人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ジョン・コルトレーン John Coltrane - ソウルトレーン Soultrane (Prestige, 1958)

ジョン・コルトレーン - ソウルトレーン (Prestige, 1958)

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ジョン・コルトレーン John Coltrane - ソウルトレーン Soultrane (Prestige, 1958) Full Album : https://youtu.be/Yww2SCXmtE8
Recorded at The Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, February 7, 1958
Released by Prestige Records PRLP-7142, Mid October 1958

(Side A)

A1. Good Bait (Tadd Dameron) - 12:08
A2. I Want to Talk About You (Billy Eckstine) - 10:53

(Side B)

B1. You Say You Care (Leo Robin, Jule Styne) - 6:16
B2. Theme for Ernie (Fred Lacey) - 4:57
B3. Russian Lullaby (Irving Berlin) - 5:33

[ Personnel ]

John Coltrane - tenor saxophone
Red Garland - piano
Paul Chambers - bass
Art Taylor - drums

(Original Prestige "Soultrane" LP Liner Cover & Side A Label)

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 ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノサックス・1926-1967)が1957年の初アルバムから没年の遺作まで、足かけ11年・正味10年間に残したアルバムは、没後発表になった作品を含めて生前のコルトレーンの意志によるアルバムだけで45枚あまりあり、共同リーダー作やジャムセッション作、他のジャズマンの作品への参加作、さらにラジオ放送音源などの正式なライヴ音源の発掘を加えると10年間の間にさらに100枚あまりのアルバムを数えることができます。おおよそレーベル別でリーダー作の数を分けると、

・プレスティッジ時代(1957年-1958年) - 12枚(+ブルー・ノート1枚、サヴォイ2枚)
・アトランティック時代(1959年-1961年) - 8枚
・インパルス時代(1962年-1967年) - 32枚(うち17枚没後発表、2LP『Live in Seattle』、6LP『Concert in Japan』などは1枚と数える)

 と、とんでもない回数の録音を残しています。インパルス時代などは多くても年間3枚の適正な発売ペースに創作意欲が待ちきれず、1965年などは月間1枚のペースでアルバムを制作し、生前発表はそのうち3枚だけになりました。これだけの録音を残せたのはコルトレーンが実力者だっただけではなく、レコード会社が作りたいだけアルバム制作させてもいずれ制作ペースが落ちた時に未発表アルバムを出しても必ず売れるほどの人気アーティストだったからでもあります。

 マイルス・デイヴィスのバンドから独立したコルトレーンはたちまち若手黒人ジャズマンのヒーロー的存在となり、マイルスをしのいで黒人ジャズの未来を背負って立つカリスマとなりました。コルトレーンとも共演経験のあるベーシストのレジー・ワークマンによれば、年に2枚~3枚発売されるコルトレーンの新作は'60年代の黒人ジャズマンにとって単なるレコードを越えた「The Book」(「聖書」「教典」に近いニュアンス)として熱心に聴かれ、論議され、コピーされていたといいます。日本のジャズ・リスナーにも同様で、コルトレーンの名はマイルス・デイヴィスセロニアス・モンクと並んでモダン・ジャズの代名詞となり、大衆的人気はアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズホレス・シルヴァーらが高かったものの、チャールズ・ミンガスコルトレーンには黒人ジャズの反逆的な思想性とインテリジェンスがあるものと見なされました。その反動で1980年代~90年代にはジャズ喫茶では「コルトレーンとミンガスのリクエストお断り」というお店も多かったくらい、ミンガスと並ぶコルトレーンのカリスマ人気は高いものでした。またミンガスとコルトレーンはおたがいの音楽を嫌いあっており、共演経験が一切ないのも面白い現象でした。

 これだけアルバムがあると、ジャズの品揃えの良いCDショップや大型輸入・中古CDショップにはジョン・コルトレーンのコーナーには100種類以上ものアルバムが並んでいるのも珍しくありません。筆者が初めて聴いたコルトレーンのアルバムはユナイテッド・アーティスツ盤『Coltrane Time』で、初めて買ったのはヒストリック・パフォーマンス盤のラジオ放送音源ライヴでしたが、内容はエリック・ドルフィー参加時期の素晴らしいもので、それも目当てだったものの本来ラジオ用放送音源を最初に買うには不適当でしょう。『Coltrane Time』は音楽の先生にカセット・テープに録音してもらったものでしたがこれも実はコルトレーンのアルバムではなくて、セシル・テイラー(ピアノ・1929-2018)の『Hard Drivin' Jazz』というコルトレーン参加のアルバムが廃盤になった後、コルトレーンの人気に当て込んでコルトレーンのアルバムとして改題して再発売されたものでした。そこで復習と参考のために正式なコルトレーンのアルバムをレコード会社順と発売順にまとめてみました。

●Prestige Records Era (1957-1958)
・1957-Late; Coltrane (rec.1957-05-31)
・1958-02; Blue Trane (rec.1957-09-15)*Blue Note Records
・1958-03; John Coltrane with the Red Garland Trio / Traneing In (co-leader) (rec.1957-08-23)
・1958-Summer; Tanganyika Strut (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-05-13, 1958-06-24)*Savoy Records
・1958-10; Soultrane (rec.1958-02-07)
(Released after Prestige Era Albums)
・1959-02; Jazz Way Out (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-06-24)*Savoy Records
・1961-03; Lush Life (rec.1957-05-31, 1957-08-16, 1958-01-10)
・1961-12; Settin' the Pace (rec.1958-03-26)
・1962-10; Standard Coltrane (rec.1958-07-11)
・1963-03; Kenny Burrell & John Coltrane (co-leader) (rec.1958-03-07)
・1963-09; Stardust (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
・1964-04; The Believer (rec.1957-12-20, 1958-01-10, 1958-12-26)
・1964-08; Black Pearls (rec.1958-05-23)
・1965-05; Bahia (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
・1966-01; The Last Trane (rec.1957-08-16, 1958-01-10, 1958-03-26)

●Atlantic Records Era (1959-1961)
・1960-01; Giant Steps (rec.1959-05-04, 1959-05-05, 1959-12-02)
・1961-02; Coltrane Jazz (rec.1959-11-24, 1959-12-02, 1960-10-02)
・1961-03; My Favorite Things (rec.1960-10-21, 1960-10-24, 1960-10-26 )
・1961-12; Milt Jackson - Bags & Trane (co-leader) (rec.1959-01-15)
・1962-02; Ole Coltrane (rec.1961-05-25 )
(Released after Atlantic Era Albums)
・1962-07; Coltrane Plays the Blues (rec.1960-10-24)
・1964-06; Coltrane's Sound (rec.1960-10-24, 1960-10-26)
・1966-00; The Avant-Garde (co-leader with Don Cherry) (rec.1960-06-28, 1960-07-08)
・1975-03; Alternate Takes (Various Atlantic Sessions Outtakes)

●Impulse! Records Era (1961-1967)
・1961-11; Africa/Brass (rec.1961-05-23, 1961-06-07)
・1962-03; Live! at the Village Vanguard (rec.1961-11-02, 1961-11-03)
・1962-08; Coltrane (rec.1962-04-11, 1962-06-19, 1962-06-20, 1962-06-29)
・1963-01; Ballads (rec.1961-12-21, 1962-09-18, 1962-11-13)
・1963-02; Duke Ellington & John Coltrane (co-leader) (rec.1962-09-26 )
・1963-07; Impressions (rec.1961-11-05, 1962-09-18, 1963-04-29)
・1963-07; John Coltrane and Johnny Hartman (co-leader) (rec.1963-03-07 )
・1964-04; Live at Birdland (rec.1963-10-08, 1963-11-18)
・1964-07; Crescent (rec.1964-04-27, 1964-06-01)
・1965-02; A Love Supreme (rec.1964-12-09 )
・1965-07; New Thing at Newport (split LP with Archie Shepp) (rec.1965-07-02)
・1965-08; The John Coltrane Quartet Plays (rec.1965-02-18, 1965-05-17)
・1966-02; Ascension (rec.1965-06-28 )
・1966-09; Meditations (rec.1965-11-23)
・1966-12; Live at the Village Vanguard Again! (rec.1966-05-28)
・1967-01; Kulu Se Mama (rec.1965-06-10, 1965-06-16, 1965-10-14)
・1967-09; Expression (rec.1967-02-15, 1967-03-07)
(Posthumous recordings)
・1968-01; Om (rec.1965-10-01)
・1968-Late; Cosmic Music (with Alice Coltrane) (rec.1966-02-02, 1968-01-29 )
・1969-00; Selflessness: Featuring My Favorite Things (rec.1963-07-07, 1965-10-14)
・1970-07; Transition (rec.1965-05-26, 1965-06-10)
・1971-00; Sun Ship (rec.1965-08-26 )
・1971-00; Live in Seattle (rec.1965-09-30)
・1972-07; Infinity (rec.1965-06-16, 1965-09-22, 1966-02-02)
・1973-00; Concert in Japan (rec.1966-07-22 )
・1974-09; Interstellar Space (rec.1967-02-22)
・1974-00; The Africa/Brass Sessions, Volume 2 (rec.1961-05-23, 1961-06-04)
・1977-5; Afro Blue Impressions (rec.1963-10-22, 1963-11-02 ) *Pablo Records
・1977-12; First Meditations (for quartet) (rec.1965-09-02)
・1979-00; The Paris Concert (rec.1962-11-00 )
・1980-00; The European Tour (rec.1962-11-00)
・1981-00; Bye Bye Blackbird (rec.1962 -Late Fall)*Pablo Records
・1995-10; Stellar Regions (rec.1967-02-15)
・1998-03; Living Space (rec.1965-06-10, 1965-06-16)
・2005-10; Live at the Half Note: One Down, One Up (rec.1965-03-26, 1965-05-07)
・2001-00; The Olatunji Concert: The Last Live Recording (rec.1967-04-23 )
・2014-09; Offering: Live at Temple University (rec.1966-11-11)
・2018-6-29; Both Directions At Once: The Lost Album (rec.1963-3-6)
・2019-9-27; Blue World (rec.1964-6-24)

 以上はコルトレーン名義の正式アルバムをリストにしたので、マイルス・デイヴィスのバンドメンバーとして参加したマイルスのアルバム、セロニアス・モンクのバンドメンバーとして参加したモンクのアルバムの他、他のジャズマンがコルトレーンをフィーチャリング・ソロイストとして迎えた多くのアルバムは含まれていません。コルトレーンはプレスティッジ時代はマイルスのバンドメンバーの傍らソロ名義のアルバムを制作していましたが、マイルスのバンドから独立してアトランティック専属になった1959年を境にゲスト参加は激減しますので、プレスティッジ時代を初期、アトランティックを中期、インパルス時代は長いのでインパルス時代だけでも3期に分けてインパルス初期(1961年~1963年)、インパルス中期(1964年~1965年)、インパルス後期(1966年~1967年)とした方がいいくらいですが、プレスティッジ、アトランティック、インパルスを通じて在籍期間に制作即発売するには多すぎるくらいの多作家だったのがリストからもわかります。プレスティッジ時代には12枚の自作アルバムを残しましたが、平行してほぼ20枚あまりもの他のアーティストのアルバムに参加しています。コルトレーンをジャズ史の巨人にしたのは凄まじい生産量によって蓄積した語法の過剰さでもありました。'60年代のポピュラー音楽はコルトレーンジョン・レノンの二人のジョンが担ったと言ってよく、ロック・ミュージシャンにとってビートルズの全アルバムが必聴のようにジャズ・ミュージシャンにとってはコルトレーンの全アルバムが必聴となっています。

