人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

カトリーヌ・リベロ+アルプ Catherine Ribeiro + Alpes - 平和 Paix (Philips, 1972)

カトリーヌ・リベロ+アルプ- 平和 Paix (Philips, 1972)

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カトリーヌ・リベロ+アルプ Catherine Ribeiro + Alpes - 平和 Paix (Philips, 1972) Full Album : https://youtu.be/YXwJ1Hx4o18
Paix est un album studio de Catherine Ribeiro + Alpes, sorti en 1972, Philips 9101 037
Tous les textes sont ecrits par Catherine Ribeiro et mis en musique par Patrice Moull

(Face 1)

A1. ロック・アルピン Roc Alpin - 3:04
A2. あなたを愛する力を逃すまで Jusqu'a ce que la force de t'aimer me manque - 3:00
A3. 平和 Paix - 15:49

(Face 2)

B1. ある日…死 Un Jour...La Mort - 24:43

[ Catherine Ribeiro + Alpes ]

Catherine Ribeiro - chant
Patrice Moullet - cosmophone, guitare acoustique
Jean-Sebastien Lemoine - percussions (percuphone), guitare basse
Patrice Lemoine - orgue
Michel Santangelli - batterie (sur le Roc Alpin)

(Original Philips "Paix" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Face 1 Label)

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 フランスのロック・バンドはもともとイギリス人のデイヴィッド・アレンがリーダーだった多国籍バンドのゴングを例外として、フランス国内、せいぜいフランス語圏、ようやくヨーロッパ諸国、ラテン諸国までを活動範囲とするバンドがほとんどでした。アンジュやマグマなどはヨーロッパではジェスロ・タルピンク・フロイドに匹敵する大物ですが、一応国際的な発売はされても英米では一部のマニアや批評家にしか聴かれない存在でした。イタリアは国内市場に特化したバンドが大半で、PFMの国際的成功は例外的で、かえってオランダやスウェーデンから英米で成功したバンドが出ています。ドイツのバンドは国内市場の狭さから最初から国際的活動を視野に入れてデビューする例が多く、音楽の良し悪しよりはそうした国際性の有無でフランスのバンドは、ゴングを例外にトップクラスの大物であるリベロ+アルプ、マグマ、アンジュでさえもバンドの実績に見合うほど国外では聴かれていないバンドでした。架空言語コバイヤ語で歌う特異なジャズ・ロックのバンド、マグマが1990年代の再結成以降にようやくゴングに次ぐ認知を得た程度です。

 カトリーヌ・リベロポルトガル移民の出身で1941年生まれ、女優・モデルとしてデビューし(ゴダールの『カラビニエ』1963など)、60年代はフォーク・ロック歌手としてボブ・ディランの曲のフランス語ヴァージョンなどを歌っていました。ジュディ・コリンズ路線の頃のマリアンヌ・フェイスフルやニコと同じような経歴で、1968年には自殺未遂を起こしています。リベロを公私に渡って支えたのが『カラビニエ』で共演後ミュージシャンに転向していたパトリス・ムレ(1946-)で、やがてリベロとムレはバンドを結成しサイケデリック・ロックとフォーク・ロック色の強い『Catherine Rebeiro + 2Bis』をインディーズのフェスティヴァル・レーベルから1969年に発表します。リベロが女優・モデルから本格的な独創的ミュージシャンになったのこの再デビュー以降で、バンドがアルプと改名したのは1970年のセカンド・アルバム『N 2』からですが、ゴングのデビュー・アルバム『Magick Brother』が1969年録音で1970年発売、マグマのデビュー・アルバム『Magma』が1970年録音・発売、アンジュのデビュー・アルバム『Caricatures』が1971年録音・1972年発売ですから(アンジュは1970年には全曲オリジナルでライヴ・バンドとしての地位を固めていましたが)、リベロ+アルプはフランスの'70年代ロックの先陣を切ったことになります。1980年の9作目『La Deboussole』を最期にアルプは解散し、その後リベロは正統派シャンソン歌手に転向し成功を収めます。

 事情があったのかリベロ + アルプ作品のCD化はなかなか進まず、'90年代初頭に一旦数作がCD化されるもすぐに廃盤となり、2000年代以降は2004年のリベロの4枚組ヒストリー・ボックス『Libertes ?』(ディスク1が'60年代、ディスク2・3がアルプ時代、ディスク4がシャンソン転向以降)、2007年発売の一夜限りのアルプ再現ライヴ(2005年録音・バックは全員セッション・ミュージシャンですが)『Catherine Ribeiro chante Ribeiro Alpes - Live integral』 (2CD Nocturne NTCD 437)、2012年のアルバム4枚セット("N゚2", "Ame Debout", "Paix", "Le Rat debile"の4枚を収録)がかろうじて入手できるもののそれすらもあまり流通しませんでした。英米でも一応評価はされていて、フィメール・ヴォーカルの実験的サイケデリック・フォーク・ロック作として『Ame Debout』が佳作、『Paix』が傑作とされていますが、アルプの絶頂期と言える1974年の『Le Rat debile et l'Homme des champs』、1975年の『Libertes ?』はサウンドの充実ではアルプ史上最高峰ながらあまり注目されませんでした。特に『Libertes ?』は『Paix』をしのぐ最高傑作でしょう。アルプはリベロとムレ以外のメンバーは流動的で、『Le Rat~』でようやく兼任パーカッション奏者ではなくドラムス専任奏者が加入しましたがベースはパーカッション奏者が兼任で、『Libertes ?』でやっとベース、ドラムスの専任奏者が揃うことになります。しかもアルプは他のバンドがまず使わない特殊楽器をサウンドの特徴にしていました。本作当時のリベロ+アルプのライヴ映像が残されています。

(Catherine Ribeiro, Bordeaux 1972, SIGMA Chanson)

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◎Catherine Ribeiro+Alpes - Cathedrale de Bruxelles en 1972 "Paix" : https://youtu.be/eaRMDV9urMA
◎Catherine Ribeiro+Alpes - Cathedrale de Bruxelles en 1972 "Experts From Un Jour…La Mort" : https://youtu.be/DuT3YPoUwBk
◎Catherine Ribeiro + Alpes Live et Interview - French TV 1972 : https://youtu.be/PbK7ZUKZowY
 前2点は『Paix』タイトル曲と『Paix』B面の大曲『Un Jour…La Mort』の一部のライヴ映像、3点目はバンドのリハーサル・ドキュメントを観ることができます。いずれも本作『Paix』発表の1972年の映像です。

 リベロ+アルプはほぼ全曲がリベロ作詞・ムレ作曲ですが、サウンドの特徴はギタリストのムレが弾くコスモフォンとドラマーが兼任するパーキュフォンでした。パーキュフォンは当時開発されていたアナログ・エレクトリック・パーカッションをムレが改造したもので、音程と音色の組み合わせで256種類のパーカッション音が出せる打楽器です。もともとのパーキュフォンは映画音楽や現代音楽に使われることはありましたが、ポピュラー音楽やロックではアルプ以外に用例がない。またコスモフォンはパトリス・ムーレの開発した独自のエレクトリック弦楽器で、アルプ以外用例がありません。映像で観ると何の弦楽器かわかりませんが、改造24弦エレクトリック・ヴィオラ・ダ・ガンバがコスモフォンの本体になるようです。 また、アンジュもそうですが、フランスのバンドは英米ロックとは電気オルガンの音自体が異なります。英米ロックではVOX社やハモンド社のオルガンが標準でしたが、フランスのバンドが多用していたのは発音原理がシンセサイザーに近いファルファッサ社のオルガンでした。『Ame Debout』に較べてリズムが躍動的になったのはパーキュフォン担当者のメンバー・チェンジもありますが(パーキュフォンとベースを兼任しているからベースはオーヴァーダビングでしょう)、コスモフォンとパーキュフォンとオルガンの編成が基本で、即興的なバックグラウンドのアンサンブルに乗せてリベロが歌詞のないフリー・ヴォーカリゼーション(これはティム・バックリーからの影響とリベロ自身が語っています)や自作詞を語りに近い唱法で延々歌っていくのがリベロ+アルプのスタイルになっています。

 これは当時のニコも似たスタイルでしたが、ニコは'70年代はレコーディングのみでほとんどライヴ活動は行っていませんでした。リベロ+アルプは精力的にライヴ活動をしており、強力な女性ヴォーカリストをフロントにしたバンドとしても、英米ロックと隔絶したフランスにあってもで極端に異端なサウンドと、さらにフランスの'70年代ロックのパイオニアとしての存在感もあって伝説的なバンドになりました。リベロが40代になる前年でもある1980年に最後のアルバムを出して解散したのも、1980年を境にロックのトレンドが激変したのを思えば潔いタイミングでした。リベロが正統派シャンソン歌手に転向した後もパトリス・ムレが音楽ディレクターについていましたから、アルプとしてやりたいロックは1980年までにやり尽くしたのでしょう。ムレはリベロシャンソン歌手としての成功に伴って建築アーティストに転身しており、アート建築のエグゼビジョンで現代フランスを代表する建築家として来日もしています。

 ゴングやマグマ、アンジュのアルバムはちょっと頑張ればほとんど再発CD再発が手に入りますが、アルバム枚数ではいちばん少ないカトリーヌ・リベロ + アルプが全アルバムのCD化がなかなか進まず、2000年以降のボックス・セットでセレクトされた曲か、1度きりの再現ライヴか、限られたアルバムしか聴けない歯がゆい状態が続いていました。しかもフランス盤ですから入手しづらく、1990年代CD化されたアルバムは定価の数倍のプレミアがつきました。初期3作、後期3作もいいし、中期の3作『Paix』『Le Rat~』『Libertes ?』は絶頂期で、2000年代以降にはエルドンやジュヌヴェルヌ、エマニュエル・ブーズですら紙ジャケットで全アルバムが日本盤発売されるほどなのだから、カトリーヌ・リベロ + アルプは最後の秘宝でしょう。さらに絶頂期のライヴでも発掘発売されれば申し分ありませんが、それ以前に全公式アルバムのCD化が望まれていました。

 ようやくカトリーヌ・リベロ+アルプの全アルバム9枚がフランス本国でボックス・セット発売されたのは2015年10月でした。バンドの業績を思えば当然で、むしろ遅かったくらいです。リベロ+アルプは"70年代フランスで先鋒を切ってデビューし、ゴング、マグマ、アンジュと肩を並べた、'70年代フランスの最重要ロック・バンドでした。ボックス・セットにまとめられたアルバム全9枚をリストにしてみます。
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1969 : Catherine Ribeiro + 2bis (LP Festival FLDX487)
1970 : Catherine Ribeiro + Alpes - N゚2 (LP Festival FLDX531)
1971 : Ame debout (LP Philips 6325 180), (CD Mantra 642 091)
1972 : Paix (LP Philips 9101 037), (CD Mantra 642 078)
1974 : Le Rat debile et l'Homme des champs (LP Philips 9101 003), (CD Mantra 642 084)
1975 : Libertes ? (LP Fontana 9101 501), (CD Mantra 642 083)
1977 : Le Temps de l'autre (LP Philips 9101 155)
1979 : Passions (LP Philips 9101 270)
1980 : La Deboussole (LP Philips 6313 096), (CD Mantra 642 088)

 LP時代やCD初期に発売された物足りないベスト盤もありましたが、近年はそれなりに充実したボックス・セットが2種発売されていました。
2004 : Libertes ? (Long Box 4 CD Mercury 982 36569)
2012 : Catherine Ribeiro + Alpes 4 Albums Originaux : fondamentaux "Catherine Ribeiro + Alpes - N゚2", "Ame Debout", "Paix", "Le Rat debile et l'Homme des champs". 4CD en coffret chez Mercury Records 279 506-0
2015 : Catherine Ribeiro + Alps - Integrale des Albums Originaux 1969-1980 9CD, Universal, 2015

 2004年の『Liberte?』はリベロのフォーク歌手時代~アルプ作品、そして現在は本格的なシャンソン歌手として活動しているキャリアを追った好編集の4枚組ボックスですが、データの不備が甘いのが難点です。2012年の『4 Albums Originaux』は2015年の9枚組ボックスの前身のようなもので、第2作~第5作までの4枚をそのままシンプルな紙ジャケットで収めていました。2015年の9枚組全集もそうですが、Wジャケットもすべてシングル・ジャケットにし、インナースリーヴなども当然ついておらず、一応バンド・ヒストリーを解説したブックレットが添付されていますがCDが裸のまま入っているだけです。アルプのアルバムは見開きジャケットやスリーヴにも凝ったアートワークや歌詞をきっちり載せていましたから、2015年の全集もジャケットの完全再現に定評のある日本盤が出ればなお良いのですが、そうしたら価格も当然高くなるでしょう。もともと表ジャケットだけで雰囲気があるので、これまで廃盤や未CD化でプレミア価格で取り引きされ、なかなか手に入らなかったアルプの全アルバムがまとめて5000円台で聴けるだけでもめでたいボックスです。代表曲は4CDボックス『Liberte?』で聴けるとはいえ、アルバムが曲順を含めて全曲トータルで聴かれるべきなのは言うまでもなく、気に入った曲をより抜くのはその後でしょう。リベロ+アルプのようなアーティストであればなおのことそれが言えます。

