人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2024年深夜春アニメ放映予定一覧(首都圏版)


f:id:hawkrose:20240328102232j:image
f:id:hawkrose:20240328102315j:image
f:id:hawkrose:20240328102348j:image

 2024年新作深夜春アニメ(4月~6月)放映予定の一覧を、首都圏地上波・無料BS局放映のみの作品に絞ってまとめました。有料BS局、有料配信サイトのみの新作もこのリスト以外にありますが、それらはのちに地上波局に降りてきてから改めて新作としてご紹介することにします。まだ放映日時未定作品もある上に、日時の変更、配信オリジナル作品の地上波初放送、さらに注目すべき再放送作品も予想されますが、それらは随時訂正・追補していきたいと思います。なおこの春の新作アニメは4月1日(月)から始まりますので、月曜始まり・放映時刻順に並べました。全国キー局・地方局のリストにすると膨大になるので首都圏版・無料BS局のみにしましたが、ほとんどの新作は各地方局、配信サイトで観られますので、参考にしていただければ幸いです。

●月曜日
◎神は遊戯に飢えている。
TOKYO MX:04/01(月) 22:30~
BS日テレ:04/02(火) 23:30~
◎終末トレインどこへいく?
TOKYO MX:04/01(月) 23:30~
BS11:04/01(月) 25:30~
◎Lv2からチートだった元勇者候補のまったり異世界ライフ
TOKYO MX:04/08(月) 24:00~
BS11:04/08(月) 24:30~
◎転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます
テレビ東京系:04/01(月) 24:00~
BS日テレ:04/01(月) 24:30~
◎ただいま、おかえり
TOKYO MX:04/08(月) 24:30~
BS日テレ:04/10(水) 25:00~
◎出来損ないと呼ばれた元英雄は、実家から追放されたので好き勝手に生きることにした
テレビ東京:04/01(月) 26:00~
BSテレ東:04/03(水) 24:30~

●火曜日
刀剣乱舞 廻 -虚伝 燃ゆる本能寺-
TOKYO MX:04/02(火) 23:00~
BS11:04/02(火) 23:00~
◎リンカイ!-RINKAI!-
TOKYO MX:04/09(火) 23:30~
>BSフジ:04/09(火) 24:30~
◎Unnamed Memory
TOKYO MX:04/09(火) 24:30~
BS11:04/09(火) 24:30~

●水曜日
◎声優ラジオのウラオモテ
TOKYO MX:04/10(水) 22:00~
BS日テレ:04/13(土) 23:00~
この素晴らしい世界に祝福を!3
TOKYO MX:04/10(水) 23:30~
BS11:04/10(水) 25:00~
◎怪異と乙女と神隠
TOKYO MX:04/10(水) 24:00~
BS日テレ:04/10(水) 24:00~
バーテンダー 神のグラス
テレビ東京:04/03(水) 24:00~
◎喧嘩独学
>フジテレビ:04/--(水) 24:55~
デート・ア・ライブV (第5期)
TOKYO MX:04/10(水) 25:00~
BS11:04/10(水) 25:30~
◎時光代理人-LINK CLICK- II
>フジテレビ:04/10(水) 25:25~

●木曜日
ゆるキャン△ SEASON3
TOKYO MX:04/04(木) 23:30~
BS11:04/04(木) 24:00~
◎花野井くんと恋の病
>TBS系:04/04(木) 23:56~
◎Re:Monster(リ・モンスター)
TOKYO MX:04/04(木) 24:00~
BS11:04/04(木) 24:30~
◎WIND BREAKER
>TBS系:04/04(木) 24:26~
◎変人のサラダボウル
>TBS:04/04(木) 25:28~
BS11:04/05(金) 23:00~

●金曜日
◎にじよん あにめーしょん2
TOKYO MX:04/05(金) 21:54~
BS11:04/08(月) 21:56~
◎アストロノオト
TOKYO MX:04/05(金) 22:30~
BS朝日:04/05(金) 23:00~
転生したらスライムだった件 第3期
日本テレビ系:04/05(金) 23:00~
BS11:04/06(土) 22:00~
魔法科高校の劣等生 第3シーズン
TOKYO MX:04/05(金) 23:30~
BS11:04/05(金) 23:30~
◎魔王学院の不適合者Ⅱ【後半クール】
TOKYO MX:04/12(金) 24:00~
BS11:04/12(金) 24:00~
◎ガールズバンドクライ
TOKYO MX:04/05(金) 24:30~
BS11:04/05(金) 24:30~
アイドルマスター シャイニーカラーズ
テレビ東京:04/05(金) 25:28~
BS11:04/08(月) 23:30~
BS日テレ:04/12(金) 22:30~
◎HIGHSPEED Étoile(ハイスピード エトワール)
>TBS:04/05(金) 25:53~
BS-TBS:04/05(金) 26:30~

●土曜日
◎シャドウバースF【アーク編】
テレビ東京系:04/13(土) 09:30~
◎オーイ!とんぼ
テレビ東京系:04/06(土) 10:00~
BSテレ東:04/08(月) 24:30~
僕のヒーローアカデミア 第7期
日本テレビ系:05/04(土) 17:30~
◎怪獣8号
テレビ東京系:04/13(土) 23:00~
鬼滅の刃 -柱稽古編- (※初回は全局1時間SP)
>フジテレビ系:05/12(日) 23:15~
TOKYO MX:05/18(土) 24:00~
BS11:05/18(土) 24:00~
黒執事 -寄宿学校編-
TOKYO MX:04/13(土) 23:30~
BS11:04/13(土) 23:30~
◎烏は主を選ばない
NHK総合:04/06(土) 23:45~
ザ・ファブル
日本テレビ系:04/06(土) 24:55~
◎夜のクラゲは泳げない
TOKYO MX:04/06(土) 25:00~
BS11:04/06(土) 25:00~
◎THE NEW GATE【ザ・ニュー・ゲート】
TOKYO MX:04/13(土) 25:30~
BS11:04/17(水) 20:00~
◎ささやくように恋を唄う
テレビ朝日系:04/13(土) 25:30~
BS朝日:04/14(日) 23:00~
◎となりの妖怪さん
テレビ朝日系:04/06(土) 26:00~
>BS12:04/11(木) 26:00~

●日曜日
シンカリオン チェンジ ザ ワールド
テレビ東京系:04/07(日) 08:30~
BSテレ東:04/07(日) 24:35~
◎ひみつのアイプリ
テレビ東京系:04/07(日) 10:00~
◎戦隊大失格
>TBS系:04/07(日) 16:30~
響け!ユーフォニアム3 【久美子3年生編】
NHK Eテレ:04/07(日) 17:00~
◎夜桜さんちの大作戦
>TBS系:04/07(日) 17:00~
死神坊ちゃんと黒メイド 第3期
TOKYO MX:04/07(日) 22:00~
BS11:04/07(日) 24:30~
◎ヴァンパイア男子寮
TOKYO MX:04/07(日) 23:30~
BS日テレ:04/07(日) 23:30~
◎転生貴族、鑑定スキルで成り上がる
>TBS系:04/07(日) 23:30~
無職転生 II ~異世界行ったら本気だす~ 【第2クール】
TOKYO MX:04/07(日) 24:00~
BS11:04/07(日) 24:00~
◎じいさんばあさん若返る
TOKYO MX:04/07(日) 24:30~
BS11:04/07(日) 25:05~

●放送日時未定
狼と香辛料 -merchant meets the wise wolf-
テレビ東京:04/--(-) ~
◎SHIBUYA♡HACHI
テレビ東京:04/--(-) ~
◎ブルーアーカイブ The Animation
テレビ東京系:04/--(-) ~
BS11:04/--(-) ~
◎忘却バッテリー
テレビ東京:04/--(-) ~
ポンコツエスト シーズン8
BS日テレ:04/--(-) ~
◎魔王の俺が奴隷エルフを嫁にしたんだが、どう愛でればいい?
TOKYO MX:04/--(-) ~
BS朝日:04/--(-) ~
◎龍族 -The Blazing Dawn-【日本語版】 -
ワンルーム、日当たり普通、天使つき。 -




映画「復活」(D・W・グリフィス, 1909)


f:id:hawkrose:20240302220728j:image

復活 Resurrection (Biograph Company, 1909.5.20) Silent, B&W, 12mins (originally Speed Screening : 15mins) : https://en.wikipedia.org/wiki/Resurrection_%281909_film%29?wprov=sfla1
https://youtu.be/SOl6KhNULCw?si=JnZzPip_7Vyp_YTR
https://youtu.be/jaRyGMyD270?si=fHTrPwJvbdLkAhtf

Based on Leo Tolstoy's 1899 novel "Resurrection", Adapted for the Screenplay by Frank E. Woods, D. W. Griffith, Cinematographed by Billy Bitzer, Directed by D. W. Griffith.

 19世紀ロシアの小説家レフ・トルストイ(1828~1910)の『復活』(1899年)は、『戦争と平和』(1869年)、『アンナ・カレーニナ』(1877年)と並んでトルストイの三大長篇小説として上げられますが、日本語訳の文庫版で4巻~6巻におよぶ『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』より規模の小さい作品ながら、『復活』もまた文庫版で上下巻750ページ(新潮文庫版)から1000ページ(岩波文庫版)におよびます。膨大な登場人物と交響楽的な構成を持つ『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』に較べると、『復活』は主人公の男女二人の悲劇的ロマンスにテーマが絞られているだけわかりやすく、またトルストイの国際的名声が定まって次作の刊行が待望されていた時期に発表されたため、トルストイの三大長篇ではもっとも親しまれた作品になりました。トルストイは1910年に82歳で単身放浪の途中で亡くなりましたが、トルストイ生前の1909年に『復活』はロシアとアメリカで映画化されています。ロシア版はフィルムの散佚により、今後プリントが発見されない限り観ることができませんが、アメリカでの初映画化はプリントが現存しており、現在でも古典的映画遺産として重視されています。

 もっとも映画史において40分~2時間の長篇映画が現れるようになったのは1912年~1914年のことで、さらに1906年~1908年頃までは「ニッケル・オデオン」と呼ばれるように、トリック撮影やダンス映像、有名戯曲の名場面集やショート・コントを見世物にした、5分~10分の短篇映画の時代でした。この「復活」も1.5リール(1リールは約10分)しかありませんが、ようやく映画が劇映画を意識して制作されるようになった最初期の作品で、のちに3時間を越える大長篇映画『国民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)で決定的な長篇映画時代をもたらした、D・W・グリフィス(1875~1948)が1908年に映画監督デビューした翌年の「復活」はまだ映画界全体もグリフィス作品も劇映画の黎明期で、技法も舞台劇のように俳優のセット内の演技をそのまま撮影する、といったものでした。グリフィスは1909年~1912年には「小麦の買い占め」「ピッグ・アレーの銃士たち」といった短篇でようやくパン、移動撮影(手持ち撮影、レール撮影、クレーン撮影、空中撮影)、モンタージュ、クローズアップ、カットバックら今日に引き継がれる映像技法を確立するので、「復活」の時点では基本的にワンシーン・ワンカットで舞台劇を観る観客の視点から物語を伝えるにすぎません。しかも1.5リールの短篇映画で大長篇小説『復活』を映画化しようという無謀な企画です。『復活』は世界各国でサイレント映画時代に13回、トーキー以降に11回、通算24回も映画化されていますが、このグリフィス版は同年のロシア版とともに最古の映画化であることで映画史に名を残します。脚本家のフランク・E・ウッドとともに共同脚色した、グリフィス版の短篇映画「復活」のあらすじを見てみましょう。
f:id:hawkrose:20240302220900j:image

(1-1)場面は青年貴族ディミトリ・ネフリュードフ(アーサー・V・ジョンソン)の帰国祝いのパーティーから始まります。着飾った社交界の女性たちに持てはやされる中、ディミトリ公爵はメイドのカチューシャ(フローレンス・ローレンス)の素朴な佇まいに目をとめて、花束の中から一輪の薔薇をカチューシャに与えます。
(1-2)カチューシャも一介のメイドにすぎない自分へのディミトリ公爵の優しさに惹かれ、公爵に渡された一輪の薔薇を持って自室で物思いにふけります。カチューシャを追って部屋で二人になった公爵は熱烈にカチューシャに迫り、二人は熱く抱擁しあい、キスします。
f:id:hawkrose:20240302220918j:image

