遺作『鍾乳洞へ~』執筆直前、生前発表された最後の一篇を抄出する。
『「宇宙から来た猿」に遭遇する日』
四月十日/午前十一時過ぎ。急いで部屋を出る。
(…)
井上さんが手を上げて、タクシーを止める。
*
(最初に、
-どちらまで?
と、タクシードライバーが尋ねた。
-半蔵門病院までお願いします
(…)
-病院なら、銀河の密林を通って行きましょうか…
(…)
-このまま、まっすぐ行って下さい
(…)
-ほら、うすももいろの星雲が見えて来たでしょう
(…)
-ちょうど桜が満開でみごとですね
北の丸公園の桜に見とれている。わたしたちはまだ、タクシードライバーが「宇宙から来た猿」であることに、少しも、
気づいていない。
*
十二時数分前に、半蔵門病院に着く。
(…)
あの日から、脳の奥で、手術室がしんと静まり返っている。
十二月二十五日に、そこへ、入った。わたしから潰瘍のできた胃の、
胃の、三分の二が、切除されていく。
わたしから切り離された臓器が、呪いとなって、奈落へ、
吸い込まれていった。あの日を境に、手術室は、
水を打ったように静かだ。
(…)
ベッドに横たわっているわたしのそばで、
井上さんが、推理小説を読む。『タクシードライバー殺人事件』が、
しだいに、クライマックスへ向かっていく、緊張が伝わって来て、
井上さんの目玉の奥に、血まみれの死体が転がっている。
だれが、タクシードライバーを殺したのか?
意識に嵐を巻き起こす猿が殺人者なのだと、井上さんが、
押し殺した声で呟く。犯罪を犯す猿。
知的な猿のシンジケート。そして、
猿を堕胎する謎の女たち。(…)
(最初に、
猿が姿を見せたのは、一九八三年十一月三十日のことである。
-(傷を渡る)猿どもの尻がきょうにかぎって真紅に燃えている
(…)
*
(わたしが
その猿のすみかを見つけたのは
四月十日、井上さんといっしょに半蔵門病院へ行った日ではなく
脳の地平から放射状に飛び散っていくところにむかって
無限に砕かれていくわたしが
とどめようもなく舞い狂っているのです
(…)
*
(二度目に
猿が姿を現したのは、一九八四年七月二十日のことである
(「現代詩手帖」85年10月号)