 2015年のボックスも欠点を上げれば簡素すぎるただの紙ジャケットだけでなく相変わらずのデータの不備(仏英2か国語の同一解説書がついているだけ)、アルバム未収録シングルの未収録(ボーナス・トラック一切なし)、当然未発表曲やライヴを集めたボーナス・ディスクもなし、と本当に既発表アルバムをそのままセットにしているだけなのですが、音楽内容は素晴らしいの一言に尽きます。ボックス・セット『Liberte?』の選曲は妥当なのですが、代表曲が必ずしも収録アルバムの音楽傾向を表しているとは限りません。9枚組全集を聴くとデビュー作から『Paix』の4枚、『Le Rat~』から『Le Temps~』の3枚、最期の2枚の3期で音楽性に変遷があるのがわかります。先に述べたような不満はありますが、未CD化だったデビュー作、やはり未CD化だった後期の『Le Temps~』『Passions』までリベロ+アルプはすべて必聴と言えるものです。『Le Temps~』はベースの巨匠アンリ・テキシェ参加の傑作『(Liberte?)』の続編というところですが、リベロシャンソン歌手への転向の意志を明らかにしてソロ・アルバムも発表し、アルプが解散を意識していた最期の2作『Passions』『La Deboussole』はヴァイオリン(デヴィッド・ローズ)とサックス(ロビン・ケニヤッタがゲスト参加しています)の導入が効いた、抜けの良いサウンドで曲調もカラフルな快作になっています。フランスのロック・ミュージシャンはジャズ界からの流入が多く、後期アルプもムレ以外のメンバーはジャズマンが増えてジャズ・ロック化し、完成度は高まりますが前期アルプのエキセントリックさは後退していきます。結局カトリーヌ・リベロ + アルプのアルバムは全9枚すべて名作・傑作・秀作・佳作に数えられ、10年間でロックでやれることはやり尽くした、とリベロシャンソンへ、ムーレは建築アートの分野に転向しました。ボックス・セットはご覧の通り全9枚のアルバム・ジャケットがあしらってありますが、他のアルバムの4倍の大きさでフィーチャーされているのが『Paix』で、代表作と見なされているのがわかります。この強烈な女性ヴォーカル・バンドはもっと日本でも聴かれてほしいものです。

(旧稿を改題・手直ししました)

三好達治詩集『測量船』(昭和5年=1930年刊)と明治・大正・昭和の散文詩

(詩集『測量船』第一書房昭和5年=1930年12月刊)
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「鴉」 三好達治


 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。

 ――とまれ!

 私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。

 ――お前の着物を脱げ!

 恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、

 ――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!

 と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。

 ――飛べ!

 しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。

 ――飛べ!

 私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。

 ――啼け!

 おお、今こそ私は啼くであらう。

 ――啼け!
 ――よろしい、私は啼く。

 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。

 ――ああ、ああ、ああ、ああ、
 ――ああ、ああ、ああ、ああ、

 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。

(「詩と詩論」昭和4年12月・詩集『測量船』昭和5年=1930年12月刊収録)

 今回は明治末~昭和初頭の散文詩を取り上げます。日本の現代詩史で散文詩の主流となるスタイルを確立したのは三好達治(明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没)の『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)と言ってもよく、『測量船』までの三好達治モダニズムの詩人ながら「鴉」はモダニズムにとどまらずダイナミックな訴求力と自虐的な内省性があり、これが日本の口語散文詩の主流のスタイルになったのもうなずける名篇です。しかし今回注意したいのはむしろ傍流だからこそ可能性を秘めていた詩人たちの系譜です。それには以前ご紹介した山村暮鳥の驚異的な散文詩「A' FUTUR」(大正3年=1914年5月)や祝算之助の「町医」(昭和22年=1947年)も含まれますが、まず見てみたいのは、海水浴中に溺れた友人を助けようとして溺死し短い生涯を終えた悲運の詩人、三富朽葉(明治22年=1889年生~大正6年=1917年没)の散文詩で、日本の現代詩ではもっとも早い口語散文詩の成果と言えるものです。朽葉は生前刊行詩集がなく、没後10年近く経って刊行された全集『三富朽葉詩集』(大正15年=1926年10月刊)の大半は未発表作品と日記・書簡・翻訳で占められていました。三好が『測量船』時代までに所属していた昭和初頭のモダニズム詩誌「詩と詩論」主宰者の春山行夫も、朽葉を大正時代までの現代詩で唯一の自覚的詩論を持った詩人と評価し、中原中也は日記に「日本に詩人は5人しか居ない」と岩野泡鳴、佐藤春夫、朽葉、高橋新吉宮澤賢治の5人を上げています。朽葉は日本初の口語訳によるボードレールランボーマラルメの翻訳者でもありました。

「魂の夜」 三富朽葉

 もはや秋となつた。やがて此の明るい風物に続いて、鴉の群が黒い霧のやうに灰色の空を飛び散る、鬱陶しい冬が来るであらう。
 四季と群集との中にあつて、脆く苦い、また物怯ぢする私の生命をば運命は異様に麗しく飾つた。私は常に感性の谷間(たにあひ)を彷徨(さまよ)つて空気から咽喉(のど)へ濃い渇きを吸つた。又、夢魔に圧(うな)されるやうな私のか碧い生活の淵にも、時々幽妙な光りが白んで煌いた。幽玄と酷薄との海に溺れて、私の紅い祈祷と生命の秘鍵とは永遠に沈み入るであらう。
 秋の夜の長い疲労の後、私は眠られぬまま、とりとめのない、やや熱に浮かされたやうな物思ひに耽つてゐた。

 私は何処とも知れぬ丘の上に、ゆるやかなマントオに身を包ませて、土塗れのまま横たはつてゐる。眼の上には一旋の黒い旗がどんよりと懸かつてゐて、その旗は夏の白日(まひる)の太陽の耀くやうに烈しく私の額を照らした。

 私は薄ら明りの高窓から海底のやうな外を覗いた。遠方にもう夜が静かに紅い翅を伸(の)し広げ、蒼い瞳を見開いてゐる。私の唯一の宝はおもむろに彼方の夜の中に掻き消えてしまつた。

 泉の周辺(ほとり)に色や匂ひが一杯に溢れてゐる。その傍(かたはら)を獣(けだもの)は一匹ずつ、ひとは一人ずつ、長い間(ま)を置いて走る。獣は光りの如く飛び、人は悲鳴を挙げた。いつまで見てゐても影は一つづつであつた。

 私は何といふこともなく涙を落とした。そして《愛》に対する消し難い悲嘆に襲はれた。

 眼が覚めると、もう朝であつた!雨の音と、そして、例えば牢獄(ひとや)の中へ僅かに射し入るやうな薄白い光線とが取り乱した身の周囲(まはり)に雫(こぼ)れてゐる……

(推定明治44~45年=1911~12年執筆、生前未発表・『三富朽葉詩集』大正15年=1926年10月刊収録)

 中原の年長の親友(もっとも中原は晩年に絶交されましたが)だった夭逝詩人、富水太郎(明治34年=1901年生~大正14年=1925年没)にも『三富朽葉詩集』の刊行前に、類似した題材の散文詩があります。当然、富永は当時未発表だった三富朽葉散文詩を読む機会はありませんでした。これは結核で夭逝した富永太郎の、没後発表の絶筆となった遺作でもあります。

「秋の悲歎」 富永太郎


 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞ひだを、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

(大正13年1924年12月「山繭・創刊号」・『富永太郎詩集』昭和2年=1927年8月刊収録)


 三富朽葉の「魂の夜」、富永太郎「秋の悲歎」がともに、フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)の散文詩「秋の嘆き」(雑誌発表1864年、単行本収録1896年。鈴木信太郎訳「マリアが私を棄てて、他の星に往ってから、――どの星だらう、オリオンか、牽牛星(アルタイル)か、それとも緑の金星(ヴエニユス)、お前かな――私はいつも孤独を愛した。猫と共に、唯一人、暮らし果たした永い永い尽日終夜」下略)と、アルチュール・ランボー(1854-1891)の散文詩集『地獄の季節』(執筆1873年、発表1886年)の最終編「別れ」(小林秀雄訳「もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか。――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」下略)を発想の源にしているのは明らかですが(朽葉はマラルメの同作を翻訳してもいました)、それだけではなく朽葉と富水には伝記的にも偶然に符合する共通した生活体験がありました。ともに富裕家庭の出身ながら金融業者の子息として生まれたコンプレックスを持ち、朽葉は夫人の出奔による結婚生活の破局があり、富永は既婚者の恋人との成就しない恋愛がありましたが、その体験の共通性と微妙な差が「魂の夜」と「秋の悲歎」の違いに表れているようです。

 富水太郎が病没した直後、富永の友人たちが創刊した同人誌「山繭」に参加を勧誘された詩人が当時大学生だった瀧口修造(明治36年1903年生~昭和54年=1979年没)でした。もっとも瀧口は「山繭」の同人仲間でも富水の親友だった中原中也小林秀雄とは親しくならず、すぐに「山繭」から離れました。それは「山繭」に参加して間もなく発表された次の散文詩の作風からでもわかります。

「冬眠」 瀧口修造

 地面が作業をやめて、美しい空洞を見出した。彼女はここに住んで人間の華やかな網状体に驚嘆した。
 ――間もなく正午の太陽が現はれる。

 スペクトラムを片手に、メソッドを講ずる土龍が、先ず自らの露に光つた肉体に驚き、墓堀人に泣きついた。

 樟脳糖が痩せ細つてゆくと、見知らぬ動物の息づかいが苦しくなる。唯、怠堕な造花のみが明るくなる。いよいよ寒い明方がくる兆候であつて、繁みの中の梟は、そのからだがますます黒くなる。

 人間は冬眠を欲して、青い海をぢつと見てゐる。
 急に荒ら荒らしくなり、生ま生ましい無数の夕刊紙を、真赤な種子のごとくに、曙がやつてくる谷底めがけて撒き散らす。

(昭和2年=1927年1月「山繭」・詩集未収録)


 瀧口はまもなく日本のシュルレアリスム詩人として頭角を現し、三好達治と入れ替わるようにモダニズム詩誌「詩と詩論」の中心詩人と見なされるようになります。ですが、その散文詩は三好が「詩と詩論」に発表した『測量船』(昭和5年=1930年刊)収録の散文詩とはまったく異質なものでした。

「絶対への接吻」 瀧口修造

 ぼくの黄金の爪の内部の瀧の飛沫に濡れた客間に襲来するひとりの純粋直観の女性。 彼女の指の上に光つた金剛石が狩猟者に踏みこまれていたか否かをぼくは問はない。 彼女の水平であり同時に垂直である乳房は飽和した秤器のやうな衣服に包まれてゐる。 蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る。 彼女は時間を燃焼しつつある口紅の鏡玉の前後左右を動いてゐる。 人称の秘密。 時の感覚。 おお時間の痕跡はぼくの正六面体の室内を雪のやうに激変せしめる。 すべり落された貂の毛皮のなかに発生する光の寝台。 彼女の気絶は永遠の卵形をなしてゐる。 水陸混同の美しい遊戯は間もなく終焉に近づくだろう。 乾燥した星が朝食の皿で轟々と音を立てているだらう。 海の要素等がやがて本棚のなかへ忍びこんでしまうだらう。 やがて三直線からなる海が、ぼくの掌のなかで疾駆するだらう。 彼女の総体は、賽の目のやうに、あるときは白に、あるときは紫に変化する。 空の交接。 瞳のなかの蟹の声、戸棚のなかの虹。 彼女の腕の中間部は、存在しない。 彼女が、美神のやうに、浸蝕されるのはひとつの瞬間のみである。 彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのやうに陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 霊魂の喧騒が死ぬとき、すべての物質は飽和した鞄を携へて旅行するだらうか誰がそれに答えることができよう。 彼女の精液のなかの真紅の星は不可溶性である。 風が彼女の緑色の衣服(それは古い奇蹟のやうにぼくの記憶をよびおこす)を捕えたやうに、空間は緑色の花であつた。 彼女の判断は時間のやうな痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知がぼくの指を引つぱつた。 すべては氾濫してゐた。 すべては歌つてゐた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のやうに光つてゐた……… (sans date)

(昭和6年=1931年9月「詩と詩論」・詩集『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』昭和42年=1967年12月刊収録)

(旧稿を改題・手直ししました)

オーネット・コールマン Ornette Coleman - ジャズ来るべきもの The Shape of Jazz to Come (Atlantic,1959)

オーネット・コールマン - ジャズ来るべきもの (Atlantic, 1959)

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オーネット・コールマン Ornette Coleman - ジャズ来るべきもの The Shape of Jazz to Come (Atlantic,1959) : Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_n7YmaDfWV83iiAeKf3YtJzwa952vExGgs
Recorded at Radio Recorders, Hollywood, California, May 22, 1959
Released by Atlantic Records 1317, October 1959
All Titles Composed By Ornette Coleman

(Side 1)

A1. Lonely Woman - 4:56
A2. Eventually - 4:23
A3. Peace - 9:02

(Side 2)

B1. Focus on Sanity -6:49
B2. Congeniality 6:44
B3. Chronology -6:04

[ Ornette Coleman Qurtet ]

