人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

真・NAGISAの国のアリス(65)

 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、という悪い冗談があります、とミツバチの女王は言いました。これから私がその好例をお話しましょう。
 20世紀アメリカ合衆国のニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」、「パナマ-パシフィック・ガール」、「エクスポジション・ガール」、「アメリカン・ヴィーナス」など、さまざまな通称で知られ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデル・着想源となり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンは1891年6月8日、ニューヨーク州ロチェスターオードリー・マリー・マンソン(Audrey Marie Munson、1891年6月8日 - 1996年2月20日)として生まれました。父親はニューヨーク州メキシコ出身で、両親のエドガー・マンソンとキャサリン・"キティ"・マヘイニーは彼女が幼い頃に離婚し、オードリーと母親はニューヨーク市に移り住みました。
 15歳の時(1906年)に写真家のラルフ・ドレイパーの目に留まり、彼の友人の彫刻家イジドール・コンティに紹介され、彼女はその後10年間にわたってマンソンはニューヨークの多数の彫刻家・画家たちにとって極上のモデルになります。1913年のザ・サンによれば「100人以上の芸術家が、ミス・マンハッタンの称号を誰かに冠するとすれば、それはこの若い女性にこそ相応しいと認めている」とされ、1915年には、同年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ-パシフィック万国博覧会)のためにアレクサンダー・スターリング・カルダーが起用するほどモデルとしての地位が確固たるものになっていました。彼女は博覧会に出品された彫刻のうち5分の3のモデルを務め、「パナマ?パシフィック・ガール」として名声を得ました。
 彼女の名声は発展途上の映画界への転身を促し、4本のサイレント映画に主演します。初出演の彫刻家のモデルを描いた『Inspiration』で、アメリカ映画で全裸で登場した初の女性になりました。検閲官はこの映画の禁止はルネッサンス美術の許可と矛盾するため起訴を見送りました。映画は評価は分かれましたが、興行的には成功を収めました。現存するマンソンの映画は『Purity』1本のみになります。
 そしてマンソンのキャリアはスキャンダルによって生命を断たれました。次回はそのお話から続けましょう。