 先にアトランティック時代のヒット作『My Favorite Things』1961やコルトレーンの初アルバム『Coltrane』1957を紹介しましたが、5年のうちにコルトレーンの作風は一変しています。『My Favorite Things』は初アルバムから5年目にしてすでに18枚目のアルバムになり(当時よくあることながら、コルトレーンの場合も同一セッションから複数アルバムを多産しているので数え方で異なりますが)、『My Favorite Things』すら歿年までに45枚あまりのアルバムを残したコルトレーン全アルバムの半ばにも達していないので、コルトレーン10年間の作風の変化はチャールズ・ミンガスの、やはり1956年~1965年の10年間に録音された約30枚の傑作群と較べても異彩を放つものでした。ベーシストであり作編曲家であるミンガスでは作風の深化として順次変化して跡をたどることができますが、アトランティック時代以降、特にインパルス以降に作曲家として開花したコルトレーンの場合は本来のインプロヴァイザー指向とせめぎあって、作曲と演奏に軋みが生じ始めています。それはスタンダード曲の解釈でも言えて、アトランティック時代に作曲家としてもスタンダード演奏でもバランスのとれたアーティストだったコルトレーンは、アルバム制作の全権を手にしたインパルス以降では作曲に対して演奏が過剰か、演奏に対して作編曲が過剰になるか徐々にバランスを崩して行っています。急逝する前年の日本公演のライヴ盤では全6曲240分、1曲平均40分という極端な演奏の長大化が進んでいます。全アルバムが45枚強、10年間だと年平均5枚近いアーティストでは、少なくとも各年で2~3枚ずつは聴かないと全体像が見えてきません。マイルスのように時期ごとのコンセプトが明快なアーティストか、モンクのようにあまり変化を求めないか、サン・ラやミンガスのような作編曲家タイプのバンドリーダーとは、コルトレーンは明らかに異質なアーティストでした。

 プレスティッジ時代のコルトレーンは初アルバムこそレーベルも凝ったプロダクションを許して大プッシュし、コルトレーンも全力を尽くしていましたが、プレスティッジの契約はアーティストの収益に不利でオリジナル曲の権利もレーベルが買い取るものでした。コルトレーンはブルー・ノート・レコーズにワンポイント契約した『Blue Trane』では全5曲中4曲オリジナル、トランペットとトロンボーンの3管アレンジも手がけたしたが、プレスティッジでは以後契約満了までオリジナルもアレンジも提供せずにアルバム制作を続けました。プレスティッジの方針は「良いリテイクより少しでも曲を多く」でしたので、1日のセッションから制作されたアルバムが本来のアルバム構想だったでしょう。余った曲を組合せて作ったアルバムは(初期セッションから統一感のある選曲がされた『Lush Life』は例外的ですが)だいたい寄せ集めの拾遺アルバムになっています。そうした事情から1セッションでアルバム1枚が制作された『Traneing In』『Kenny Burrell & John Coltrane』『Settin' the Pace』『Black Pearls』『Standard Coltrane』などが統一感の優れたアルバムですが、コルトレーンの場合ワンホーンが良く、プレスティッジではマイルス・デイヴィスのバンドの同僚でもあるレッド・ガーランド(ピアノ)がやはりマイルス・クインテットポール・チェンバース(ベース)と、マイルス・クインテットフィリー・ジョー・ジョーンズに代わってチェンバースの友人アート・テイラー(ドラムス)が常連ピアノ・トリオでした。ガーランドもチェンバースも優れたジャズマンですが、ガーランド・トリオとの共演では先輩ガーランドの仕切りが強く、奔放なフィリー・ジョーと几帳面なテイラーの違いが大きく感じられもします。

 プレスティッジ時代のアルバムでは最高の出来と定評のあるカルテット・アルバムの本作の録音はB3、B2、B1、A1、A2の順で行われています。スローなピアノ・トリオのテーマ演奏からコルトレーンの急速調のアドリブになだれこむB3はコルトレーン自身が更新するまで当時最速のテナーサックス演奏でした。B2はこの録音の2か月前に急逝したアーニー・ヘンリー(アルトサックス・1926-1957)への追悼曲で、テナーサックスはテーマのみを丁寧に歌い上げる名演です。B1はアイラ・ギトラーのライナーノーツによるとジャズ・ヴァージョンはこれが初になると指摘されています。ちなみにコルトレーンの高速演奏を「Sheets of Sound」と呼んだのもこのアルバムのギトラーのライナーノーツが嚆矢になるそうです。A1はビ・バップの名バンドリーダー、タッド・ダメロン(バンドにはアーニー・ヘンリーも在籍していました。コルトレーンもダメロン1956年11月のアルバム『Mating Call』に参加しています)と前世代の偉大なバンドリーダー、カウント・ベイシーの共作で、コルトレーンが在籍していたディジー・ガレスピーのバンドのレパートリーでした。コルトレーンとしてはリラックスした演奏ながらライヴァルのソニー・ロリンズの天衣無縫さとは異なる隙のないアドリブ・フレーズの巧さが堪能できます。A2は'60年代のインパルス中期までライヴの重要レパートリーになるバラードで、「黒いシナトラ」と呼ばれた黒人ヴォーカルの大物ビリー・エクスタイン(1914-1993)の代表的オリジナル・バラードです。このアルバムの録音された1958年2月の時点でコルトレーンはすでにアトランテックに移籍後の翌1959年5月録音の『Giant Steps』に足をかけています。ただしここではレッド・ガーランド・トリオがアルバムをハード・バップにとどめていて、もしピアノがウィントン・ケリー、ドラムスがフィリー・ジョーだったらソニー・ロリンズの『ニュークス・タイム』1959.3(1957年9月録音)に匹敵する激烈なアルバムになったでしょう。ですがプレスティッジではこれがコルトレーンのなし得るベストで、コルトレーンのアルバム中でもいかにもモダン・ジャズらしい、教典めいた重さにならない親しみやすい名盤というと、本作が屈指の作品に上げられます。

土井晩翠「荒城の月」(明治31年=1898年作)

土井晩翠明治4年(1871年)生~昭和27年(1952年)没
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「荒城の月」

 土井晩翠

明治卅一年頃東京音樂學校の需に應じて作れるもの、作曲者は今も惜まるる秀才瀧廉太郎君

春高樓の花の宴
めぐる盃(さかづき)影さして
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいづこ。

秋陣營の霜の色
鳴き行く雁(かり)の數見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。

いま荒城のよはの月
變らぬ光たがためぞ
垣(かき)に殘るはただかづら
松に歌ふはただあらし。

天上影は變らねど
榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ
あゝ荒城の夜半の月。

(明治31年=1898年作、発表・明治34年=1901年『中学唱歌集』)


 仙台生まれの英文学者の詩人・土井晩翠(明治4年1871年12月5日生~昭和27年=1952年10月19日没)は明治32年(1899年)4月・博文館刊の第1詩集『天地有情』によってすでに第1詩集『若菜集』(明治30年=1897年8月刊)、第2詩集『一葉集』(明治31年=1898年6月刊)、第3詩集『夏草』(明治31年12月刊)で当時の日本の詩の第一人者とされていた島崎藤村(1872-1943)に並ぶ名声を獲得しましたが、東京帝国大学で本格的に英文学とヨーロッパの古典文学を学び、高等学校英語教員(のちにイギリスへの留学を経て東京帝国大学二高英文学科教授)だった晩翠の詩は和漢洋の古典の教養とともにホメーロス、ダンテ、シェークスピア、ミルトンらの古典的な叙事詩を日本の詩に移植しようとしたもので、『天地有情』や第2詩集『暁鐘』(明治34年=1901年5月刊)でも史実に基づいた長編叙事詩が大半を占め、より若い蒲原有明薄田泣菫・伊良子清白らによる長編叙事詩の試作へも大きな影響を与えましたが、イギリス留学を経て二高英文学科教授就任後の第3詩集『東海遊子吟』(明治39年1906年6月刊)の頃にはより洗練された作風に向かっていた有明・泣菫らに較べて時代錯誤的な大仰さが目立ち、大正8年(1919年)5月の第4詩集『曙光』の刊行直後には全詩集『晩翠詩集』をまとめており、以降第5詩集『天馬の道に』(大正9年1920年4月刊)、第6詩集『アジアに叫ぶ』(昭和7年=1932年8月刊)、第7詩集『神風』(昭和12年=1937年6月刊)がありますが、昭和5年(1930()6月刊行の岩波文庫の自選詩集『晩翠詩抄』に精髄は尽きていると言ってよいでしょう。晩翠は教授職を定年退職した60代以降ホメーロスの『オデュッセイア』と『イーリアス』の全訳をライフワークとしましたが、『雨の降る日は天気が悪い』を始めとするエッセイ集も面白いもので(同時期にイギリス留学していた夏目漱石は晩翠にスパイされている妄想を抱いており没後の全集収録の日記・書簡で公刊されましたが、漱石の根も葉もない妄想に困惑して弁明するエッセイなど晩翠の健康な精神を示す必読の面白さに満ちています)、詩集でも晩翠が意欲的に取り組んでいた長編叙事詩よりも小品の抒情詩に今なお薄れない感動があります。特に東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱されて「荒城月」として作詞され、一般公募から瀧廉太郎の曲が採用されて明治34年(1901年)に『中学唱歌集』に発表された「荒城の月」は、初版本の『天地有情』には未収録ながら岩波文庫版『晩翠詩抄』からは『天地有情』期の作品として詩集に追加され(詩篇への詞書きはその際に付けられたらものです)、瀧廉太郎の作曲とあいまって明治時代の詩作品としては屈指の知名度を誇る名作です。唱歌を意識して難解な隠喩や古典詩からの引喩を排し、七五調の単調な韻律ながら鮮やかなイメージによって韻律の単調さを感じさせず、ほとんど超時代的な情緒への訴求力によって島崎藤村の第4詩集『落梅集』(明治34年8月刊)の「千曲川旅情の歌」に収録された「小諸なる古城のほとり」や「千曲川のほとりにて」、また伊良子清白の明治38年(1905年)の詩篇「漂泊」(詩集『孔雀船』明治39年1906年刊収録)に匹敵する普遍的な感動を呼びさます詩篇となっています。

 この詩を歌曲化した夭逝の作曲家・瀧廉太郎(1879-1903)による作曲も本格的な西洋音楽法によりながらペンタトニック・マイナー・スケールを基にした和洋折衷の粋を極めたもので、瀧廉太郎の作曲によってこの詩は歌詞・曲とともに格調の高い日本を代表する歌曲として国内外を問わず広く愛されているのは言うまでもありません。そこで興味深いのは瀧廉太郎による作曲はニ短調(Dマイナー)の調性によるものなのですが、「春高樓の花の宴」の「はなのえん」のメロディーに当たる「ソソミレミ」の「え」=レの音は正式な西洋音楽法での二短調の和声的音階・旋律的音階では移動ドの場合レの♯になり、「えん」はレ♯~ミと半音程になります。瀧廉太郎の原曲ではこの曲はそうした正式な西洋音楽の楽理による和声的短音階によって記譜されています。しかし口承歌としてはこの曲はしばしばレに♯がつかず、すべてナチュラルのドレミソラド、またはシミソラドレと並ぶ民族音楽的ペンタトニック音階(五音音階)から「はなのえん」は全音程になるナチュラルのソソミレミとして歌われることが多いのです。ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクは1965年録音のアルバム『Straight No Chaser』でこの曲を「Japanese Folk Song」として録音し(モンクは1963年に来日公演を行っており、その際この曲を知ったと思われます)、ペンタトニック音階によって「えん」の箇所をナチュラルのレ~ミの全音程で演奏・録音しています。一方ドイツのロック・バンド、スコーピオンズは1978年の来日公演からのライヴ・アルバム『蠍団爆発!~トーキョー・テープス』にこの曲の来日公演でのライヴ演奏を収めていますが、ヴォーカルのクラウスは「花の宴」の「えん」をレ♯~ミの半音程で歌い、日本人観客が「えん」をナチュラルのレ~ミの全音程で合唱しているのと対照を来す現象がレコード化されています。おそらくモンクは日本人関係者から教わった口承旋律通りに演奏し、和声的短音階ではない「えん」のナチュラルのレ~ミの全音程からブルースに共通したペンタトニック音階による民謡(フォーク・ソング)性を感じてカヴァーしたと思われ、他方スコーピオンズは瀧廉太郎による原譜をきちんと参照して西洋音階法による和声的・旋律的短音階で演奏・歌唱するも、日本人観客に口承されている旋律はペンタトニック音階だったのでクラウスの歌う旋律と観客の合唱に齟齬が生じたと考えられます。以上、筆者は音楽理論普通科高校の音楽授業の楽典止まりの独学者ですので不正確な分析でしたら陳謝しますが、作者不詳の伝承民謡として演奏したセロニアス・モンクにしても、日本の生んだ洋楽として瀧廉太郎の原譜通りに忠実に演奏・歌唱したスコーピオンズにしてもどちらも解釈には正統的な根拠があり、「荒城の月」という名曲が土井晩翠の原詩、瀧廉太郎の作曲とも明治期の歌曲として不朽の作品であるとともに、西洋文化の咀嚼に十分成功しながらも日本ならではの土着的感覚を同時に備えたものだったのは興味が尽きない現象で、そうした和洋の揺らぎこそがおそらくさりげない小品抒情詩でしかないような「荒城の月」を詩としても名作、歌曲としても名曲にしており、イメージの豊さ・ふくらみをもたらしているように思えます。

カン Can - アンリミテッド・エディション Unlimited Edition (Virgin/Caloline, 1976)

カン - アンリミテッド・エディション (Virgin/Caloline, 1976)

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カン Can - アンリミテッド・エディション Unlimited Edition (Virgin/Caloline, 1976) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLIXxtqDI5Txg30V2UWlf5FUMZ68THw8rK
Released by Virgin Records Caloline CAD3001, 1976
Disc 1(Side A & B) also previously released as "Limited Edition" (Harvest USP103, 1974)
All songs written and composed by Can.

