人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

My Foolish Heart(愚かな私の心)

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○コメントと断片より

(1)子供の頃から猫歴は10匹ほどです。独身のアパート暮らしでも半ノラで飼っていました。避妊しない猫は2年もたつと甘えも遊びもしなくなるけど、避妊した猫はずっと子猫のままですね。おっぱいのつもりか、服をチューチュー吸ったりしてきます。
いまはいつ緊急入院するか判らないような病身だし、入院中に面倒みてもらうあてもないので動物はおろか鉢植えも駄目ですが、離婚した時、獄中で娘たちに猫を贈ろう、と考えていたのを思い出しました。もう時機を逸しましたが。(その代りと言ってはなんですが、離婚以来キティちゃんのちゃぶ台を使っています。娘たちは「男はダメ!」と怒るだろうな)。

(2)躁鬱1型の感覚でいうと「自殺」であっても自殺ではないんですよ。行きすぎてしまうんです。その結果死を招いてしまいますが、客観的には自殺と見なすしかない。パウロが宗教的扇情者として進んで刑死をとげたのも、ゴッホ自傷行為の延長の死も、さらに三島由紀夫の「政治的アジ演説の失敗を演じた劇場型自殺」(ややこしい)も躁のピークに人格障害が重なったもの、と精神医学では解釈されています。単純な例では作家N.Rのように、おそらく躁鬱混合状態で昏迷に陥り階段から転落死、というのが典型的でしょう。15年前の某人気バンドのギタリストの死(ドアノブで縊死)なども状況的には自殺ですが日頃から肩こり解消によくやっていた(人に見せて面白がっていたそうですから、一種の奇行ですね)というから、事故死ではあっても自殺の意識はなかったと思います。まあ泥酔していたそうだし。故人が躁鬱かはともかく、泥酔は重い躁鬱と似た症状を示すと指摘されています。
暗い話題ですいません。ぼく自身が悪い状態で外出し、片道20分ほどの所から帰ってくるのに半日さまよったことがありました。あれで事故死したら自殺と処理されたでしょう。1型はそこまで行きます。

(3)「ノルウェイの森」は発売日に買ってその晩に読み、翌日当時の恋人にあげたのでほとんど記憶にありません。CANの曲が6曲も使われているとはネットショップのCDレヴューで知りました。ネットで映画のCANの曲の使用箇所を見ましたが、陰鬱なほどメランコリックで、CANそのものが当時のバンドですから、やはり時代の空気をとらえていたんだな、と思いました。