字幕「Five years later in a low tavern」(五年後、安酒場で)
f:id:hawkrose:20240302220941j:image

(2-1)下町の安酒場で、堕落した姿に変わり果てたカチューシャが映されます。店主(マック・セネット)や酒場の女たちのといざこざの中、踏み込んできた警官たちが女たちを警察署に連行します。
(2-1)裁判の陪審員に選ばれ、法廷で佇んでいたディミトリ公爵は、裁判に連行されるカチューシャとすれ違い、大きなショックを受けます。
(2-2)公爵はカチューシャの弁護に立ち、減刑を懇願しますが、陪審員(マック・セネット、オーウェン・ムーア他)たちはカチューシャをシベリア送りにする判決を下します。
(2-3)カチューシャは拘置所に引きずり出され、ぼろぼろの衣服をまとった男女の最下層の囚人たち(マリオン・レオナルド他)とともに収監されます。

(3-1)悔い改めたディミトリ公爵は、監獄のカチューシャを訪れ、一冊の聖書を手渡します。カチューシャは最初面会人が公爵と気づきませんでしたが、気づくと激怒し、渡された聖書を振り回し公爵を追い払おうと殴りつけます。
(3-2)公爵が去ると、カチューシャは聖書を膝の上に置いて不機嫌そうに椅子に腰掛けます。カチューシャは聖書のページをめくり、その一節(ヨハネによる福音書11章25節)に目を落とします。
(3-3)聖書のページのアップ「イエスは彼女に言われた。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも、生きているであろう。」
(3-4)カチューシャは歓喜の表情を浮かべます。 救いの希望を抱いたカチューシャは聖書を読み続けます。そこに刑務官(マック・セネット他)たちが到着します。
f:id:hawkrose:20240302220958j:image

(4-1)シベリア送りになったカチューシャは最下層の囚人(マリオン・レオナルド、オーウェン・ムーア他)たちと雪の中を進みます。強制労働に従事する囚人たちに、常に聖書を携行したカチューシャは囚人たちを労り、看護し、奉仕し、信仰による救いを説いて慰めます。
(4-2)ディミトリ公爵はカチューシャの恩赦を勝ち取り、シベリアの地を訪れます。 公爵はカチューシャに恩赦状を見せ、妻として迎えたいと懇願します。 しかしカチューシャは公爵の願いを拒否し、シベリアの地で信仰と奉仕に従事したいと告げて公爵を見送ります。一人になったカチューシャは、山のふもとの雪の上にひざまずいたまま、黒地に白の十字架の装幀の聖書を抱いて祈りを捧げます。

 以上、この12分の短篇映画は4部構成で、各部は約3分で構成されています。1カット中に多少のパンニング(固定カメラの軸から、垂直または水平方向にカメラを振る撮影法)はありますが、第1部で2カット、第2部で3カット、第3部で4カット、第4部で2カットの全11カットしかなく、字幕も第1部と第2部の間の「五年後~」と、第3部3カット目の聖書のページのアップしかありません。第1部と「五年後」(原作小説では八年後です)の第2部には断絶があり、ディミトリ公爵がカチューシャを娶ろうとして身分差から結婚がかなわず、解雇されたカチューシャが酒場の娼婦に身を落とすまでの過程は描かれていません。またカチューシャの逮捕・シベリア送りは娼館を兼ねた安酒場で起きた殺人事件絡みなのですが、この短篇映画の映像では違法酒場の一斉検挙程度の描き方しかされていません。その辺りは当時の映画規制上描けなかったのか、アメリカでも特大ベストセラーになった原作小説を読んでいるか、あらすじだけでも知っている大衆の予備知識に任せたものでしょう。今日の映画(また1912年以降のグリフィス作品)と較べれば「演劇撮影の抜粋」「動く紙芝居」のような素朴さですが、115年前(!)の劇映画がどのようなものであったかを知るにはもってこいの作品です。残念ながら数年後のグリフィス作品のようにくり返し上映される人気作にはならなかったため、現存プリントの状態は芳しくありませんが(サイレント時代の映画にも素晴らしい画質で残されている作品はたくさんあります)、グリフィス専属カメラマンで世界中の映画カメラマンに影響を与えたビリー・ビッツァー(1872~1944)の初期の撮影作品としても価値の高い短篇映画です。

 短篇映画時代のグリフィスは2週に1本ペースで新作を発表していたので、この作品もグリフィスにとっては習作時代の一篇にすぎないとも、そうした製作ペースにあっては野心作かつ力作であったとも観ることができるでしょう。当時のバイオグラフ社のスター俳優アーサー・V・ジョンソンやフローレンス・ローレンス、すでにベテラン映画女優だったマリオン・レオナルドに加え、渋いバイ・プレイヤーのオーウェン・ムーアやのちに「キーストン映画社」を設立して大成する助監督マック・セネットが酒場(娼館)の店主、陪審員、刑務官と数種の兼ね役で出演しているのも面白く、社交界シーンも安酒場も裁判シーンも監獄も強制労働地シベリアも最小限のセットで書き割りに近いものですが、当時はまだハリウッドの撮影所がなく(ハリウッドに撮影所が拓かれたのは1910年代、それを映画撮影都市に拡大させ、定着させたのは、当時の大監督だったグリフィスやセシル・B・デミルの功績です)、ニューヨークの小撮影所で効率優先の映画製作がされていたので、このたった12分(24コマ/分の場合。おそらく当時は18コマ~20コマ/分・15分~16分の上映時間だったと推定されます)の「復活」は劇映画黎明期の見本として古典的な価値を誇ります。何よりまだ『復活』がトルストイの最新作としてベストセラーを続けていた時代、トルストイ生前の映画化という点で、原作小説『復活』とこの短篇映画「復活」は当時の映画脚色の上からも興味が尽きません。「映画について考えるということは、グリフィスについて考えることだ」(ジャン=リュック・ゴダール)。グリフィスが真に「映画の父」と呼ばれる由縁は1912年以降の作品群にありますが、トルストイの『復活』をお読みの方、あんな大作まだ読んでいないという方のどちらにも、この短篇映画「復活」は面白く観ることができる作品です。アメリカのみならずトルストイきってのポピュラーなベストセラー大作『復活』が、トルストイ生前どう読まれていたかを証言してくれる短篇映画でもあります。長篇映画時代なら2時間~3時間におよぶ内容がたった12分に凝縮されている作品として、映画、そして映像とは何かを改めて考えさせてくれる歴史的遺産です。

 

追悼・ダモ鈴木(1950~2024)

ダモ鈴木 (本名・鈴木健次、1950.1.16 - 2024.2.9)
f:id:hawkrose:20240226231612j:image

 旧西ドイツ1970年代最高のロック・バンド、カンの二代目ヴォーカリストにしてカン全盛期のフロントマンだった伝説的存在、ダモ鈴木さんの逝去を、遅ればせながら追悼したいと思います。1968年に結成されたカンは、ドイツ人メンバー4人に、ヴォーカリストとして当時西ドイツ留学中だったアメリカ人黒人画学生マルコム・ムーニー(1944~)を迎えて1969年に大傑作デビュー・アルバム『モンスター・ムーヴィー (Monster Movie)』(Music Factory/Liberty 1969.8)を制作・発表し、500枚をプレスした自主レーベルのミュージック・ファクトリー盤が即完売になったのを受けて、同年中に大手ユナイテッド・アーティスト・レコーズ傘下のリバティ・レーベルからメジャー・デビューしました。しかし留学中にホームシックでノイローゼに陥っていたムーニーはアルバム3~4枚分もの録音を残しながら『モンスター・ムーヴィー』完成直後には脱退・帰国してしまい、バンドは火急に二代目ヴォーカリストを探すことになります。そこで路上パフォーマンス中をスカウトされ、正式加入することになったのが19歳の日本人ヒッピー、ダモ鈴木で、ダモ加入後初めてのアルバムはムーニー時代の音源が半々の映画・テレビ番組への提供曲集『サウンドトラックス (Soundtracks)』(United Artists/Liberty, 1970.9)でしたが、続くダモ鈴木参加時代のアルバム『タゴ・マゴ (Tago Mago)』(United Artists, 1971.2)、『エーゲ・バミヤージ (Ege Bamyasi)』(United Artists, 1972.11)、『フューチャー・デイズ (Future Days)』(United Artists, 1973.8)は、『モンスター・ムーヴィー』『サウンドトラックス』、またダモ鈴木脱退後に発表されたドイツ人メンバー四人の力作『スーン・オーヴァー・ババルマ (Soon Over Babaluma)』(United Artists, 1974.11)、ムーニー、ダモ時代の未発表音源集『アンリミテッド・エディション (Unlimited Edition)』(Virgin/Caroline, 1976.5)、カン解散後に発表されたムーニー時代の未発表音源集『ディレイ1968 (Delay 1968)』(Spoon, 1981)とともに、メンバー分裂前のピンク・フロイドの10作(サントラ盤2作除く)、レッド・ツェッペリンの9作(ライヴ盤1作除く)、ロキシー・ミュージックの8作(ライヴ盤1作除く)に匹敵する作品群として1980年代以降ますます評価が高まり、カンを不動の1970年代の最重要ロック・バンドの地位に押し上げました。8作もの傑作アルバムがあり、しかもそのうち2作がLP2枚組大作となれば、今後もカンの評価は揺ぎないでしょう。そしてカンの絶頂期と見なされるのはダモ鈴木在籍時の3作『タゴ・マゴ』『エーゲ・バミヤージ』『フューチャー・デイズ』です。その間ダモ鈴木は20歳~23歳でした。今日『Tago Mago』『Ege Bamyasi』『Future Days』をカン3大傑作とする評価の例を上げると、シカゴのオンライン音楽誌「Pitchfork Media」が2004年6月に「Top 100 Albums of 1970s」の特集を組んでおり、カンのアルバムでは上記3作が入選しています。『Future Days』が56位(57位がポール・サイモンPaul Simon』1972、55位がニック・ドレイク『Bryter Layter』1970)、『Tago Mago』が29位(30位がマイルス・デイヴィス『On the Corner』1972、28位がザ・ビートルズ『Let It Be』1970)、『Ege Bamyasi』が19位(20位がT.レックス『Electric Warrior』1971、18位がマイルス・デイヴィス『Bitches Brew』1970)となっており、前後に並ぶアーティストやアルバムからも、カンが国際的に'70年代最重要バンドのひとつに位置づけられていることがわかります。

 神奈川県生まれのダモ鈴木こと鈴木健次は中学校在学中から新宿で最年少ヒッピー(フーテン)として名を馳せ、高校中退後の1960年代後半には単身日本を飛び出してアメリカへ密航し、以後アメリカ25州を経て世界各地を単独放浪して東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けていました。海外放浪のきっかけについて、ダモ自身は元から地理好き、かつ厚木基地の近くで育ったことを上げています。ヨーロッパに漂着してからの鈴木は、新聞に「パトロン募集」の広告を出し、ようやく物好きな金持ちのパトロンを得ますが、その生活にも飽き、路上でギターの弾き語りをしてヨーロッパ放浪を続けましたが、ギター演奏も自己流なら、曲もすべてその場の即興演奏でした。人目を惹くため長髪に火を点けたり、裸になったりとい奇行の数々をくり返し、ヨーロッパ各地を放浪していた鈴木健次が「ダモ鈴木」と名乗るようになったのは、森田拳次の漫画『丸出だめ夫』に由来するそうです。当初は「だめ夫鈴木」と名乗るも、西洋人には「だめ夫」は発音しづらく、いつの間にか訛って「ダモ」になり、のちにダモは「蛇毛」と漢字の当て字をするようになりました。