(Side A)

A1. Gomorrha (December 73) - 5:41
A2. Doko E (August 73) - 2:26
A3. LH 702 (Nairobi/Munchen) (March 72) - 2:11
A4. I'm Too Leise (March 72) - 5:10
A5. Musette (January 70) - 2:08
A6. Blue Bag (Inside Paper) (October 70) - 1:16

(Side B)

B1. E.F.S.(Ethnological Forgery Series) No. 27 (December 70) - 1:47
B2. TV Spot (April 71) - 3:02
B3. E.F.S. No. 7 (September 68) - 1:05
B4. The Empress and the Ukraine King (January 69) - 4:40
B5. E.F.S. No. 10 (January 69) - 2:01
B6. Mother Upduff (May 69) - 4:28
B7. E.F.S. No. 36 (May 74) - 1:55

(Side C)

C1. Cutaway (March 69) - 18:49
C2. Connection (March 69) - 2:20

(Side D)

D1. Fall of Another Year (August 69) - 3:20
D2. E.F.S. No. 8 (November 68) - 1:37
D3. Transcendental Express (July 75) - 4:37
D4. Ibis (September 74) - 9:19

[ Can ]

Holger Czukay - bass guitar, tape effects
Michael Karoli - guitar, violin, shehnai on track A3
Jaki Liebezeit - drums, percussion, winds on tracks A4, B3, B5, D1
Irmin Schmidt - keyboards, synthesizer, schizophone on track B4
Damo Suzuki - vocals on tracks A2, A4, A6, B1, B2
Malcolm Mooney - vocals on tracks B4, B6, C2, D1

(Original Harvest "Limited Edition" LP Front Cover & Original Virgin/Caloline "Unlimited Edition" Liner Cover)

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 カンのLP2枚組アウトテイク集『Unlimited Edition』はバンドがヴァージン・レコーズ移籍後の1976年5月に発売されましたが、ディスク1(AB面)はユナイテッド・アーティスツ契約最終作『Soon Over Babaluma』1974.11とほぼ同時に『Limited Edition』として、タイトル通りの限定盤として既発売されていたものでした。アウトテイク集ですから未完成の習作も含まれますし、これまでのアルバムには収録洩れになっていた未発表曲集で廉価版の限定発売でしたがご覧の通りジャケットも見事なものであり、本格的なアルバムとして発売されたものです。普通そういうものは不出来か失敗作か、時流に合わないという理由から筐底に秘匿されたものが多いのですが、カンはその点でも規格外のバンドでした。これまでのアルバムには統一感の上で未収録にはなっていたものの、楽曲単位で集めてみればカンの作品として既発表アルバムの収録曲に見劣りしないばかりか、カンとしては従来のアルバムには収録されなかったタイプの曲がこれでもかというくらい収められています。『Monster Movie』1969から『Soon Over Babaluma』1974にいたるカンの6枚のアルバムを聴いたリスナーにはこれほど面白いアウトテイク・コレクションはありません。

 ただし入門編としてはあまりに多彩な楽曲が詰め込まれているので、せめて2、3枚レギュラー・アルバムを聴いてバンドについてまとまったイメージをつかんでからでないと、この多彩なアウトテイク集の面白さも単なる散漫さと聴こえてしまうかもしれません。曲ごとに録音年月の記載がありますが、カンは1968年5月結成、夏からマルコム・ムーニーがヴォーカルで参加し、1969年いっぱいで脱退しています。1970年初頭からダモ鈴木をヴォーカルに迎え、ダモは1974年8月いっぱいで脱退。本作の時点では創立メンバー4人で活動を再開していました。ヴォーカル入りのクレジットのある曲が全19曲中9曲しかありませんが、実際はインストルメンタル曲でもマルコムやダモの声が聴こえます。C1は記載通りの録音時期として前半ではマルコムの声が聴こえますが、後半はダモのヴォーカリゼーションになりますからクレジットを鵜呑みにはできません。ちなみにC1は『Soon Over Babaluma』収録曲「Dizzy Dizzy」の初期ヴァージョンと言えるセッション曲です。D4はCDではアルバムを1CDに収めるために5:00に短縮されていますが、やはり「Dizzy Dizzy」の別テイクになります。他にもA4を始めとしてヴァイオリンが聴こえる曲があり、これはミヒャエル・カローリが弾いていると思われます。

 このアルバムから聴いてしまった人が楽曲単位で気に入って、似た傾向のカンのレギュラー・アルバムに進むという手もあるでしょう。マルコムのヴォーカル曲B4、B6、C2、D1はコンパクトなカンの曲では最強のロック・ナンバーで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド色が濃いB6、C2も決まっていますが変態ジャズ・ボッサ曲のB4やD1のポップ・センスと絶妙な演奏はムーニー参加の『Monster Movie』『Soundtracks』にも劣りません。後にカンが一時的に再結成し、マルコムを再びヴォーカルに迎えたアルバム『Rite Time』1989が変態ポップ路線の佳作になったのはこうした下地があったからだったのがわかります。また、本作未収録でマルコム時代のヴォーカル入り未発表曲だけを集めたり『Delay 1968』1981がカン解散後に発売されますが、これはヴェルヴェット系のヘヴィな曲で統一されたものでした。それほどマルコム時代の未発表曲は豊富だったようですが、ダモ時代はコンパクトな楽曲単位より長時間即興演奏の比重が高まっていたようで、ここに収録されたA2、A4、A6、B1、B2は楽曲というより即興演奏にヴォーカリゼーションを乗せたものとなっており、断片的な編集になっていますからマルコム時代の未発表曲に対して不利な面は否めません。

 ダモ時代のアルバムにもコンパクトな名曲はいくつも上げられますが、アレンジと編集の両面で決定ヴァージョンができた時点で楽曲化したとも言えて、本作収録のテイクではまだ焦点が定まっていない段階の印象を受けます。顕著なのは、アルバム収録では2分26秒ヴァージョンに抜粋されているA2「Doko E」でしょう。この日本語ラップ曲は36分36秒の未編集テイクが海賊盤で流通しており、未編集版の15分12秒からの2分26秒がアルバムに抜粋収録されています。「公害の町で~す、どこへ逃げましょう~」と歌いだしているところからで、確かにこの部分を抜粋したセンスは鋭いものです。この曲は軽いレゲエから始まり、抜粋箇所前後でリズム・パターンが変化して、後半はヘヴィ・ロックに展開していきます。丁寧に編集して展開を圧縮して半分にしてもアルバム片面、18分近い長さになると思われますが、それほどの曲ではないと判断されたか、どっちみち録音後すぐにダモが脱退してしまったので編集のためのオーヴァーダビングを施せずレギュラー・アルバム採用曲の候補にしようがなかった事情がうかがえます。この曲は公害と水俣病、漁業汚染問題を日本語ラップで歌っていますが、読経から能楽もどきに変化するB1では日本語で「いつも~のように~えるえすでぃ~」と歌っています。どちらも日本のロック・バンドが当時の日本のレコード会社では歌えなかった内容でしょう。

 アルバム冒頭の「Gomorrha」(通常はGomorrahと綴ります)はテレビ番組主題曲らしく、イルミン・シュミットを中心にカンは多くの映画・テレビ用音楽を手がけていましたが、ダモ脱退後に専任ヴォーカリスト不在でバンドを立て直したカンの方向性がよく出ている楽曲です。また、このアルバムには「E.F.S.」と題された、楽曲というより断片的なサウンド実験が6曲収められ、また一応曲名がついていてもA3「LH 702 (Nairobi/Munchen)」などは同様の趣向のサウンド断片で、大作C1も大半の部分はサウンド実験が占めています。これはマルコム時代・ダモ時代・ダモ脱退後にも一貫して続けられており、フリーなセッションによるサウンド実験から楽曲の着想を得て楽曲化していくカンの手法を種明かしするものとなっています。E.F.S.とはEthnological Foggery Series(擬似民族音楽シリーズ)の略称で、あえて類型的な民族音楽の模倣作品を制作することでうさんくさい音楽のコツをカンなりの解釈で会得する手段になっており、例えば前述のB1では雅楽もどき、B7はラグタイム・ジャズもどきでD2はロシア民謡の偽物をカンなりにやっています。それがこのアルバムでより楽曲性の高い「The Empress and the Ukraine King」や偽レゲエの「Doko E」、『Soundtracks』の偽サンバ「Don't Turn the Light on, Leave Me Alone」、『Tago Mago』の偽ファンク「Halleluhwah」や『Ege Bamyasi』の偽ボサ・ノヴァ「One More Night」、やはり偽ボサ・ノヴァの『Future Days』タイトル曲や『Soon Over Babaluma』の偽タンゴ「Come Sta, La Luna」のような、類型的な音楽パターンを過剰に踏襲して異常な音楽を作る手法の基礎となっています。

 そうしたカンの発想がよくわかるのも『Unlimited Edition』の面白さになっており、アルバムの半分は未発表曲のうちの完成品、もう半分は素材集というバランスもとれています。カンが後に発表したアウトテイク集・未発表録音には『Delay 1968』1981、『Can Live』1999、『The Lost Tapes』2012がありますが、バンド解散後のリリースでもあり、マルコム時代に絞った『Delay 1968』はまだしも『Can Live』も『The Lost Tapes』もコンセプトの稀薄な寄せ集めにすぎる内容に終わっています。寄せ集めではあるにせよ、バンド存続中のリリースだった『Unlimited Edition』が寄せ集めの意図が明快な、しっかりとしたコンセプトを持った作品になっているのとは対照的です。2枚組アルバムとしての発売は『Landed』1975の後になりましたが、本作は『Soon Over Babaluma』に続く第7作として、カン黄金時代の掉尾を飾るだけの内容を備えているアルバムです。このアルバムがあるのとないとでは、リスナーが感じる初期~中期のカンの全体像はだいぶ変わってしまうと思われるほどです。

蒲原有明「朝なり」(詩集『春鳥集』明治38年=1905年より)

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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「朝なり」

 蒲原有明

朝なり、やがて濁川(にごりかは)
ぬるくにほひて、夜の胞(え)を
ながすに似たり。しら壁に――
いちばの河岸(かし)の並み藏の――
朝なり、濕める川の靄。

川の面(も)すでに融けて、しろく、
たゆたにゆらぐ壁のかげ、
あかりぬ、暗きみなぞこも。――
大川がよひさす潮の
ちからさかおすにごりみづ。

流るゝよ、ああ、瓜の皮、
核子(さなご)、塵わら。――さかみづき
いきふきむすか、靄はまた
をりをりふかき香をとざし、
消えては青く朽ちゆけり。

こは泥(ひぢ)ばめる橋ばしら
水ぎはほそり、こはふたり、――
花か、草びら、――歌女(うたひめ)の
あせしすがたや、きしきしと
わたれば嘆く橋の板。

いまはのいぶきいとせめて、
饐(す)えてなよめく泥がはの
靄はあしたのおくつきに
冷えつつゆきぬ。――鴎鳥(かもめどり)
あげしほ趁(お)ひて、はや食(あさ)る。

濁れど水はくちばみの
あやにうごめき、緑練り、
瑠璃の端(は)ひかり、碧(あを)よどみ、
かくてくれなゐ、――はしためは
たてり、揚場(あげば)に――女(め)の帶や。

