人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(5)アモン・デュール

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ここまで取り上げたジャーマン・ロック70年代バンドはどれも国際的な成功をおさめており、さらに倍するグループが数えられる。フレンチ・ロックや(ジャーマンの次に紹介するが)イタリアン・ロックとはえらく違う。フランスやイタリアのロックバンドで国際的成功をおさめたのは2、3しかない。

なぜだろうかと考えてみると、ジャーマン・ロックは正統派ハードロックからガレージ・パンク(カンです)、実験的電子音楽まで様々だが、基本がロックなのだ。そこが欧米のリスナーにも受け入れられた。フレンチ・ロック、イタリアン・ロックはそうはいかない。シャンソンやオペラ、全体的にクラシックに由来する発想が大きすぎる。ドイツでは20世紀にクラシックの伝統は何度も壊滅した。

さらにドイツはオーディオ先進国として高い録音技術があった。70年代の西ドイツのロックを支えたのはプロデューサーのディーダー・ダークスとエンジニアのコニー・プランクのコンビで、密度が高くシャープで奥行きのある音像は英米ロックの水準を抜いていた。スコーピオンズクラフトワークもどちらもダークス/プランクの作品と言えば(もちろん無名時代から)ジャーマン・ロックのなんでもありの心構えがうかがえるだろう。

次に紹介すべきバンドは国際的成功という基準からはアモン・デュールll(Amon Duul ll,1969-)なのだが、2があって1がないのは変だろう。そこで先にアモン・デュール(Amon Duul,1969-1970)を取り上げる。実際無印デュールは商業的成功とは無縁だっただけで、ジャーマン・ロック最重要バンドのひとつなのだ。

なぜ無印とllがあるかというと、アモン・デュールは元々バンドではなくヒッピー集団だった。そこに当時イギリスやイタリアでヒッピー集団の制作したレコードを手本にしたアルバイトが持ち込まれ、1回きりの録音セッションから「サイケデリックアンダーグラウンド」1969(画像1)と「崩壊」1969(画像2)が制作された(さらに残りテープから2枚組2作が発掘)。内容は喧騒に満ちたヘヴィなドラッグ・パーティだ。アモン・デュールはヒッピー集団に戻り、バンドを続けるメンバーがllとしてデビューした。
元祖デュールはもう1作「楽園へ向かうデュール」1970(画像3)を制作。虚脱感と倦怠を強く感じさせる。パーティは終ったのだ。