 一方当時のカンは、ライヴでもバンド自身の所有スタジオでの録音セッションでも、24時間以上連続で演奏を続け、演奏中に交代制で仮眠と食事を行い、また演奏に戻るという徹底した即興演奏集団でした。カンは1970年4月には脱退したムーニーに代わるヴォーカリストを探し、オーディションも行っていましたが、カンのメンバーの求める条件はムーニー同様ミュージシャン経験もないまったくの素人ヴォーカリストでありながらポテンシャルの高いパフォーマーという、通常のロック・バンドの基準からは外れたものでした。そんな中、ミュンヘンでの路上ライヴの小休止中に、ギターを弾きながら奇声をあげていたダモを発見したメンバーは、即日ダモをムーニーに代わる二代目ヴォーカリストとして採用します。ダモを迎えた初のカンのライヴは観客同士の乱闘騒ぎが発生し、数十人が警察に連行されるという騒ぎになるも、カンのメンバーはいよいよダモの潜在能力に期待を抱きます。もっともロックと言えばグランド・ファンク・レイルロードくらいに思っていたダモはカンの音楽に興味がなく、あくまでたまたま勧誘されて参加しただけでした。のちにダモは「年寄りばっかりで変なバンドだと思った」とインタビューに答えています。カンの中核メンバーは30歳を越えた、いずれもロック以外(現代音楽、フリージャズ、実験音楽)のキャリアを積んできたベテラン・ミュージシャン集団でした。マルコム・ムーニーといいダモ鈴木といい、カンという変なバンドは、アメリカのサイケデリック・モンスターのルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、ロッキー・エリクソン(13thフロア・エレヴェーターズ)、ジム・モリソン(ザ・ドアーズ)、ティム・バックリーに匹敵するヴォーカリストを、よくまあ見つけてきたものです。

 ダモ鈴木の加入とLP2枚組大作の傑作『タゴ・マゴ』によって国際進出を果たしたカンは、以降西ドイツ国内のみならずイギリス、フランス・ツアーも毎年のように成功させます。西ドイツのバンドではのちにタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールII、クラフトワークスコーピオンズが国際進出を果たしましたが、カンの国際的成功はそれらのバンドに先駆けていました。ダモ鈴木は『フューチャー・デイズ』発表後のセッション中に突然スタジオを脱走し、そのまま戻って来なかったと伝えられ、原因はさまざまに伝えられましたが(「エホヴァの証人の女性と結婚し、布教活動のため脱退した」という噂を後年のダモも否定せず、「それより『フューチャー・デイズ』で最高傑作を作ってしまい、カンには未練がなくなった」とつけ加えています)、のちのダモは消息を断ち、若手バンドと活動を再開していると判明した1990年代まで伝説的存在となりました。1970年代後半には一時日本に帰国し、日本のミュージシャンと対談しましたが、当時のダモと会った鈴木慶一や、サディスティック・ミカ・バンドのイギリス公演時に面識を得た高橋ユキヒロは「嫌な奴だった」と証言しています。カンほどのバンドで成功体験を経たダモ鈴木が日本のミュージシャンに尊大だったのは想像に堅くありません。

 1980年代に音楽活動したダモ鈴木の近況は、アンダーグラウンド・シーンのものだったためインターネットの普及から情報が知られるようになった1990年代まで相変わらず謎のままでした。しかしカンの再評価が高まるとともにダモ鈴木への注目度も一気に上がり、'90年代後半以降ダモ鈴木が残したアルバムは30作以上に渡ります。ダモ鈴木は2024年2月9日、雁のためケルンの自宅で、74歳で逝去しましたが、カン加入前から実践していた即興演奏歌唱(ダモ自身は「インスタント・コンポージング」と称していました)を貫いたヴォーカリストでした。歌詞もまた即興で英語、日本語、ドイツ語を自在に混交したもので、即興的に歌うメロディーも演歌のようなロックのような、ヒッピー時代のサイケデリック感覚に満ちたものでした。

 ダモ鈴木在籍時のカンは史上最強のサイケデリック・ロック・バンドでした。珍しくアルバムでのアレンジ通りにテレビ出演スタジオ・ライヴを行った、『タゴ・マゴ』冒頭の名曲「Paperhouse」の映像が残されています。バンドをおやりになったことのある方なら、カンの演奏の異様さ、独創性に驚嘆されるでしょう。このスカスカなアンサンブル、特にベースとドラムスのコンビネーションは、ベーシストにチャーリー・ヘイデン(1937~2014)を擁した、オリジナル・オーネット・コールマン・カルテットを彷彿させます。
Can - Paperhouse (TV Broadcast from "Beat Culb", 1971) : https://youtu.be/LPjF4ZHuIko?si=ZNl68KH_24HOBBqS
 また、ダモ鈴木加入後のカンが最初のセッションで完成した楽曲が、映画挿入歌用に録音された『サウンドトラックス』収録の佳曲「Don't Turn the Light on, Leave Me Alone」で、同曲はのちに村上春樹原作の映画『ノルウェーの森』にも再使用されています。この曲は「Paperhouse」同様リズム・パターンはラテン(サンバ)・ロックで、カンの音楽は本質的にはファンクをベースにしたロックなのですが、あまりにダウナーなサイケデリック感覚に富んだ異様な演奏とヴォーカルのため、ラテン・ロックにもファンクにも聴こえません。ラテン・ビートなのでフルートもダビングされていますが、サンバ的な陽気さとは真逆の陰鬱なムードのためにユーモラスにすら聴こえるほどです。この「Don't Turn the Light on, Leave Me Alone」ではドラムスも異様で、バス・ドラムの皮をぎりぎりまで緩めて水平にセットして、おそらく数人がかりでマレットで叩いたと思われるサウンドが聴けますが、その発想も異常なら、こんなサウンドはカンのアルバムでしか聴けないというものです。また、同アルバムで聴けるダモ加入直後最高の1曲はイエジー・スコリモフスキ監督作『早春』に提供された14分もの「Mother Sky」で、同曲は当時のカンのライヴを1時間半フル・セット収録した、テレビ用の観客入りスタジオ・ライヴ・ヴァージョンの映像での演奏も観ることができます。特にダモ鈴木が加入して半年ほどの1970年の全8曲・85分(リンク先の曲順は間違っており、「Bring Me Coffee or Tea」は6曲目で「Don't Turn the Light on~」は7曲目、8曲目の「Paperhouse」でライヴは終了しています)のテレビ用スタジオ・ライヴは、当時のカンがすでに全盛期のヴェルヴェット・アンダーグラウンドやザ・ドアーズに匹敵するサイケデリック・モンスターであり、ピンク・フロイドレッド・ツェッペリンにも遜色ないポテンシャルを秘めたバンドだったのを思い知らせます。
Can - Don't Turn the Light on, Leave Me Alone / Mother Sky (from the album "Soundtracks", United Artists/Liberty, 1970) : https://youtu.be/Y3102Jo8OuM?si=O8uZgTvCtFS4GRtr
https://youtu.be/W_NawuudzXM?si=GqaY_10yXQz_5IfQ
https://youtu.be/7zhdNviS0Vs?si=zTNBSeesE4wcSKy9
 カンのオリジナル・メンバーは現代音楽出身のイルミン・シュミット(1937~, キーボード、シンセサイザー)、実験音楽出身のホルガー・シューカイ(1938~2017, ベース、エンジニア)、フリー・ジャズ出身のヤキ・リーベツァイト(1938~2017, ドラムス、パーカッション、フルート)、シューカイの生徒でR&B好きだったミヒャエル・カローリ(1948~2001, ギター、ヴァイオリン、ヴォーカル)のドイツ人四人に、マルコム・ムーニー(1944~, ヴォーカル)が初代ヴォーカリストダモ鈴木(1950~2024, ヴォーカル)が二代目ヴォーカリストとして加わったものでした。解散後もメンバーはイルミン夫人のヒルダが運営するスプーン・レコーズに所属していたので、おたがいのソロ・アルバムに参加しあい、再発プロジェクトのたびに結集し、2000年にはカン・プロジェクトとしてイルミン、ヤキ、ミヒャエルの3人が来日公演を行う予定でしたが、翌年病没するミヒャエルの病状悪化により中止となっています。ミヒャエルに続いて2017年にはキーパーソンというべきホルガー、ヤキも逝去し、ダモ鈴木も逝去してしまった現在、未発表音源の発表こそあれカンの再結成、またカン名義の新作はあり得ないでしょう。ダモ鈴木ウィキペディアにおいてヨーコ・オノとともにもっとも重視されている日本出身のミュージシャンです。ニュース・サイトで訃報が伝えられなかったのが不思議でなりません。

2024年冬アニメ(1月~)放映予定一覧・首都圏版

f:id:hawkrose:20231231090523j:image
f:id:hawkrose:20231231090653j:image

 毎季恒例、今回も2024年1月からの新作深夜冬アニメを、首都圏版のみながらリストにしました。有料配信番組は地上波まで下りてくるまで除外し、地上波局と無料BS局のみに絞りました。首都圏以外でもほとんどの作品は地方局、配信サイト(TVerAmebaTVなど)で観られますので、参考にしていただければ幸いです。現時点では放映予定判明分まで上げますが、秋アニメからの継続クール、再放送作品などは判明するたび追加する予定です。1月からの冬アニメの視聴予定のご参考にしていただければ幸いです。なお新作冬アニメは1月3日(水)から始まりますので、曜日別は水曜日始まりの一覧にしました。

●水曜日
弱キャラ友崎くん 2nd STAGE
TOKYO MX:01/03(水) 22:00~
BS11:01/03(水) 24:00~
ようこそ実力至上主義の教室へ 3rd Season
TOKYO MX:01/03(水) 23:30~
BS日テレ:01/03(水) 24:30~
戦国妖狐
TOKYO MX:01/10(水) 24:00~
BS朝日:01/12(金) 23:30~
◎30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい
テレビ東京:01/10(水) 24:00~
BSテレ東:01/10(水) 24:30~
◎メタリックルージュ
>フジテレビ:01/10(水) 24:55~
◎外科医エリーゼ
TOKYO MX:01/10(水) 25:00~
BS日テレ:01/10(水) 25:00~
◎百妖譜(ひゃくようふ)
>フジテレビ:01/10(水) 25:25~
>BSフジ:01/11(木) 24:30~
魔法少女にあこがれて
TOKYO MX:01/03(水) 25:30~
BS11:01/03(水) 25:30~
◎異修羅
TOKYO MX:01/03(水) ~
BS日テレ:01/--(-) ~

●木曜日
◎月刊モー想科学
TOKYO MX:01/11(木) 23:30~
◎勇気爆発バーンブレイバーン
>TBS系:01/11(木) 23:56~
◎魔都精兵のスレイブ
TOKYO MX:01/04(木) 24:00~
BS朝日:01/07(日) 25:30~
◎即死チートが最強すぎて、異世界のやつらがまるで相手にならないんですが。
TOKYO MX:01/04(木) 24:30~
BS11:01/04(木) 24:30~
うる星やつら 新作 第2期
>フジテレビ:--/--(木) 24:55~

●金曜日
◎超普通県チバ伝説
TOKYO MX:01/05(金) 21:54~
◎佐々木とピーちゃん
TOKYO MX:01/05(金) 22:30~
BS日テレ:01/06(土) 23:00~
◎最弱テイマーはゴミ拾いの旅を始めました。
TOKYO MX:01/12(金) 23:00~
BS朝日:01/12(金) 23:00~
◎葬送のフリーレン【第2クール】
日本テレビ系:01/05(金) 23:00~
◎百千さん家のあやかし王子
TOKYO MX:01/05(金) 24:00~
BS11:01/05(金) 24:00~
◎治癒魔法の間違った使い方
TOKYO MX:01/05(金) 24:30~
BS11:01/05(金) 24:30~
◎スナックバス江
TOKYO MX:01/12(金) 25:05~
BS朝日:01/14(日) 23:30~
◎ぽんのみち
>TBS:01/05(金) 25:53~
BS-TBS:01/05(金) 26:30~

●土曜日

◎[再]宇宙よりも遠い場所
Eテレ:01/06(土) 18:25~
◎結婚指輪物語
TOKYO MX:01/06(土) 22:00~
BS11:01/06(土) 22:00~
◎ゆびさきと恋々
TOKYO MX:01/06(土) 22:30~
BS日テレ:01/06(土) 22:30~
◎ぶっちぎり?
テレビ東京系:01/13(土) 23:00~
◎マッシュル-MASHLE- 第2期
TOKYO MX:01/06(土) 23:30~
◎俺だけレベルアップな件
TOKYO MX:01/06(土) 24:00~
BS11:01/06(土) 24:00~
◎キングダム 第5シリーズ
NHK総合:01/06(土) 24:00~
青の祓魔師 -島根啓明結社篇-(第3期)
TOKYO MX:01/06(土) 24:30~
BS11:01/06(土) 24:30~
薬屋のひとりごと【第2クール】
日本テレビ系:01/13(土) 25:05~
◎僕の心のヤバイやつ 第2期
テレビ朝日系:01/06(土) 25:30~
BS朝日:01/13(土) 25:00~
◎最強タンクの迷宮攻略~体力9999のレアスキル持ちタンク、勇者パーティーを追放される~
テレビ朝日系:01/06(土) 26:00~
>BS12:01/11(木) 26:00~