青ものぐるま、いくつ、――はた、
かせぎの人ら、――ものごひの
空手(むなで)、――荷足(にたり)のたぶたぶや、
艫(とも)に竿おし、舵とりて、
舳(へ)に歌を曳く船をとこ。

朝なり、影は色めきて、
かくて日もさせにごり川、――
朝なり、すでにかがやきぬ、
市ばの河岸(かし)の並みぐらの
白壁(しらかべ)――これやわが胸か。

(詩集『春鳥集』より)


 蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)の第3詩集『春鳥集』は明治38年(1905年)7月に本郷書院より刊行されましたが、同詩集収録の「朝なり」は明治38年1月に与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」に掲載され、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』から明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、薄田泣菫の第4詩集『白羊宮』と並んで明治新体詩の最高峰と名高い明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』、また新作詩集を含む大正11年(1922年)6月刊の全詩集『有明詩集』に至るまでの有明作品中、雑誌発表時からもっとも大きな反響を呼んだものです。有明明治30年代~40年代を代表する詩人として島崎藤村土井晩翠薄田泣菫、伊良子清白に並ぶ詩人ですが、明治期にあっては日本の現代詩(新体詩)は主にイギリス19世紀のロマン主義詩からの影響の強いものでした。有明は親友の詩人・小説家の岩野泡鳴(1873-1920)とともに英文学経由でフランス象徴主義詩を学び、自然主義を土台とする象徴主義を泡鳴とともに自作に採り入れた詩人でした。「朝なり」は水道橋の陸軍砲兵工場(のち後楽園球場、現東京ドーム)での朝の用水路の叙景詩ですが、自然主義的な叙景に象徴主義的な心象感覚を合わせ、文語体自由詩でありながら一歩進めれば口語自由詩に限りなく近づいた作品です。この成果は第4詩集『有明集』では極限にまで達して「茉莉花」「月しろ」などの傑作を生みますが、有明の成果を飛び越して口語自由詩を指向していた若手詩人たちからの激しい批判と、有明自身の私生活上の苦悶が重なって有明の詩作からの引退を余儀なくさせることになりました。

 有明は『有明集』以後長く鬱病に苦しみ、北原白秋のアルス社からの全詩集『有明詩集』では口語自由詩に転換した新詩集を合わせ、また最晩年まで第1詩集~第4詩集の改訂版に取り組んでいますが、それらはほとんど反響を呼ばず、親友の岩野泡鳴の逝去をきっかけに文学者との交友も止めてしまいます。北原白秋萩原朔太郎ら少数の詩人が有明の詩をひっそりと賞揚していましたが、その間に有明は唯一の詩論集『飛雲抄』(昭和13年=1938年)を刊行した程度で長く過去の詩人として忘れられた存在となっていました。第二次世界大戦敗戦後に川端康成が偶然有明の貸家に住んだことから執筆の依頼を受け、敗戦時の長編エッセイ『野ざらしの夢』(昭和21年=1946年6月刊)に続き自伝的長編小説『夢は呼び交す』(昭和22年=1947年11月刊)が刊行されました。有明が当時その概念がなかった共感覚の持ち主であり、複雑な恋愛経験によって神秘体験を経た詩人であったことが同書で初めて明らかにされています。有明は生涯明治時代の4詩集の改訂とともに新作の詩作を続け、77歳の長寿で逝去しましたが、明治・大正・昭和の三代に渡ってひっそりと現役詩人を貫いた詩人でした。「朝なり」もその後数次に渡って改作を重ねられた作品ですが、「明星」への発表から詩集『春鳥集』に収められたこの最初の版がもっとも作詩時の発想を伝える決定稿になっています。しかし有明は70代の最晩年まで自作の改作を止めなかったので、ついに自作の決定稿を認めることがなかった特異な詩人であり続けました。有明の自伝的長編小説『夢は呼び交す』は岩波文庫で再刊されており、日本の現代文学の必読書に数えられる一冊です。また有明の詩集は今なお可能性を持つ現代詩の古典であり、日本の詩は有明の開拓した領域をほとんど越えていないのです。

ジョン・コルトレーン John Coltrane - トレーニング・イン John Coltrane with the Red Garland Trio (aka Traneing In) (Prestige, 1958)

ジョン・コルトレーン - トレーニング・イン (Prestige, 1958)

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ジョン・コルトレーン John Coltrane - トレーニング・イン John Coltrane with the Red Garland Trio (aka Traneing In) (Prestige, 1958) Full Album : https://youtu.be/-eLj4Ln4PeA
Recorded at The Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, August 23, 1957
Released by Prestige Record Prestige PRLP 7123, March 1958
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Reissued as "Traning In" in 1961, later stereo reissued as Prestige PR 7651 in 1969.
Note : Coltrane's second full session as a leader, recorded for Prestige on 23 August, 1957 but only issued early in 1958 (date according to Billboard of 31 March 1958). Originally released as "John Coltrane with the Red Garland Trio" with an abstract cover, the album was reissued three years later as "Traneing In", the cover now showing a portrait of Coltrane taken by Esmond Edwards.

(Side A)

A1. Traneing In (John Coltrane) - 12:34
A2. Slow Dance (Alonzo Levister) - 5:28

(Side B)

B1. Bass Blues (John Coltrane) - 7:48
B2. You Leave Me Breathless (Ralph Freed, Friedrich Hollaender) - 7:25
B3. Soft Lights and Sweet Music (Irving Berlin) - 4:41

[ John Coltrane with the Red Garland Trio ]

John Coltrane - tenor saxophone
Red Garland - piano
Paul Chambers - bass
Art Taylor - drums

(Original People "John Coltrane with the Red Garland Trio" LP Liner Cover & Side A Label)

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 ジョン・コルトレーン(テナーサックス・1926-1967)がマイルス・デイヴィスのバンド在籍中にソロ・デビューしたのはニューヨークのインディー・レーベル、プレスティッジからで、プレスティッジと契約していたマイルスがメジャーのコロンビア・レコーズに移籍したためにマイルスのバンド・メンバーとのソロ契約をしてスター・プレイヤーの埋め合わせとする意図からでした。コルトレーンのプレスティッジとの専属契約期間は1959年にアトランティック・レコーズに移籍するまでの1957年~1958年の2年間でしたが、その間に他社への録音や共作も含めて、コルトレーンのアルバムとして以下のリストに発売順にまとめた16枚のアルバムが制作されています。
●Prestige Era (1957-1958)
1. 1957-Late; Coltrane (rec.1957-05-31)
2. 1958-02; Blue Trane (rec.1957-09-15)*Blue Note Records
3. 1958-03; John Coltrane with the Red Garland Trio / Traneing In (co-leader with Red Garland) (rec.1957-08-23)
4. 1958-Summer; Tanganyika Strut (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-05-13, 1958-06-24)*Savoy Records
5. 1958-10; Soultrane (rec.1958-02-07)
(Released after Prestige Era Albums)
6. 1959-02; Jazz Way Out (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-06-24)*Savoy Records
7. 1961-03; Lush Life (rec.1957-05-31, 1957-08-16, 1958-01-10)
8. 1961-12; Settin' the Pace (rec.1958-03-26)
9. 1962-10; Standard Coltrane (rec.1958-07-11)
10. 1963-00; Dakar (rec.1957-04-20)
11. 1963-03; Kenny Burrell & John Coltrane (co-leader with Kenny Burrell) (rec.1958-03-07)
12. 1963-09; Stardust (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
13. 1964-04; The Believer (rec.1957-12-20, 1958-01-10, 1958-12-26)
14. 1964-08; Black Pearls (rec.1958-05-23)
15. 1965-05; Bahia (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
16. 1966-01; The Last Trane (rec.1957-08-16, 1958-01-10, 1958-03-26)
 この発売年月日からでもプレスティッジが契約期間中に発売したのが1、3、5の3枚だけで後はコルトレーンの出世を待って8年後の1966年(コルトレーン逝去の1年半前!)までに残りのアルバムを徐々に発売していったせこい事情がわかりますが、プレスティッジとの契約中にコルトレーン単独、または共作名義だけで2年間に16枚のアルバムがある上に、参加アルバムはマイルスのバンドからデビューした1955年~1956年の2年間で12枚、1957年~1958年の2年間では24枚を数えます。つまり1955年~1958年の4年間では52枚で年間13枚ペースですが、1957年~1958年の2年間では40枚ですから年間20枚という驚異的な録音量が判明します。これだけアルバムがあると逆にコルトレーンの楽歴で重要なアルバムと過渡的なアルバムの軽重の差も現れきますが、上記のコルトレーン名義のアルバム以外にも、1955年~1958年の間にマイルスのバンドにメンバーとして残した参加アルバムはコルトレーン自身のアルバムと匹敵するか、またはそれ以上にコルトレーンにとっても記念碑的作品になっています。

 コルトレーン名義の初アルバム『Coltrane』が1957年5月録音、1967年7月の肝臓癌による40歳の急逝に先立つ最終アルバム『Expression』が1967年2月・3月録音なので、コルトレーンのソロ・キャリアはちょうど満10年でした。公式アルバムは約45作、プレスティッジ時代(1957年~1958年)を初期、アトランティック時代(1959年~1960年)を中期、インパルス時代(1961年~1967年)は円熟期として2期または3期に分けることができるでしょう。プレスティッジ時代の代表作を選ぶなら初アルバム『Coltrane』、ブルー・ノート・レコーズに単発契約で録音された『Blue Trane』、プレスティッジ作品の秀作としては『Soultrane』という定評があります。プレスティッジはちゃっかり出来の良いセッションから録音順に発売していったので、録音後すぐに発売された『Coltrane』『John Coltrane with the Red Garland Trio』『Soultrane』の出来が良く、コルトレーンがアトランティックに去った後で発売されたアルバムは『Lush Life』『Settin' the Pace』『Standard Coltrane』あたりまでは統一セッションから編集されたアルバムになっています(『Lush Life』はやや複雑な成立ですが、発売時点では膨大な未発表録音があったのでコンセプトを立てた編集がされています)。皮肉なことにプレスティッジ時代ではプレスティッジの全作品よりもブルー・ノート盤『Blue Trane』が傑作とされているのは、ブルー・ノート社はアーティストの意向を汲んだ丁寧な制作で定評があったのでコルトレーン自身に力作を作る意欲があったからでした。プレスティッジではオリジナル曲の版権を買い取っていたので、コルトレーンはオリジナル曲を録音を渋っていました。一方ブルー・ノート社はオリジナル曲をきちんとアーティストの版権に登録する方針でしたからコルトレーンもオリジナル曲の提供を惜しみませんでした。またリハーサルなし・当日打ち合わせのみのジャム・セッション式な録音で良しとするプレスティッジに対してブルー・ノートではプレスティッジではできない念入りな制作がされており、ブルー・ノートはリハーサル日を設け、リハーサルにもミュージシャンにギャラを支払ったので存分にオリジナル曲のアレンジを詰めることができました。

 ただし『Blue Trane』はいかにもスタジオで作りこまれた重厚さがこの時期のコルトレーンには例外的で、粗製濫造で薄利多売の量産レーベルらしいプレスティッジ作品の良くも悪くも実質的にスタジオ・ライヴのフットワークの軽さが、やっつけ混じりの面白さになっているのとは異質な感じを受けます。当時の黒人ジャズのインディー・レーベルは黒人ジャズマンの搾取労働によって繁盛していました。白人ジャズマンのアルバムは黒人ジャズマンのアルバムより売れましたが、いかんせんギャラが高かったという背景もありました。1957年~1958年の2年間で40枚ものアルバムに参加したコルトレーンも原盤権の買い取りではレコーディング収入だけでは生計が成り立たずライヴ収入が頼りでした。コルトレーンは1957年にはセロニアス・モンクの、1958年~1959年には出戻りのマイルスのバンド・メンバーでしたから独立してリーダーになった活動は1960年以降になりますが、もし1957年~1958年時点で自分のバンドを持って独立していたらライヴで聴けるサウンドは『Blue Trane』よりもプレスティッジの諸作に近いものになったでしょう。何しろマイルス・デイヴィスのバンドですらライヴのためのリハーサルなど一切やっていなかったのが当時の黒人ジャズでした。『Coltrane』は前回ご紹介したので、次作に当たる『John Coltrane with the Red Garland Trio』もご紹介しておくのは順当でしょう。

