人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(9)詩人氷見敦子・立中潤

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荒川洋治(1949-)という詩人は実作者にとどまらず実に挑発的な詩論家でもあって、第二詩集「水駅」1975で一躍一流詩人と認められながら詩論「技術の威嚇」1977で戦後詩は技術の総体にすぎない、と喝破して詩人たち全員を敵にまわし、79年には有力詩人の多くを占める大学教授詩人たちを当時の政治問題(具体的にはロッキード事件と呼ばれた汚職事件を差す)になぞらえて「IQ高官」と批判した(これは批判への最批判であり、露骨なほどの反撃でもあった)。

氷見敦子(1955-1985)はともかく、立中潤(1952-1975)が荒川よりも3歳の年少なのは、氷見が立中よりわずか3歳の年少なのと同様、詩の言語の質から見て複雑なものを感じる。荒川の第一詩集「娼婦論」1972は「水駅」を予感させるに十分な出来であり好評を得たデヴュー作で、荒川が早稲田大学を卒業したこの年、立中も同大学に在学中だった。立中の批評、書簡、日記には当時の日本の詩人たちへの言及が夥しいが(氷見の関心の幅はずっと狭い)、辛うじて清水昶ら「白鯨」グループへの批判が清水の心酔者だったという荒川をかすめるだけで、もし接点があれば後に荒川と稲川方人に起ったような対立以外考えられない(清水昶批判は同族嫌悪だろう)。

立中は発想も文体も荒川が葬った戦後詩の言語の枠組に執着した。まさに「技術の威嚇」だけで詩を成立させようとしたのが立中の第一詩集の失敗の原因といえる。22歳の青年には当然それは内実の伴わないものになった。酷評か無視しか招かなかったのも無理はなかった。
生田春月を思い出す。この大正期の詩人も純真な人柄は詩人仲間に愛されたが、生涯の詩業に見るべきものはなく、失意のうちに自殺した。しかし稚拙ながら職業詩人としては文筆生活をしていた人なので、春月の死の方が詩への絶望は…こういうことは比較を慎むべきだろう。

荒川より氷見が年少、これはすんなり腑におちる(それだけに立中との年齢差が小さすぎるように感じる)。氷見はもう戦後詩のくびきのない自然な発想と文体から出発することができた。女性詩人であることのことさらな主張もない。すでにご紹介した遺稿は極限まで達したもので、死を予感しながらも死への恐怖も生への執着もどちらもない、自己への徹底的な客観視を作為なく成して類を見ない。この資質はどこから育まれたのか?