカ」初期の詩人たちでも岩田宏大岡信と並んでもっとも若く、作風の確立も早かった。年長の先輩詩人の戦争体験の内面化よりも戦時中はまだ少年期だったのがまっすぐに詩に結実したと考えられる。少年の瑞々しさがあった。だが10年後の第三詩集ではどうか。

『何処へ』

陽気にはしゃいでいる人たちがいる
だけどぼくは騒げない
ぼくの心はねじくれてしまったのか
グラスをまえにして
ぼくはたった一人だ
昔の女たち 昔の友だち
みんなどこへ 行ってしまったのか
どこかへ出掛けてしまったのか

わるい時代なのだろう きっと
きみたちの姿がどうしてもよく見えないんだから
理由はわからない いつだって
理由はよくわからないんだ 濃霧のような問題と情勢
そしてねじくれているんだ ぼくの心は
ぼくはだめになってしまったのだ
どこまでも自分をいじめたい気持になる
わるい時代のせいなのだろうか
人々はまわりにいっぱいあふれているのに
そのなかにぼくの友だちはいない
あの青春のはじめの暁の友だちたちの顔は

ぼくらが思っているより 今は
はるかにわるい時代なのだ
仲間たちの声もみんな蒼ざめてきて
誰もがのど元までことばにならない
しぐさや羽毛をつめこんでいる
青空の破片はいつまでも破片のまま

ぼくらはおそらくあまりに似かよっているので
出会っても感じるのはおなじ色
おなじ形の渚の砂の
こぼれおちる音ばかりだ 聞こえるだろう 聞こえるだろう
おそらくぼくらはみんなタヒチを見出だすまえの
取引所員ポオル・ゴオガンなのだ
やがて冬がやってくる 何処へ 何処へ
という鋪石にこだまする冬の声の襲来
そして砂の声 嘴の音。
(詩集「何処へ」1963より)

この疲労感から以後の飯島作品は再出発する。