 ジャケットと原題を見て「コルトレーンにこんなアルバムあったっけ?」という疑問ももっともで、このアルバムは再発盤からジャケットを写真に差し替え、タイトルも『Traning In』に変えて、今では変更後のジャケット、タイトルの方が通りが良くなっています。ただし初めて世に出た時には『John Coltrane with the Red Garland Trio』と、レッド・ガーランド(ピアノ・1923-1984)との連名作あつかいのタイトルだったのは注意が必要です。コルトレーンはプレスティッジ時代のリーダー作ではコルトレーンのワンホーンにピアノ・トリオだけがバックのカルテット・アルバムが本作(1957年8月録音)、『Soultrane』(1958年2月録音)、『Settin' the Pace』(1958年3月録音)の3作あり、他はすべてトランペットやサックス、ギターなど共演者入りの5人以上の編成でした。カルテット作3枚はそれぞれアルバムごとに1セッションで録音されているので統一性の高い内容です。ガーランドのトリオはポール・チェンバースのベース、アート・テイラーのドラムスで、マル・ウォルドロン(ピアノ)やトミー・フラナガン(ピアノ)と並んでガーランドはプレスティッジの専属セッション・マスターでした。コルトレーンはウォルドロンやフラナガンのセッションにも起用されていますが、それらにはカルテット・アルバムはありません。かえってソロ・デビュー以前にポール・チェンバースの『Chambers' Music』1956.3(3曲のみ)、タッド・ダメロン『Mating Call』1956.10(全曲)で瑞々しいワンホーン・カルテット演奏を聴かせてくれます。プレスティッジのガーランド・トリオとのアルバムはよく練れており、4人中マイルスのメンバーが3人(1957年はコルトレーンはモンクのバンドメンバーでしたが)だけあって息は合っているしドラムスがテイラーなのもハード・バップにはうってつけなのですが、ことに本作は当初連名アルバムだっただけあって全体的にはコルトレーンよりもガーランド・トリオのコンセプトが強いアルバムです。

 録音はB2、B1、B3、A1、A2の順で行われたそうで、B1とA1はブルース、B2とA2はバラード、B3は猛烈なファスト・テンポのスウィンガーとバランスのとれた選曲です。楽曲スタイルごとに見ると、まずA1はAA'BA'形式の変型ブルースで、レッド・ガーランド・トリオだけの演奏が前半は延々続き、ベース・ソロを挟んで後半はコルトレーンのロング・ソロになるという構成で、テナー・ソロは見事ですが、アルバムの原題通りと言えばそれまでながらピアノ・トリオが長すぎるきらいがあります。B1のリフ・ブルースはA♭で、後のオリジナル曲「Cousin Mary」(『Giant Steps』収録)がやはりA♭のリフ・ブルースですが、このB1ではあまり使われないキーが面白いフレーズを生んでいます。スタンダードをファスト・テンポのスウィンガーに解釈したB3は同じアーヴィング・バーリン作の「Russian Lullaby」(『Soultrane』収録)に引き継がれます。そしてA2、B2のバラードですが、テナーサックスはテーマ吹奏だけでソロはピアノとベースに任せることで抒情的な効果を上げています。A2のエンディングはそのまま後年のオリジナル曲「Naima」(『Giant Steps』収録)に流用されます。B2のバラードとなると、テーマ吹奏だけでリズム・セクションにムードを委ねた空間性といい、悠然たる楽想といい、ルバートぎりぎりのテンポ感といい、これを推し進めた先に「After the Rain」を頂点とするインパルス時代の「Dear Lord」「Welcome」などの瞑想的バラードが控えていたのか、とコルトレーンの発想の原点が凝縮されているのには改めて感心させられます。ガーランド・トリオもブルース2曲の中庸を得たプレイ、B3の驀進するスウィング感などは手馴れたものでが、ガーランド・トリオはバラード2曲ではどうしても従来の4ビートから離れられないでいるのも感じられます。コルトレーンが完全にバンド全体のサウンドを掌握できるようになるには、やはりエルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)、マッコイ・タイナー(ピアノ)をレギュラー・メンバーに迎えたアトランティック時代後半からが本領発揮の時代とも改めて思い知らされる、まだ過渡期のアルバムながら後年のアイディアの萌芽が見える作品で、本作では全体を仕切るガーランド・トリオのコンセプトとコルトレーンのアイディアに齟齬が見られるのがその印象を強くします。しかしコルトレーンの場合には円熟期の重厚なアルバムの合間にこうしたアルバムを聴くと良い具合に肩の力が抜けるので、肩肘張らない初期の佳作としてこれもまた愛聴に耐える作品です。

薄田泣菫「ああ大和にしあらましかば」(明治38年=1905年作)

薄田泣菫明治10年(1877年)生~昭和20年(1945年)没
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「ああ大和にしあらましかば」

 薄田泣菫

ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉散ちり透(す)く神無備(かみなび)の森の小路(こみち)を、
あかつき露に髮ぬれて、徃(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草(たかくさ)の
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白み、日ひざしの淡(あは)に、
いにし代よの珍(うづ)の御經(みきやう)の黄金(こがね)文字、
百濟(くだら)緒琴(をごと)に、齋(いは)ひ瓮(べ)に、彩畫(だみゑ)の壁かべに
見ぞ恍(ほ)くる柱はしらがくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、齋殿深(いみどのふか)に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは醉(ゑ)はめ。

新墾路(にひばりみち)の切畑に、
赤ら橘(たちばな)葉がくれに、ほのめく日ひなか、
そことも知しらぬ靜歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移めうつしの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹きの枝に、矮人(ちいさご)の樂人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽(をば)身がろさのともすれば、
葉はの漂たゞよひとひるがへり、
籬(ませ)に、木この間に、――これやまた、野の法子兒(ほうしご)の
化(け)のものか、夕寺深に聲(こわ)ぶりの、
讀經や、――今か、靜こころ
そぞろありきの在り人の
魂(たましひ)にしも泌(し)み入いらめ。

日ひは木がくれて、諸(もろ)とびら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭(ゆふには)寒(さむ)に、
そそ走りゆく乾反葉(ひたりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、棟(あふち)、名こそあれ、葉廣菩提樹(はびろぼだいじゆ)、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞ききほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見みれば、
高塔(あらゝぎ)や、九輪(くりん)の錆(さび)に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの學生(がくじやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、――
ああ大和にしあらましかば、
今日(けふ)神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫(しば)しをも、
知らましを、身に。

(詩集『白羊宮』より)


 岡山県出身の詩人・薄田泣菫こと本名淳介は明治10年(1877年)5月19日生まれ、明治30年(1897年)5月に文芸誌「新著月刊」に投稿した詩が第一席に入選し、20歳で華々しくデビューを飾りました。明治32年(1899年)11月には第1詩集『暮笛集』を刊行、2か月で初版5000部を売り切る人気詩人の座を固めます。明治34年(1901年)10月には第2詩集『ゆく春』を刊行し与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で巻頭特集を組まれます。明治38年(1905年)5月には第3詩集『二十五弦』、同年6月には詩文集『白玉姫』を刊行し、この明治38年11月に「中学世界」増刊号に発表されたのが明治35年(1902年)1月発表の「公孫樹下にたちて」と並ぶ代表作「ああ大和にあらましかば」で、同作品は明治39年(1906年)5月、金尾文淵堂刊の第4詩集『白羊宮』に収められました。以降は新作を含む選詩集こそ刊行されましたがオリジナルな詩集は『白羊宮』が最後になり、翌明治40年(1907年)以降は新聞社入社とともに児童詩や民謡詩、随筆や小説に転じて、大阪毎日新聞社に移ってからのコラム『茶話』は10年あまり続く人気連載になり、昭和20年(1945年)10月4日の逝去(享年68歳)までは随筆家として多数の著作を発表しています。明治末までに代表的な詩集を4冊前後刊行した島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)、蒲原有明(1976-1945)とともに当時「新体詩」と呼ばれた明治30年代~40年代の文語自由詩をリードしたのが藤村、晩翠、有明、泣菫であり、また河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1945)で、特に泣菫は柔軟で文語文法からも破格な文体と大胆に多数の造語を含んだ豊かな語彙、抒情に溺れない清新な情感によって、もっとも実験的で難解な作風だった蒲原有明と双璧をなす第一線の詩人とされていました。

 この代表作「ああ大和にしあらましかば」は古代日本の大和と現在(と言っても明治30年代末時点の「現在」ですが)の大和を巧妙に二重映しし、一見叙景的な詠嘆的抒情詩に見えながらも1000年あまりの時空を自在に行き来する想像力の見事さで当時にあっては薄田泣菫しか思いつかず、また書くこともできなかった見事な詩です。古代の出雲と現代の出雲を重ね合わせた入沢康夫(1931-2018)の難解極まりない実験的な長編詩『わが出雲・わが鎮』昭和42年(1967年)、やはり屈折した現代史を多層的構造に展開した長編詩『死者たちの群がる風景』昭和59年(1984年)、同趣向の那珂太郎(1922-2014)の長編詩「はかた」昭和50年(1975年)を着想では先取りしているほどですが、詩集『白羊宮』は蒲原有明明治41年(1908年)の第4詩集『有明集』、明治39年(1906年)の伊良子清白の唯一の詩集『孔雀船』と並んで明治新体詩の究極を示しており、明治41年明治42年以降の口語自由詩運動によって一気に旧世代の手法として批判されることになります。藤村、泣菫らに先立つ明治20年代の新体詩には森鴎外、北村透谷、中西梅花、宮崎湖處子、国木田独歩与謝野鉄幹らの先駆的業績があり、韻律は短歌の延長に五七調・七五調文を連ねて長歌連句を踏襲する手法が主流でした。明治30年代の新体詩は藤村の明治30年(1897年)の画期的な『若菜集』を境に文語体ながら自由詩に接近し、明治40年代には文語さえ改めればほとんど口語自由詩に近いものになります。早熟だった石川啄木(1886-1912)の明治38年(泣菫の「ああ大和にしあらましかば」発表と同年)の第1詩集『あこがれ』は泣菫と有明の影響の強い詩集でしたが、啄木は明治42年には口語自由詩を発表し始めます。啄木の『あこがれ』を絶讃した森鴎外は英文学者の妹・小金井喜美子あての書簡で破格文法と造語癖の強い泣菫の詩を難じ、有明の詩を絶讃していますが、のちに鴎外は大正6年(1917年)の萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』を献呈され激賞しているくらいですから、泣菫の詩には鴎外自身が試みようとして果たせなかったことへの羨望が入り混じっていたと思われます。詩集『白羊宮』とその代表作「ああ大和にしあらましかば」は文語自由詩の体裁を採りながらあと一歩を押せばそのまま口語自由詩へと転換できる、明治最後期にあってもっとも実験的かつ実験的な試作性を感じさせない完成度の高い詩集であり、泣菫一世一代の代表作となった詩です。象徴主義色の強い蒲原有明の詩よりも具体性に富み、語感そのものが詩の喜びに満ちています。しかし泣菫にとってはこれが到達点だったので、口語自由詩運動の到来に泣菫は詩人からエッセイストに転換してしまいます。明治時代の詩人の大半は20代で詩作から引退し、明治40年代には世代の交代と断絶が見られますが、その典型となったのが泣菫や有明の引退、啄木の夭逝だったのは文語詩と口語詩の交替以上に詩の可能性の大きな損失があったので、「ああ大和にしあらましかば」は明治期の詩の頂点にして幕引きを担うことにもなったのです。

カン Can - スーン・オーヴァー・ババルマ Soon Over Babaluma (United Artists, 1974)

カン - スーン・オーヴァー・ババルマ (United Artists, 1974)

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カン Can - スーン・オーヴァー・ババルマ Soon Over Babaluma (United Artists, 1974) Full Album
Recorded at Inner Space Studio, Cologne, August 1974
Released by United Artists UAS 29 673, November 1974
All written and composed by Can,except "Dizzy Dizzy" lyrics by Duncan Fallowell.