Ornette Coleman - alto saxophone
Don Cherry - cornet
Charlie Haden - bass
Billy Higgins - drums

(Original Atlantic "" LP Llner Cover & Side 1 Label)

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 本作『ジャズ来るべきもの』は発売前から話題作と喧伝され、アメリカ盤発売からすぐに日本盤が発売され高い評価を得ました。テキサス州出身でロサンゼルスで活動していたアルトサックス奏者オーネット・コールマン(1930-2015)は、すでにロサンゼルスのインディー・レーベルのコンテンポラリー・レコーズか第1作『サムシング・エルス!(Something Else !!!!)』(1958年2月・3月録音、同年10発売)を発表しており、同社に『明日が問題だ(Tomorrow Is The Question !)』(1959年1~3月録音、同年11月発売)も制作していましたが、全国デビューになった本作での登場は新人アーティストとしてはモダン・ジャズ史上もっともセンセーショナルなものでした。現在でもこの作品はジャズ史上の最重要アルバムと目されています。では、オーネット・コールマンの位置づけはどういうものでしょうか。昭和53年刊の書籍『Jazz&Jazz 歴史にみる名盤カタログ800』(講談社)は同時刊行された『Rock&Rock』と共に80年代まで増補改訂され、LP時代には広く読まれたレコード・ガイドブックですが、その序文の総論では「1900年代から今日にいたるまでのジャズを築いてきた偉大なミュージシャンの名をあげるとき、チャーリー・パーカールイ・アームストロングデューク・エリントンジョン・コルトレーンマイルス・デイビスオーネット・コールマンの六人はとりわけ巨大な存在としてジャズ史上にその名をとどめている」とし、「しかしマイルスとコールマンを除いて、四人はすでにこの世にない」と続けています。マイルスもまた1991年に逝去しており、21世紀までキャリアを伸ばし85歳の高齢で逝去するまで現役ミュージシャンだったオーネットはここに名前の上がった他の誰よりも長い楽歴を誇ることになりました。また多くの概説には、ジャズ史上最高の小編成レギュラー・バンドとしては、ルイ・アームストロングのホット・ファイヴ、カウント・ベイシーのカンサス・シティ・セヴン(レスター・ヤング在籍)、オリジナル・チャーリー・パーカークインテット(マイルス・デイヴィス在籍)、オリジナル・マイルス・デイヴィスクインテット(ジョン・コルトレーン在籍)、ジョン・コルトレーン・カルテット、オーネット・コールマン・カルテットがジャズの里程標をなす六大バンドとして目されています。アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズチャールズ・ミンガス・ジャズ・ワークショップは歴史が長い上にメンバーが流動的すぎてレギュラー・バンドとは言えないとしても、レニー・トリスターノセクステットジェリー・マリガン・カルテット、クリフォード・ブラウンマックス・ローチクインテットはどうしたと言えばきりがありませんが、先の引用でも年代を無視してコルトレーンをマイルスの先に置き、チャーリー・パーカーを筆頭とオーネット・コールマンで締めくくっているのは序列の意識が働いています。つまりパーカーを最重要ジャズマンとし、次にパーカーに先立つ巨匠を二人、またパーカーの薫陶を受けたマイルスとコルトレーンを上げ、マイルスは当時まだ現役でしたから後に置いています。そしてパーカーから始めてオーネットで締めくくるのはモダン・ジャズの基準からのジャズ発展史の一巡という意図からでしょう。

 オーネットはモダン・ジャズ史上のアヴァンギャルド・ジャズの開祖とされるアーティストですが、チャーリー・パーカーのビ・バップ自体がオーネットに先立つジャズのアヴァンギャルド運動であり、ビ・バップに対する白人ジャズ側の回答というべきクール・スタイルのレニー・トリスターノによる初期キーノート・レコーズへの録音は1946年には開始されています。トリスターノの最初のフル・アルバム『奇才トリスターノ(Tristano)』、チャールズ・ミンガスの『直立猿人(Pithecanthropus Erectus)』、セロニアス・モンクの『ブリリアント・コーナーズ(Brilliant Corners)』がいずれも1956年録音~翌年初頭のリリースで、トリスターノはアルバム発売を機にジャズ界の第一線から身を引き、ミンガスとモンクはこれが長い試行錯誤を経たのちの出世作となりました。マイルス・デイヴィスクインテットの『Relaxin'』『Workin'』『Cookin'』『Steamin'』四部作も同年5月・10録音ですし、ブラウン&ローチ・クインテットの『ベイズン・ストリートのブラウン&ローチ(Clifford Brown and Max Roach at Basin Street)』、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス(Saxophone Colossus)』もこの年です。また、インディー・レーベルのため評価はずっと遅れましたが、フリー・プロデューサーのトム・ウィルソン(60年代にはボブ・ディランサイモン&ガーファンクルフランク・ザッパマザーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを手がける)が設立したトランジション・レコーズからセシル・テイラーの『ジャズ・アドヴァンス(Jazz Advance)』、サン・ラの『ジャズ・バイ・サン・ラ(Jazz by Sun Ra)』が制作・発売されたのも同年になり、ニューヨークのリヴァーサイド・レコーズからはビル・エヴァンスの第1作『ニュー・ジャズ・コンセプションズ(New Jazz Conceptions)』が制作・発売されています。オーネット自身はロサンゼルスのコンテンポラリー・レコーズから『サムシング・エルス!』で58年にデビュー、『ジャズ来るべきもの』の直前に第2作『明日が問題だ』1959を録音していましたが、インディー・レーベルのためあまり話題になりませんでした。ですが同年モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の西海岸ツアー中にジョン・ルイスがオーネットに注目し、ルイスはアトランティック・レコーズのジャズ部門の監修者でもあったため、インディーながらワーナー傘下の大手で全国への配給網を持つアトランティックからの全国デビューが決まります。ルイスは制作が難航していた『明日が問題だ』を早く完成させてアトランティックに契約させるため、MJQのベーシストのパーシー・ヒースを参加させてアルバムを仕上げさせてすらいます。

 東部の黒人上流階級に育ち大卒でバッハ研究の権威でもあったルイスはジャズ・ジャーナリズムの世界でも絶大な影響力があり、現役ジャズマンとしての実績と批評的見識では第一人者と尊敬されていました。ディジー・ガレスピーのバンドから生まれたMJQはチャーリー・パーカーのバック・バンドの経験も多く、クラシックにも造詣の深いルイスのパーカー評「バッハ以来の音楽的発明」はジャズ界の定説になっていたほどです。ジョン・ルイスオーネット・コールマンを評した「パーカー以来のジャズの革命」はオーネットをたちまちジャーナリズムの注目の的にし、『ジャズ来るべきもの』発売から間もなくメンバー全員でロサンゼルスからニューヨークに進出を果たしたオーネット・コールマン・カルテットはジャズ・クラブのファイヴ・スポットと出演契約し、ライヴは大評判を呼んで契約延長を重ね、新人としては異例の6か月連続出演(週6日出演)を果たします。リスナーはもちろんですがニューヨークの現役ジャズマンたちもこぞってオーネットのライヴを聴きに訪れました。傑作『カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)』を発表したばかりのマイルス・デイヴィスはインタヴューでオーネットの音楽を批判し、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス(Giant Steps)』は録音済みでしたが同じアトランティック作品だったため発売はオーネットのブームが落ち着いた翌年に持ち越されました。コルトレーンはオーネットの音楽に大きなショックを受け、アルバム『アヴァンギャルド(avantgarde)』でオーネット・カルテットのメンバーと共演します。ソニー・ロリンズも『アワー・マン・イン・ジャズ(Our Man in Jazz)』でオーネット・カルテットのドン・チェリーとレギュラー・バンドを組み、ヨーロッパ・ツアーまで行います。

 オーネットが評判を呼んだためオーネットの友人のマルチ木管奏者(アルトサックス、フルート、バス・クラリネット)のエリック・ドルフィーもロサンゼルスからニューヨークへ単身進出してきます。ドルフィーは本格的なビ・バップからオーネット以上の奔放なプレイまでこなす応用力の強いプレイヤーだったため、旧知のチャールズ・ミンガスのバンドとマイルスから独立したコルトレーンのバンドをかけもちし、自分のアルバムも出し、フィーチャリング・ソロイストとして多忙なセッションマンにもなりました。チャールズ・ミンガスはトランペットのテッド・カーソンとドルフィーをオーネットのライヴに偵察に出し(自分は車の中で待っていたそうです)、オーネット・カルテットと同じピアノレス・カルテット編成でオーネットへのアンサー・アルバム『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス(Charles Mingus Presents Charles Mingus)』1960を制作します。ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ(Portrait In Jazz)』もこの時期のジャズ・ピアノの革新的アルバムでした。ミンガスの盟友マックス・ローチはオーネットには批判的でしたが、前後してオーネット影響下の『ウィ・インシスト!(We Insist !)』をミンガスと同じインディー・レーベルのキャンディドからリリースします。ですが、プレスティッジ・レコーズと契約したドルフィーにせよ、すでにメジャー・レーベルからのリリースを確保し評価面ではマイルスと同格の大家だったミンガスやローチさえも、オーネットに迫ったアルバムはインディー・レーベルでしか制作できなかったことは留意すべきでしょう。キャンディドはセシル・テイラーの傑作『セシル・テイラーの世界(The World of Cecil Taylor)』も制作していますが、これはオーネットよりさらにアヴァンギャルドな作風のジャズ・ピアノ作品でした。また、サン・ラ&ヒズ・アーケストラもアヴァンギャルド・ジャズ流行の風潮に乗ってシカゴからニューヨークに進出し、トム・ウィルソンの斡旋でインディーのサヴォイから『フューチャリスティック・サウンド・オブ・サン・ラ(The Futuristic Sounds of Sun Ra)』1961年をリリースしますが、サン・ラのバンドも1965年頃までは食料品店でメンバーがアルバイトしてようやく続けていた状態になりました。オーネット自身がアトランテックとの2年契約満了後にはブームの反動でライヴ活動の場を失い、アトランテックとの契約も更新されず、オーネット影響下の新人たちの登場で再評価の高まった1965年のカムバックまで沈黙を強いられることになります。
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 オーネットは1959年5月~1961年3月の2年間に、アトランティックに、

[ Ornette Coleman on Atlantic Discography ]
1. The Shape of Jazz to Come (rec. May 22, 1959) Atlantic 1317, October 1959
2. Change of the Century (rec. October 8, 1959) Atlantic 1327, June 1960
3. This Is Our Music (rec. July 19, 26 & August 2, 1960) Atlantic 1353, February 1961
4. John Lewis:Jazz Abstraction(rec. December 19, 20, 1960) Atlantic 1365, September 1961
5. Free Jazz (rec. December 21, 1960) Atlantic 1364, September 1961
6. Ornette! (rec. January 31, 1961) Atlantic 1378, February 1962
7. Ornette on Tenor (rec. March 21, 1961) Atlantic 1394, December 1962
8. The Art of the Improvisers (Various Sessions, rec. 1959-61) Atlantic 1572, November 1970
9. Twins (Various Sessions, rec. 1961) Atlantic 1588, 2LP, October 1971
10. To Whom Who Keeps a Record (Various Sessions, rec. 1959-60) Atlantic/Warner Pioneer P-10085A, November 1975

 の10作(11枚)のアルバムを残しています。8~10は契約満了後のアルバム未収録テイク・未発表曲集ですが、ジョン・ルイスのアルバム参加と『This Is Our Music』収録のガーシュウィン・ナンバー「Embraceble You」(パーカーの愛奏曲でもある)を除いて、すべてオーネットの書き下ろしオリジナル曲で占められており、重複曲はアルバム1枚全1曲の『Free Jazz』のリハーサル録音「First Take」のみです。以降のアルバムもオーネットのアルバムは数曲の例外を除いて書き下ろし新曲のみなので、オーネットがビ・バップ以降セロニアス・モンクチャールズ・ミンガスと並んで最高の作曲家とされるゆえんです。

 オーネットのジャズは不規則なビートが疾走しながらどんどんずれていき、ベースはコード進行をリードせず持続音やシンコペーションでリズムの推進力にのみ集中し、トランペットとアルトサックスはコード・チェンジやドラムスのビートに頓着せず自由にフレーズをつむいで行くものでした。パーカーが理論化したコードの細分化によるビ・バップのインプロヴィゼーションを極端にデフォルメし、平行調全音階によってコード進行を組み替え、無調に近づいたアプローチでした。その点でトリスターノのスタイルの延長にありますが、オーネットのジャズは白人ミュージシャンのトリスターノには稀薄だったブルース色が前面に押し出されたもので、メトロノーム的なリズムに固執したトリスターノとはリズム面では真っ向から対立するものでもありました。それがジョン・ルイスからの絶讃の根拠となりましたが、アルバムは評判ほどはヒットせず、アトランテックのリリースも徐々に録音から発売までの間隔も開くようになり、1965年のカムバックまでオーネットはレコード契約を失います。しかしオーネットの影響力は絶大だったので一時引退中にオーネット影響下の新人が次々とデビューし、1965年にはオーネットはベースとドラムスだけを従えたトリオでヨーロッパ・ツアーの敢行によるカムバックを果たし、再びジャズ界の第一線ミュージシャンに返り咲きましたそれらの起点が『ジャズ来るべきもの』であり、現在ではジャズの古典的名盤との名声も定着して、現在のリスナーが聴くとむしろ気合いの入ったモダン・ジャズの好盤になっています。今でもアヴァンギャルド・ジャズとして聴けるかは別として、ユニークな楽曲やピアノレス編成ならではのアンサンブルとともに非常に魅力的なアルバムです。当時オーネットは白いプラスチック・アルトを使っていることでも話題になりました。オーネットは後に普通にセルマー社のアルトサックスも使い、プラスチック・サックスでも真鍮製のサックスでもまったく同じ音色で吹く奏者なのが判明しましたが、肉声に近いベンドの効いたオーネットのアルトサックスの音色とともにこのアルバムは以降絶大な影響力をジャズ全般にもたらしたのです。