●日曜日
◎天官賜福 貮(第2期)【日本語吹替版】
TOKYO MX:01/07(日) 21:30~
BS11:01/07(日) 22:30~
異世界でもふもふなでなでするためにがんばってます。
TOKYO MX:01/07(日) 22:00~
BS11:01/07(日) 23:30~
◎ループ7回目の悪役令嬢は、元敵国で自由気ままな花嫁生活を満喫す
TOKYO MX:01/07(日) 24:00~
BS11:01/07(日) 24:30~
◎真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました 第2期
TOKYO MX:01/07(日) 24:30~
BS日テレ:01/08(月) 24:00~
◎悶えてよ、アダムくん
TOKYO MX:01/07(日) 25:00~
BS11:01/07(日) 25:00~
◎闇芝居 十二期
テレビ東京:01/14(日) 26:35~

●月曜日
◎HIGH CARD Season2
TOKYO MX:01/08(月) 22:30~
BS11:01/08(月) 23:00~
◎月が導く異世界道中 第2期
TOKYO MX:01/08(月) 23:00~
BS日テレ:01/08(月) 23:00~
◎姫様“拷問”の時間です
TOKYO MX:01/08(月) 24:00~
BS11:01/08(月) 24:00~
◎SYNDUALITY Noir(シンデュアリティ ノアール) 【第2クール】
テレビ東京系:01/08(月) 24:00~
BS日テレ:01/08(月) 24:30~
◎望まぬ不死の冒険者
TOKYO MX:01/08(月) 24:30~
BS日テレ:01/09(火) 23:30~
◎道産子ギャルはなまらめんこい
テレビ東京:01/08(月) 24:30~
BSテレ東:01/08(月) 24:30~
◎愚かな天使は悪魔と踊る
テレビ東京:01/08(月) 25:30~
BSテレ東:01/11(木) 24:30~

●火曜日
◎SHAMAN KING FLOWERS -シャーマンキング フラワーズ-
テレビ東京系:01/09(火) 24:00~
BSテレ東:01/09(火) 24:30~
◎悪役令嬢レベル99~私は裏ボスですが魔王ではありません~
TOKYO MX:01/09(火) 24:30~
BS11:01/09(火) 24:30~
銀河英雄伝説 Die Neue These【全48話】
日本テレビ:01/16(火) 25:29~

●放映日時未定
◎貼りまわれ!こいぬ
テレビ東京:01/--(-) ~
カードファイト!! ヴァンガード【Divinez】 (Dシリーズ 第6期)
>2024/01/--(-)
◎最強王図鑑
>2024/01/--(-)
ダンジョン飯
>2024/01/--(-)
◎魔女と野獣
>TBS:01/--(-) ~
BS11:01/--(-) ~

モーパッサンの小説論


f:id:hawkrose:20231218202906j:image

 ギイ・ド・モーパッサン(1850~1893)の作家活動は実質10年間という短いものでした。20代で役人生活のかたわら伯父の親友で母の知り合いでもあったギュスターヴ・フローベール(1820~1880)の薫陶を受け、エミール・ゾラ(1840~1902)らフローベールの弟子たちと交わりながら習作を重ね、30歳を迎えた1880年4月にゾラ主宰の同人作品集に発表した中篇小説『脂肪の塊』(校正刷りで読んだフローベールは「叙述、劇的効果、観察の三方面に渡って、文句なしの傑作」と絶讚しました)が出世作になり、同年5月のフローベールの逝去と入れ替わるようにしてゾラとともに一躍フランス小説界の重鎮となったモーパッサンは、30代いっぱいの1890年までに『詩集』を1冊、第一短篇集『テリエ館』を始めとした短篇集15冊(生前の単行本未収録作品を含めて約260篇)、トルストイに激賞された1993年の第一長篇『女の一生』を皮切りに『ベラミ』『モントリオル』『ピエールとジャン』『死の如く強し』『我らの心(『わたしたちの心』『男ごころ』)』の長篇小説6作、長篇紀行文『太陽の下に』『水の上』『放浪生活』の3冊を発表します。しかし1888年には30代前半から持病になっていた神経痛、心臓病、眼疾も急速に悪化して1889年には麻酔薬の常用から奇行が目立つようになり、41歳の1891年には友人との合作戯曲の上演の他創作はなく梅毒の悪化から発狂し、1892年には狂乱状態でナイフ自殺を図り、そのまま精神病院に入院しますが、病状は回復せず、退院することなく43歳の誕生日の1か月前の1893年7月に死去しました。モーパッサン晩年の1892年(明治25年)には島崎藤村が文芸機関誌にゾラとモーパッサンの比較論文を発表しており、最新の外国文学思潮を代表する作家としてすでに生前から日本の文学者たちにも注目されていましたが、その創作期間はモーパッサンがちょうど30代の1880年~1890年の10年間(明治13年~23年)に集中していました。やはり画期的な業績を残しながら、晩年2年間は梅毒の病状悪化で廃疾者になった例にはモーパッサンの師フローベールの盟友シャルル・ボードレール(1821~1867)がいますが、モーパッサンもまた晩年2年間は病状悪化によって創作力を失い、狂気の中で死を迎える悲劇的な末期をたどりました。

 モーパッサンレフ・トルストイ(1828~1910)の中篇小説『イワン・イリイチの死』(1886年)を読んで(当時フランス文壇とロシア文壇は密接な交流がありました)、「私の10巻もの作品はすべて無価値になった」と悄然としたと言われますが、1888年刊の第四長篇『ピエールとジャン』は、『女の一生』、さらに翻訳では上下巻の大冊になる浩瀚な力作『ベラミ』と『モントリオル』の自然主義小説的作風から趣きを変えて、当時60代にさしかかっていたロシアの大作家トルストイの心理小説からの感化が見られます。その省察と抱負が『ピエールとジャン』の雑誌連載に先だって発表され、序文として巻頭に置かれたエッセイ「小説について」で表明されています。

「私はここでこの後に続く拙い小説のための弁護を試みる意図を持ってはいない。それどころか、私がこれから理解していただこうという考えは、むしろ私が『ピエールとジャン』の中で企てた心理研究的ジャンルへの批判を必然に伴うであろう。」
「小説を作るのに規則があるだろうか?それを外れたなら、物語の形式で書かれた文章が『小説』ではない、と呼ばれてしまうだろう規則が?」
「『ドン・キホーテ』が小説であるなら、『赤と黒』は何だろう?やはり小説だろうか?『モンテ・クリスト伯』が小説であるなら『居酒屋』も小説だろうか?ゲーテの『親和力』とデュマの『三銃士』とフローベールの『ボヴァリー夫人』との間に比較を立てることができるだろうか?」

 ここでモーパッサンが言おうとしていることは、例に上げられた著名な小説の適切な選択とともに、非常に明晰です。独自な個々の小説に、先行作品に似ている必要はなく、また一律の基準で優劣をつけることはできないということで、

「すべての作家は、ヴィクトル・ユーゴーもゾラ氏も、敢然として勝手な小説を作る権利を、すなわち自分一個の芸術観に従って創造し、あるいは観察する絶対権を、議論の余地なく要求したものである。」

 とモーパッサンは小説創作が自発的で自律的である権利を主張します。さらにモーパッサンは実作者として、作家に読者が期待しているであろうことを、作家の立場から考察します。

「読者というのは、書物の中でひとえに自分の精神の本来の傾向を満足させることを求めるので、作家に対して自分の支配的な好みに応えてくれるよう要求する。そして理想主義的な、あるいは快活な、あるいは猥雑な、あるいは陰気な、あるいは夢見がちな、あるいは現実的な、それぞれの想像力に気に入る本なりその一節なりを、相も変わらず「素晴らしい」とか「よく書けている」とか評して品定めする」

「要するに読者という集団は、作家に向かってさまざまに叫ぶ大衆から出来ている。
--慰めてくれ。
--楽しませてくれ。
--悲しがらせてくれ。
--感動させてくれ。
--夢想に耽らせてくれ。
--笑わせてくれ。
--戦慄させてくれ。
--泣かせてくれ。
--考えさせてくれ。」

 19世紀後半、1888年のフランスにしてすでに、読者の要求は今日の21世紀日本の消費者(文学、美術、音楽からアニメにいたる「ユーザー」)と変わりないのが痛感されます。1888年は日本で言えば明治21年に当たります。硯友社文学台頭期の日本にあっても読者が創作者に求める要件はさほど変わりがなかったでしょう。「期待通りの作品を提供せよ(give the people what they want)、さもなければその作者は無能だ」という論調は、すでに創作の享受者が貴族や知識階級ではなく、一般市民層になった19世紀には始まっていたのです。

「ただ、少数の思慮深い精神だけが、芸術家に向かってこう要求する。
--何か美しいものを創ってくれ。あなたに一番合った形式で、あなたの気質に応じて。」

 ここまでが「小説について」の前半1/3で、後半2/3は『ピエールとジャン』の創作に当たってモーパッサンがいかに過去の自作を乗り越えようと企てたか、さらにあるべき写実小説の考察と小説形式そのものの未来への展望まで進みますが、ここでモーパッサンは師のフローベールとも、年輩の盟友ゾラとも違う独自の小説の可能性を模索し、その成果としてモーパッサンの長篇小説中もっとも短く、兄弟の出生の秘密・母の悲しみというシンプルでミステリー仕立てのプロットに凝縮された名作『ピエールとジャン』が生まれ、モーパッサンが生涯に残した長篇小説6作のうち前期3作『女の一生』『ベラミ』『モントリオル』と、後期3作『ピエールとジャン』『死の如く強し』『我らの心』を分ける分水嶺になったのが、このエッセイ「小説について」です。モーパッサンのこのエッセイはゾラ1879年の自然主義小説マニフェスト「実験小説論」に匹敵し、自然主義文学にとどまらない文学考察としてモーパッサン筆生の力作と言えるものです。モーパッサンは短篇小説「首飾り」、長篇小説『女の一生』が突出して広く読まれているため軽んじられがちな存在ですが、バルザックやゾラ同様むしろ今こそ読み返される意義の大きい、閃光のように鋭い作家です。ルイス・ブニュエルは『ピエールとジャン』を兄弟の母をヒロインとした女性映画として映画化しましたが、ピエールとジャン兄弟の諍いから息子たちの出生の秘密をめぐる母の悲しみが浮かび上がってくるモーパッサンの原作も圧巻なら、時系列を追って母をヒロインとして映画化したブニュエルの『愛なき女』も素晴らしい出来で、成功した映画化作品の多いゾラ同様モーパッサンもまた詩的感受性こそが魅力をなしている小説家なのがもっとも端的に表れている作品こそ『ピエールとジャン』です。モーパッサンはすでに余命5年、創作活動の限界は残り2年にさしかっていました。未訳のうちに夏目漱石は『女の一生』と『ピエールとジャン』の英訳を読み、モーパッサンをあまり好きではないとしながら『ピエールとジャン』については「名作ナリ。Une Vieノ比ニアラズ。」と日記に記していますが、兄弟の確執、出生の秘密、明るみになる過去という題材はいかにも漱石好みと言えそうです。短篇集、傑作中篇『脂肪の塊』、第一長篇『女の一生』でモーパッサンはもういいや、という読者の方にもぜひお薦めしたい名作です。

デニー・レイン(ウイングス)逝去


f:id:hawkrose:20231208210727j:image

https://news.yahoo.co.jp/articles/e908dcb5b1c540642aea76328fdccd5f7a704c14
 ポール・マッカートニー(1942~)が率いたウイングスの名盤『バンド・オン・ザ・ラン』(アメリカ盤1973年12月4日先行発売)から50周年を記念した「50周年アニヴァーサリー・エディション」が発売されるニュースがサイト上に流れてきましたが、そういやポール・マッカートニー、リンダ・マッカートニーのマッカートニー夫妻以外結成から解散まで唯一オリジナル・メンバーとして在籍したデニー・レイン(Denny Laine、元ムーディー・ブルース~ウイングス)は今何しているんだろうと調べたところ、つい先日の2023年12月4日に亡くなっていたのを知りました。1944年10月生まれですから享年満79歳となります。ネット上での訃報はまったく見なかったので、新聞には載ったかもしれませんが、新聞を取らなくなってネット・ニュースが頼りの筆者には寝耳に水でした。ポール・マッカートニービートルズ解散以降唯一レギュラー・バンドとして組んだウイングスの全アルバムは、