(Side 1)

A1. Dizzy Dizzy : https://youtu.be/WjWk5UuIekU - 5:40
A2. Come Sta, La Luna : https://youtu.be/USsGgVzxpjk - 5:42
A3. Splash : https://youtu.be/l1EkHn6b6Fo - 7:45

(Side 2)

B1. Chain Reaction : https://youtu.be/DHCNgT-QCDE - 11:09
B2. Quantum Physics : https://youtu.be/MSxRmU8CofE - 8:31

[ Can ]

Holger Czukay - bass, vocals
Michael Karoli - guitar, violin, vocals
Jaki Liebezeit - drums, percussion
Irmin Schmidt - keyboards, vocals

(Original United Artists "Soon Over Babaluma" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 カンの全アルバムはバンドが原盤権を保有していたので1981年以降イルミン・シュミット夫人ヒルデガルドが勤めるカンのマネジメント「Spoon」レーベル設立によって全作がスプーン社から再発売されましたので(それもカンの再評価がいち早く進んだ理由になりました)、後追いのリスナーにはカンのオリジナル・アルバムがもともとリバティ~ユナイテッド・アーティスツ、ヴァージン、ハーヴェストと移籍をくり返してきたのが閑却されがちです。カンは一見アマチュア的な実験ロックのバンドですが実際は徹底したプロ・ミュージシャンの集団だったので、レコード会社移籍にともなってはっきりと音楽的方向性や制作環境を変化させていました。日本人ヴォーカリストダモ鈴木はイギリス・ツアー中にエジンバラのエンパイヤ・ホールで行われた1973年8月25日のコンサートを最後に脱退し、残ったメンバーで翌年夏に制作された『Soon Over Babaluma』1974はカンのリバティ~ユナイテッド・アーティスツ・レコーズでの最後のアルバムになりました。その時のライヴ録音はラジオ放送用音源も残されており、録音もミックスも正規盤級ですから海賊盤でしか発売されていないのがもったいないのですが、欧米の著作権法ではライヴ録音は録音者やライヴ主催者に権利があるの場合が多く、バンドがリリースしたくても放送局に使用料を払わなければ使えないようです。カンはバンドが所持しているアウトテイク集をスプーン社からリリースしていますが、残念なことにラジオ用放送音源のレベルまで達した出来のものは『Unlimited Edition』1976と『Delay 1968』1981でほぼ出尽くしてしまっています。バンドがライヴ録音を節目節目に記録していたら良かったのですが、ラジオ放送で十分と判断して録音していなかったか、カン自身は『Can Live』1999や『Tago Mago 40th Anniversary Edition』『The Lost Tapes』みたいに中途半端なライヴ・テイクしか持っていないようなのです。

 1973年8月発売のアルバム『Future Days』発表直後1か月もせずダモ鈴木は脱退しましたが、バンドは次作である本作を録音する1974年8月までに初代ヴォーカリストのマルコム・ムーニーをアメリカから呼び戻そうとしたり(航空券まで用意しましたが実現しませんでした)、数人のヴォーカリストをライヴで試したりスタジオ・セッションを行いましたが(何とティム・ハーディンを迎えたセッションまで行われています)、ムーニーやダモのようにフィットする人材は見つからず、結局次回作リリースのぎりぎりまで待って専任ヴォーカリストを入れずに本作『Soon Over Babaluma』を制作しました。ダモ在籍時末期の音楽性がますます気になりますが、公式盤には73年8月録音の「Doko E」2分26秒(『Unlimited Edition』収録)しか発表されていません。海賊盤で聴けるライヴでは『Olympia, Paris, May 12, 1973』がCD2枚組全4曲(「Oveveing Down」36分38秒、「One More Night」9分8秒、「Spoon」32分9秒、「Vitamin C」13分44秒)と質・量ともにダモ鈴木在籍時の最高のライヴが聴けます。流出しているエジンバラ公演には疑問も多く、69分全5曲のうち約55分を占める冒頭3曲「Soup」「Stone Strike」「Hakucho No Uta (Swan No Sonp)」は実際はダモ鈴木加入初期からライヴの定番曲だったアルバム未収録曲「Riding So High」13分52秒、30分24秒の「Stone Strike」は歌詞違いの「Bel Air」で、9分43秒「Hakucho No Uta (Swan No Sonp)」は歌詞違いの「Mother Sky」です。アレンジがアルバムと大幅に違うのは言うまでもありません。問題は残り2曲、8分36秒の「Hot Day in Koeln」、4分48秒の「I'm Your Doll」で、日本の女性ポスト・パンク・ヴォーカリストPhewが1982年にカン解散後のホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトをバックに録音したファースト・アルバムのアウトテイク曲として知られますが、どう聴いても1973年のカンの演奏で、しかも両曲ともライヴ収録になっており、「Hot Day in Koeln」は女性の単独ヴォーカルだが「I'm Your Doll」の前半はダモ鈴木とのデュオになっています。ちなみにPhewのヴォーカルはダモ鈴木の女性版そのものですが、1982年のアルバムは1973年のカンとはまったく変わったサウンドでした。どちらにせよ謎の女性ヴォーカル入り「Hot Day in Koeln」「I'm Your Doll」は同日のエジンバラ公演の収録とは思えません。

 ホルガー・シューカイという人は冗談か本気かわからない発言をするタイプで、「私とヤキのコンビネーションはジャック・ブルースジンジャー・ベイカーと同等にイノヴェーティヴなものだ」「私はキース・リチャーズのミーハー・ファンでもある」「趣味は読書。毎日経典を2、3行読む」など本人はたぶんどれも本気だと思われますが、『Soon Over Babaluma』発表後からインタビューでウェザー・リポートからの影響を指摘されることが多くなりました。シューカイの返答はもちろん「あいつらがおれたちからパクったのさ」。しかし、ダモ脱退でマルコムにも声をかけたのは実話でしょうが、エジンバラ公演のカンはパリ公演のカンとはさほど異ならず、『Soon Over Babaluma』ではやはり専任ヴォーカリストの不在でやっていけるかどうか、その場合音楽性をどう変えていくかが課題になったでしょうし、ウェザー・リポートも当然参考にしたに違いありせん。カンは1979年にラスト・アルバムを出し、ウェザーも1979年には'70年代の集大成ライヴを出すので、両者のアルバムを対照表にしてみます。

Weather Report / Can

Can: Monster Movie (1969)
Can: Soundtracks (1970)
1. Weather Report (1971)/Can: Tago Mago (1971)
2. I Sing the Body Electric/Live in Tokyo(1972)/Can: Ege Bamyasi (1972)
3. Sweetnighter (1973)/Can: Future Days (1973)
4. Mysterious Traveller (1974)/Can: Soon Over Babaluma (1974)
5. Tale Spinnin' (1975)/Can: Landed (1975)
6. Black Market (1976)/Can: Flow Motion (1976)
7. Heavy Weather (1977)/Can: Saw Delight (1977)
8. Mr. Gone (1978)/Can: Out of Reach (1978)/
9. 8:30 (1979)/Can: Can (1979)

 ウェザー・リポートのリーダーのジョー・ザヴィヌルオーストリア出身で、ドイツ時代の活動を経て渡米し成功をおさめたジャズマンでした。大まかに言えばウェザー・リポートエスニック・ジャズ・ロックというコンセプトから始まっています。この場合のエスニックは主に中南米音楽とアフリカ音楽で、'70年代後半には一転して都会的な作風になりましたが、一貫して共同リーダーだったウェイン・ショーター、初期にはミロスラフ・ヴィトウスも含めた三頭リーダーのバンドだったため、作風の変遷は必ずしも特定のメンバーに指向性には依りません。ですがチェコ出身のヴィトウスの存在感はアルバム半分まで参加して脱退した4まで大きく、ヴィトウスが脱退しベースがアルフォンソ・ジョンソンに替わるとバンドはそれまでのエキゾチシズムからファンクに整理された音になり、さらに6で2曲参加したジャコ・パストリアスが正式メンバーとなった大ヒット・アルバム7でウェザーはロック・リスナーにもアピールするポピュラーな存在になっています。カンにとってマイルス・デイヴィスのエレクトリック・アルバム『In a Silent Way』1969と『Bitches Brew』1970は自分たちがやろうとしていたことを超大物アーティストがとんでもない完成度で達成したと映ったに違いなく、それはソフト・マシーンピンク・フロイドキング・クリムゾンら先進的ロック・バンドにとっても驚異でした。マイルスのロック・アルバムは一時引退する1975年まで録音され、『Miles Davis at Fillmore』1970、『Jack Johnson』1971、『Live Evil』1971、『On the Corner』1972、『Black Beauty』1973、『In Concert』1973、『Big Fun』1974、『Get Up with It』1974、『Agharta』1975、『Pangaea』1976、『Dark Magus』1977とリリースされています。ウェザー・リポートはマイルスのアルバム参加やライヴ・メンバーを歴任してきたプレイヤーが多く、ジョー・ザヴィヌルウェイン・ショーターは『In a Silent Way』と『Bitches Brew』で楽曲提供とアレンジまで担い、マイルスのジャズ・ロック時代の基礎を作ったメンバーでした。すれっからしのプロ集団カンがウェザー・リポートの存在を視野に入れていなかったとは考えられません。

 それまでのアルバムの制作ペースより遅く、1974年の年内発売ぎりぎりの同年8月に『Soon Over Babaluma』が制作されたのはダモ脱退からまる1年過ぎていました。スペース・レゲエのA1、プログレッシヴ・タンゴのA2の印象が強烈でアルバム全体にエキセントリックなイメージがありますが、7/8のリフに乗せたA3、後半から1/2テンポになるB1、意図的にアクセントを廃したB2など、残り3曲はカンがこれまで演奏しなかったタイプの正統的なジャズ・ロックになっています。A1、A2も含めて、作曲やアレンジ段階では即興的なセッションも交えていたでしょうが(A1はマルコム在籍時のラフ・セッション版が『Unlimited Edition』に収録されている古い曲です)、制作は整然としたアレンジ通りに録音されたものなのがうかがわれます。まだかなりのマルコムやダモ在籍時の残響が曲調に残っており、従来のカンらしさをとどめています。

 本作では脱力レゲエのA1を始めミヒャエル・カローリのヴォーカルの比重が高いのですが線が細く脆弱さを感じないではいられず、むしろA2でリード・ヴォーカルをとるイルミンの方が強烈なインパクトを放っています。それでも本作ではドイツ人創設メンバー4人だけになったカンは成功作をものしたと言えるだけの出来になりました。前作『Future Days』のインスト・パートをジャズ・ロックのフォーマットで展開したものとして聴けば、確かにこれもカン中期の力作には違いありません。その一方、従来のカンは素人同然のエキセントリックな外国人ヴォーカリストの存在が焦点となってメンバーのイマジネーションを引き出しスケールの大きな音楽を作ってきましたが、そうした強みがこのアルバムではなくなって、かといって完全に新しくバンドのあり方を立て直すには至っていない観があります。本作はそういう中途半端なところで佳作になっており、イギリスのヴァージン・レコーズに移籍した次作『Landed』から解散までの5作の後期カンは活動中には健闘するも解散後には全盛期を過ぎた作品群と見なされることになります。その点ではウェザー・リポートとの比較はカンにとっては酷でしょう。本作にはかろうじて残っているサイケデリック色も次作『Landed』からは払底されますが、時代的にはそれも必然だったのです。

北原白秋「薔薇の木に」(詩集『白金之独楽』大正3年=1914年より)

北原白秋明治18年(1885年)1月25日生~昭和17年(1942年)11月2日没
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「薔薇の木に」

 北原白秋

薔薇の木に
薔薇の花さく。

なにごとの不思議なけれど。

(詩集『白金之独楽』より)


 北原白秋(1885-1942)のこの短詩は、三日三晩で書かれたという短詩全95篇を収めた第5詩集『白金之独楽』(大正3年=1914年12月・金尾文淵堂刊)では2篇の連作になっていました。その後のアンソロジー類への収録に当たって単独では先に上げた3行詩に改められましたが、『白金之独楽』は全編漢字と片仮名表記だけの詩集で、短詩68篇と短歌30首を収めた第4詩集『真珠抄』(大正3年=1914年9月・金尾文淵堂刊)と対をなし、最初の夫人との離別後に仏教への傾倒から書かれた詩集です。この2詩集では第3詩集『東京景物詩及其他』(大正2年=1913年7月・東雲堂刊)までの長詩・連作長詩は陰をひそめ、ほとんどが1行~4行の短詩で占められており、同時期から白秋は短歌、歌謡詩と童謡詩に創作の比重を移すきっかけにもなっています。『白金之独楽』での収録型はこのようになっていました。