(旧稿を改題・手直ししました)
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萩原朔太郎詩集『宿命』(昭和14年=1939年刊)より

(萩原朔太郎<明治19年=1886年生~昭和17年=1942年没>)
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 口語による散文詩が日本の現代詩に確立・定着したのは三好達治(明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没)の『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)の収録諸編であり、当時の三好はボードレール晩年の散文詩集『巴里の憂鬱』の初の全訳者で、抒情詩人のイメージが強い三好達治は実際は非常に複雑な指向性を備えた詩人であり、『測量船』も当時にあっては実験的なモダニズムの詩集でした。三好が直接師事した詩人は室生犀星萩原朔太郎ですが、あまり読まれない萩原朔太郎散文詩も見落とせないものです。萩原は「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」とさまざまに呼んでいた散文断章集を大正11年(1922年)刊の『新しき欲情』を皮切りに生涯に4冊発表しましたが、昭和14年(1939年)刊の自選詩集『宿命』(創元社・創元新書)では既発表の抒情詩70編とともに、単行本未収録の新作5篇を含む散文断章から70編を散文詩として再録しました。『宿命』は萩原生前に刊行された最後の詩集となったことでも収録された散文詩70篇は萩原の詩業の遺作的な位置づけができる、再録選詩集以上の意義を持っています。萩原は従来散文詩は書かない、むしろ口語自由詩の発展の上では散文詩には反対していた詩人でしたし、『宿命』ももともと散文詩として書かれたものではない断章を改めて散文詩として選出したものですから事情はやや特殊なのですが、愛弟子の三好を始めとする当時の若い世代の散文詩に触発されて既発表の散文断章集から萩原自身の基準で散文詩と言えるものをまとめたのが『宿命』収録の散文詩であり、改めて読者に散文詩として読んでもらいたいという意図からも萩原自身が愛着と自信を持つ断章が選出されているので、萩原にとっての散文詩観をくみとることもできます。まずボードレール風の(つまりポー的でもある)奇想による1編をご紹介します。

「死なない蛸」 萩原朔太郎

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠に"そこに"生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

(初収録・『虚妄の正義』昭和4年=1929年10月刊)


 この「死なない蛸」は十分に佳作と言えるものですが、萩原の散文詩はもっぱら寓話的な奇想により詩としては凝縮感が足りないので、そこにもともと『宿命』収録の散文詩がエッセイや寓話風の散文断章として書かれた限界があります。しかし萩原らしい特色は三好の『測量船』に見られるマゾヒスティックな題材に冷たい抒情をこめた散文詩と比較すると顕著で、同じマゾヒスティックな詩でも萩原の場合は骨身に染みこむ痛切さがあります。次の、チャールズ・ラムの古典『エリア随筆』の、夢の中の実在しない子供についてのメランコリックなエッセイを思わせる1編は、おそらく萩原全作品でももっとも痛切なもので、「死なない蛸」よりさらに優れた詩と断言できる詩です。この「父と子供」はあえて寓話性や奇想に拠らないこと、そうした詩的空想の余地がないことで、かえって散文詩としての完成度や圧縮感を度外視して読者に迫ってきます。萩原は読書家でしたが、幅広く読むよりも特定の文筆家に熱中するタイプだったので、本来萩原好みではない『エリア随筆』との直接の関連はなさそうですが、「父と子供」は萩原の自伝的文語詩集『氷島』(昭和4年=1929年刊)と同じ萩原自身の自伝的題材(妻の出奔による離婚、父子家庭となった萩原と知的障害者だった長女)を詠んで、意図的に文語詩に激情を封じこめた『氷島』1冊を散文詩1篇に凝縮したような作品です。

「父と子供」 萩原朔太郎

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。
「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だつて言ふの。」
 子供は実際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。
「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)ぢやない。ただ運の悪い、不幸な気の毒の子供なのだ。」
「不幸つて何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ。」
「過失つて何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かつたの?」
「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」
 子供は日曜学校へ行き、讃美歌をおぼえてよく歌つてゐた。
「あら? 車が通るの。お父さん!」
 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が続いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の尽きる向うへ、山脈を越えて行くのであつた。
「待て! 何処(どこ)へ行く。何処(どこ)へ行く。おおい。」
 私は声の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡礼みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

「歯が痛い。痛いよう!」
 私が夢から目醒めた時に、側(そば)の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き続けて居た。
「歯が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人(つみびと)と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主(ぬし)イエス・キリスト……歯が痛い。痛いよう!」

(初収録・『絶望の逃走』昭和10年=1935年10月刊)

(旧稿を改題・手直ししました)

カトリーヌ・リベロ+アルプ Catherine Ribeiro + Alpes - 立ちすくむ魂 Ame Debout (Philips, 1971)

カトリーヌ・リベロ+アルプ - 立ちすくむ魂 (Philips, 1971)

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カトリーヌ・リベロ+アルプ Catherine Ribeiro + Alpes - 立ちすくむ魂 Ame Debout (Philips, 1971) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLC09F574D67B54BAC
Released par Philips 6325 180, 1971
Tous les textes sont ecrits par Catherine Ribeiro et mis en musique par Patrice Moullet

(Face 1)

A1. 立ちすくむ魂 Ame debout - 7:54
A2. ディボロウスカ Diborowska - 3:39
A3. アルプ1 Alpes 1 - 5:46
A4. アルプ2 Alpes 2 - 6:22

(Face 2)

B1. アルピーユ Alpilles - 1:25
B2. 人気のアリア Aria populaire - 2:09
B3. クリネックス、シーツ、スタンダード Le Kleenex, le Drap de lit et l'Etendard - 3:28
B4. クレイジー Dingue - 4:36

[ Catherine Ribeiro + Alpes ]

Catherine Ribeiro - chant
Patrice Moullet - cosmophone, guitare acoustique
Claude Thiebault - percussions (percuphone)
Patrice Lemoine - orgue

(Original Philips "Ame debout" LP Liner Cover & Face 1 Label)

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 ゴダールの映画『カラビニエ』などの出演で女優・モデルとして知られたカトリーヌ・リベロ(1941~)は1960年代初頭からポップスのシングルを出し、やがてボブ・ディランのフランス語カヴァーなどを歌うフォーク・ロック歌手になっていましたが、本格的にロック・バンドを組んでアルバム・デビューしたのは前年の自殺未遂を経て『カラビニエ』で姉弟役で共演していた音楽的パートナーのパトリス・ムレ(1946-)と始めた1969年の『Catherine Ribeiro + 2Bis』(LP Festival FLDX487)で、マグマやアンジュよりも早く、ゴングとともに英米ロックの模倣を抜け出し独自のスタイルを打ち出した新しい世代のフレンチ・ロック・バンドの先駆に数えられました。翌1970年にはバンドはアルプと改名してCatherine Ribeiro + Alpes名義で『N.2』を発表(LP Festival FLDX531)し、ここまではインディー・レーベル作品でしたが、リベロの出産休暇を挟んだ第3作『Ame Debout』からバンドはメジャーのフィリップスに移籍し、フィリップスまたはフィリップス傘下フォンタナから1980年の第9作『La Deboussole』までフランスのロック界でゴング、マグマ、アンジュと並ぶ大物として活動しました。アルプ解散以後のリベロは本格的に伝統的なシャンソン歌手に転身しました。シャンソン歌手への転向が成功するとともにロック時代のリベロへの再評価も高まり、2005年には若手メンバーをバックに25年ぶりのアルプ再現コンサートを開いて大きな話題を呼び、大盛況とともにライヴ盤も発表されましたが、歌の巧みさはともかく'70年代の声の艶や張りは望むべくもなく、若手メンバーもソリッドな現代的サウンドでアルプのレパートリーを再演しており、実演なら感動できたでしょうが音だけ聴くにはつらいライヴ・アルバムになりました。しかしそうした企画が望まれるほど、アルプ時代のリベロは伝説化しているということでもあります。

 本国で、また欧米諸国でもユーロ圏の1970年代ロックの最重要バンドとされているリベロ+アルプですが、日本ではフランスのロックから5組、または10組を選んでも見過ごされてしまうかもしれない存在です。まず作品の入手が困難でした。9作中5作が1990年代初頭にフランスのみでCD化されましたがほとんど日本に輸入されず、すぐ廃盤になりました。2004年にはフランスでリベロの歌手デビュー~ロック時代~シャンソン転向後を総括する4枚組のヒストリー・ボックスが出ましたが、日本では海外業者による受注取り寄せでしか出回りませんでした。2012年には廃盤CDのうち第2作~第5作が4枚組セットで再発売されましたが、日本の輸入盤ショップでは初回入荷分以上の追加オーダーをせずまたたく間に品切れ状態になり、これらはみな1990年代の旧規格CD同様即座に法外なプレミアがつきました。聴いてみたくても手軽にCDが手に入らないのでは真価を知りようもありません。ようやく2bis~アルプの全9作がまとめてボックスセット化されたのは2015年までかかりました。

 ゴング、マグマ、アンジュ、エルドン、タイ・フォン、ピュルサー、アトール、ワパスー、エトロン・フー・ルルーブランら1970年代のフランスの有力バンドと並べても、カトリーヌ・リベロのミステリアスな存在感はエマニュエル・ブーズくらいしか肩を並べるミュージシャンはいないかもしれません。デビュー時期の早さ、アルバムの質の高さ・オリジナリティと作品数、活動期間を総合して見ればリベロ&アルプはフランスのロック・バンドではゴング、マグマ、アンジュと同等か、評価によってはそれ以上の存在とも言えます。カトリーヌ・リベロ + アルプのアルバム・リストは以下のリストの通りです。

[ Catherine Ribeiro + Alpes Album Discography ]

1969 : Catherine Ribeiro + 2bis (LP Festival FLDX487)
1970 : Catherine Ribeiro + Alpes - N.2 (LP Festival FLDX531)
1971 : Ame debout (LP Philips 6325 180), (CD Mantra 642 091)
1972 : Paix (LP Philips 9101 037), (CD Mantra 642 078)
1974 : Le Rat debile et l'Homme des champs (LP Philips 9101 003), (CD Mantra 642 084)
1975 : (Libertes ?) (LP Fontana 9101 501), (CD Mantra 642 083)
1977 : Le Temps de l'autre (LP Philips 9101 155)
1979 : Passions (LP Philips 9101 270)
1980 : La Deboussole (LP Philips 6313 096), (CD Mantra 642 088)

[ Compilations ]

2004 : Libertes ? (Long Box 4 CD Mercury 982 36569)
2007 : Catherine Ribeiro chante Ribeiro Alpes - Live integral (double CD Nocturne NTCD 437)
2012 : Catherine Ribeiro + Alpes 4 Albums Originaux : fondamentaux "Catherine Ribeiro + Alpes - N.2", "Ame Debout", "Paix", "Le Rat debile et l'Homme des champs". 4CD en coffret chez Mercury Records 279 506-0
2015 : Catherine Ribeiro + Alps - Integrale des Albums Originaux 1969-1980 9CD, Universal, 2015

 2004年の4枚組ヒストリー・ボックスと2012年のオリジナル・アルバム復刻4枚セット、さらに2015年の9枚組全集でほぼリベロ + アルプの全貌と、ポップス/フォーク・ロック歌手時代・シャンソン歌手時代の活動は追えるますが、1960年代のリベロはフランス版のマリアンヌ・フェイスフル(1946-)をイメージして売り出されていたようです。一方アルプ時代のリベロはニコ(1938~1988)に比較されることもあるように、この『Ame Debout』1971の作風はニコの『マーブル・インデックス(Marble Index)』1969や『デザート・ショワ(Desert Shore)』1970の作風を思わせます。しかしリベロ + アルプの第1作『Catherine Ribeiro + 2Bis』は1969年、第2作『N.2』が1970年だからこれは偶然の類似で、共通するのはポルトガル移民出自のリベロ、東欧国籍でドイツ生まれのニコのジプシー性でしょう。ただしニコの音楽が推進的なリズムをほとんど排除しているのに対し、リベロ + アルプはもっと大胆なグルーヴ感を持っており、たまたまリベロの産休明けでリズム面では比較的静的な『Ame Debout』をご紹介していますが、これは本作から始まる3~4作がリベロ+アルプの名盤とされているからです。最高傑作と名高い次作『Paix』1972では再び『N.2』以来の躍動的なリズム・アレンジに戻り、1974年の『Le Rat debile et l'Homme des champs』と1975年の『(Libertes ?)』、1977年の『Le Temps de l'autre』はさらに完成度の高さ・サウンドの充実では『Paix』をしのぐアルバムになりました。9枚組全集『Catherine Ribeiro + Alps - Integrale des Albums Originaux 1969-1980』を聴くと全作が優劣つけ難く、1970年代のフランスのロックではアンジュ、ゴング、マグマ、リベロ+アルプが人気・実力とも屈指のバンドだったのも納得いくものです。

