人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(5)オザンナ・ファミリーの系図

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オザンナだけで2回続きになるのはいわゆる「オザンナ・ファミリー」の存在による。今回ばかりはマニアックな記事になることを許されたい。
4枚のアルバムを残して解散したイタリアン・ロックの雄オザンナだが、ここからがさらにしつこかった。人間関係ではなく音楽性や事務所の方針が絡んでいたのはアルバム・ジャケットからもうかがえる。オザンナはエリオ・ダンナとダニロ・ルステッツィの「ウノ」1974(画像1)とリノ・ヴァレッティとマッシモ・グァリーノの「チッタ・フロンターレ」1975(画像2)のふたつのバンドに分裂した。どちらもジャケット画はグァリーノなのが友好的な発展的解散だったのを表している。

おそらくブリティッシュ・ロック寄りのウノと従来路線のチッタ・フロンターレという違いだが、管楽器とリード・ギターがウノに行ってしまったため歌の比重が増えた。ウノは英語歌詞だが脆弱なヴォーカル・パートをかえって引き延ばしてしまい、ピンク・フロイド「狂気」に参加した女性シンガーを招いてもあまり効果はなかった。

1973年にすでにデビューしていたオザンナの弟バンドチェルヴェロ(「メロス」画像3)はダニロの弟コンラード・ルスティチのバンドだったが、ウノ解散・チェルヴェロ解散からエリオ・ダンナとコンラード・ルスティチはジャズロック・バント、ノヴァを結成。1975年~1978年までに4枚のアルバムを発表し、英米でも高い評価を獲得する(画像4)。オザンナ・ファミリーでは結局ノヴァが唯一で最大の国際的成功をおさめたことになる。

ウノ解散後、というよりオザンナの解散前後から問題のあったダニロ・ルステッツィはオザンナの復活アルバムとされる「スッダンス(鹿の踊り)」1978に参加、というよりはチッタ・フロンターレにダニロ・ルステッツィがゲスト参加したので、レコーディング契約を失っていたチッタ・フロンターレがオザンナ名義で発表したアルバムになる。オリジナル・オザンナを別にして聴けばやはり魅力的なアルバムには違いない。

近年のオザンナ復活!しかも来日!新作最低!までダニロ・ルステッツィの最後の消息はバンド「ルナ」1981(画像5)だった。かなりポップな曲調になってはいるが、かつてのイタリアン・ロックでもっとも激しいエレクトリック・ギターを弾いていた男の意地を感じる。