「薔薇二曲」

 一

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 二

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。
コボルル。

 また白秋の第2歌集『雲母集』(大正4年=1915年8月・東雲堂刊)では「薔薇静観」の章があり、短歌による「薔薇二曲」のヴァリアントと見なせます。

目を開けてつくづく見れば薔薇の木に薔薇が真紅に咲いてけるかも

薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも

驚きてわが身も光るばかりかな大きなる薔薇の花照りかへる

ただ見ればこれかりそめの薔薇の花驚きて見ればその花動く

 これらからは白秋が短歌によって十全な表現を見せていれば、それまでの自由詩系抒情詩によらず短歌で十分に成果を見せ、自由詩系ではもっぱら歌謡詩と童謡詩に思うがままの表現を求めるようになった事情もうかがえます。白秋はのちの詩論「考察の秋」で「薔薇二曲」を自作自解し、「この何の不思議もない当然の事を当然として見過して了ふ人は禍である。実に驚嘆すべき一大事ではないか。この神秘はどこからくる。この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生れて来るのではないか。この真理。この驚き。」(詩論集『芸術の円光』昭和2年=1927年刊より)と書いていますが、それよりも「薔薇二曲」をより簡潔に「薔薇の木に/薔薇の花さく。//なにごとの不思議なけれど。」として単独詩篇とするようになったことの方が重要でしょう。

 しかしこの「薔薇の木に」を仮に現代の口語表現に改めてしまうと、白秋がこの詩にこめた「真理」も「驚き」も霧散してしまうのもまた明らかです。たとえばこんな風に。

ばらの木に
ばらの花が咲くのは

なんのふしぎも
ないんだよ。

 途端に詩は俗化し、格調が高く文体に緊張感を持った純粋な抒情詩から、居酒屋のトイレに飾られた日めくりカレンダーのコピーライター詩になってしまいます。白秋の弟子の萩原朔太郎が白秋に心酔してやまなかったのはその通俗性とぎりぎりの甘さであり、萩原に師事した三好達治が生涯「言葉の手品に過ぎない」と痛罵した(三好達治は特に他でもない『真珠抄』『白金之独楽』の時期の白秋作品を憎悪しました)のもそうした白秋の詩の危うさでした。白秋が『真珠抄』『白金之独楽』の時期から短歌の韻律によって格調を保つ一方、俗化を許容する歌謡詩と童謡詩に自由詩の楽しみを広げたのも同じ事情からでしょう。しかも外国語に翻訳してしまえば「薔薇の木に/薔薇の花さく。//なにごとの不思議なけれど。」と「ばらの木に/ばらの花が咲くのは//なんのふしぎも/ないんだよ。」には何の違いも生じません。白秋の詩は最上の場合ですらそうした白痴性とすれすれに優れた語感だけで詩となっている際どさがあり、白秋が「この真理。この驚き。」と誇る喩法の内実はしばしば同語反復・剰語法(トートロジー)でしかありません。「薔薇の木に」はほとんど作者不詳の伝承詩として千年単位の風雪と口承に耐え得る稀有な詩句ですが、それだけに読者を思考停止に追いこむことのみに力を働かせた詩であり、白秋の「この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生れて来るのではないか。」という自負は自己暗示的な詭弁に過ぎません。しかしそこにこそ白秋の空前絶後の無垢があるので、この薔薇の詩もまた徹底した無意味によってのみ至純の美しさを保証されています。

ジョン・コルトレーン John Coltrane - コルトレーン Coltrane (Prestige, 1957)

ジョン・コルトレーン - コルトレーン (Prestige, 1957)

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ジョン・コルトレーン John Coltrane - コルトレーン Coltrane (Prestige, 1957) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLvTlLwkT-KCsICE9mg8-RN2NdBr4718fK
Recorded at The Van Gelder Studio, Hackensack, May 31, 1957
Released by Prestige Records Prestige 7105, late 1957

(Side A)

A1. Bakai (Calvin Massey) - 8:44
A2. Violets for Your Furs (Tom Adair, Matt Dennis) - 6:18
A3. Time Was (Gabriel Luna de la Fuente, Paz Miguel Prado, Bob Russell) - 7:31

(Side B)

B1. Straight Street (John Coltrane) - 6:21
B2. While My Lady Sleeps (Gus Kahn, Bronislau Kaper) - 4:44
B3. Chronic Blues (John Coltrane) - 8:12

[ Personnel ]

John Coltrane - tenor saxophone
Johnnie Splawn - trumpet on "Bakai" "Straight Street" "While My Lady Sleeps" "Chronic Blues"
Sahib Shihab - baritone saxophone on "Bakai" "Straight Street" "Chronic Blues"
Red Garland - piano on side one
Mal Waldron - piano on side two
Paul Chambers - bass
Albert "Tootie" Heath - drums

(Original Prestige "Coltrane" LP Liner Cover & Side A Label)

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 ジョン・コルトレーン(テナーサックス、ソプラノサックス・1926-1967)がマイルス・デイヴィスクインテットのメンバーとして注目された1956年にはもう30歳目前、マイルスのバンド・メンバーを勤めながら自己名義のアルバムを作り始めて、30代半ばでようやく自分のバンドを作って独立しましたが41歳の誕生日を迎える前に亡くなっています。生前に制作した自己名義のアルバムは実質10年間で45作あまりがあり、発掘ライヴや他のアーティストのアルバムへの参加作を含めるとアルバム総数はその3倍にもなります。コルトレーンマイルス・デイヴィス(トランペット・1926-1991)は同じ年生まれでしたが、マイルスはチャーリー・パーカー(アルトサックス・1920-1955)がディジー・ガレスピー(トランペット・1917-1993)との双頭バンドを解消した1945年に弱冠18歳でガレスピーの後任にパーカーのバンドに加入した早熟なキャリアがあり、1948年から1951年にかけては後にアルバム『Birth of the Cool』や『Dig』にまとめられるリーダー(自己名義)作品を発表していました。一方コルトレーンは1946年に兵役を除隊した後R&Bのバンドを経て1949年にディジー・ガレスピーのビッグバンドに加入し、翌1950年にガレスピーのビッグバンドが小規模バンド(リズム・セクションは後にMJQを結成し、ケニー・バレルミルト・ジャクソンも在籍中でした)に再編された時もガレスピー以外の唯一のホーン奏者に再雇用されていましたが、この時期のガレスピーのバンドは後のスター・プレイヤー揃いにもかかわらずメンバーは注目されず、コルトレーン在籍時の録音もLP片面分程度しか残されませんでした。ガレスピーのラテン・ジャズの名曲「Tin Tin Deo」の初録音はコルトレーン在籍時のガレスピー・セプテットでしたが、これがMJQ+ケニー・バレルジョン・コルトレーンという豪華メンバーの録音だったのはほとんど見過ごされています。

 マイルスが満を持して初のレギュラー・クインテットを結成した1955年、マイルスはすでにニューヨークのジャズ界の最重要ミュージシャンでしたが、コルトレーンは群小のR&Bバンドを転々としていた無名に近い二流テナー奏者と思われていました。マイルスが第1候補にしていたテナー奏者のソニー・ロリンズは1930年生まれでしたがすでに巨匠に足をかけており、コルトレーンはロリンズより4歳も年長ながら比較にならない程度の認知度しかなかったのです。実際、コルトレーンは早熟の天才と言えるタイプではありませんでした。しかしそれを言えば、マイルスもパーカーやガレスピーのような天才の薫陶を受けて急成長したタイプで必ずしも天才型とは言えず、ガレスピーのバンド出身とはいえコルトレーン在籍時のガレスピーのバンドはビ・バップ全盛期の'40年代のような過激なサウンドからもっとR&Bに近いサウンドに転換していた時期でした。

 マイルス・デイヴィスは1951年以来プレスティッジ・レコーズと専属契約していましたが、1956年には年内でプレスティッジとの契約を満了して全米最大手のレコード会社のひとつ、コロンビアへの移籍が決定していました。そこで1956年にはプレスティッジとの契約満了のために2回のセッションだけでアルバム4枚分を録音しています。いわゆる「~ing」4部作と言われる『Workin'』『Steamin'』『Relaxin'』『Cookin'』の4枚がそれで、ノルマを終えたマイルスはコロンビアへの第1作『'Round About Midnight』1957をさっさと完成させました。一方マイルス・クインテットのメンバーのうちコルトレーンレッド・ガーランド(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)はマイルスのバンドとプレスティッジとのソロ契約を継続しました。ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズはプレスティッジと反りが合わず短期間でリヴァーサイド・レコーズに移籍しています。この時期のマイルス・クインテットの「John Paul Jones」というコルトレーン提供のオリジナル・ブルースはコルトレーンがチェンバース、ジョーンズとセッション中にできたナンバーで、三人のファースト・ネームからタイトルが採られたものです。

 マイルスはバンドをトータルでコントロールするのがうまいリーダーで、パーカーやガレスピーのような天才ソロイストではないからと本人も謙遜しましたが、ソロイストとしてもマイルスの表現力の広さと深さは抜群でした。マイルスはパーカーやガレスピーがバンド運営の問題で長らく試行錯誤を重ねているのを間近で見てきたので、音楽的な完成図を設定した上でメンバーに一定の制約を設けてバンドの音楽の質を高い水準で安定させるセルフ・プロデュース力に発想を切り替えました。パーカーとガレスピーのビ・バップはソロイストを解放した音楽でしたが、そこに目をつけてビ・バップのアルバムは、サヴォイやプレスティッジのようなインディー・レーベルではメンバーを集めて適当にセッションさせそのままレコード化してしまうという安易な企画が多かったのです。ビ・バップのインディー・レーベルの乱立には制作が安直で済むからという背景がありました。

 コルトレーンはアンサンブル指向のマイルスに較べると断然ソロイスト型のミュージシャンでしたが、一般的には金管楽器木管楽器の特性に基づく相違とも言えます。マイルスのバンドでコルトレーンの先任サックス奏者だったソニー・ロリンズ(テナーサックス)やジャッキー・マクリーン(アルトサックス)はむしろコルトレーンより奔放なプレイヤーだったほどですが、マクリーンはチャールズ・ミンガスのバンドで絞られたりジャズ・メッセンジャーズ音楽監督に起用されたりとバンドのサウンドとソロイスト指向のバランスの取れるジャズマンになり、他方ロリンズはマックス・ローチケニー・ドーハムら有能なリーダーと組んでも自分のアルバムでは相変わらずやりたい放題というタイプでした。コルトレーンはマクリーンやロリンズの在籍時よりもマイルス自身のプロデュース力が向上した時期から加入したこともあり、マイルスの影響を素直に吸収して短期間でテナー奏者としても、トータルなミュージシャンとしても急成長をとげています。マイルスとコルトレーンの師弟関係は迂回した屈折を経たものでしたが、結果的にはこれほど理想的な影響関係はそう多くは見られないほどの成果を上げました。

 このアルバムの前にコルトレーンには1957年5月日17日録音の『Cattin' with Coltrane and Quinichette』という、先輩テナー奏者ポール・キニシェとの共演作品を録音していますが、内容はジャムセッション的アルバムであり、発売もコルトレーンがアトランティック・レコーズに移籍した後の1959年秋まで遅れています。ジャケットのレーベル・マーク下にも「テナーサックスのニュー・スター」と謳った本作こそがコルトレーンにとっても、珍しいことですがプレスティッジにとっても、念入りに準備された初リーダー作になりました。A面のピアノにレッド・ガーランド、B面ではマル・ウォルドロンと1日のレコーディングに2人のピアニストを呼び、トランペットのジョニー・スプロウンとバリトンサックスのサハビ・シハブも半数の曲のためだけに呼ばれています。残り半数はコルトレーンのワンホーンか、B2のようにエンド・テーマだけトランペットが重なる程度で、1回のセッションでアルバム2枚分を同一メンバーで作ってしまうのが通例のプレスティッジにとっては通常の4枚分の人件費をかけています。そしてこれは、新人サックス奏者の初リーダー作としては後のコルトレーンの盟友エリック・ドルフィー(アルトサックス・1928-1964)の『Outward Bound』1961に匹敵する最高水準のデビュー作になりました。