『ワイルド・ライフ』 Wild Life (1971年12月7日、英#11/米#10)
『レッド・ローズ・スピードウェイ』Red Rose Speedway (1973年4月30日、英#5/米3週#1)
『バンド・オン・ザ・ラン』Band on the Run (1973年12月4日、英7週#1/米4週#1)
『ヴィーナス・アンド・マース』Venus and Mars (1975年5月30日、英2週#1/米1週#1)
『スピード・オブ・サウンド』Wings at Speed of Sound (1976年3月26日、英#2/米7週#1・年間#3)
『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』Wings Over America (1976年12月10日、英#8/米1週#1)
『ロンドン・タウン』London Town (1978年3月31日、英#4/米#2)
『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』 Wings Greatest (1978年11月22日、英#5/米#29)
『バック・トゥ・ジ・エッグ』Back to the Egg (1979年6月8日、英#6/米#8)

 と、スタジオ盤7作、ライヴ盤1作、ベスト盤1作をリリースし、1980年には来日ツアーが行われる予定でしたが、1980年1月16日に税関でポールが219グラムの大麻を所持していたことが発覚、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕され、来日公演は全日程中止、5日後の21日にはポール以外のメンバーは全員帰国します。ポールは9日間の勾留後釈放され、国外退去処分を受けて帰国し、『バック・トゥ・ジ・エッグ』発表後にソロ・アルバムとして制作していた『マッカートニーII』(McCartney II) (1980年5月16日、英#1/米#3)をリリースし、日本では収録曲のインストルメンタル曲「Frozen Jap」が問題になり同曲は日本盤のみ「Frozen Japanese」に改題されました。『マッカートニーII』はヒット・アルバムになり、シングル・カット曲「カミング・アップ」はスタジオ・ヴァージョンが全英2位、アメリカではウイングスによるライヴ・ヴァージョンがNo.1ヒットになりましたが、『ロンドン・タウン』『バック・トゥ・ジ・エッグ』のリリース時同様プロモーション・ツアーは行われず、ポールはデニー・レインを始めとする来日公演中止時のウイングスのメンバーとともに次作のレコーディングを始めますが、1980年12月8日のジョン・レノン殺害の報を受けてレコーディングは中断してしまいます。制作再開後にアルバムはウイングスでなくポールのソロ・アルバムとして仕切り直され、同作が『タッグ・オブ・ウォー』(Tug of War) (1982年4月5日、英2週#1/米3週#1)として大成功を収めるとともにウイングスも自然解散します。結局「カミング・アップ」のシングル・ライヴ・ヴァージョンがウイングス最後のリリースになりました。

 ウイングスはポール&リンダ・マッカートニー夫妻とデニー・レイン以外はメンバーの出入りの激しいバンドで、ウイングスとしてのデビュー作『ワイルド・ライフ』はドラマーのデニー・シーウェルを含む四人編成でしたが、次作『レッド・ローズ・スピードウェイ』ではヘンリー・マカロック(リード・ギター)を増員した5人編成になるも、次作のナイジェリア録音作『バンド・オン・ザ・ラン』(当初の邦題は『バンドは荒野をめざす』でした)ではマッカートニー夫妻とデニー・レイン以外はスタジオ・ミュージシャンを起用しています。「ビートルズ解散以降のポールの最高傑作」と絶讚され大ヒットした同作を受けて、ポールは『ワイルド・ライフ』以来再びライヴ・バンドとしてのウイングスの増強を計り、ジミー・マカロック(リード・ギター)、ジョー・イングリッシュ(ドラムス)を加入させて『ヴィーナス・アンド・マース』『スピード・オブ・サウンド』を制作発表、『バンド・オン・ザ・ラン』の作風をさらにゴージャスにした『ヴィーナス~』、またバンドとしてのウイングスを強調し、全11曲中5曲がポール以外のメンバーが自作曲でリード・ヴォーカルを取り(レイン2曲、リンダ1曲、マカロック1曲、イングリッシュ1曲)、ポールの自作曲でリード・ヴォーカル曲が6曲の『スピード~』も、全米ツアー中にリリースされたタイミングとポールのヴォーカル曲「心のラヴ・ソング」(英#2/米5週#1)、「幸せのノック」(英#2/米#3)の2大ヒットで『バンド・オン・ザ・ラン』以来の絶頂期を保ちました。『ヴィーナス~』以来のメンバーに4人のホーン・セクションを加えて1976年3月~5月の全米ツアーから収録されたLP3枚組の大作ライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』もビートルズ解散以降のポールの集大成として大ヒットし、ここまでがウイングス全盛期と言えます。

 次の『ロンドン・タウン』ではジミー・マカロックとジョー・イングリッシュが脱退、リンダも産休のため実質ポールとデニー・レインの二人で制作され、もっともイギリス色かつデニー・レイン色の強いアルバムで、ディスコ・ブームの中チャートでは苦戦したアルバムになりました。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』 は全12曲中5曲がアルバム未収録シングルで、特にポールとデニー・レインの共作でイギリスでは1977年11月にリリースされ全英1位、年間チャート1位で200万枚以上を売り上げたスコットランド民謡調の「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」の収録で好評を博し、ディスコ・ミュージックを意識した『バック・トゥ・ジ・エッグ』ではローレンス・ジューバー(リード・ギター)、スティーヴ・ホリー(ドラムス)を迎えてバンドの建て直しが計られましたが、リンダの育休からツアーが行われず再びチャートでは苦戦します。ようやくリンダの育休明けでポール、リンダ、デニー・レイン、ローレンス・ジューバー、スティーヴ・ホリーのラインナップのライヴ・ツアーが1980年1月から行われようとした矢先に来日公演が中止になり、さらにジョン・レノンの逝去による紆余曲折を経て、当初ウイングス作品として制作され始めたアルバムがポールのソロ・アルバム『タッグ・オブ・ウォー』になり、同作の大ヒットによりウイングスが自然消滅したのは前述の通りです。ウイングスはリンダ夫人の素人コーラスにも大きな魅力がありましたが、デニー・レインはムーディー・ブルース時代はリーダーでリード・ヴォーカリストのマルチ・プレイヤーだったので、ウイングスでの役割は本来ベーシストのポールが曲ごとにアコースティック・ギターやピアノ、ぎんぎんのリード・ギターに持ち替えるたびに、レインがベース、ピアノ、ギターのパートを代わるというサポート役が役割でした。ただしウイングス時代のポールは冴えまくっていて、ビートルズ級の曲を息でも吸うように連発していたので、器用なミュージシャンであれば別にデニー・レインでなくても良かったと思わせる所にデニー・レインの影の薄さがありました。


f:id:hawkrose:20231208212010j:image
 デニー・レインはムーディー・ブルースの創設メンバーで、1964年11月にR&Bナンバーをカヴァーした「ゴー・ナウ (Go Now)」は全英1位・全米10位の大ヒットを記録しましたが、リーダーでリード・ヴォーカリストだったレインはムーディー・ブルースを1965年のファースト・アルバムのみで脱退しており、レイン以外のメンバーがジャスティン・ヘイワードとジョン・ロッジを迎えて再デビューした1967年以降のムーディー・ブルースは実質的には再結成バンドと見なせます。デニー・レインがウイングス在籍中に発表したソロ・アルバムは1973年の『Ahh...Laine』と1977年の『Holly Days』がありますが、日本発売もされた1980年12月の『Japanese Tears』はあからさまな日本公演中止への当て付けと、「ゴー・ナウ」の再々演(ウイングスのステージでもデニー・レインの定番曲として演奏されていました)で日本のポール・マッカートニー・ファンの不興を買いました。ポールはデニー・レインをウイングスのNo.2として重用していましたが、結局デニー・レインの代表曲は、一般的にはムーディー・ブルース時代のカヴァー曲「ゴー・ナウ (Go Now)」、そしてウイングスでポールと共作した「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」に尽きるでしょう。また『バンド・オン・ザ・ラン』『ロンドン・タウン』の2作は実質的にポールとデニー・レインだけがウイングス名義で発表したアルバムでした。ウイングスでのデニー・レインはポールの忠実な子分をまっとうしたので唯一のオリジナル・メンバーになったとも言えます。カヴァー曲「ゴー・ナウ (Go Now)」、ポールとの共作「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」、それで十分だと思えます。ウイングス解散後のデニー・レインは元ウイングス仲間とトリビュート・バンド活動を中心とし、晩年1年間はCOVID-19の後遺症で闘病生活を送りましたが、最後のライヴは逝去の1週間前、2023年11月27日のチャリティー・コンサートだったそうです。おそらくそこでも「ゴー・ナウ」と「夢の旅人」を歌ったものと思われます。また『バンド・オン・ザ・ラン』発売のきっかり50年後の日付で逝去したのも、何か天の配采のような気がします。
https://youtu.be/V2L3UzM_FfE?si=ntz3oTQGiUYKDUFP
https://youtu.be/gMee_r95Nfs?si=jy7DVdSNU6evGIPR
https://youtu.be/Plhtk_XJqhM?si=yJDXt8SdXekN8op6

ミッキー・ドレンツ(ザ・モンキーズ)最新作!

ドレンツ・シングス・R.E.M. (7a Records, 2023)
f:id:hawkrose:20231122143244j:image

Dolenz Sings R.E.M. (EP, 7a Records, 2023) : https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kVXGHk9fih8Aak3vqq8sJAnshsGbKJ8GY&si=LLWDXQ-X5j-WGUe-
Released by 7A Records 7A061EP (12\", 33 ⅓ RPM, EP, Yellow Vinyl), 7A060 (CD, EP), November 3, 2023
Produced by Christian Nesmith
All Songs Written by R.E.M. (Michael Stipe, Peter Buck, Mike Mills)
(Tracklist)
1. Shiny Happy People - 4:13 : https://youtu.be/NKSRntMvqMQ?si=yq2N6NfF-9ONHpJw
2. Radio Free Europe - 5:06
3. Man On The Moon - 4:59
4. Leaving New York - 4:53
[ Personnel ]
Micky Dolenz - Vocals
Christian Nesmith - Produce, Recording, Mixes, Guitar, Bass, Keyboards, Percussion, Backing Vocals
Christopher Allis - Drums
Circe Link - Backing Vocals
Coco Dolenz - Alto Vocals on “Shiny Happy People”
Glenn Gretlund - Executive-Producer
f:id:hawkrose:20231122143420j:image
f:id:hawkrose:20231122143318j:image
f:id:hawkrose:20231122143331j:image
 イギリスのモンキーズ関連作品専門インディー・レーベル7Aレコーズは2015年の創設以来80点を越えるモンキーズのメンバーの発掘ライヴ、ソロ作品の再発売、未発表スタジオ録音、新作ソロ作品をリリースしてきましたが、7Aレコーズ85作目としてこの2023年11月3日にリリースされたミッキー・ドレンツ(1945~)のR.E.M.カヴァー集EPは素晴らしい内容で全世界のモンキーズ・ファンを歓喜させる内容になりました。R.E.M.は言うまでもなくアメリカの大物バンドで、1980年結成、1982年にデビューし、2011年の解散まで15作のスタジオ・アルバムをすべてゴールド、プラチナ・アルバムにさせ、トップ10アルバムを8作、うち6作をトップ3に、2作をNo.1アルバムにしています。もともと‘60年代ポップス、‘60年代ロックに憧憬の深いR.E.M.はデビュー時からザ・バーズに比較されましたが、シングルB面やEP、ライヴでは多くの‘60年代ポップス、ロック曲をカヴァーしていたことでも知られた奥ゆかしいバンドで、この『Dolenz Sings R.E.M.』にもR.E.M.の元メンバーの賛辞が寄せられています。

「These songs are ABSOLUTELY INCREDIBLE. Micky Dolenz covering R. E. M. Monkees style, I have died and gone to heaven. Give it a spin. It's wild. And produced by Christian Nesmith (son of Michael Nesmith), I am finally complete (ミッキーがR.E.M.の曲をモンキーズのスタイルでカヴァーしてくれたあまりの素晴らしさに、昇天して天国にいる気分です。ぜひお聴きください。マイク・ネスミスの子息クリスチャン・ネスミスのプロデュースがこのEPを完璧にしています)」(マイケル・スタイプ、ヴォーカル)