 本作のB1はインスト、B2はアルプの音楽的リーダー、パトリス・ムレが歌っていますが、ムレはゴダールの弟分のカイエ・デュ・シネマ誌の映画批評家・監督リュック・ムレ(1937-)の実弟であり、リベロと知り合ったゴダールの『カラビニエ』への出演は兄の取り持った縁でした。パトリス・ムレはアルプ解散後に建築デザイナーになり、建築アートでの来日も果たしています。アルプの特異なサウンドを特徴づける謎の楽器コスモフォンとパーキュフォンはパトリス・ムレ発明の手製楽器であり、コスモフォンは24弦ヴィオーレ、パーキュフォンは音階を備えた電子パーカッションでした。アルバム巻頭のタイトル曲「Ame debout」からコスモフォンとパーキュフォンのサウンドが炸裂しているので通常のロック・バンドの使用楽器や編成とは違うアルプのサウンドはフランスのロックにあっても異彩を放つものです。基本的にはフランスのロックはイタリア同様ヴォーカルの比重が高く、当時ドイツや日本のロックでは英語詞やインストルメンタルが多かったのと対照をなしていました。歌曲大国イタリアやフランスでは基本的に自国語で歌うのが早くからロックでも本流になっていました。アンジュの影響力が英語歌詞のゴングや架空言語のコバイヤ語だったマグマより段違いに高いのはその点にあり、リベロ + アルプが広い支持を得たのもリベロ自身が作詞するフランス語歌詞の魅力と歌唱力でした。サウンド面で最高の達成を示したのが『Le Rat debile et l'Homme des champs』と『(Libertes ?)』『Le Temps de l'autre』の3作と思え、特に『(Libertes ?)』は同年発表の新人アトール、ピュルサーのデビュー作とは貫禄の違いを見せつける傑作ですが、その割には日本では国際進出の早かったゴングやマグマはもとよりアンジュよりも聴かれていないのは、ジェネシスのフランス版独自進化系とも言えるアンジュがプログレッシヴ・ロックの範疇で聴け、またピンク・フロイドキング・クリムゾンの影響の強いピュルサー、イエスの影響の強いアトールなどわかりやすいプログレッシヴ・ロック性やハード・ロック性とはリベロ+アルプのサウンドはほとんど対照的なので、ティム・バックリーのフリーフォーム・ヴォーカル・スタイルに影響を受けたリベロのヴォーカルはフランスのロックの中でも特に実験性の強い、ヴォーカル主導のフリーフォーム・ロックのスタイルになっています。これは英米ロックのサイケデリック・スタイルを継承発展させたゴングともまったく異なる、ジャックスの「マリアンヌ」やニコのアルバムくらいしか類例のない、完全にロック文脈から外れた発想から出てきたオリジナリティを誇るサウンドです。歌詞をダイレクトに享受できるフランス語圏のリスナーにはともかく、ジャズ的なインプロヴィゼーションとも違うリベロ+アルプの音楽性は非フランス語圏のリスナーには親しみづらいもので、アルプの諸作中比較的楽曲のコンパクトな本作ですらフランスのロックに馴染みのないリスナーには敷居が高いのが想像がつきます。しかしリベロ+アルプの諸作中半数はフランスのロックでも必聴の名盤と呼べるもので、このヒッピーのピクニック風景みたいなジャケットのアルバムは1970年代のフランスのロック魔境への入口であり出口でもあります。こういうバンドがかつて存在した、しかも一国のロック・シーンをリードしたというのは、音楽的な質の高さをさておいてもちょっとした驚異です。

(旧稿を改題・手直ししました)

口語自由詩の揺籃~萩原朔太郎・三富朽葉・高村光太郎

(萩原朔太郎<明治19年=1886年生~昭和17年=1942年没>)
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 日本の現代詩で口語自由詩を始めた詩人として浮かんでくる詩人の第一人者は萩原朔太郎(明治19年1886年生~昭和17年=1942年没)でしょう。「殺人事件」は第1詩集『月に吠える』(大正6年=1917年刊)のうちでも口語自由詩に着手した初期の1編ですが、すでに独自の発想とスタイルを持つ見事な作品です。

「殺人事件」 萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

(初出・大正3年=1914年9月「地上巡禮」)

 萩原は第2詩集『青猫』(大正12年=1923年刊)ではより息の長く柔軟な文体に作風が移りますが、表題作はまだ第1詩集刊行時の創作なので過渡的な作品です。それでもなお魅力的なのは、掲げたテーマにすべてを集中させる把握力の確かさゆえでしょう。

「青猫」 萩原朔太郎

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

(初出・大正6年=1917年4月「詩歌」)

 日本の口語自由詩の詩人でもっとも早かったグループの詩人には、海水浴中溺れた友人を助けようとして溺死し短い生涯を終えた悲運の詩人、三富朽葉(明治22年=1889年生~大正6年=1917年没)がいました。萩原より3歳年下の朽葉は萩原が大正2年(1913年)に活動を始める3年も前、また萩原が口語詩を書き始めたのは大正3年(1914年)ですから4年前に、こんな口語自由詩を発表しています。

「夕暮の時」 三富朽葉

夕暮の街が
暗い絵模様を彩る時、
人々が淡い影を引いて
舞踏するやうに過ぎて行く、
いつしらず、自分は
闇を慕うて来たかのやうに陥る、
冷たく黒い焔を燃す
冬の夜の吐息の中。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)

 一読して気づくのは発想の平凡さと、まだ行分け散文でしかないような文体の単調さですが、これは口語自由詩である必然性を持って書かれた詩です。石川啄木(萩原と同年生まれ、明治19年1886年生~明治44年=1912年没)がようやく口語自由詩の成功作「心の姿の研究」連作を発表したのが明治42年(1909年)12月ですから、朽葉も先駆的な業績を残した詩人と言えるのです。次の作品も一見他愛ない短詩ですが、テーマはすでに萩原の「青猫」を予告するものです。

「のぞみ」 三富朽葉

私は雑踏を求めて歩く、
人々に随つて行きたい、
明るい眺めに眩惑されたい、
のぞみは何処にあるのであらう、
群集の一人となりたい、
皆と同じく魂を支配したい、
荒い渇きに嘔(むか)ついて、
私は雑踏を求めて歩く。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)

 また、朽葉の西洋詩的発想の消化と都会的で柔軟な抒情性は明治の新体詩とははっきり異なっており、一見平凡な中にも口語自由詩の時代の到来を導くだけの役割は果たしたのです。生前に詩集を残さなかった三富朽葉はひそかに、短い生涯(享年27歳)の中でさらに複雑で独自の象徴詩に作風を進展させますが、詩集4冊分に上る三富朽葉の詩業は萩原とは別の、より内向的な方向で口語自由詩を発展させる可能性のあったもので、改めてご紹介したいと思います。

「黄昏の歌」 三富朽葉

窓の外に、
黒い木の枝が葡つてゐる、
屋根の雪が溶けて、
単調な雫の、
絶えず何処かへ
旋(めぐ)り旋り行くやうな響……
この家の
蒼い、蒼い幻惑の底に、
私は眠りを窺つてゐる、
周囲(まはり)の壁をひそかに飾つて
閃く星を夢見てゐる。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)


 啄木の晩年の口語自由詩を含む『啄木遺稿』(大正2年=1913年刊)とともに、画期的な口語自由詩の詩集となったのが高村光太郎(明治16年=1883年生~昭和31年=1956年没)の第1詩集『道程』(大正3年=1914年刊)でした。同詩集や後の『猛獣篇』(未完詩集、大正14年=1925年~昭和14年=1939年)、『智恵子抄』(昭和16年=1941年)、『典型』(昭和25年=1950年)の作品は名高く、また日本の現代詩に口語自由詩の確立が果たされた後の作品ですので、『道程』刊行後に発表され代表詩集から洩れた、大正期のさりげない佳品を拾ってみます。

「真夜中の洗濯」 高村光太郎

闇と寒さと夜ふけの寂寞とにつつまれた風呂場にそつと下りて
ていねいに戸をたてきつて
桃いろの湯気にきものを脱ぎすて
わたしが果しない洗濯をするのは その時です。

すり硝子の窓の外は窒息した痺れたやうな大気に満ち
ものの凍てる極寒が万物に麻酔をかけてゐます。
その中でこの一坪の風呂場だけが
人知れぬ小さな心臓のやうに起きてゐます。

湯気のうづまきに溺れて肉体は溶け果てます。
その時わたしの魂は遠い心の地平を見つめながら
盥の中の洗濯がひとりでに出来るのです。
氷らうとしても氷よりも冷たい水道の水の仕業です。

心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは
入りみだれて限りなくかがやきます。
かうして一日の心の営みを
わたしは更け渡る夜に果しなく洗ひます。

息を吹きかへしたやうな鶏の声が何処からか響いて来て
屋根の上の空のまんなかに微かな生気のよみがへる頃
わたしはひとり黙つて平和にみたされ
この桃いろの湯気の中でからだをていねいに拭くのです。

(初出・大正11年=1922年4月「明星」)


 こうした力みのない詩を書いても、日常的な題材と平易な表現から詩をつかみ出す高村のセンスは名人の一筆書きの観があります。同時発表のもう1編もさり気ない短詩ながら素晴らしい逸品です。萩原が夢想の人なら高村は眼の人だったのがわかります。

「下駄」  高村光太郎

地面と敷居と塩せんべいの箱だけがみえる。
せまい往来でとまつた電車の窓からみると、
何といふみそぼらしい汚らしいせんべ屋だが、
その敷居の前に脱ぎすてた下駄が三足。
その中に赤い鼻緒の
買ひたての小さい豆下駄が一足
きちんと大事相に揃へてある。
それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。

(初出・大正11年=1922年4月「明星」)

(旧稿を改題・手直ししました)

セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ Thelonious Monk and Sonny Rollins (Prestige, 1956)

セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ (Prestige, 1956)

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セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ Thelonious Monk and Sonny Rollins (Prestige, 1956) Full Album : https://youtu.be/UsyzipWdRhI
Recorded at WOR Studios, New York City, November 13, 1953 (B2), at The Van Gelder Studio, Hackensack, NJ, September 22, 1954 (A3, B1), and October 25, 1954 (A1, A2)
Released by Prestige Records Prestige 7075, 1956
All compositions by Thelonious Monk except as indicated.

(Side A)

A1. The Way You Look Tonight (Dorothy Fields, Jerome Kern) - 5:13
A2. I Want to Be Happy (Irving Caesar, Vincent Youmans) - 7:43
A3. Work - 5:18

(Side B)

B1. Nutty - 5:16
B2. Friday the 13th - 10:32

[ Personnel ]

Thelonious Monk - piano
Sonny Rollins - tenor saxophone on B2, A1, A2
Julius Watkins - french horn on B2
Percy Heath - bass on B2, A3, B1
Tommy Potter - bass on A1, A2
Art Taylor - drums on A1, A2
Art Blakey - drums on A3, B1
Willie Jones - drums on B2

(Original Prestige "Thelounius Monk and Sonny Rollins" LP Liner Cover & Side A Label)

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 このアルバムはたまに聴き返すたびに驚きと喜びを与えてくれる逸品です。最近ブログで取り上げたマイルス・デイヴィスの『Bags' Groove』(セロニアス・モンクソニー・ロリンズ参加)や『Workin'』(ジョン・コルトレーン参加)、モンクの『Thelonious Monk Trio』『Brilliant Corners』や『Thelounius Monk with John Coltrane』(ジョン・コルトレーン参加)、ウォルター・ビショップJr.『Speak Low』(チャーリー・パーカー、マイルス関連ピアニスト)、ソニー・ロリンズ『The Bridge』などをたどってきて、これらはいずれも定評ある名盤ばかりですが(サイケならドアーズにデッド、プログレならクリムゾンにジェネシスくらいの定番ですが)、3セッションからの中途半端な寄せ集めという成立事情からも何となく話題にならないこの『セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ(Thelounius Monk and Sonny Rollins)』は、やはり寄せ集めながらコルトレーン参加のカルテット録音が半数を占めることで天下の歴史的名盤扱いされている『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン(Thelounius Monk with John Coltrane)』など問題にならないくらい痛快な、実にのびやかで楽しいアルバムです。本作のロリンズはマイルスとのセッションとは別人のように軽やかに吹いています。マイルス作品への参加やコルトレーンの参加作ではどこかキリッとしているモンクもロリンズとの共演やピアノ・トリオでは勢い一発でご機嫌に弾いています。どちらがジャズとして上等か、もちれんどちらも上等なのですが、本気で力作を作るのと力半分で快作を作るのはどちらもアーティストの懐深さ次第でしょう。プレスティッジ在籍時のモンクはろくな待遇を受けていませんでした。それでいて音楽には微塵の悲壮感もありません。モンクは自分の音楽に絶対の自信があり、ジャズクラブの出演許可証を謹慎処分で没収されてライヴもできず、プレスティッジでは1952年~1954年の3年間に6セッションしか録音に起用されなくても創造力に満ちていました。音楽には否が応でもアーティストの精神性が反映しますが、悪条件の下でモンクがいかに高い精神性を維持していたかをモンクのプレスティッジ時代のアルバムは証明しています。

