人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ゴダール「気狂いピエロ」1965

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

65年といえばビートルズは「ヘルプ!」「ラバー・ソウル」、ジョン・コルトレーンは「トランジション」「アセンション」、そしてゴダールはパリのロケながら未来都市という設定のSF映画アルファヴィル」とこの「気狂いピエロ」といった具合に創造力爆発の年だった。コルトレーンなどこの年のアルバム制作は10作以上で、大半が死後発表。春に「ヘルプ!」、秋に「ラバー・ソウル」を出したビートルズは言うまでもない。これらすべてをエンド・ユーザーとして支えていたのは第二次世界大戦後のベビー・ブーマーで、現在60歳の世代にあたる。たぶん未来は変わると思っていたはずだ、良い方へ。

だがこれらの作品には楽観性は微塵もない。浮かれた世情に冷水を浴びせるような、覚醒した作品ばかりと言ってよい。もちろん世評は履き違えた。ジャズやロック、映画の新しい可能性を切り開いたものだと賞賛され、これが新しい出発点であり規準となる作品だろう-と賛辞はきりもなかった。
だが筆者が高校生の頃、これらの発表から15年を経た後には、これらは突出してはいても歴史的作品でしかなかった。それだけでもすごいことなのだが、革新性よりも古典性で語っておさまりがつくような作品なのだろうか?それは「勝手にしやがれ」よりもいっそう「気狂いピエロ」について言えることだ。

単純な物語だと気づくまでしばらくかかったと思う。家庭は冷えきり仕事もない美術批評家が5年前に情事を持った女と再会する。翌朝からふたりは南仏に向けて、女が知る組織の財宝を奪いに追っ手をかわしながら逃走する。やがて目的地についた女は男を囮にあっさり裏切り、囮から解放された男は…。

勝手にしやがれ」の舞台がパリを出ず、88分・B/W・スタンダードだったのに較べると、今回はフランス縦断、109分・カラー・テクニスコープと規模も拡大されただけある。筆者がしばらく物語性には関心もなく見ていたのは、「勝手にしやがれ」同様男が女で自滅する話(おれ?)、主人公がインテリ崩れなので古今多数の引用を含むモノローグや日記、突然遭遇する自動車事故死、映画内に唐突に挿入されるバーレスクやミュージカル・シーン…それだけで何度も劇場で見ても、繰り返しヴィデオで見ても飽きなかった。
ゴダール、なかんずく「ピエロ」は特別なのた。