「That voice-one of the main voices of my musical awakening-singing our songs... It is beyond awesome. Let's help make this as huge as we possibly can. I am beyond thrilled. (ミッキーは私を音楽に目覚めさせてくれたヴォーカリストの一人で、どんな讚美も超越しています。どれだけ絶讚してもし足りないほどで、興奮が抑えきれません)」(マイク・ミルズ、ベース)

「I've been listening to Micky's singing since I was nine years old. It's unreal to hear that very voice, adding new depth to songs we've written ourselves, and inhabiting them so completely. (ミッキーのヴォーカルは9歳から聴き続けてきました。R.E.M.の曲にさらに深みを与えてくれたミッキーのヴォーカルは、この世のものとは思えないほど完璧です)」(ピーター・バック、ギター)

 本作のフィーチャリング・トラックとしては「Shiny Happy People」のMVが製作されました。R.E.M.のオリジナルでケイト・ピアソン(the B-52's)がゲスト参加していた女性ヴォーカル・パートはミッキー・ヴァージョンではミッキーの妹、ココ・ドレンツが参加しています。本作のリリースには7Aレコーズ創設以来のキャンペーンが張られ、R.E.M.のメンバーの出身地にして結成地のジョージア州アセンズでR.E.M.のメンバー全員参加の発売祝賀会が行われ、ミッキー・ドレンツはアセンズの名誉市民賞を授与されました。

 本作の録音、ミックス、プロデュースに加えほとんどすべてのバック・トラックをこなしたクリスチャン(クリス)・ネスミス(1965~)の手腕は、尊父の故マイク・ネスミスの才能を受け継いだもので、ひょっとしたらモンキーズ~各メンバーのアルバムを手がけてきた中でも最高のプロデューサーかもしれません。全盛期モンキーズのアルバムと並べても遜色のない本作を聴くとそう思えてきます。そしてもちろん主役ミッキーのモンキーズ全盛期から55年以上を経て変わりない張りのあるヴォーカル!比較しても仕方ありませんが、つい先日「最後の新曲」を出したあのグループの「最後の新曲」とは現役感からしてまるで違います。ミッキーがカヴァーしたR.E.M.の楽曲はいずれも優れた楽曲ですが、はっきり言ってミッキーのヴォーカルとクリス・ネスミスの素晴らしい歌とアレンジでR.E.M.のオリジナルを越えています。R.E.M.のオリジナル・ヴァージョンを上げておきましょう。
R.E.M. - Shiny Happy People (from the album “Out of Time”, Warner Bros., 1991/US#10) - 3:45 : https://youtu.be/YYOKMUTTDdA?si=2E_jK4v_jbwq0aGh
R.E.M. - Radio Free Europe (from the album “Murmur”, I.R.S, 1982/US#78) - 4:06 : https://youtu.be/Ac0oaXhz1u8?si=Z-dc_uWICXRweWTM
R.E.M. - Man On The Moon (from the album “Automatic for the People”, Warner Bros., 1992/US#30) - 5:14 : https://youtu.be/dLxpNiF0YKs?si=mhvBd4Cn0nQtnefL
R.E.M. - Leaving New York (from the album “Around the Sun”, Warner Bros., 2004/US-AAS#1) - 4:49 : https://youtu.be/wo6Vh4Uz7Sk?si=htrxsHttJmaApfo0

モンキーズをもう一度


f:id:hawkrose:20231114162628j:image

 ザ・モンキーズをいまだに偏見の眼で見ているリスナーが多いのは嘆かわしいことで、音楽業界人や音楽批評家からすら「作られたバンド」と見なされているのをよく目にします。「タイガースやテンプターズっていうのはかなり自然発生的なGSだったけど、これ(アダムス)は渡辺プロが人為的に作り上げた、いわばモンキーズ的なGSだったね」(作曲家・村井邦彦、『日本の60年代ロックのすべて』1989年刊)、また、「(アメリカ・デビュー時のジミ・ヘンドリックスの、音楽に無知なマネージャーが)モンキーズの前座という仕事を取ってきてしまうんです。ご存じのようにモンキーズは、ビートルズを真似てアメリカのレコード会社が作った傀儡バンドですから、ジミヘンとは無縁な世界。さすがにジミヘンは途中でリタイアしたらしいですけど……」(音楽批評家・立川芳雄、『文藝別冊KAWADE夢ムック~ジミ・ヘンドリックス伝説』2018年)と言った具合です。

 しかしモンキーズは1960年代後半において、ビートルズ以上にセールスと人気を獲得したグループでした。「モンキーズは、ビートルズを真似てアメリカのレコード会社が作った傀儡バンド」というのも誤解で、正確には連続テレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」(1966年9月から1968年3月まで、全58回、日本では再放送10話と特別番組2話を加えて1967年10月から1969年1月まで、全70回)のためオーディションで選出された四人、デイビー・ジョーンズ(1945~2012)、ミッキー・ドレンツ(1945~)、マイク・ネスミス(1942~2021)、ピーター・トーク(1942~2019)のテレビ・タレントがモンキーズでした。テレビ番組放映に先だってシングル「恋の終列車」(1966年8月、全米1位・全英23位)がリリースされ、以降モンキーズはアルバム、シングルともにチャートを席巻する存在になります。

・アルバム
『恋の終列車』(The Monkees) (1966年10月、US#1/13週・UK#1) : https://youtu.be/odJV0iNacoc?si=PT5uFLsDAA6OHPoj
アイム・ア・ビリーバー』(More Of The Monkees) (1967年1月、US#1/18週・UK#1) : https://youtu.be/2m8wsvQ7Al4?si=6h8crQWxIo08wcxR
『ヘッドクォーターズ』(Headquarters) (1967年5月、US#1・UK#2) : https://youtube.com/playlist?list=PLl4KJVTSf0ROimloLTXympa-Hnp2GfE-6&si=Kp1n4RzzFrC3EWjR
『スターコレクター』(Pisces,Aquarius,Capricorn & Jones Ltd) (1967年11月、US#1・UK#5) : https://youtu.be/qUusNB7AXOU?si=2n3Z9cyVJ8JoNYFw
『小鳥と蜂とモンキーズ』(The Birds,The Bees and The Monkees) (1968年4月、US#3) : https://youtube.com/playlist?list=PLl4KJVTSf0RN5DnLJoRKNl2-pTCYTbVyN&si=6Mcr4Ns0oY2cyxvq

 以上の5作までが欧米諸国で「ザ・モンキーズ・ショー」が放映されていた時期で、1966年の年末発売にも関わらず『恋の終列車』は13週No.1で1966年の年間アルバム・チャート2位、『アイム・ア・ビリーバー』は『恋の終列車』に代わるNo.1アルバムとなり18週No.1(!)を記録して年間チャート1位、さらに全英チャートでもNo.1の圧倒的な大成功を収め、『スターコレクター』までの4作はいずれも全米No.1、『小鳥と蜂と~』もトップ3アルバムにしています。『恋の終列車』と『アイム・ビリーバー』の2作で1966年10月第2週から1967年6月第2週の7か月間アルバム・チャートNo.1を続いたのはビートルズが年1作に移行し、1966年の年末アルバムがなかったからでもあり、『アイム・ア・ビリーバー』の18週No.1に代わってNo.1になったのもビートルズ1967年6月リリースの『サージェント・ペパーズ』でした。テレビショー放映時期最後の『小鳥と蜂と~』の、次作のアルバム『ヘッド』(Head) (1968年11月、US#45)はモンキーズ主演映画のサウンドトラック盤でしたが、映画・アルバムともに成績は奮わず、日本を含む世界ツアーのあと契約満了に伴ってピーター・トークは離脱してしまいます。その後もモンキーズは、ピーター在籍時の録音も含むデイビー、ミッキー、マイクのトリオで、
『インスタント・リプレイ』(Instant Replay) (1969年2月、US#32)
 を、アルバム未収録シングルを含む、
『グレイテスト・ヒット』(The Monkees Greatest Hits) (1969年6月、US#89)
 を、またソロ・アーティストに転向するマイク在籍時最後のアルバムになった、
『プレゼント』(Present) (1969年10月、US#100)
 を、そしてデイビーとミッキーの二人になった、
『チェンジズ』(Changes)(1970年6月、チャート圏外)
 をリリースしますが、以降デイビーとミッキーは活動を共にするも、日本での「ザ・モンキーズ・ショー」の再放送(1980年)、アメリカ本国での再放送によるブームによってデイビー、ミッキー、ピーターが再結成した『プール・イット』(Pool It!) (1987年8月)までモンキーズ名義の活動は休止します。

 しかし「ザ・モンキーズ・ショー」放映~映画『ヘッド』時までのモンキーズのシングル・ヒットは質・量ともに‘60年代ポップスの粋と呼ぶにふさわしいものでした。ビートルズがライヴを引退して『リボルバー』(1966年8月)、『サージェント・ペパーズ~』(1967年6月)であまりにアーティスティックな方向に進んでいた時期、モンキーズビートルズと入れ代わるように鮮やかなポップ・ロックで、お茶の間の人気番組「ザ・モンキーズ・ショー」とともに広いリスナーを獲得したのです。そのシングルとアルバムはチャート成績・売り上げにおいて、1964年のビートルズの全米デビューに匹敵するものでした。

・シングル
「恋の終列車 / 希望を胸に」Last Train to Clarksville (US#1・UK#23) / Take A Giant Step (1966年8月)
「アイム・ア・ビリーヴァー(副題:恋に生きよう) / ステッピンストーン」I'm A Believer (US#1・UK#1) / (I'm Not Your)Steppin' Stone (US #20) (1966年12月)
「恋はちょっぴり / どこかで知った娘」A Little Bit Me,A Little Bit You (US#2・UK#3) / The Girl I Knew Somewhere (US #39) (1967年3月)
「プレザント・バレー・サンデイ / 恋の合言葉」Pleasant Valley Sunday (US#3・UK#11) / Words (US#11) (1967年7月)
「デイドリーム / ゴーイン・ダウン」Daydream Believer (US#1・UK#5) / Goin' Down (US#104) (1967年10月)
「すてきなバレリ / タピオカ・ツンドラ」Valleri (US#3・UK#12) / Tapioca Tundra (US#34) (1968年2月)
「D・W・ウォッシュバーン / 君と一緒に」D.W.Washburn (US#19・UK#17) / It's Nice To Be With You (US#51) (1968年6月)
「ポーパス・ソング / アズ・ウィ・ゴー・アロング」Porpoise Song (US#62) / As We Go Along (US#106) (1968年10月)

 「ポーパス・ソング」はサントラ盤『ヘッド』からのシングルですが、四人のメンバーの揃っていたこの時期に全米No.1ヒットが3曲、トップ3圏内なら5曲、トップ5圏内なら6曲があります。イギリスでもトップ5圏内が3曲、うち1曲がNo.1ヒットです。シングルAB面がともにチャート・インした例も多く、こと人気とセールスで言えば1966年秋~1968年春までの1年半のモンキーズビートルズを抜いた位置にありました。

 モンキーズはテレビ・プロデューサーのドン・カーシュナーが立ち上げたテレビの連続ドラマ・プロジェクト「ザ・モンキーズ・ショー」で「バンドを組んでいる隣のお兄さんたち」という役柄で主演をしていたグループでした。むしろそのキャラクターは、ビートルズよりもアメリカ本国のラヴィン・スプーンフルやボー・ブラメルズをロール・モデルとしたイメージが強いものです。オーディションで選ばれた四人は最初からプロ意識が高く、リード・ヴォーカル&ドラムスのミッキーはバンド歴があり、イギリス出身でリード・ヴォーカルのデイビーは子役時代から芸能界で活動しており、ベース&オルガンのピーターはニューヨークのフォーク・シーン出身で、ギタリストのマイクはすでにソングライターとしての実績があるミュージシャンでした。マイクの友人だったスティーヴン・スティルス(バッファロー・スプリングフィールド~クロスビー・スティルス&ナッシュ)やピーターの知人ジェリー・イエスター(モダン・フォーク・カルテット~ラヴィン・スプーンフル)らもオーディションに参加して落ちたそうですが、才能、ルックス、キャラクターなどあらゆる面からミッキー、デイビー、ピーター、マイクに落ち着いたのがモンキーズの成功につながったのは間違いありません。デビュー当時すでに熟達したミュージシャンはマイクとピーターだけだったので、同時制作された『恋の終列車』と『アイム・ア・ビリーバー』ではプロダクションはモンキーズ向けに最高のレパートリーを一流ソングライター陣に依頼し、レコーディングはフィル・スペクター門下生のレッキング・クルーやヴェンチャーズのジェリー・マギー(ギター)などハリウッドのトップ・ミュージシャンによって行われましたが、ミッキーとデイビーの二人のヴォーカルはすでに一流ミュージシャンのバックがふさわしい貫禄のあるものでした。モンキーズはシングル、アルバム1作毎に自分たちの演奏の比率を高め、サード・アルバム『ヘッドクォーターズ』は初めてモンキーズの四人のみがヴォーカル、演奏を手がけたアルバムとしてリリースされました。この頃からテレビ・プロデューサーのカーシュナー独裁体制が弱まり、より主導権を得たモンキーズは自分たちで敏腕ポップス・プロデューサーのチップ・ダグラスをレコード制作に迎え、「作られたバンド」から団結力の高いプロフェッショナルなバンド(それはデビュー当時から四人全員が目指していたものでした)としての体制を築いていきます。