 ただし本作の収録曲の来歴は3セッションに分かれているからややこしいことになります。1953年11月13日のWORスタジオ・セッションでは「Friday the 13th」に先立って「Think of One」(take1)、「Let's Call This」、「Think of One」(take2)が録音されています(いずれも12インチLPでは『Thelounius Monk Quintet/Monk』に収録)。また1954年9月22日のヴァン・ゲルダー・スタジオでのピアノ・トリオ・セッションでは「Nutty」「Just a Gigoro (unaccompanied solo piano)」「Work」「Blue Monk」が録音され、「Just a Gigoro」と「Blue Monk」は12インチLPでは『Thelounius Monk Trio』収録になりました。さらにロリンズのワンホーンでの1954年10月25日のヴァン・ゲルダー・スタジオ・セッションはスタンダード曲ばかり3曲が録音されましたが、「I Want To Be Happy」「The Way You Look Tonight」「More Than You Know」のうち「More Than You Know」はエルモ・ホープがピアニストのセッションのソニー・ロリンズのアルバム『Moving Out』に組み込まれています。なんでこんなことになったかというと、モンクがプレスティッジに在籍していた1952年~1954年はまだ10インチLPが主流の時代で、収録時間はAB各面10分~せいぜい12分でした。1955年に12インチLPが開発されて翌年には12インチLPの方が主流になり、A面B面各面16分~24分とほぼ10インチLP2枚分の収録が可能になりましたが、長時間収録の10インチLPの場合1、2曲をカットして他のアルバムと合わせなければならなかったのです。モンクとソニー・ロリンズの共演曲を軸にした編集で10インチLPから12LPに再編する時、53年のクインテット・セッションの残り「Friday the 13th」はまだしも、ロリンズのワンホーン・カルテット録音から「More Than You Know」をロリンズ名義のアルバムに入れたのは、12インチLPにするには曲が足りない『Moving Out』に増補して再発するためでした。『セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ』には強力な「I Want To Be Happy」「The Way You Look Tonight」の2曲が入っているから1曲くらい外してもいいだろう、ということだったのでしょう。しかし本作にはロリンズの参加していないピアノ・トリオ録音「Work」と「Nutty」まで入っています。これもどちらも強力な初演オリジナル曲ですが、12インチLP『Thelounius Monk Trio』と『Thelounius Monk Quintet/Monk』に入りきらなかった余り曲にロリンズのワンホーン曲2曲を加えて一丁上がり、しかもアルバム・タイトルが半分ハッタリの『セロニアス・モンク・アンド・ソニー・ロリンズ』では適当な没テイク集みたいに思われても仕方ありません。だからと言って他に良いタイトルがあるかというと、すでに一枚看板を張る両者の共演アルバムとして売り出すのがプレスティッジのちゃっかりしたところです。

 セッション順に見るとまずクインテットによる「Friday the 13th」ですが、たまたま録音日が13日の金曜日だったからタイトルにしたそうです。これが1953年の発想というのがとんでもない、サラッと聴くとユーモラスなリフ・チューンですが、この曲は調性と拍節はあってもコード進行は存在せず、リズム・パターンも強制的なものではないので、爆発的に演奏して意図的に調性から外れたアプローチをとればそのままフリー・ジャズになるような曲です。モンクの新曲のリハーサル段階でベーシストのウィルバー・ウェアが「こんな曲でベース・ラインが弾けるか!」と怒って帰ってしまったというのはリヴァーサイド・レコーズ時代のエピソードですが、この曲のパーシー・ヒースはごく無理なく自然に乗りの良いラインを弾いているのも大したものです。モンクとフリー・ジャズの関係は、モンクがフリー・ジャズの先駆者だったというよりも単にモンクはモンクの音楽をやっていただけで、むしろフリー・ジャズのミュージシャンたちはモンクの音楽から学んで新しいスタイルを作りだすことになりました。'60年代にはフリー・ジャズのミュージシャンがモンクの曲を最低1曲はカヴァーするのがマナーになっていましたが、モンク自身はフリー・ジャズには無関心で、ソニー・ロリンズフリー・ジャズの新鋭たちと共演してフリー・ジャズのアルバムを作ったようには逆影響を受けることはありませんでした。そのロリンズですが、本作ではセッション順では最後になるモンクとロリンズとのカルテット録音は本来Wリーダー・セッションだったらしく、スタンダード曲の選曲はロリンズが選曲してモンクにOKを取ったものでしょう。ここでの選曲はチャーリー・パーカーソニー・スティットらビ・バップの先輩サックス奏者が好んだものばかりで、モンクの選曲とは思えません。1954年10月録音といえばパーカーの悲惨な遺作『Plays Cole Porter』の追加録音前で、ほぼ半年後にはパーカーは心臓発作で急死してしまうと考えると、ここで聴けるロリンズ&モンク・カルテットの演奏はまったくハード・バップ的ではないビ・バップらしい伸びやかなものですが、良かれ悪しかれパーカー時代のビ・バップ特有の緊張感がここでのロリンズには稀薄で、肩の力の抜けた、大らかなビ・バップになっています。これでもしピアノが狂騒的なスウィング感あふれるバド・パウエルだったらロリンズもバドに合わせた吹奏を披露したでしょうが、モンクのいつになく朴訥な味が若いロリンズ(当時24歳!)と上手く噛みあった好演になっています。その点ではA1・A2はモンクらしさのあまり感じられない、ロリンズを立てた出来のトラックという贅沢な不満もなくはありません。翌1955年はロリンズ消息不明の年で、1956年に復帰したロリンズは当代一の豪放なスタイルに成長していましたから、この1954年10月のセッションのような軽やかなスタイルはロリンズのキャリアではごく短期間にしか聴けないものです。

 問題はピアノ・トリオの「Work」「Nutty」の2曲で、「Nutty」は明快なAA'BA'=32小節形式でキャッチーな楽曲ながらこのテーマはホーン入りの編成の方が冴える印象を与えます。さらに「Work」となると、ジャズの演奏経験がないリスナーには一聴して小節構成を判別できない人も多いのではないでしょうか。これは調性と小節構成だけは逸脱しなかったモンクにあっては唯一と言ってよい無調性楽曲に接近しています。小節構成はAA'BCAA'=48小節ですがABCいずれも8小節中に転調を含み、さらにAとB、BとC、CとAで同一音型が転調して反復されるため調性音楽なのにトーナリティーが確定できなくなり、拍節感すら見失ってしまうため実質的に無調で2拍単位でしか把握できない聴覚感になっており、これほど過激なアイディアは録音されたモンクの全オリジナル曲を思い浮かべても他に類例の見当たらない楽曲です。モンクと同世代のバップ・ピアニストでは完全な無調性ジャズにまで進んだのはイタリア系白人のレニー・トリスターノくらいですが、トリスターノの場合はセンター・トーナルを設定した上で無調のアンサンブルを行う手法であり、トーナル上のセンターすら外した「Work」ほど過激ではありません。モンクにとってこの演奏は過程にせよいったんは完成型と考えていたのか、あくまで試作程度の実験的演奏だったのかはわかりません。ベースはパーシー・ヒース、ドラムスはアート・ブレイキーですが、「Work」ではヒースもブレイキーも何とかモンクにつけているものの、およそピアノ・トリオの体をなしていないぎりぎりの演奏です。同日のセッションからは「Blue Monk」とソロ・ピアノの「Just a Gigoro」が同時に録られ、その2曲は52年のピアノ・トリオ録音とともに『Thelounius Monk Trio』に収録されましたが、「Blue Monk」と「Just a Gigoro」は破綻のない文句なしの名演でした。「Work」については前述の通りですが、「Nutty」が本当にモンクの意図通りに完成したのは1957年のジョン・コルトレーン入りカルテットの時点で、1958年のジョニー・グリフィン入りカルテットのヴァージョンが決定版でしょう。この曲のテーマは応答形式をとっていて、ピアノ・トリオだけでは荒っぽくデモ・テープ段階の演奏に聴こえるのです。実際ブレイキーのドラムスがテンポを維持できず所々で走っています。それはピアノ・トリオではピアノだけで応答形式をテーマを弾いていたからのリズム・アクセントの混乱なので、テナー入りカルテットによるアレンジでようやく応答形式のテーマがすっきりと提示できたのです。ジョニー・グリフィン入りカルテットのヴァージョン(アルバム『Misterioso』1958収録)はライヴ・アルバムのオープナーになっただけあり、モンクのワンホーン・カルテット演奏中の白眉になっています。その名演を生んだ原曲の初演としてこのピアノ・トリオ・ヴァージョンはあまりにボロボロで実に楽しめます。いったい褒めているのか貶しているのかわからないような言い方ですが、このアルバムのモンクは不遇をかこっていた時代ながら、本当にこの時期ならではの、溢れるばかりのアイディアに満ちた、失敗を辞さない飾り気のない音楽を聴かせてくれます。統一感のない寄せ集めのアルバムで完成度は『セロニアス・モンク・トリオ』やのちの『ブリリアント・コーナーズ』には遠くおよばないものですが、それだけに聴き返すたびに発見があるのがプレスティッジの適当なアルバム編集だからこそと思うと皮肉な気もします。

(旧稿を改題・手直ししました)

鮎川信夫「白痴」「Who I Am」

(鮎川信夫<大正9年=1920年生~昭和61年=1986年没>)
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白痴  鮎川信夫

ひとびとが足をとめている空地には
瓦礫のうえに材木が組立てられ
鐘の音がこだまし
新しい建物がたちかけています
やがてキャバレー何とか
洋品店何とかになるのでしょう
私はぼんやりと空を眺めます
ビルの四階には午後三時から灯がともり
踊っている男女の影がアスファルトに落ちてきます

私は裏街を好みます
そこにはジャズがぼそぼそとながれ
むかし酒場で知りあった女が
あまり感心しない生活をしています
無意味な時代がしずかに腐敗しています
ある冬の晴れた日に
私はゆっくり煙草をふかしながら
そこを通ってゆきました
私の立派な人生には
いつもそんな汚い路地があって
破れた天井の青空が
いつもいくらか明るいようです

日が暮れかかると
劇場は真黒な人を吐き出します
ふるえる電線の街の
灰色の建物のしたを孤独な靴音が
もみあうおびだだしい影をぬってゆきます
その孤独のこだまのなかには淋しさの本質がちょっぴりあります
十字路には警官が立っていて
これが本当の東京の街路ですが
この街のどこもかしこも
光りの痕跡が小さくなってゆくようです
つかれているのは私ばかりではありません
指輪や装身具の飾ってあるショーウィンドをのぞいて
うつくしく欠伸をしている女がいます
その横顔をぬすみ見ている紳士がいます

春のころ代議士候補が
サラリーマンや労働者を相手に
よく政府の悪口を言っていた広場には
サーカスの看板がこがらしに吹かれています
街路樹の枯枝に
小鳥がとまっていることも見のがせません
サーカスのむすめの写真をながめながら
私はかるい舌うちをしました
もちろん誰にも聞えるきづかいはありません
どうやら私は今年も結婚しそこねたようです

これから私は何をしたらよいのでしょうか?
ひとびとのうしろに行列して夕刊を買い
今日の出来事を
昨日のように読みすてましょうか?
そしてニュースが私を読みすてたら
茶店でコーヒーをのみ
それからあとの計画は
一杯のコーヒーをまえにして考えようと思うのです
一人の若いウェイトレスが
たまたま可愛いい瞳をしていたからといって
少しばかり恥をかくようなことがなければよいのです

(初出『荒地詩集一九五一年版』昭和26年=1951年・『鮎川信夫詩集』昭和30年=1955年収録)

Who I Am  鮎川信夫

まず男だ
これは間違いない

貧乏人の息子で
大学を中退し職歴はほとんどなく
軍歴は傷痍期間も入れて約二年半ほど
現在各種年鑑によれば詩人ということになっている

不動産なし
貯金は定期普通預金合わせて七百万に足りない
月々の出費は切りつめて約六十万
これではいつも火の車だ

身長七十四糎体重七十瓩はまあまあだが
中身はからっぽ
学問もなければ専門の知識もない
かなりひどい近視で乱視の
なんと魅力のない五十六歳の男だろう
背中をこごめて人中を歩く姿といったら
まるで大きなおけらである

ずいぶんながく生きすぎた罰だ
自分でもそう思い人にもそう思われているのに
一向に死ぬ気配を見せないのはどうしたわけか
とことんまで生きる気なんだおまえは
罰を受けつづけることに満足を覚えるマゾヒストなんだおまえは

どうしようもないデラシネ
故郷喪失者か
近親相姦者か
パラノイアック・スキゾフレニック症
近代人のなれの果て
電話の数字にもふるさとを感じ
おまえをおとうさんと呼んでいる娘を裸にし
おもちゃにすることもできるのである