 アルバムの制作は実際にはまずマル・ウォルドロンのピアノでB1、B2、B3が録音され、ピアノがガーランドに交替してA1、A2、A3、そしてスタンダードの「I Hear Rhapsody」が録音されています。「I Hear Rhapsody」は予備曲だったので後のアルバム『Lush Life』に収録されました。A面・B面とも1曲目に強烈なオリジナル(A1はコルトレーンの友人の書き下ろし提供曲、タイトルはアラビア語で「Cry」を意味し、黒人リンチ殺人事件を受けて作曲されたもの)を置き、重厚な3管アレンジで聴かせます。AB面とも2曲目はスタンダードのバラードでA2はコルトレーンの本作の名演によってシナトラのレパートリーからモダン・ジャズ・スタンダードになり、B2はマイルス・クインテットのメンバー就任当初から手癖のように引用フレーズにしてきた愛奏曲でした。A3はラテン・ビートの原曲をストレートな4ビートのスウィンガーにしてコルトレーンのワンホーンで飛ばし、B3はオリジナル・ブルースを3管のソロ・リレーで奏でるハード・バップ曲です。チェンバースはさすがでA3の小粋なベース・ソロは絶好調、アルバート・ヒースのドラムスはやや軽いのですが野趣に富むフィリー・ジョーや鋭角的なロイ・ヘインズ、堅実なアート・テイラー(他に呼ばれるとしたらこの3人のうち誰かだったでしょう)よりこのアルバムには合っています。メンバーは全員コルトレーンとは公私とも親友といえる仲だっただけあり、精神的な共感が通っているのが演奏からも伝わってきます。ですがどこか、このアルバムには作為的なところが感じられます。それはドルフィーのデビュー作には感じられないものです。この違いはどこから来るのでしょうか。

 この『Coltrane』とドルフィーの『Outward Bound』とは最高水準のデビュー作としては似ていますが、『Outward Bound』はそのままレギュラーのライヴ・バンドでやっていけそうな造りでした。曲ごとに編成を使い分けている『Coltrane』は顔ぶれに絶妙な必然性があるにもかかわらずレギュラー・バンドにはなり得ない一回性の産物の観があり、プレスティッジ時代のコルトレーンは単独リーダー作だけでも1957年と1958年の2年間で12枚ものアルバムを録音したのにレギュラー・メンバーはついに持てませんでした。それはプレスティッジの方針から来る制約でもあり、コルトレーンにも意中のメンバーはいましたがアトランティックに移籍する1959年まで機会を待っていました。この『Coltrane』の出来映えと可能性は、残り1ダースものプレスティッジのアルバムを飛ばして(ブルー・ノートへのワンショット契約作品『Blue Trane』を途中経過として)アトランティック移籍後に開花すると言えます。その後のインパルス移籍後の時代も含めて、創造性の萌芽のすべてをこのデビュー作に込めただけに、本作はライヴ感の面はやや犠牲にした総花的な造りになったように思えます。

千家元麿「わが児は歩む」(詩集『自分は見た』大正7年=1918年より)

千家元麿(明治21年1888年生~昭和23年=1948年没)
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わが児は歩む

 千家元麿

吾(わ)が児は歩む
大地の上に下ろされて
翅(はね)を切られた鳥のやうに
危く走り逃げて行く
道の向ふには
地球を包んだ空が蒼々として、
底知らず蒼々として日はその上に大波を蹴ちらして居る
風は地の底から涼しく吹いて来る
自分は児供を追つてゆく
道は上がり下り、人は無関係に現われ又消える
明るく、或(あるひ)は暗く
景色は変る。

わが児は歩む
地の上に映つた小さな影に驚き
むやみに足を地から引離そうともち上げて
落ちてゐるものを拾つたり、捨てたり
自分の眼から隠れてしまひたい様に
幸福は足早に逃れて行こうとする
われを知らで、
どこまでも歩いて行く。その足の早さ、幸福の足の早さ。
道の端の蔭を撰んで下駄の歯入れ屋が荷を下ろして居る
わが児はそこに立止まる。
麦藁帽子のかげにゐる年寄りの顔を覗き込み
腰をかゞめて、ものを問ふ
歯入れ屋は、大きな眼鏡をはづして見せ、
気嫌好く乞はれたまゝに鼓をたゝく。
暫くそこでわが児は遊ぶ。

わが児は歩む
あちら、こちらに寄り道して、
翅を切られた鳥のやうに
幸福の足の危ふさ
向ふから屑屋が来る。
いゝ御天気で一杯屑の集つた大きな籠を背負つて来る。
わが児は遠くから待ち受けて居る。
屑屋はびつくりして立止まる。
わが児は晴々見上げて居る。
屑屋は笑つて、あとからついて行く自分に挨拶をする。
『可愛ゆい顔をしてゐる。』と、

郵便配達が自転車で来る、『あぶない』と思ふ間に、
うまく調子をとつて小供の側を、燕のやうにすりぬけて行く
わが児はびつくりして見送つて居る
郵便配達は勢ひよく体を左右に振つて見せ
わざと自転車をよろつかせて
暁方の星のやうに消えてゆく

わが児は歩む。
嬉々として、もう汗だらけになつて。
掴まるまいと大急ぎ
大きな犬が来る。彼よりも背が高い
然しわが児は驚かない、恐がら無い
喜んで見て居る。
笑ひ声を立ゝて犬のうしろについてゆく。

わが児は歩む、
誰にでも親しく挨拶し、関係のある無しに拘らず
通る人には誰にでも笑顔を見せる。
不機嫌な顔をした女や男が通つて
彼の挨拶に気がつかないと
彼は不審相に悲しい顔付をして見送る
がすぐ忘れてしまつて
嬉々として歩んでゆく。幸福の足の危さ。
幾度もつまづき、
ころんでも汚した手を気にし乍(なが)らますます元気に一生懸命にしつかり
歩こうとする。

未だ小学校へ入らない
いたずら盛りの汚ない児供が
メンコを打ち乍ら群れて来る。
忽(たちま)ち彼はその中に取り囲れる。
皆んなから何か質問される
わが児は横肥りの小さな体で真中に一人立つて小さい手をひろげて
小供を見上げて何か告げて居る
小供等は好奇心と親切を露骨に示しメンコを彼に分けてくれる。
何にでも気のつく小供等は彼の特色を発見して叫ぶ
『着物は綺麗だが頭でつかちだ』

かくして尚(なほ)も先へ先へと歩み行く
わが児をとらえて抱き上ぐれば
汗だらけになり、上気して
観念した様に青い眼をぢつと閉じて力がぬける
自分は驚いて幾度も名を呼びあわてゝ木蔭へつれこむそこにはひやひやと
火をさます風が吹いて来て、
彼は疲れ切って眠り入る。
一生懸命に歩き
一生懸命に活動したので、
自分の眼には涙が浮ぶ。

(初出・同人誌「愛の本」大正6年=1917年11月、詩集『自分は見た』より)


 大正時代に華族や名家の子息が創設した同人誌「白樺」は主に小説家・劇作家・画家を生み出しましたが、千家元麿(1888-1948)は「白樺派」唯一の専業詩人として優れた作品を残した人です。「白樺」では武者小路実篤が天衣無縫な詩を書き、有島武郎ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』の立派な訳詩集を刊行しましたが、生粋に詩人として名を残しているのは千家元麿に尽きると言ってよく、生涯に10冊の詩集、1冊の自伝的長編叙事詩、生前未刊の遺稿詩集1冊の他に大東亜戦争中の翼賛詩集1冊がありますが、翼賛詩集に関しては戦時中の詩人が報国義務として執筆刊行を強いられたものでした。没後に『千家元麿全集』が上下巻でまとめられましたが(昭和39年・40年、彌生書房刊)、二段組500ページの大冊2巻に収録されたのは全詩集・創作(小説・戯曲)・散文(批評・エッセイ・書簡)の1/3程度に過ぎず、完全な全詩集も全集も編まれていないので本格的な評価が進んだ詩人とは言えません。しかし千家元麿が兄事した武者小路実篤が第1詩集『自分は見た』(大正7年=1918年7月・玄文社刊)を「日本一の詩集」と激賞し、「楽園の詩人」と愛して止まなかった千家の資質は明治・大正・昭和三代の日本の現代詩でも珍しいのびのびとした大陸的性格を持ったもので、人道主義・民衆詩派と呼ばれた大正時代の流派の詩の中でも現在なお読むに足りる数少ない詩人のひとりです。この「わが児は歩む」はもう100年以上昔の詩篇ですが、ようやく外を歩けるようになった初めての幼児を連れて散歩する父親の喜びを市井の人々との交流とともに描き、ここに描かれた幼児と市井の人々の姿はさり気ない生活の喜びに満ちていて、大正6年の東京の下町をそのまま伝えてくれる千家元麿の心の美しさがそのまま見事な詩になっています。

 千家元麿は埼玉・静岡・東京知事・司法大臣を歴任した男爵・千家尊福の長男に生まれました。千家尊福明治26年に元旦が祝祭日に指定された時に「一月一日」(「年の始めの例とて……」)を作詞した人でもあります。元麿の母は名門の料亭の一人娘で、尊福の正妻には先に三女がありましたが男子は初めてだったので、庶子として正式に千家尊福長男の籍が与えられました。元麿は芸術家志望の青少年時代を過ごし、もともと父親同士が親友だった武者小路実篤が「白樺」を創刊した後で知遇を得ることになりましたが、「白樺」影響下の同人誌で活動していた元麿は直接の「白樺」同人との交友からそれまでの美術批評や戯曲・小説から詩作に進み、25歳の大正2年(1913年)から詩を発表するようになりました。また同年彫刻家の令嬢と両家の反対を押し切って恋愛結婚し、実家を離れて家庭を持つことになります。大正5年(1916年)には長男が生まれ、この頃から詩集刊行に向けて本格的に詩作に専念するようになりました。大正7年(1918年)1月には父・尊福が逝去し、7月刊行の第1詩集『自分は見た』には「此の初めての詩集を/亡き父に捧ぐ」と献辞があります。元麿は長男でしたが庶子のため家督を継がず、生業に就かなかったので、多作な詩人でしたが生活は折々貧窮し、千家家と夫人の実家からの援助を仰がざるを得なかったことも多々あったようです。夫人と間には次男も設けていましたが、大正11年(1922年)7月には生後2週間で新生児を亡くし、この出産後から夫人の体調が思わしくなくなります。また昭和4年(1929年)には松沢病院(単科の精神病院)に半年間入院し、退院後は10年間一切外出せずに自宅療養を送りました。『千家元麿全集』も千家元麿についての文献もまだ関係者の現存中当時のものばかりなので、私生活の推移については詳細がつまびらかではないのです。

 10冊目にして生前最後の詩集となった『蒼海詩集』の刊行は昭和11年(1936年)で、昭和16年(1941年)には長男が徴兵、昭和17年(1942年)には次男も徴兵され、同年に翼賛詩集『大東亜戦争戦曲』が刊行されています。昭和19年(1944年)2月には長男、この「わが児は歩む」に書かれている愛児がビルマで戦死、千家夫妻は遺骨の到着を待って疎開しましたが、病弱だった夫人は敗戦後半年の昭和21年(1946年)3月に疎開先で逝去しました。同年7月に次男が復員し、父子二人の四畳半生活が1年半続いたあと夫人の逝去から満2年後の昭和23年(1948年)3月、2週間病床に就いたのち、長男と夫人の後を追うように病没しました。享年59歳、晩年に書かれていた未刊詩集『燦花詩集』は昭和40年刊の『千家元麿全集』下巻で初めてまとめられました。この『千家元麿全集』上下巻が詩集・創作(小説・戯曲)・散文(批評・エッセイ・書簡)とも全著作の1/3の選集であり、私生活や故人の不名誉(戦時下のエッセイ、翼賛詩集など)に配慮した編集なのは前記した通りです。戦前には精神科入院があるのは鬱病双極性障害のみでなく統合失調様の病相があったと推定され、昭和期に詩作が激減したのは統合失調から長期の鬱病寛解したと思われますが、年譜や解説では最小限の略述しかないため断定できません。「わが児は歩む」を始めとして素晴らしい詩が並ぶ詩集『自分は見た』の詩人もまた、無垢な感性ゆえに大正~昭和の日本社会の激動に痛ましい生涯を送った人でした。しかし千家元麿の詩はその理想主義的な高さから現実との抵抗感を持ち、それが人生論詩や教訓詩、心境詩とは一線を画した純粋な詩ならではの感動を湛えているのも確かです。