 四人中もっとも芸能人らしくなく、ヒッピー指向だった自由人かつピーターは、テレビ・シリーズの終了、映画『ヘッド』、世界ツアーと契約満了とともにバンドを去ってしまいますが、これは「モンキーズのピーター」としての活動と2年間もの過密スケジュールに区切りをつけたかったのでしょう。当初からミュージシャンだったマイクはカントリー・ロックのアーティストとしてのソロ・デビューの機会を待ちながらトリオになったモンキーズで『インスタント・リプレイ』『プレゼント』で存在感を示したのち、マイク自身のバンドを組むために脱退します。看板ヴォーカリストの二人、ミッキーとデイビーはモンキーズ初期からモンキーズ楽曲の主要ソングライター・チーム、ボイス&ハートの協力によって『チェンジズ』をリリースしますが、時はすでに1970年、従来からのモンキーズのファンも新しいポップス、ロックの潮流に関心を移しつつありました。以降‘80年代の「ザ・モンキーズ・ショー」再放送による新規ファンの獲得まで、ミッキーとデイビーはソロやデュオの歌手として活動していくことになります。

f:id:hawkrose:20231114162709j:image

 映画『ヘッド』のサントラ盤はともかく、モンキーズの絶頂期のオリジナル・アルバムは四人が揃っていた時期の『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』『ヘッドクォーターズ』『スターコレクター』『小鳥と蜂とモンキーズ』の5作で、うち1966年10月(実際には9月でしょう)の『恋の終列車』、1967年1月(これも実際には1966年12月には店頭に並んだと思われます)の『アイム・ア・ビリーバー』はテレビ・シリーズの開始に合わせて一気に制作され3か月も置かずにリリースされたもので、モンキーズの四人にもリリース予定が知らされていなかったといいます。実際半年ごとにリリースされた第3作~第5作の『ヘッドクォーターズ』『スターコレクター』『小鳥と蜂とモンキーズ』と初期2作の『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』はサウンドの質感が異なり、名曲「灰色の影」を含む『ヘッドクォーターズ』、「プレザント・バレー・サンデイ」を含む『スターコレクター』、「デイドリーム」を含む『小鳥と蜂とモンキーズ』に較べると、『恋の終列車』(タイトル曲ほか「サタデーズ・チャイルド」「自由になりたい」収録)、『アイム・ア・ビリーバー』(タイトル曲ほか「メリー・メリー」「ステッピング・ストーン」収録)はアメリカ最高のスタジオ・ミュージシャン集団、レッキング・クルーをバックバンドにしながらラフな、ほとんどガレージ・ロック(しかもとびきりの出来!)に近い感触があります。モンキーズ最初の5作はいずれも甲乙つけ難いポップ・ロックの名盤ながら1作1作に特色があり、特に双生児的な第一作と第二作『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』はガレージ・ロック的観点から聴いても‘60年代ロックの逸品でしょう。セックス・ピストルズが「ステッピング・ストーン」をカヴァーしていたのも伊達ではないのです。

 そこで悩ましいのは、もともとフィル・スペクターがフィレス・レーベルのアーティストのプロデュースのために集めてきた凄腕ミュージシャンたち、レッキング・クルーの存在とその役割です。1999年にBMIが集計した「20世紀ポップスで最高の売り上げを達成した楽曲」のトップ3(カヴァー・ヴァージョンすべての集計)では1位が「ふられた気持」(オリジナルはライチャス・ブラザース)、2位が「ネヴァー・マイ・ラヴ」(オリジナルはアソシエーション)、3位が「イエスタデイ」になるそうで、ライチャス・ブラザースもアソシエーションも演奏はレッキング・クルーですから、ビートルズの「イエスタデイ」を押さえて1位と2位のオリジナルがレッキング・クルーの仕事、という驚異的な集計結果が明らかになっています。ハリウッドのスタジオ・ミュージシャン集団レッキング・クルーというとドラムスのハル・ブレインが真っ先に浮かんできますが、レッキング・クルーが‘60年代~‘70年代にレコーディングに携わったアーティストはフィレス・レーベルのアーティストを始めとして、ジャン&ディーン、ソニー&シェール、ザ・バーズ、ザ・モンキーズビーチ・ボーイズ、ママス&パパス、アソシエーション、フィフス・ディメンションエルヴィス・プレスリーフランク・シナトラ、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズまでおよびます。「ネヴァー・マイ・ラヴ」「ウィンディ」「チェリッシュ」の3曲のNo.1ヒットを持つアソシエーションはソフト・ロックの祖として尊敬を集めるバンドですが、ライヴではバンド自身の演奏を聴かせても、レコーディングではアレンジ、演奏をレッキング・クルーに依頼していました。上記の名だたるアーティストも程度の差はあれ同様です。日本でも日本のレッキング・クルーと言うべき一流ジャズマンたちが多くのGSロックバンドからメジャーのフォーク勢までレコード制作に関わっていました。実力派グループのトップ・バンドと定評のあったゴールデン・カップスですらスタジオ盤はピアノに江草啓介、ベースに江藤勲、ドラムスに石川晶といったジャズマンをセッション・プレイヤーに迎えていたくらいです。モンキーズは質の高いシングル、アルバムを送り出すためにレッキング・クルーを始めとするトップ・クラスのスタジオ・ミュージシャンを起用していましたが、その点ではビーチ・ボーイズザ・バーズ、アソシエーションと変わりなく、テレビ番組出身のグループというだけで不当な「作られたバンド」「傀儡バンド」呼ばわりをされました。しかしモンキーズはシングル、アルバムの質の高さ、1980年代からデビュー50周年のたびたびの再結成までファンの期待を裏切らない、プロフェッショナルなアーティスト意識とエンタテインナー意識を貫いた存在でした。モンキーズについてはまた回を改めて、再結成以降の傑作アルバムともどもご紹介したいと思います。

アリスと私


f:id:hawkrose:20231018135822j:image

 先日16日(月)の訃報を受けて、故・谷村新司氏を追悼したいと思います。谷村氏率いるアリスの人気絶頂期はちょうど筆者の中学年時代と重なっており、当時はテレビの歌番組の最盛期でもありましたから、のちにJポップと呼ばれることになる和製フォーク、ロック系アーティストでも積極的にテレビ出演していたアリスはすっかりお茶の間に浸透した存在でした。また谷村氏はラジオDJとしても絶大な人気を誇っていましたが、筆者はビートルズを始めとし英米ロック一辺倒だったのでアリスのような日本のフォーク・グループは目障りにしか思いませんでした。しかしビートルズ好きな気の合うクラスメイトたちにもアリスは人気があって、ラジオは'60年代の英米ロック、ポップスや最新の新譜がかかる洋楽番組やFEN(ドアーズやオールマン・ブラザースを始め、毎週1度は「ガダ・ビダ」が聴けます)しか聴かない筆者にはアリスの音楽などまったく眼中にありませんでした。

 

 筆者が日本のロックやフォークにようやく関心を持てるようになったのはGSやURC系のアンダーグラウンド・フォークを知ってからで、'60年代のスパイダースやカーナビーツ、テンプターズフォーク・クルセダーズ、ジャックスなどは洋楽の独自消化による成果で同時代の英米ロックと遜色ない音楽を作り上げていた、と気づいてからでした。アリスを筆頭とする'70年代のグループも世代的にはGSやアングラ・フォークと同年輩で、遅れてデビューした分、'60年代的な洋楽との対決姿勢やサブカルチャー性、アングラ性を切り捨ててドメスティックに根づいたもの、とようやく理解できるようになりました。しかし筆者はアリスやオフコースらが切り捨てた'60年代的な要素にこそ興味があったので、イヴェントやライヴハウス通いをするようになってもパンク・ロック以降のサブカルチャー性の強いバンドばかり追いかけていました。パンク・ロックが反抗していたのは'60年代的な批判精神を切り捨てていた'70年代アーティストたちの姿勢だったので、GSやフォークル、ジャックスらの遺伝子は隔世遺伝的にパンク・ロック以降の、または'70年代になってもアンダーグラウンドな姿勢を貫いていた頭脳警察村八分サンハウスらから枝分かれしたバンドに受けつがれていたと思われたのです。
f:id:hawkrose:20231018135852j:image

 筆者がようやくアリスを始めとする商業フォークも聴こう、と思うようになったのはアリスが切り捨てたものを見極めよう、アリスのどこに一世を風靡した魅力があったのか知りたいと興味を持つようになってからで、幸いアリスのような大人気グループは中古盤が安価に入手できたので、1972年9月のデビュー・アルバム『ALICE I』と、1972年~1979年までのヒット・シングルを集めた18曲入りベスト盤を買い、古本屋の店頭の100円均一コーナーでアリス人気絶頂期に刊行されたアリスのサクセス・ストーリー伝『帰らざる日々 誰も知らないALICE』を買って、CDを聴きながらじっくり読みました。デビュー・アルバム『ALICE I』を聴いて意外だったのは、同じ東芝音楽工業の先輩フォーク・クルセダーズの記念碑的名盤『紀元貮阡年』(東芝音楽工業、1968年7月)や、五つの赤い風船の最初のフルアルバム『おとぎばなし』(URC、1969年8月)からの直接的な影響が曲想やアルバム構成に換骨奪胎されていることでした。アリスのメンバーはフォークルのメンバーより1、2歳年下でしかありません。アリスのメンバーはガロのメンバーと同年輩ですが、1971年11月の『GAROファースト』(日本コロンビア)がクロスビー、スティルス&ナッシュを下敷きにした本格的な洋楽的フォーク・ロック・アルバムだったのに対して、フォークルや五つの赤い風船を下敷きにした『ALICE I』は、フォークルや風船にはあったアーティスティックなステイトメントをあえて捨て、エンタテインメント性を押し出すことによって、ガロの名盤ファーストより親しみやすい、軽やかで楽しいアルバムになっています。ガロは最新のウエストコースト系アコースティック・ロックを日本語詞で実践する、という使命感がサウンドの重み・深みになっていました。アリスのデビュー作はガロのデビュー作から1年も経っていませんが、綺麗さっぱりと洋楽性を最小限に剪定し、なおかつすでに日本のフォーク・ロックの古典となっていたフォークルや風船のリスナーにも地続きで聴けるアルバムになっています。18曲入りベスト盤でヒット曲単位で聴けるアリスと、デビュー・アルバム『ALICE I』の印象は相当異なったものです。
f:id:hawkrose:20231018135909j:image