世上がたりに打明ければ
一緒に寝た女の数は
記憶にあるものだけでも百六十人
千人斬りとか五千人枕とかにくらべたら
ものの数ではないかもしれないが
一体一体に入魂の秘術をつくしてきたのだ

有難いことにどんな女にもむだがなかったから
愛を求めてさまよい
幻の女からはどんどん遠ざかってしまった

はじめから一人にしておけばよかったのかもしれない
悲しい父性よ
おまえは誰にも似ていない

自分を思い出すのに
ずいぶん手間暇のかかる男になっている

(初出「現代詩手帖」昭和52年=1977年新年号・詩集『宿恋行』昭和53年=1978収録)


 鮎川信夫(東京生れ・大正9年1920年生~昭和61年=1986年没)にはあまり話題にされませんが好ましい佳篇がいくつもあります。「荒地」同人編『荒地詩集一九五一年版』収録の鮎川詩集は「死んだ男」「アメリカ」「白痴」「繋船ホテルの朝の歌」「橋上の人」の5篇で、「死んだ男」「アメリカ」「繋船ホテルの朝の歌」「橋上の人」はいずれも鮎川の代表作となった作品です。このなかで「白痴」は力作4篇にあって箸休めのようにも見えます。ですが、この詩を単独で読むと実にしみじみと良い詩なのが沁みてきます。一方で、それから25年を経た昭和52年(1977年)の「現代詩手帖」新春号の巻頭を飾り、センセーショナルな話題を呼んだ異色作が「Who I Am」です。特に「世上がたりに打明ければ/一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけでも百六十人」の3行が話題になりました。その真偽はともかくとしても、「Who I Am」のきびきびとした行文から弾ける自虐的ユーモア、先が読めない展開、セクシュアルな話題の突拍子もない挿入と大仰な表現からみなぎるイロニー、萎んだように詩を収束して初老の倦怠・疲労感を表現する鮮やかさは、内容的には「白痴」と対照をなしていながらともに融通無碍に一筆書きで確かな手応えを残す名人芸の観があり、さすがの手並みというしかありません。

(旧稿を改題・手直ししました)

サイケデリック・サウンズ・オブ・13thフロア・エレベーターズ (International Artists, 1966)

サイケデリック・サウンズ・オブ・13thフロア・エレベーターズ (International Artists, 1966)

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ザ・13thフロア・エレヴェイターズ The 13th Floor Elevators - サイケデリック・サウンズ・オブ・13thフロア・エレベーターズ The Psychedelic Sounds of The 13th Floor Elevators (International Artists,1966) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLiN-7mukU_RG7bVpv4kTf4Gw_ParA-uaU
Recorded at Sumet Sound Studios, Dallas, January 3, April-September 20, October 9-11, 1966
Released by International Artists Records November 1966

(Side A)

A1. You're gonna miss me (R. Erickson) - 2:31
A2. Roller coaster (T. Hall, R. Erickson) - 5:07
A3. Splash 1 (C. Hall, R. Erickson) - 3:56
A4. Reverberation (T. Hall, S. Sutherland, R. Erickson) - 2:51
A5. Don't fall down (T. Hall, R. Erickson) - 3:00

(Side B)

B1. Fire engine (T. Hall, S. Sutherland, R. Erickson) - 3:19
B2. Thru the rhythm (T. Hall, S. Sutherland) - 3:11
B3. You don't know (how young you are) (Powell St. John) - 2:59
B4. Kingdom of Heaven (Powell St. John) - 3:12
B5. Monkey Island (Powell St. John) - 2:41
B6. Tried to hide (T. Hall, S. Sutherland) - 2:48

[ The 13th Floor Elevators ]

Roky Erickson - vocals, rhythm guitar
Stacy Sutherland - lead guitar
Tommy Hall - Amplified jug
Benny Thurman - bass ("You're Gonna Miss Me", and "Splash 1 (Now I'm Home")
Ronnie Leatherman - bass
John Ike Walton - drums, percussion

(Original International Artists "The Psychedelic Sounds of The 13th Floor Elevators" Liner Cover & Side A Label)

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 このアルバムは日本のロックで言えばジャックス『ジャックスの世界』(1968年9月発売)に相当するものになるでしょう。日本で初めてサイケデリック・ロックを標榜したアルバムはザ・モップスサイケデリックサウンド・イン・ジャパン』(1968年4月発売)ですが、サウンド面ではブルース・ロックを標榜していたザ・ゴールデン・カップスザ・ゴールデン・カップス・アルバム』(1968年3月発売)やロンドン・サウンド(当時のいわゆる「スウィンギング・ロンドン」)を謳ったザ・ビーバーズ『ビバ!ビーバーズ』(1968年6月発売)の方がモップスよりも本場のサイケデリック・ロックに肉迫していました。モップス星勝は優れたギタリストですがアレンジャー・タイプなので、モップスのデビュー作はエディ幡とケネス伊東の素晴らしいツイン・ギターを擁したカップス、後にフラワー・トラヴェリン・バンドでブレイクする天才ギタリスト石間秀樹を擁したビーバーズには当時最先端のギター・ワークではおよびませんでした。モップス自体はカップス、ビーバーズに劣らない実力派バンドでしたが、カップスやビーバーズのように突出したギター・サウンドではなかったというだけで、星の実力が本格的に開花するのはバンド自身がセルフ・プロデュース権を握り、サイケ色も薄れてハード・ロック化した1970年のセカンド・アルバムからになりました。ただし13thフロア・エレベーターズをカップスやビーバーズ、モップスよりもジャックスになぞらえるのは、サウンド面よりも何よりリード・ヴォーカリストのロッキー・エリクソン(1947-2019)の無垢な個性がジャックスの早川義夫(1947-)と同質の傷つきやすい感受性を連想させるからで、ジャックスがしばしば比較されるヴェルヴェット・アンダーグラウンドの都会的な頽廃感よりもエレベーターズの垢抜けないガレージ・パンクの哀愁感の方がジャックスとの親近性を感じさせます。特にこのアルバムではA3やA5、B3やB4などにエレベーターズのナイーヴさがよく表れています。ジャックスは東京の郊外出身の大学生バンドでしたが、都会的な華やかさや洗練にはあえて背を向けたバンドでした。エレベーターズはテキサスを本拠に地元の新興インディーズ、インターナショナル・アーティスツからアルバムをリリースしていたローカル・バンドで、テキサスから進出できる都市はロサンゼルスかサンフランシスコでした。エレベーターズの荒っぽい音楽はビジネス的に洗練されたロサンゼルス音楽界では受け入れられないので、バンドはヒッピー文化の盛んだったサンフランシスコに向かい、アルバム・デビュー前のサンフランシスコのヒッピー・バンドと交流していました。

 B3・B4はバンドの友人パウエル・セント・ジョン(1940-)の曲ですが、メンバーのオリジナル曲と作風がほとんど変わりなく馴染んでいます。セント・ジョンはジャニス・ジョプリン(1943-1970)との交友や楽曲提供でも知られ、ジャニスもテキサス出身で、サンフランシスコ上京以前には準メンバーと言えるほどエレベーターズと交流が深いシンガーした。ジャニスがサンフランシスコのビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーに加入したためまだ高校生ギタリストだったエリクソンがエレベーターズに正式加入した事情があり、エリクソンは喉を絞った極端なプロト・メタル・スタイルでジャニス以前にジャニス的な唱法を実践していました。この唱法はジャニスからロバート・プラントに引き継がれハード・ロックヘヴィ・メタル・ヴォーカリストの典型例となります。エリクソンは本作録音時まだ18~19歳でした。実際にはバンドのリーダーはメンバー最年長の作詞家で、エレクトリック・ジャグ担当のトミー・ホール(1943-)でした。ジャグとは広口瓶に息を吹きこんで音を出し、蓋をした手の加減で音程を変化させる手製楽器で、ホールのエレクトリック・ジャグはそれをマイクで拾い、アンプを通したものでした。音程や音質の制限からサウンド・エフェクト以上の効果はありませんが、こんな楽器の専任奏者をコミック・バンドではなく編成に加えていたのはエレベーターズくらいです。近い発想にシンセサイザーをノイズ発信機に使用していた初期ロキシー・ミュージックが'70年代に現れ、またサイケデリック・ロックロキシーからの影響が強いホークウィンドはノイズ担当奏者(ムーグ・シンセサイザーや電子発振器をサウンド・エフェクト専門に使用)が二人もいるスペース・ロック・バンドでした。その点でもエレベーターズの後継者は、やはりカルト的なヒッピー・バンドでコミューン的活動をしていたホークウィンドでしょうか。グレイトフル・デッドにはエレベーターズやホークウィンドのような狂気や陰鬱なメランコリー感覚は稀薄です。エレベーターズをジャックスになぞらえるなら、ホークウィンドに当たる日本のロック・バンドには裸のラリーズがいます。エレベーターズとジャックスはサウンド面ではそれほど似ていません。エレベーターズはアメリカならではの白人ハード・ロックですし、ジャックスは洋楽の影響を拒絶して日本のロックのオリジネイターになりました。ホークウィンドと裸のラリーズはイギリスや日本という土着性を感じさせないアシッド・ロックのバンドで、ラリーズの最大の影響源がジャックスやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ブルー・チアーなのは明らかですが(ただしラリーズ水谷孝はジャックスからの影響をはっきり否定しています)、ラリーズにはアモン・デュールIlやホークウィンド(この2バンドはメンバー交換がある)を参照した楽曲があります。ラリーズはオリジナリティの方が強いのですが、逆にラリーズがこれほど海外ロックからの明らかな影響源を示した楽曲があるのは珍しいのです。

 デッドもホークウィンドもバンドのブレインに専属作詞家がいました(プロコル・ハルムキング・クリムゾン、初期ブルー・オイスター・カルトもそうでした)。エレベーターズのトミー・ホールはバンド内作詞家で、ムーディー・ブルースならグレアム・エッジ、ブラック・サバスで言えばジーザー・バトラーに当たる、バンドのコンセプト・メイカーで実質的リーダーの作詞家でしたし、作曲家やヴォーカル担当者ではないところも似ています。ただしコンセプト・メイカーというのは重要なことで、力量あるミュージシャンでも音楽的方向性を決定するのは困難です。キング・クリムゾンがピート・シンフィールド、ブルー・オイスター・カルトがサンディー・パールマンブルース・スプリングスティーンがジョン・ランドゥといったブレインを必要としたように、多才なミュージシャンだからこそセルフ・プロデュースではなくバンド専属プロデューサーを立てる場合もあります。バンド内にコンセプト・メイカーを持つ場合でも、サウンド面では必ずしもリーダーシップを取っているとは限りません。エレベーターズの場合は最終作『ブル・オブ・ジ・ウッズ(Bull of The Wood)』(1969年9月発売)制作途中でホールもエリクソンも私生活でトラブルが相次ぎ、バンドに参加できなくなって脱落し、ギタリストのサザランドがホールとエリクソン在籍中の録音になんとか追加録音と追加曲でアルバム1枚にまとめたものでしたが(ジャックスも第2作『ジャックスの奇蹟』の半数録音でリーダーの早川が脱退してしまいます)、サウンド面ではサザランドのギターがエレベーターズの中心だったので半数が従来のエレベーターズ、半数がサザランドがリーダーになったエレベーターズと思えば聴きどころの多いアルバムです。しかしエレベーターズの魅力はホールの仕切ったうさん臭いオカルト的ムードとエリクソンのヴォーカルにあり、サザランド一人では割と普通のガレージ・パンクの域に留まります。サンディー・パールマンが実力はあるのに個性に欠けるバンドに目をつけてブルー・オイスター・カルトに変身させたのは、ドアーズやサバスに並んでエレベーターズもモデルになっていたでしょう。BOCはパールマンによって作られたバンドであり、エレベーターズやグレイトフル・デッド、ホークウィンドのような自然発生的ヒッピー・バンドではなく、バンドのキャラクター=フィクションという自意識によって後続のKISSに近い存在でした。

 エレベーターズの最高傑作は第2作『イースター・エヴリホェア(Easter Everywhere)』(1967年11月発売)という定評があり、サウンドはデビュー作より格段にタイトになっています。楽曲もパウエル・セント・ジョンに頼らず、ボブ・ディランの「ベイビー・ブルー(It's All Over Now, Baby Blue)」の素晴らしいアシッド・ロック・カヴァー以外全曲がメンバーのオリジナルになりました。ただし、傑出した曲がある一方でメンバーの作風には幅があるとは言えず、作曲力の限界も感じさせます。デビュー作『サイケデリック・サウンズ~』は演奏や録音にムラがありますが、何より楽曲が粒ぞろいで捨て曲がありません。第2作のエレベーターズはタフですがデビュー作にはナイーヴな瑞々しさがあります。唯一の全米ヒット(最高位50位)となった荒々しい「ユア・ゴナ・ミス・ミー」や「ローラー・コースター」、テレヴィジョンのライヴ・レパートリーになった「ファイア・エンジン」はガレージ・クラシックになりましたし、ガレージ・フォーク・ロックの「スプラッシュ1」や「ドント・フォール・ダウン」(エリクソンのエレベーターズ加入前のバンド、ザ・スペイズの「ウィ・セル・ソウル(We Sell Soul)」にホールが新しく作詞した曲)の抒情味も素晴らしいものです。エレベーターズはセミ・アコースティック・エレクトリック・ギターのギブソンGSを使用して同郷のZZトップら後続のバンドに大きな影響を与えましたが、演奏は不安定な面があり、「ドント・フォール・ダウン」などこのスタジオ録音はよれよれでインターナショナル・アーティスツの後輩バンド、ロスト・アンド・ファウンド(Lost and Found)の方が良いカヴァーを残しており、発掘ライヴでもこの曲や「モンキー・アイランド」など複雑なリズム処理が試されるような曲ではエレベーターズはだいたいよれよれなのですが、それでもエレベーターズならではの味があります。2010年に発掘発売されたデビュー前のデモ・テープ盤『Headstone : The Contact Sessions』(1966年1月・2月録音)はレーベルがバンドの活動休止中に無断で出したサード・アルバムの擬似ライヴ盤『Live』(1968年8月発売)のオリジナル音源ですが、本作『サイケデリック・サウンズ~』よりタイトで完成度の高い演奏が聴けるのは皮肉です。

 この『サイケデリック・サウンズ~』は登録上は1966年11月発売ですが、実際は10月中旬には市場に出回っていたのが確認されており、第2作『イースター・エヴリホェア』の初回プレス1万枚の流通中に5万枚のセールスを達成しています。テキサスの新興インディーズ第1弾アルバムとしては、これは驚異的な記録であるとともに、レーベルの意気込みもあってデビュー作の売り上げを膨大な制作費に回し、勝負をかけた第2作の売れ行き不振によりバンドの財政状態の首を絞める原因にもなりました。また、ロック史上アルバム・タイトルで初めて「サイケデリック」という用語を使用した作品として、同じ1966年11月発売のブルース・マグース(Blues Magoos)『サイケデリックロリポップ(Psychedelic Lollipop)』、ザ・ディープ(The Deep)『サイケデリック・ムーズ(Psychedelic Moods, Vol.1)』とプライオリティを分けあうアルバムでもあります。エレベーターズには発掘ライヴや未発表スタジオ録音が20枚近くありますが、公式な作品としては4枚のみ、そのうち『ライヴ』はバンドが活動休止状態に陥ったため未発表デモ録音に拍手を重ねた、レーベルの都合で発売された作品であり、ラスト・アルバムについては前述した通りギタリスト一人が残って完成させた作品なので、純粋にバンドが活動中にリリースした作品はデビュー作と第2作の2枚しかありません。ですが『サイケデリック・サウンズ~』は同年のラヴとザ・シーズ、翌1967年のモビー・グレープのデビュー作と並んで、'60年代ロックのもっとも過小評価されたデビュー作でしょう。エレベーターズの全4作はイギリスのチャーリー・レコーズから2011年に発売されたボックス・セット『The Album Collection』(4CD)にまとめられており、また全4作に発掘ライヴや未発表スタジオ録音を加えたボックス・セットには2003年発売の『The Psychedelic World of The 13th Floor Elevators』(3CD)と2009年発売の網羅的な全集『Sign of the Three Eyed Men』(10CD)があります。エレベーターズはベーシストとドラマーは流動的なバンドでしたが、ギタリストのサザランドは1978年に夫婦喧嘩から夫人に射殺されています。エリクソンは1968年以来精神病院への入退院をくり返しながらソロ活動やサザランド逝去後のエレベーターズの一時再結成ライヴを続け、アルバム印税を受け取ったのは1989年のエレベーターズへのトリビュート・アルバムが初めてだったそうですが、トミー・ホール健在とはいえ昨年5月31日のエリクソンの他界をもってエレベーターズの歴史は閉じたと言えるでしょう。オリジナル・エレベーターズの4枚しかないアルバム・リストは以下の通りです。

[ The 13th Floor Elevators Album Discography ]

1. The Psychedelic Sounds of the 13th Floor Elevators (October 17, 1966)
2. Easter Everywhere (October 25, 1967)
3. Live (August, 1968)
4. Bull of the Woods (July, 1969)

(旧稿を改題・手直ししました)

吉岡実(1919-1990)の詩から五篇

(吉岡実<大正8年=1919年生~平成2年=1990年没>20歳・50歳)
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ルイス・キャロルを探す方法

[ わがアリスへの接近 ]

三人の少女
アリス・マードック
アリス・ジェーン・ドンキン
アリス・コンスタンス・ウェストマコット
彼女らの眼は何を見ているのか?
彼方にかかる縄梯子
のびたりちぢんだりするカタツムリ
刈りとられるマーガレットの黄と白の花の庭で
彼女らの脚は囲まれている
どこからそれは筒のようにのぞくことができるのか?
「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がっていたら いうところはないんだがね」*
彼女らの心はものみなの上を
自転車で通る
チーズのチェシャ州の森
氷塊をギザギザの鋸の刃で挽く大男が好き
鞄のなかは鏡でなく
肉化された下着
歴史家の父の死体にニスをかけて
床の下の世界から
旅する渓のみどりの水をくぐる
一人の少女を捕えよ
なやましく長い髪
眠っている時は永遠の花嫁の歯のように
ときどきひらかれる
言語格子
鉛筆をなめながら
わが少女アリス・リデル
それは仮称にすぎない
〈私〉の外にいて
あらゆる少女のなかのただひとりの少女!
きみはものの上を通らずに
灰と焔の最後にきた
それでいてきみは濡れている
雨そのもの
ニラ畑へ行隠れの
鳩の羽の血
影があるようでなく
ただ見つけ出さなければならない浄福の犯罪
大理石の内面を載れ
アイリス・紅い縞・秋・アリス
リデル!

*[ ルイス・キャロル鏡の国のアリス』岡田忠軒訳より ]

(詩集『サフラン摘み』昭和51年=1976年より)

聖少女

少女こそぼくらの仮想の敵だよ!
夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる
あいまいな愛のかたち
中身は何で出来ているのか?
プラスチック
紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ
あらゆる肉のなかにある
永遠の一角獣をさがすんだ!
地下鉄に乗り
哺乳瓶を持って
ぼくら仮想の老人の遥かな白骨のアーチをくぐり
冬ごもる棲家へ
ハンス・ベルメールの人形
その球体の少女の腹部と
関節に関係をつけ
ねじるねじる
茂るススキ・かるかや
天気がよくなるにしたがって
サソリ座が出る
言葉の次に
他人殺しの弟が生まれるよ!

(詩集『神秘的な時代の詩』昭和49年=1974年より)

桃-或はヴィクトリー

水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の体力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
その動きをしばらくは見よ!
他人の痒くなっていく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
蛍光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
タツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー

(詩集『静かな家』昭和43年=1968年より)

劇のためのト書の試み

それまでは普通のサイズ
ある日ある夜から不当に家のすべての家具調度が変化する
リズムにのって 暗い月曜日の風のなかで
音楽はユーモレスク
視覚的に大きなコップ 大きな歯ブラシ
天井までとどく洋服ダンス
部屋いっぱいのテーブル
家族四人が匿れるトマト
父・洋服が大きくて波うち会社に出られず
兄・靴が大きくてラセン巻き
妹・月経帯が大きくてキララいろ
母・大きな容器の持ち運びで疲れてたおれる
父に電話がかかる
拡声器のように大きな声が父の不正な仕事をあばく
兄は女を孕ます罪をあばかれる
電話機の闇
妹は火山口のような水洗便所のふちで
恋人の名を呼ぶ
母はどうしているか 母は催眠錠の下にいる
塀の外はどうなっているのか 洗濯物で見えぬ
ある日ある朝から順調にサイズが小さくなる
小さな鏡 小さな寝台
小さなパン 観念のような
妹《わたしは飢えているわ》
兄《何があったのだろう この窓の外で
火事や地震じゃない 別の出来事が
ぼくたちの罪じゃない》
夕暮から地平の上のほろびの技術
かたむく灯
かたむく煙突
かたむく家
父母の死骸は回転している洋服ダンスの中
兄妹はレンガの上に腰かけ
雨が降っている
ふくらむスポンジの世界
兄《とにかくぬれないところ どこがあるだろう》
兄妹立ちあがる未来の形で
聞こえる?
恋するツバメの鳴き声

(『吉岡実詩集』昭和42年=1967年より、発表1962年)

静物

夜はいっそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうえで
ひそかに解体する
灯りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる

(詩集『静物』昭和30年=1955年より)


 昭和の現代詩の中で吉岡実(大正8年=1919年生~平成2年=1990年没)の詩がどれほど異彩を放っていたか、いかにすごいものだったかは、作品そのものを読んでいただければわかります。数週前に代表詩集『僧侶』(昭和33年=1958年)から表題作をご紹介しましたが、今回選んだ5篇は特に吉岡実にとっては代表作というほどでもないものです。この詩人にとってはこれがアヴェレージ作というのも念頭においてください。吉岡実にとっては特に力作でも何でもないのがこれなのです。あえて逆年順に上げましたが、まるでルイス・ブニュエルの『黄金時代』『昇天峠』のようなユーモアと悪意に満ちた悪夢的世界です。吉岡実は戦後に詩集『静物』(昭和30年=1955年)で注目され、次の詩集『僧侶』が決定的な出世作となり、晩年まで数回の作風の変化もすべて成功し、没後もますます評価が高まっている詩人です。

 吉岡実は作風の実験にも意識的で、およそ生涯に4期の変化があり、そのいずれもが成功しています。冒頭にご紹介した詩篇は1974年発表、大反響を呼び、日本での「アリス」(ルイス・キャロル)ブームの火つけ役となり、収録詩集『サフラン摘み』が刊行されるとたちまちベストセラーになり各種文学賞を受賞しました。吉岡実の作風のなかでは第三期を代表する作品です。おそらく、というか確実にこのアリス詩篇ウラジミール・ナボコフの長篇小説「ロリータ」1956から着想を得ており、ロリコンという言葉が定着したのもそれ以降のことでした。少女の名前へのフェティシズムに注目してください。「三人の少女/アリス・マードック/アリス・ジェーン・ドンキン/アリス・コンスタンス・ウェストマコット」はシェークスピアの『マクベス』の三人の予言者魔女になぞらえたものであり、これが言葉使いの魔女少女なのは実在のイギリス女流作家の名前のもじり(アイリス・マードックは言うまでもなく、「アリス・コンスタンス・ウェストマコット」はアガサ・クリスティ推理小説以外のロマンス小説での別名です)からも明白です。吉岡は同年輩の鮎川信夫(1920-1986)と共に戦後現代詩の2大潮流を創った詩人とも言え、モダニズムや兵役体験など重なる経歴もこの二人には多く、吉岡は先に戦後詩をリードしていた鮎川を敬愛し愛読していました。鮎川も吉岡の力量と若手詩人への影響力を認めていました。しかし両者の詩は、同世代でこれほどかけ離れた詩人はいないと言っていいほどです。

 ここでは逆年順に吉岡実の詩を並べ、吉岡の作風は四期(習作期除く)に及ぶと述べましたが、詩集タイトルにもなった「静物」は戦後に改めてデビューした吉岡の出発点となった静的な作風の時期の作品です。次の詩集『僧侶』からは吉岡はグロテスクなユーモアの横溢する詩に進み、「劇のためのト書の試み」「桃-或はヴィクトリー」は『僧侶』から始まった第2期の作風の頂点に達した時期のものです。吉岡は'60年代あいっぱいまでは詩に句読点も引用符も感嘆符・疑問符やダッシュなどの記号表示も使わない詩人でしたが(「劇のためのト書の試み」は引用符を使った稀な例です)、'70年代以降吉岡は逆に感嘆符・疑問符や引用を過剰なまでに多用して異様な効果を上げる詩に作風を拡張します。「聖少女」やアリス詩篇がその時期の作風を示します。吉岡は'80年代にはさらに絵文字のようなタイポグラフィーを多用して紙面自体が曼荼羅模様になるような作風に進展し、さらに長編詩化も押し進めますが、この第4期の詩は紙面自体を再現しなくては引用の意味をなさなくなるので今回はご紹介を見送りました。作風の変化と言っても吉岡実の場合は従来の手法を段階的に拡張させるような進展を見せてきたので、グロテスクで生理的(肉体的・器官的)誇張を伴ったユーモアは一貫しており、一読して吉岡実の詩とわかる言語センスは晩年まで衰えを見せませんでした。鮎川信夫吉岡実とも戦前の文学少年時代から西脇順三郎に傾倒し、生涯西脇に最大の敬意を払っていましたが、西脇順三郎から継承したものは鮎川と吉岡ではほとんど重ならない点でも、また見かけの上では西脇の詩はまったく鮎川とも吉岡とも違っていたことでも、現代詩の可能性はまだまだ開拓の余地があるのを感じさせられます。西脇順三郎吉岡実の詩は読んでいる間は他の詩人など読まなくてもいい、これ以上の詩を書く必要などないような充実感があり、他方鮎川信夫の詩はここから何かを始めなくてはと読者を焦らせるような切迫感に満ちています。それは詩の優劣ではなくて、詩にはそうした指向の広がりがあるということでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)