 また谷村新司堀内孝雄矢沢透の三人のロング・インタビューから構成された『帰らざる日々 誰も知らないALICE』は、人気絶頂期に刊行されたサクセス・ストーリーながら、メンバー三人がグループ結成時から目指す方向性はバラバラで、谷村氏と堀内氏の緊張関係が常につきまとい、谷村氏が堀内氏との対立に矢沢氏を緩衝役としてグループのキーマンの役割を担わせていたことを明かしています。矢沢透氏はアリス参加前に頭脳警察とも親交が深かったヴェテラン・ドラマーで、頭脳警察PANTA氏はアリスのデビュー当時ばったり街で矢沢氏と出会い「何でアリスなんかと演ってるんだよ?」と矢沢氏に詰問し、正式メンバーなんだよと矢沢氏から聞いて「何だ、メンバーなのか」と矢沢氏に謝ったそうですが(白夜書房『日本ロック史体系』)、『帰らざる日々』を読むと矢沢透氏に好感を持たずにはいられません。矢沢氏もドラマーながらシンガーソングライターであり、アルバムにはおそらくグループの均衡を図って矢沢氏がリード・ヴォーカルを取る矢沢氏のオリジナル曲が収められているのですが、ライヴでは深夜ラジオの人気DJでもある谷村氏の独壇場で、『帰らざる日々』では人気上昇時のライヴでは2時間のうち谷村氏のトーク・コーナーが40分以上を占め嫌になった、と堀内氏が語っています。優れたシンガーソングライターの堀内氏にとってはアリスは人気が上昇するとともに窮屈な枷になり、謙虚な苦労人の矢沢氏は縁の下の力持ちで陰のまとめ役でした。しかしアリスの人気は多産なシンガーソングライターでマルチ・タレントの谷村氏の存在あってこそだったのは疑いはありません。1998年に50歳の谷村氏はソロで紅白歌合戦に出演し、アリス時代の最大ヒット「チャンピオン」を熱唱しましたが、ハード・ロックにアレンジされた「チャンピオン」を歌う谷村氏の姿はロブ・ハルフォード(ジューダス・プリースト)を彷彿とさせるものでした。それを鬼気迫る風情ではなく、無内容なまでに壮絶で爆笑に持っていくのが谷村氏ならではの至芸でした。実現しなかった今後のアリス再結成ツアーや晩年の闘病、まだ意欲を残しての逝去は痛ましく寂しいことですが、こちたき批判も物ともせず、多くのリスナーに愛され、さらに半世紀もの時代に愛されてきた谷村氏は幸福なミュージシャン生活をまっとうした、稀有なアーティストだったと思います。また谷村氏抜きにアリスはあり得ないでしょうが、堀内孝雄氏、矢沢透氏、両氏の長寿を願ってやみません。
https://youtu.be/mpL11zlmCPI?si=sQOVqtLRXHMVc5sA
https://youtu.be/i8ZOjKPuLX4?si=dlYjWS0TIzGqPiXK

 

謎のサイケデリック・ロッカー、ビッグ・ボーイ・ピート

ビッグ・ボーイ・ピート - マイ・ラヴ・イズ・ライク・ア・スペースシップ (Camp/Polydor, 1968)f:id:hawkrose:20231010234112j:image

Big Boy Pete - My Love Is Like A Spaceship (Peter Miller) (Single B-Side. Camp/Polydor, 1968) - 2:43 : https://youtu.be/y-0jkwIucWI?si=vKBhyNsQJ0T6A-cE
Big Boy Pete - Cold Turkey (Peter Miller) (Single A-Side. Camp/Polydor, 1968) - 2:33 : https://youtu.be/tiXLAXaQm8M?si=QF-j5JKIFv-JsFNJ
Big Boy Pete - Cold Turkey (TV Broadcast, 1968) - 2:33 : https://youtu.be/CTRufq7a9UA?si=v9y5CeCKkFGzokUL
f:id:hawkrose:20231010234146j:image

Big Boy Pete - My Love Is Like A Spaceship (from the album "The Margetson Demos", Gear Fab Records, 2002) - 4:13 : https://youtu.be/CPbmCxErjqw?si=pTVHbtQo5zd9wUVb
f:id:hawkrose:20231010234241j:image

 このロックンローラーにしてシンガーソングライター、ビッグ・ボーイ・ピートことピーター・ミラーについてはディスコグラフィー以外ほとんど情報がありません。判明しているのはピート自身の作詞作曲・プロデュースでイギリスのキャンプ・レーベル、ドイツのポリドール・レコーズから1968年にリリースされたシングル「Cold Turkey c/w My Love Is Like A Spaceship」がデビュー曲、また1966年~1969年録音とされるセカンド・シングル「Me c/w Nasty Nazi」(3 Acre Floor, 1997)がデビュー・シングルから30年あまり経ってアメリカのインディー・レーベルから出ており、年齢も不詳なら国籍も不詳、おそらくイギリスでデビューしてアメリカに渡ったと推測できるだけで、しかもマルチ・プレイヤーだったらしくシングル2作はピート自身の多重録音だったようです。筆者は「My Love Is Like A Spaceship」1曲を'60年代泡沫アーティストによるサイケデリック・ロック海賊盤コンピレーション『Visions Of The Past *2』(no label, late '80s?)で聴き、国別編集の『Visions Of The Past』は1~4まで確認できて『*2』はイギリス編と推定できましたが、ビッグ・ボーイ・ピートの他のシングル曲や単独アルバムはまだパソコン通信すら普及していない当時まったく知り得ませんでした。せいぜい推定できたのは作者のピーター・ミラーがビッグ・ボーイ・ピートの本名なんだろうな、バンド作ではなくソロ・シングルなんだろうなというくらいでした。「My Love Is Like A Spaceship」はドノヴァンの「Mellow Yellow」(1966年10月、UK#8, US#2)に似た曲調の楽曲ですが、A面曲「Cold Turkey」よりもこちらの方をシングルA面にすべきだったと思えます。
f:id:hawkrose:20231010234315j:image

 ところが現在ディスコグラフィー・サイトのdiscogs.comでビッグ・ボーイ・ピートを調べてみると、写真の他に一切プロフィールは載っておらず(生年、国籍も不詳)、掲載の公式サイトも現在は「not found」になっていますが、なんと13作もアルバムをリリースしているではありませんか。うち4作はコンピレーション・アルバムとされていますが、単独シングルは前記の2枚しか確認されていないとなるとコンピレーション・アルバムもオリジナル・アルバムと同じです。誰得かわかりませんが、ビッグ・ボーイ・ピートについての記事など今後書く機会はないでしょうからdiscogs.comの記載から整理して、シングル&アルバム・ディスコグラフィーを載せておきましょう。
f:id:hawkrose:20231010234335j:image

[ Big Boy Pete Discography ]
◎Singles
1. Cold Turkey c/w My Love Is Like A Spaceship (UK/Germany, Polydor, 1968)
2. Me c/w Nasty Nazi (US, from the album "Return To Catatonia", 3 Acre Floor, 1997)
◎Albums
1. Homage To Catatonia (LP, UK, Tenth Planet. 1996)
2. Return To Catatonia (LP, UK, Tenth Planet. 1998)
3. Psycho-Relics (CD, US, Compilation, Bacchus Archives, 1999)
4. World War IV - A Symphonic Poem (LP, Italy, Comet Records Europe, 2000)
5. The Margetson Demos (CD, US, Gear Fab Records, 2002)
6. The Perennial Enigma (CD, Europe, Angel Air Records, 2006)
7. The Squires Of The Subterrain and Big Boy Pete - Rock It Racket (CD, Worldwide, Rocket Racket Records, 2007)
8. Big Boy Pete And Hilton Valentine - Merry Skifflemas! (CD, US, 22 Records, 2011)
9. Cold Turkey (CD, US, Compilation, Gear Fab Records, 2012)
10. Big Boy Pete And The Squire -
Hitmen (CD, US, Rocket Racket Records, 2012)
11. Through The Back Door (CD, US, 22 Records, 2013)
12. The Cosmic Genius Of Big Boy Pete 1965-1977 (LP, France, Compilation, Mono-Tone Records, 2021)
13. The Cosmic Genius Of Big Boy Pete 1966-1979 - Volume 2 (LP, France, Compilation, Mono-Tone Records, 2021)
f:id:hawkrose:20231010234146j:image

 以上、共作3作(7、8、10)、コンピレーション4作(3、9、12、13)を含んで13作のアルバムがあるのですが、デビュー・シングルが1968年、初のアルバムが28年後の1996年というのが異常です。ではその間ビッグ・ボーイ・ピートは何をやっていたかというと、1965年以来のデモテープ作りを絶え間なく制作していたようで、各アルバムのインフォメーションを見ると1966年~1973年にはほぼ完成されたアルバムもあったようで、ピート一人のデモテープにセッション・ミュージシャンの演奏を差し替えて完成したアルバムがようやく1996年以降陽の目を見るとともに純粋な新作も制作されており、たとえばアルバム8は元アニマルズのギタリスト、ヒルトン・ヴァレンタイン(1943~2021)との共作のスキッフル・アルバムですが、ビッグ・ボーイ・ピートのキャリアは長く、1964年にはソロ・シンガーのロックンローラーとして活動していたようですから、ヴァレンタインとの共作は旧友再会セッションだったのでしょう。discogs.comのディスコグラフィーには前述の通りビッグ・ボーイ・ピートのプロフィールは生年・国籍、活動期間すら載っておらず、各アルバムのインフォメーションでアルバム記載のデータが転載されているだけですが、ソロのロックンローラーとしてライヴ活動を始め、1960年代唯一のシングル「Cold Turkey c/w My Love Is Like A Spaceship」でサイケデリック・ポップ・シンガーとしてひそかに聴き継がれ、'60年代後期のサイケデリック・ロック再評価とともに再び表舞台で活動再開するとともに1965年以来30年間書き溜めていた曲を次々とリテイク、またはデモテープのままアルバムにまとめていったようです。セカンド・シングル「Me c/w Nasty Nazi」(3 Acre Floor, 1997)はセカンド・アルバム『Return To Catatonia』(Tenth Planet. 1998)からの先行シングルですが、ファースト・アルバム『Homage To Catatonia』(Tenth Planet. 1996)とセカンド・アルバムは1966年初頭~1969年秋には完成していた未発表音源がアルバム化されたもので、やはり当時のイギリスのサイケデリック・ポップ色が強いものです。
f:id:hawkrose:20231010234355j:image
Big Boy Pete - Me (Single A-Side. 3 Acre Floor, 1997) - 2:21 : https://youtu.be/TjKRJeV9AIM?si=Rf4OjpyF18MQM3KI
Big Boy Pete - Nasty Nazi (Single A-Side. 3 Acre Floor, 1997) - 3:25 : https://youtu.be/Oar68CP-Kds?si=17uSNIOfV1MRGQnN

 活動再開後のビッグ・ボーイ・ピートは未発表音源のアルバム化とともに新作も制作していますが、インフォメーションによるとロックンロールやカントリー・ロックに回帰したアルバム内容だそうで、キャリアから言っても順当なことでしょう。ビッグ・ボーイ・ピート1964年のステージ写真を見るとボ・ディドリー風長方形ギターを構え、シングルでもジーン・ヴィンセント的ヒーカップ唱法に近いヴォーカルが聴けますから、スキッフルのアルバムを出しているように、体質的にはスキッフルを下地とした最初期のブリティッシュ・インヴェイジョンに近いロックンローラーだったと思われます。軽佻浮薄なサイケ・ポップ曲だからこそ魅力的な「My Love Is Like A Spaceship」はたまたま後世のリスナーがイメージするスウィンギング・ロンドンのムードにはまったので、それはB面曲「My Love Is Like A Spaceship」の方がA面曲「Cold Turkey」より今日ではチャーミングに聴こえることにも表れており、作曲やサウンド・プロデュースに優れていたことは確かなビッグ・ボーイ・ピートことピーター・ミラーさんは結局何をやりたかったミュージシャンかわかりません。ミラーさんは活動時期から1940年代半ば生まれと推定され、ヒルトン・ヴァレンタインと同年の1943年生まれとしたら今年で御歳80歳を迎えられたはずです。オリジナル・アルバムの新作が2013年の『Through The Back Door』、飛んで2021年にフランス盤、アナログLPのみのコンピレーション・アルバム2作『The Cosmic Genius Of Big Boy Pete 1965-1977』『The Cosmic Genius Of Big Boy Pete 1966-1979 - Volume 2』となると、現在消滅している公式サイトの閉鎖も伴い、現在は完全引退、もしくはこの10年間の間に逝去されているかもしれません。おそらく逝去されているにしても、ビッグ・ボーイ・ピートさんの訃報はマスメディアには報道されなかったでしょう。日本ではグループ・サウンズの最盛期の1968年にシングル1枚をリリースして消え、1990年代の半ばになって伝説的存在として活動した、こういうアーティストもいるのです。日本盤で1枚くらい、できればCD2枚組で、こんな珍妙なサイケ・ロッカーのアンソロジーくらい出てもいいと思います。

 

※「Beat Club」映像リンクの概要欄に英語版ウィキペディアの「Peter Miller」名義での項目からの略歴が転載されている、とご指摘をいただきました。稿を改めて再度ご紹介したいと思います。